民主主義と陰陽五行

 民主主義と陰陽五行

 中国の覚醒は、陰陽五行による。今、中国は、永い眠りから醒め、青雲を得て、将に天に昇らんとす。

 物あり混成し、天地に先立ちて生ず。寂たり寥たり、独立して改めず、周行して殆(やす)まず。以って天下の母と為すべし。吾(われ)其の名を知らず。これに字(あざな)して道という。強いてこれが名を為して大という。大を逝という。逝を遠という。遠を反という。故に道は大なり。天は大なり、地は大なり、人もまた大なり。域中に四大あり、而して人は其の一に居る。人は地に法(のっと)りて地、天に法りて天、道に法りて道、自然に法る。(老子)

 存在は、気が凝集して命を蔵す。命は、混沌として無形である。無形である命は、象(かたち)を求める。命が肉体に宿って人はこの世に生まれる。命は、肉体に籠もって外に姿を現す。この世に生まれ時から五感が働き始める。五感の働きによって、意識が目覚める。それが分別の始まりである。生まれた時には、意識は混濁している。混沌である。

 五感とは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚である。

 意識は、意識自体によって自分を知る事はできない。意識は、無形である。無形なる物は、形を借りて外に姿を現す。意識は、主体である。主体は、自分を客体視できない。自分を客体視するためには、自分を一旦外に移して自分を客体化する必要がある。
 人の意識は五蘊に依ってこの世に現れる。五蘊とは、色、受、想、行、識である。色とは、物質、則ち肉体であり。受とは感受する働き、想とは想いを働かすことであり。行とは行い、行為、言動も含んだ行動である。識とは識別する働きである。五感は、五蘊に相い応じる意識を覚醒する。
 意識する主体は、肉体、即ち、外界を通して自分を知る。意識する主体は、肉体を外に映して自分を知る。自分の心の動きを直接現すことはできない。心の動きは顔を通して現れる。自分の顔は、直接見ることはできない。故に、自己と外界とは鏡像関係にある。鏡に写った自分の姿を見て自分を知る。時として、外に映った姿を自分の本性と見誤る。この世で一番、知りがたいのは、自分の本性である。ところが、人は、自分のことを自分が一番していると思い込んでいる。人は、世評に迷わされ、或いは、傲慢になる。それは、自分を知らないからである。自分を知らないから、外に映った自分を象徴する地位や容姿、財産に執着する様になるのである。先ず自分の本性を見極めることである。
 真の自分の姿を意識は、直接認識する事はできない。外に映った自分の姿が歪めば、自分も歪む。自分の行為は、認識上に置いて自分の内と外に働く。それが意識の作用反作用である。意識の作用反作用の関係は、陰陽の元となる。意識の作用反作用は、権利義務、権限と責任の働きを生じさせる。

 自己は唯一の存在である。唯一の存在である自己には内なる世界と外なる世界がある。内なる世界は陰を形成し、外なる世界は、陽を形成する。内なる世界に対する働きは、陰なる働きであり、外なる世界に対する働きは、陽の働きである。
 自己の内は、主である。外は、客である。主たる自己は、自分を独自では、認識する事ができない。自己は、外界を通して自分を知る。自己は、間接的な認識対象である。故に、自己の行動は、主、自己の認識は客である。

 今の自分を外に投影して、今の自分を知る。そして、他を意識する。

 全ては、自と他を意識したときに始まる。先ず、他を意識し、それから、自を意識する。而して、その根源にある存在は一である。

 科学的相対主義、或いは、客観主義は、自他の関係を自己意識の外、対象に投げ出し、写像、転置する事によって意識を客観化することによって成り立っている。

 意識は、一つ、自己と対象は二、意識と自己と対象の三つは一体である。

 今は、この瞬間に過去になり、未来は、この瞬間に今になる。この時は、この時を否定して新たなる時を生み出す。今、正しい事でも、一瞬の後には間違いとなる事がある。過ちだと思っていたことが、真実となり、真実と思い込んでいたことが偽になることもある。まことに儚いものである。しかし、それは認識の問題であり、事実、理(ことわり)は一つである。要は、自己が対象をどの様に意識したかが問題なのである。
 そこから、真善美、則ち、真偽、善悪、美醜の別が生じる。真偽、善悪、美醜の別のを生じさせるのは、自己の意識である。しかし、対象自体、物自体には、真偽、善悪、美醜の別はない。天は一つ。それを悟った時、真善美は一つの如くなり、天地人は一体となる。
 国家として、天地人が一体となった時、民主主義はその姿を現す。

