エピローグ

故郷の喪失
(故郷を取り戻そう)

 現代人は、故郷を失いつつある。我々が、子供の頃に見た情景が無惨に破壊されつつある。それとともに思い出も色褪せていく。美しい野山は、削られ。どこまでも、白い砂浜が拡がっていた海岸線は、テトラポットで埋められてしまった。
 友達と水遊びをした河は、護岸工事によって近寄ることもできなくなった。今や、河川は、コンクリートで固められた水路に過ぎない。小鮒をつったり、ザリガニをつかまえた、水辺は、多彩な生き物たちの住処ではなくなった。どんどん野生の動物達は絶滅している。動物達は、檻に囲まれた動物園でしか見ることができなくなりつつある。
 山里は荒れ果てている。街は、アスファルトとコンクリートで固められ。荒涼とした風景が拡がる。潤いはどこにもない。水も食料も見栄えばかり良くなったが、化学物質に汚染されていない物はない。
 人情味のない街である。小さな路地裏にあった小粋でこざっぱりとした小料理屋は死滅した。暑い夏、夕涼みしていた隣近所の大人達はどこにもいない。夏の風物詩は失われた。
 それに変わって出現したのは、高層ビルの中にある高級料理屋である。豪華かもしれないが、人と人との交流はない。子供達は、家の中にひきこもり、公園や広場から子供達の喚声は聞こえなくなった。
 季節感のない世界である。
 野や山からは、野生の動物達や小鳥たちの声が聞かれなくなり、夏山からは、蝉の声すら聞かれなくなりつつある。そして、暖かな家族の団欒は失われ。家族間の会話は失われつつある。それに変わって、インターネットやゲームの世界によって家庭は侵略されつつある。そして、虚無によって支配されつつある。
 我々は、コンクリートで人工的に作られた世界、また、コンピューターが作り出した仮想空間の中に閉じこめられようとしている
 そして、インターネットやビデオ、映画、テレビ、ゲームの中の仮想現実の中に取り込まれようとしている。
 現実。我々にとって現実とは何か。映画やテレビ、テレビゲームのよって作られた世界を現実というのか。それは、幻である。しかし、その幻が、現実となり、実体的世界が幻となろうとしている。
 現代人は、自然環境から都市に、都市から仮想空間へと引き込まれようとしている。そして、その空間に引き籠もろうとしている。しかし、仮想的空間の出来事は、幻想に過ぎない。実体のある世界ではない。仮想的空間は、魅惑的であり、自分の思い通りになる。しかし、一度、囚われると麻薬のように人を狂わせる。人々は、麻薬中毒患者のように、その世界から逃れられなくなりつつある。

 現代社会は、いくつもの間違った前提の上に立っている。
 その第一は、市場に過剰に期待する点である。第二、労働を厭うことである。第三に、利益や利子を罪悪視することである。第四に、成長神話である。第五に神を否定し、科学を万能視する事、つまり、全知全能の力を得たと思い上がっている事である。
 我々は、自分が生き物である。生きていると言うことすら実感できなくなりつつある。それは、人の苦しみや哀しみ、痛みすらも現実として受け容れられないことを意味する。人の苦しみや哀しみ、痛みがわからなければ、共鳴や共感が失われてしまう。共鳴共感は、愛情と信頼の源である。故に、結果的に愛と信頼のない社会を生み出してしまう。経済から愛と信頼がなくなる。それは、共同体の崩壊と信用システムの崩壊を招く。それが現代社会の病巣である。

 現代人は、経済についても誤解している。経済は金ではない。生活である。人々の生活である。生きる為の営みである。
 そこには、人間としての生き様がなければならない。人間としていかに生きるべきかが忘れられたら経済なんて無意味である。つまり、経済は文化なのである。

 生活の土台は、今でも共同体にある。暖かな、家があり。人々の日々の営みがある。温もりがある。家族が居て、人々の愛が育まれている。我々は、この故郷を捨ててどこへ行こうとするのであろうか。

 だから、我々は、共同体をどうするのかである。自分達の生活をどうするのかである。家族との関係をどうするのかである。
 年金問題や介護保険、高齢者医療の問題が、騒がれている。現代人は、高齢者の問題を保険制度や介護制度、また、設備や施設の問題だと思っている。また、育児も然りである。少子化対策として、保育園の設備を整えることばかり気が向いている。若者達の結婚問題もしかりである。

 家族制度や恋愛観、結婚観に結び付けて考えようとしない。あくまでも、物質的、あるいは金銭的問題として片付けようとしている。しかし、それで問題の本質は片付くのであろうか。

