
自由について
引き裂かれた世界
内なる世界と外の世界。この二つの世界が、一体とならず引き裂かれた状態にある。このことが現代社会の分裂を引き起こす原因となっている。
そして、この分裂は、東洋哲学と西洋哲学の分裂の原因ともなっている。
東洋哲学と西洋哲学は、自己を中心にして、表裏の関係にある。二つが融合してはじめて一つになる。
東洋哲学と西洋哲学とを、結びつける要が、自己なのであるが、皮肉なことに、東洋哲学と西洋哲学を、分離しているのも、自己なのである。
近代という時代は、個人主義を基礎にして発達した。個人主義というのは、自己概念を根拠とした思想である。個人という概念は、自己を客体化することによって成立する。
意外に思うかもしれないが、個人主義の基となる自己概念が発達したのは、東洋においてである。
その証拠に、漢字には、自己を表す言葉がたくさんある。すなわち、自分、自己、自身、自ら、己、吾、我、私という具合にである。
それに対し、自己に、該当する言葉が、英語には、見あたらない。
逆に、個人という言葉は、翻訳された言葉で、個人という言葉は漢字には、なかったのである。
このことは、東洋哲学と西洋哲学の決定的な差を明らかにしている。
西洋では、自己概念が発達する代わりに、自己と外界(特に、神)との関わり合い、関係から自己の在り方を捉えようとした。そのことが、結果的に、自己を客体化した個人概念を発達させ、個人主義を発達させたのである。
自己概念が発達した東洋においては、思索は、常に、内へ、内へと向かう傾向がある。それ故に、内省的で瞑想を重視した思想が発達した。
自己を、外的要因との関係から捉えざるをえない、西洋においては、思索は、自己と外的対象との関係に、向けられる傾向が強くなる。
その結果、人と人の関係、物と物との関係、人と物との関係といった外縁的問題に思索が集中する。特に、神と人間との関係が重要なテーマとなり、個人主義思想を育む事になる。そして、このような傾向が、近代社会制度や科学を形成する原動力となるのである。
我々は、なぜ、勉強するの。なぜ、学校に行くのと聞くと、たいがい自分のためですよと教えられる。結局、この手の質問は、何でも、自分のためにという事で、片付けられる。何でもかんでも、自分、自分である。しかし、その一方で、自己中心的な生き方は、否定される。これでは、教えられた側は、迷う。迷ったあげくに、偏った考え方を取るようになる。
結局、正しい自己を認識しないままに、また、相手に明らかにしないで、全ての責任を自己に帰すのは、安易な解決策である。その結果、自己に対する認識は、混乱する上に、問題となっている対象を見失う。
しかも、なぜ、勉強をするのかという質問に対し、自分の為にでしょという一言で済ましてしまう事によって、思索は、ただ、ただ、内面の世界へと向かってしまう。そこからは、社会の制度や物と物との関係に対する洞察力は生まれない。
何でも、自分、自分といっている内に、自分の外にある物質世界の背後にある原理を、見逃してしまった。逆に西洋においては、自分のためにという一言で片づけられなければ、外部へと向かっていくことになる。その結果、個人主義が発達し、民主主義や科学が発達した。反面に、内面の規律よりも法を、重視する傾向も強くなったのである。
自己の概念に関しては、逆に東洋の方が豊なのである。豊であるが故に、かえってそれを生かすことができなかった。皮肉なことである。
個人主義社会が、有効に機能するためには、自由の実現が不可欠である。自由を実現するためには、自己を確立しなければならない。このように、個人と自己は、表裏をなす概念である。そして、自由は、個人と自己の概念が、一体として確立しない限り実現しない。個人と自己の概念の一体化は、すなわち、東洋文明と西洋文明が、一体となる事を意味する。
つまり、東洋の自己と西洋の個人とを一体にする事、それが、真に自由な世界を築きあげる事につながるのである。東洋と西洋の融合の必要性が、叫ばれる遠因が、そこにあるのである。
東洋文明とと西洋文明が自己を介して一体になること、それが、人類の未来を開く鍵なのである。
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