 全ての意識は、自他の関係を元にして成り立っている。内外、表裏、高低は自他の関係を元にして成り立っている。それ為に、意識が生み出す現象は、相対的なのである。意識は、一つの働きに対し、逆方向の働きを生む。この働きの関係は作用反作用である。相対的な観念は、意識の作用と反作用の上に成り立っている。しかし、その根底にある現象は一つである。それが実となり、虚となる。

 則ち、主は客を生み、客は主を生む。主は従を生み、従は主を生む。内は外を生み、外は内を生む。表は裏を生み。裏は表を生む。優が劣を生み、劣が優を生む。高が低を生み、低が高を生む。強が弱を生み、弱が強を生む。実が虚を生み、虚が実を生む。これらは、自他の関係を前提として成り立つ基準である。そしてこの働きが、陰と陽の関係の元となる。

 事象は一、働きは二、事象と働きの三つは一体である。

 二つの働きは、引き付け合いながら、斥け合い、そして一体となる。

 内外の関係は、内外に働く力の均衡によって保たれる。均衡が破られれば、則ち、動く。内外の働く力が均衡するところが、一つの基準である。それが作用反作用の原則を生み、空間を形成する。

 意識は、一つの運動を相反する二つの方向の働きに置き換えることによって運動の働きの法則を知る。故に、現象は一つ、働きは、二つ、働きは、方向と量と質から成る。或いは、法則は、位置と運動と関係の三つから成る。それが作用反作用の法則である。

 主権は一つ。主権は権利と義務をの二つ生む。権利と義務は本質は一つであり、働きは二つである。そして、主権と権利と義務の三つは一体となった始めて用をなす。職務は一つ。職務は、権限と責任の二つを生む。職務と権限と責任は、一体となって始めて効用を発揮する。現金価値は一つ。現金価値は、債権と債務を生む。現金と債権と債務は一体になって効能を発揮する。

 この意識の作用反作用の働きが、例えば、実際の物の流れの反対方向に金の流れを生み出す。物の流れが実であり、「お金」の流れは、虚である。物の流れには実の力がある。金の流れには虚の力がある。

 損は得と生み。得は損を生む。受けの対極に払いがある。入りは出である。

 生は、死を生じ、死は生を生じる。生は、現実、死は仮想である。しかし、その命は渾然一体としている。

 生命(いのち)は、混沌として一である。最初は未発で、無分別である。生まれた時は、意識は未だ働かない。
 人間の外に宇宙があるように、人間の内にも宇宙がある。命は、無窮である。命の本源は、冥い。光明は、外にある。故に、人は、内に信念を持って外に志す。
 内は、私であり、公は外になる。私は、陰で、公は、陽である。
 人は、生まれた時は、無分別である。自他の分別は、生まれた時には、未だない。自分の内と外とを隔てを知らない。分別は、意識の所産である。人間の魂は、混沌として一である。

 道の物為る、惟れ恍(こう)惟れ惚。惚たり恍(きょう)たり、其の中に象有り、恍(きょう)たり、惚たり、其の中に物有り。窈たり冥たり、其の中に精有り。其の精甚だ真なり、其の中に信有り。(老子)

 内にある霊界は、陰であり、物質的外界は、陽である。

 内外の関係は、内側と外側、こちら側と相手側と言った側の概念を生み出す。側は、範囲と境界線をもたらす。
 又、働きには、方向が伴う。内に働く順の作用は、収束、縮小と言った内側に向かう働きであり、外に働く順の作用は、拡大、発散という外向きの働きである。その働きが栄枯盛衰を現す。
 成長し、又、衰退する。一元にして復た始まる。物極まれば必ず返る。

 自他の関係は内外の関係を生む。内外の関係は、自他の関係でもある。則ち、内外の関係の自他の関係に還元される。そして、自他の関係は表裏の関係も生む。自他、内外、表裏は相である。必要に応じて互いに転換される。則ち、自他は、内外に、内外は、表裏に、表裏は自他に化(か)わる。

 人には、表裏がある。人の主は、自己である。自己は、肉体を通じて表、物質的世界に現れる。魂は、裏にあって無形である。表とは即ち、外である。裏とは即ち、内である。
 自己は、行動によって外に現れ、経験によって内に意識が芽生える。

 有無相い生じ、難易相い成り、長短相い形し、高下相い傾き、音声相い和し、前後相い随う。(老子)

 肉体の働きは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感であり、意識の働き、仁、義、礼、智、信の五徳である。そして、五感、五徳の働きが五行を生み出す。

 人の行動は、一である。行動は、内と外との働きがある。行為による内と外への働きによって陰の世界と陽の世界が形成される。
 内と外とへの働きが、五徳、五感に結びついて陰陽五行が生じる。