 根本にあるのは、幸せとは何かである。家族の世話や面倒を誰が見るかの問題である。子供をどうやって産み育てるかの問題である。恋愛をどう考えるかの問題である。心の問題である。人生観や道徳の問題である。しかし、誰もその問題に触れようとしない。厄介な問題から目を背け、遠ざけようとしているのである。

 心の問題として捉えられないところに、現代人の病根がある。

 文学も、芸術も、哲学さえ、値段が先に来る。問題は売れるか、売れないかであって、その本の内容は二の次である。だから、けばけばしく衝撃的なタイトルで人を惹き付けようとする。

 かつて我々が住む場所や仕事場には、人々の生活や暮らしがあって、仕事があり、季節があり、祭りがあった。今、我々が住んでいる空間からは、生活感がなくなり。仕事場からは、季節感が失われていく。秋には、神や自然に収穫を捧げた。人間は、自分達を生かしてくれる存在に対する怖れと感謝の気持ちを失ってしまった。
 その結果、喜びを分かち合い、困った時には助け合う。そんな人間関係が希薄になった。
 炉端の昔話に胸をときめかし。夜空に神話を求めた。結婚式には、親族、身内が集まって祝ってくれた。
 最近の結婚式は、神なき宴(うたげ)に過ぎなくなりつつある。親族も関係なくなった。結婚に際し、誰に向かい、何を誓うというのか。お陰様という感謝の気持ちは薄れてしまった。
 共同体、コミュニティの崩壊は、地縁、血縁と言った縁を薄めてしまった。それは、社会という単位を崩壊させることでもある。人と人との絆、繋がりを稀薄にしてしまう。確かに、人間関係というのは、鬱陶しく、煩わしいところがある。しかし、それが人間の社会なのである。住み難いと言って引き籠もっていては人間の社会は成り立たない。
 正月は、新年を寿ぎ(ことほぎ)。神に家内の安全無事を祈願した。秋祭りは、収穫を神に感謝した。
 子供の躾は、地域社会が皆で行い。小言幸兵衛みたいに親父がどこにも居た。守るべき仕来りがあった。家を建てる時は、村中総出で手伝い。村の治安は若者が守った。

 我々は、何をしているのだろう。大地にアスファルトを敷き詰め。澄んだ川を真っ黒く汚し。きれいな海岸線を埋め立て。ただひたすらに効率だけを追い求めてきた。無味乾燥なビルに囲まれ、快適な空間を壊し、開発という名で環境を破壊している。温暖化と言い。環境破壊と言い。これが、我々が望んだ世界なのか。自分達の居場所をなくしているだけではないのか。
 なぜ、昔の人間ができた計画的な街作りができずに、ただ、破壊的な都市しかできないのだろう。
 我々は、もう一度、自分達の住む空間を考えてみるべきなのだ。そして、それこそが経済を考えることなのである。
 効率的だけれど倉庫みたいな店が良いのか。多少効率は悪いが、人間的なふれあいのあるお店が良いのか。デザインは優れ、清潔ではあるが何もない空間が良いのか。多少形は悪くても生活感のある空間が良いのか。きれいだけど、動物も住めないような世界が良いのか。それとも仮想的空間が良いのか。オフィスビルの一画にある高級料理屋が良いのか。街の片隅にあるこざっぱりとした居酒屋が良いのか。
 匂いもある。温もりもある。本当の生きた自然なのか。鮮やかで、きれいだけれど作られたテレビや映画、ゲームの世界が良いのか。
 小川が流れ、いつでも懐かしい思い出を育んでくれる故郷が良いのか。隣に誰が住んでいるのかもわからないような部屋が良いのか。
 なぜ、居心地の良い我が家を捨て。当て所もなく流離わなければならないのか。
 経済は、人間の人生なのである。人生の有り様から生まれるものなのである。

 景気を良くするために、自然を破壊し。経済の為に戦争をして、大量に生産したから大量に消費をしなければならなくなる。貴重な資源を意味もなく浪費や無駄使いされ、枯渇していく。乱開発が横行し、美しい景観は失われていく。使い捨てが奨励され、その結果、ゴミの山が築かれる。
 経済的という意味も違ってきた。かつては、物を大切に、質素、節約が経済的という意味であった。今は、使い捨てや浪費を経済的という。
 かつては、自然と共存し、質素だが、慎ましい生活態度を信条とした。貧しくても家族が助け合い生きていくことが正しいと信じられてきた。今は、金で何でも片付ければ済むと思っている。