 喜怒哀楽の未だ発せざる、これ中と謂う。発して皆な節に中る、これを和と謂う。中なる者は天下の大本なり。和なる者は天下の達道なり。中和を致して、天地位し。万物育す。(中庸)

 自己は、相生じ、相克して外界と内界との関係を形作る。それが私である。私は、個に転じる。個人とは、主たる自己を客体化した象である。この個人を核とした思想が個人主義である。

 人の一生は、少、壮、労の変化がある。その変化には、変易、不易、簡易の働きがある。

 個たる自己は、先ず、身を修め。しかる後に、家を斉え、国を治め、天下を平らかにするよう勤める。公と私は一体である。天人合一。

 民の気が凝集すると力が生じる。力は無形である。無形な力は、形を求めて国家を建てる。国家が建てば民意が働く。民意の働きによって義が凝縮されて法が立てられる。
 法は、一元である。法によって公と私が生じ、国と民とが分かたれる。国の分別の始まりである。
 民意の根源は、仁義礼智信である。

 国の将に興らんとするや、民に聴く。(春秋左氏伝)

 故に、民が国の主である。

 天が見るのは、我が人民が見るのに従う。
 天が聴くのは、我が人民が聴くのに従う。(書経「大誓」 孟子)

 天に、命あり。地に、国あり。人に民ある。天地人が一体となって創業は成就する。国は陽で、民は陰である。

 天下の本は、国に在り、国の本は、家に在り、家の本は、身に在る。(「離婁章句」 孟子)

 管理、支配は、虚。現業は、実。則ち、官僚機構は虚で実は民にある。民が居て国は成り立つ。民を忘れては国は一日も成り立たない。

 国の始源は、無法で冥い。光明は、民にある。国の内は、無法で冥い。故に、民に施し、志を求める。国に魂を入れるのは民である。

 道は沖にして之を用うるに或に盈(み)たず。淵にして宗に似たり。(老子)

 天の命は、天にある時は、道となり、地にある時は、法となり、人にある時は、義となる。道は、形を得て器となる。

 道、之を生じ、徳、之を畜い、物、之を形づくり、勢い之を為す。(老子)

 形而上なる者、これを道と謂い。形而下なる者、これを器と謂う。化して之を裁とする、これを変と謂い、推してこれを行う、これを通と謂い、挙げてこれを天下の民に錯く、これを事業という。是故形而上者。謂之道。是故形而下者。謂之器。化而裁之。謂之変。推而行之。謂之通。挙而錯之天下之民。謂之事業。(繋辞上伝)

 封建的権力を倒せば、即、民主主義が実現するわけではない。国は器である。権力を倒すと言う事は器を壊したことに過ぎない。故に、権力を倒しても道が実現するわけでないからである。道は、器を通して表れる。古い器を壊しても新しい器がなければ、道は表れない。器を壊すだけならばかえって道は乱れる。特に、民主主義は器を以て表れる。しっかりとした器ができるまでは、民主主義というのは、争乱が続くのである。もし器ができる前に、強力な勢力が生じればその時は独裁体制が生まれる。 


 物格(いたる・ただす)って后知至る。知至って后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身修まる。身修まって后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まって后天下平らかなり。(大学)

 個人が凝集して建国された国民国家を支えているのは国民の一人一人の徳である。故に、国民国家の基礎は仁義礼智信である。
 人は、政を篤くする。法は、義によって生まれ、礼によって保たれる。経済の根本は信によって成り立つ。教育によって智が保たり、理が育まられる。

 仁義礼智信は、外より我をかざる非ざるなり。我固よりこれを有するなり、思わざるなり。故に、求むれば則ちこれを得、舎つれば則ちこれを失う。(孟子 告子篇)

 道の働きは、仁義礼智信である。仁義礼智信は、心気技体力を生ずる。心気技体力は、情意形欲理を働かせる。即ち、心は仁より生じ、情を働かす。気は、義より生じ、意を働かす。技は、礼より生じ、技を働かせる。体は、智より生じ、欲を働かす。理は、信より生じ、力を働かせる。

 国を治めるのは人である。故に、個人は、国の礎である。
 国民国家は、個人が集結して建てた国家である。故に、国民国家は、忠によって成り立っている。忠の働きは、権利と義務を生じる。権利は、自己の外に対する働きであり、陽である。義務は、自己の内に対する働きであり、陰である。権利と義務は、陰陽であり、その本性は一体である。故に、義務のあるところには、権利が生じ、権利があるところには義務が生じる。権利と義務の関係は、相生である。
 また、国家に対する国民の権利は、国民に対する国家の義務であり、国家に対する国民の義務は、国家の国民に対する権利である。故に、国家にとって権利は陰であり、義務は、陽である。
 権限と責任は、位置より生ずる働きである。権限は、位置から生じる外に対する働きであり、責任は、位置より生じる内に対する働きである。故に、権限は、陽で、責任は陰である。その元は位置である。