 本来、必要な物を必要なだけ生産して、消費するのが一番効率的なのである。大量生産、大量消費は、生産者側の都合に引きずられている。それが盛大な無駄遣いを生じさせ、環境破壊を引き起こし原因となっているのである。
 大量生産、大量消費型社会というのは、あくまでも、生産者側の必要性が根本になる。社会とか、個人の必要性は二の次になる。景気対策で必要であるから道路を建設のであり、その道路を使う人間やその道路が建設される地域の必要性、利便性は二の次になる。かくて、必要でもないところに、財政を破綻させる覚悟で、しかも環境や自然を犠牲にしてまで道路を通すことになる。
 必要なところに、必要な物が届かず。必要としないところに、不必要な物が溢れることになる。それは、物だけでなく、金も、人も、同様である。実体経済に金が廻らず。金融市場や資本市場に金が滞留し、実体経済に資金不足を生じさせつつ、バブルが発生するのである。

 何もかもが過剰なのだ。余剰なのだ、しかし、何事にも限りはある。いつかは、限界に達する。そして、その限界点、臨界点に至った後、急激に反転する。有り余っていた物資が不足し出す時、資源の奪い合いが始まる。過剰、余剰から窮乏へと一気に変貌してしまう。過剰や余剰は、その限界の時期を早めているのに過ぎない。過剰や余剰は窮乏の布石となるのである。過剰な生活に慣れた者にとって窮乏は、身に沁みることであろう。

 経済の根本は、都市計画のようなものである。先ず自分達の生活空間を設計することである。また、生活に必要な物資を、どこから、どの様に調達し、分配するかを構想することである。その上で、必要に応じて貨幣制度や法制度、取引制度を確立していくのである。
 それらは、議会、銀行、裁判所、役所、警察、消防署、市場、取引所、学校、病院、教会、神社、広場、公園、そして、墓地と言った形や建物に置き換えられて具現化されていく。かつては、堀を巡らし、塀を設けて外敵から街を護った。
 また、社会資本として都市の土台に道路、上下水道、電気、ガス、今ならば、情報、通信、放送機関を設定する。
 その都市にどの様な人達が住み、どの様な生活を営むのか。どこで子供を育て、どこで病み、そして、どこで死んでいくのか。
 政治体制は、どの様な体制にするのか。街の中心には、何を置くのか。教育はどうするのか。人々の暮らしをどうすのか。それらを市民、皆で考え、築き上げるのが都市計画である。特定の権力者の夢想ではない。
 都市計画というのは、思想そのものなのである。
 都市計画というのは、自分達の生活を設計することである。自分達の人生を計画することである。そして、それが経済である。我々の子供達が、友が、祖先が営々として築き上げていく空間である。我々がまた、子供や孫達へ継承していく仕事なのである。
 金儲けが目的なのではない。我々の故郷が、我々の終の棲家がそこにはなければならない。
 そこには、伝説や神話がある。そして、我々の日々の営みがある。歴史や伝統が生まれる。そう言った一切合切を呑み込んで、都市という空間は形成される。傷つき、病み、疲れた時に戻るべき場所なのである。そこには、思い出があり、温もりがあり、愛情がある。そう言う場所がなければならないのである。自分達の居場所である。住む場所がある。生きていく場所がある。産み育てる場所がある。助け合って生きている人々が待っている。そんな場所なのである。
 そして、それが経済の源なのである。経済の本質なのである。経済は、文化なのである。人々の営みなのである。安らぎなのである。経済が乱れると人々は、安らぎを忘れる。経済が安定した時、平和が訪れる。それが真の豊かさである。
 満ち足りる事を知る者は、常に豊かであり。満ち足りることを知らぬ者は常に貧しい。心貧しい者は、貪欲である。
 経済の基盤は、共同体にある。コミュニティーにある。家族にある。社会にある。人々の絆にある。故に、共同体が崩壊すると経済もまた、崩壊する。経済が崩壊すると、共同体、家族も崩壊する。だから、経済は護らなければならないのである。
 故に、経済の根源は故郷にある。真の豊かさとは、心にある。経済の本質は、金ではない。人々の幸せと平和の実現にこそ、経済の究極的目的がある。全人類の救済こそ、経済の最終目的なのである。

 構造経済というのは、共同体主義である。共同体主義というと、ある種の生活共同体、つまり、生活を伴にする組織を思い浮かべるが、そうではなくて、家族や企業と言った市場以外の経済単位としての組織という意味での共同体である。その共同体を重視するという意味での共同体主義である。
 共同体というとかたぐるしくなるならば、簡単に言うと人間関係である。経済は、人間の生業だと言う事を忘れてはならない。経済では、もっと人間関係を重視するべきなのである。そして、その人間関係が最も作用しているのは、家庭とか、企業の内部である。だからこそ、共同体内部の構造や働きをより重視する必要があるのである。
 共同体内部の構造というのは、都市で言えば道路や上下水道というのが外部構造であれば、家の間取りや間口などが内部構造である。家の部屋割は、実質的に人々の生活を牛耳っている。また、配分の実際である。
 そして、その共同体をいかに設計するかが、その後の経済の有り様を決定付けてしまうのである。

 対立と分裂の時代。現代人は、社会のあらゆる階層に対立と分裂を持ち込んだ。
 人間と人間は、もとより、人間と神、人間と自然、個人と社会、個人と国家、個人と組織、個人と家庭、国家と国家、神と国家、国家と世界、国家と国民、国家と民族、国家と伝統社会、男と女、親と子、兄弟、師と弟子、経営者と労働者、家庭と職場、生活と仕事、人生と思想・信条、個人の幸福と家族の幸福、個人の利益と社会・国家の利益、利益と道徳、共同体と市場、目的と手段、全てが対立し、分裂してしまっている。そこには、和解がない。一貫性もない。あらゆる物が分解されバラバラである。個はあっても、全体がない。断絶し、見えない壁に囲まれている。
 人生意気に感じる。かつては、共鳴共感が、根底にあった。今は、金だけの関係しかない。仕事場の関係は、賃金だけに還元されてしまう。金が全てである。これでは、個人の意志に基づく統合は不可能である。強権を持った統一に縋(すが)るしかなくなる。愛の力は無力となる。
 本来、家族も、企業も、国家も金だけの関係ではなかった。と言うよりも家族や、企業、国家の内部は金銭を超えた関係によって支配されていた。お互いが困った時には、助け合い。一致協力して外敵から身を護った。その関係が崩壊しようとしている。だから、企業も、家族も、ただ、同居するだけの存在になりつつある。
 世の中は、ただ対立を煽(あお)るだけである。気が置けない関係は、廃れてきた。友も、仲間も関係ない。社会は、社会でなく。つまり、人間としての関係をうしない単なる集団に堕しつつある。

 世の中の関係を何でもかんでも対立的にとらえるのは、良くない傾向である。労働と経営、どちらか一方が、一方的に悪いという事はない。
 共同体というのは、本質的に利害が一致した集団である。利害か一致したところがないと集団として統一できないからである。ただ、全ての利害が一致しているわけではない。
 今は、お互いが対立するように仕向けられている。お互いが対立するように仕向けているのは、誰か、それは、共同体外部の何等かの勢力である。この事をよく理解しておく必要がある。
 共同体というのは、経済的に自律していなければならない。必要な物や労働力を生産し、自分達が生産できなければ外部から調達してくる必要がある。ここで、物や労働力とし、財としないのは、共同体内で生産される物や労働力は、必ずしも、市場における財とは、同等なものを指しているとは限らないからである。共同体内部で生産される物は、市場で調達される物とは、質も量も違う。また、貨幣で換算できるとは限らない。この部分の財が市場経済では、計算外の物なのである。故に、市場内部だけでは採算はあわない。
 この様な共同体が内部の対立を解消できなくなると共同体は分裂し、自律性が損なわれる。故に、全ての利害で一致する部分を持たない共同体は、何れは破綻する。故に、共同体は、全体として何等かの利害が一致している。また、一つの全体を共有しなければならない動機を共同体を構成する者は持っている。
 個々の構成員が、自分の権利を主張することは良い。しかし、権利は、同時に反対側の作用として義務を伴うことを忘れてはならない。共同体としての構成員は、全体をの一員となった時点で、その存在が権利と義務を同時に発生させる。同様なことは権限と義務にも言える。社会的な役割は、権限と責任を同時に発生させる。引力と斥力が均衡していなければ、構造は維持できないのである。
 国家、企業、家族を構成する者は、必然的に権利と義務が生じ、また、それぞれの立場に応じて義務と権利が生じる。
 親は、親となった時から子に対する義務と権利が生じ、責任と権限が生まれる。子は子で、生まれると同時に子としての権利と義務、権限と責任が生じる。
 経営者と労働者の関係も同じである。経営者や労働者が権利や義務、権限や責任を行使しなくなった時、企業は、企業として成り立たなくなる。社会的な責任と義務を果たせなくなる。それは、企業が権利と権限を行使しないからである。その時、経営者も労働者も指弾されるべきである。どちらか一方が悪いというのではなく。権利と権限を行使しない者が糾弾されるべきなのである。本質的に悪だと決め付けるのは、思想であって、真実ではない。
 この事を前提としなければ、社会、国家は成立しない。対立のみを求めて何になるのであろうか。対立は、結果であって原因ではない。況や、目的ではない。対立、抗争を目的化するのは、本末の転倒である。

 対立している時ではない。対立を終わらせなければならない。人間は、どの様な社会を望んでいるのかをその思想や信条を超えてよく話し合わなければならない。人類は、一つの運命共同体なのである。限りある資源を共有しているのである。

 根本は、助け合い、労(いたわり)り合い、慰(なぐさ)め合い、励まし合い、慕い合い、信じ合い、慈しみ愛、愛し合うことである。対立することではない。共鳴、共感こそ基本なのである。競い合うのは良いけれど、それが憎しみに変わってしまったら収拾がつかなくなる。憎しみや争いからは何も生まれない。親と子、指導者と仲間が対立する関係は、非生産的なものである。

 魂のない肉体は、屍(しかばね)にすぎない。医学は、解剖学ではない。生きた人間を相手にしている物である。愛情や信頼のない経済は、屍(かばね)にすぎない。ただ醜悪で、悪臭の漂うものだ。生きた経済は、生き生きと活動をしている。輝いている。人々を潤わし、豊かにてくれる。幸せにしてくれる。憎しみや貧困、飢餓から開放をしてくれる。それこそが経済の真の姿である。

 我々の祖先は、今日を生き、自然の恵みに感謝して祈りを捧げた。木を切り倒した後は、若木を添えて神の許しを請うた。今は、畏敬心すらない。天を侮り、神をも怖れない。人間は、自らの傲慢さによって安住の地を追われようとしている。何が公害であり、何が温暖化なのか。災いの種は自らが蒔いたのだ。

 スーパーや量販店が増え、喫茶店や居酒屋が、チェーン化している。そして、その結果個人商店や個人営業の店が駆逐され、商店街がシャッター街化し、街が寂れる。経済を効率化するという事の意味を考えさせられる事例である。根本的に欠けているのは、自分達の街を、国を、どの様な街に、また、国にしたいかという構想である。効率化や、生産性は、どの様な街や、国にしたいかが明確になってはじめて成立する。

 我々が理想とする世界、我々が理想とする生活はどこへ行ったのか。何を好き好んで、自堕落で退廃的な生活をしようとするのか。破滅的で、自滅的な生き方をするのか。自虐的なのは良いが、周囲の人間を巻き込まないでくれ。人間が、自分達の行いで破滅していくのは勝手だが、その為に絶滅していく動物達が居ることを忘れてはならない。

 終極、経済というのは、人々を幸せにすることを目的としている。それを忘れてはならない。経済のために、不幸になる人間がいるとしたら、それは、本来の目的を逸脱しているのである。
 幸せとは何か。安らぎであり、温もりである。根本は愛である。神の慈愛、慈悲である。安心立命にある。穏やかで、暖かく、思いやり心、助け合いの精神のゆとりである。その心のゆとりすらも経済体制が奪い去ってしまうとしたら、その経済体制は明らかに間違っている。所詮、金だと言わせてしまう経済は、経済としては失敗なのである。

 ウサギ追いし、かの山、小鮒釣りしかの川なのである。懐かしく、最後には、たどり着く故郷なのである。輩(ともがら)、同胞(はらから)、親子兄弟である。そして、愛する人なのである。その人間関係を突き詰め、そして、日々の暮らしの延長にこそ、経済の真の姿がある。その根源は、神の慈愛、慈悲である。
 現代経済の最大の問題は、神を忘れ、神を侮り、人間が神にとって代わろうとしていることである。現代経済は、現在のバベルの塔である。やがて土台から崩れ去り。また、人間は、故郷を忘れて、流離(さまよ)うのである。
 現代経済の矛盾は、そのまま、人間の奢りなのである。

 我々は、どこへ行こうとしているのか。我々が戻る場所はあるのか。人間は、いつまで、神なき世を彷徨い続けるのか。青い鳥はどこにいるのか。

 いざ還りなん、我等が故郷へ。心の故郷へ。




                                     


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