 権量(けんりょう)を謹み、法度(しゃくど)を審(つまびら)かにし、廃官(はいかん)を修むれば、四方の政(まつりごと)行なわれん。滅国を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙ぐれば、天下の民、心を帰せん。重んずる所は、民、食、喪、祭。(尭曰第二十 論語)

 そして、人間関係の根本を孝と悌に置くのが東洋的民主主義である。

 民が君主である。天命は、民に宿る。義は民にある。故に、政を行う者は民に忠誠を誓い、民に仕える。

 自己の存在は、自由と平等を生む。唯我独尊。万物斉同。自由は変易であり、平等は、不易である。その関係は、易簡である。存在の本質は、太一である。太極である。故に、求めるのは中庸である。

 自由は勝ち取るものである。自然に成るものではない。自由とは、天の法を知り、地の法を習得し、人の法を体得することによって得られる。天地人一体の境地である。則ち、自由は、努力なくして得られるものではない。
 スポーツ選手が自由にスポーツを楽しめるのは、ルールと技術に習熟し、尚かつ、肉体を鍛えているからである。
 同様に、自由とは、天の法と地の法、人の法が一体となった時に実現する。天の法とは、自然の法則であり、地の法とは、国や社会の法律、戒律であり、人の法とは、仁義礼智忠信孝悌である。

 自由は、外に求め。内面には規律を求める。自由は、陽であり、統制は陰である。陽が強ければ乱れ、陰が強くなると暗くなる。現代は、陽が強すぎて、国乱れる。何事も中庸が肝心である。
 自由というのは、天人合一である。自由は、天地人の一体である。
 自由は、自己実現である。故に、仁義礼智忠信孝悌の実現である。則ち、仁義礼智忠信孝悌の実現を妨げないことである。

 自由とは、思うがままにどんな行動をしても仁義礼智忠信孝悌の矩を踰(こ)えない状態を言う。
 心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。(論語)
 それが自由な境地である。

 自由と反抗は違う。自由は、正義を実行することである。反抗も、服従も結果に過ぎない。意味もなく反抗するのは放縦なだけである。

 古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の家を斉(ととの)う。其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しうす。其の心を正しうせんと欲する者は、先ず其の意(こころばせ)を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す。知を致すは物を格(ただ)すに在り。(大学)

 修身、斉家、治国、平天下は、自由を実現する道程である。
 自由になるためには、己に討ち克たなければならない。内心にこそ敵が居る。放縦や我が儘は自由の敵である。自由というのは、天人合一の境地なのである。天地人の一体を実現する事である。内と外、公と私を均衡させることである。則ち、中庸である。
 自由の根本は志にある。志して始めて自由になれる。自由の本質は誠である。

 この様な自由は、権利であると同時に義務である。仁義礼智信は、自己の基本的徳目である。忠は、国家や国民、主、公に対する徳目である。孝と悌は、家族に対する徳目である。この様な徳目は、自分の徳目であると同時、他者の徳目でもある。故に、他者の徳目を侵さないようにまた実現を阻害しないようにする義務が生じるのである。自己の権利は、国家の権利でもあり、他者の権利でもある。故に、権利は、逆方向の義務の働きを生じる。

 国は力に依る。力は、民による。即ち、国は民による。故に、国の任は護民であり、民は、護国の責を負う。

 護民から兵と治安が生じる。兵は外敵から民を護り、治安は、身中の賊から民を護ることを任とする。兵は陽、治安は陰である。

 国は護民が権利と義務である。国は、民に依る。故に、国を外敵や災害から護るのは国民の権利であり義務である。税を納め国を保つのも国民の権利であり、義務である。国家の礎を学び、国を導きのも国民の権利であり義務である。

 国の力を抑えるために、法は立てられる。法が立てられれば、行政と司法が生じる。ここに、立法、司法、行政の三権は分立する。

 道は、一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は、万物を生じる。万物は、陰を負い、陽を抱き、沖気を以て和を為す。(老子)

 気は無形である。気を活用するためには形が居る。それが政府である。政府には、議会、行政、司法がある。
 議会は、気の集まる処である。行政は気を活かす処である。司法は、気を保つ処である。
 首長は民の中から選ばれる。政治権力は、宜しく禅譲されるべし。
 民主主義の本義は、まさに、禅譲にある。

 民の気は、立法府に凝集する。則ち、立法府は、太極である。立法府は、民の気が集まって逆巻いく場所である。故に、国会は、相生、相克の場である。
 立法府は、行政府と司法府を生じる。立法は、国権の本である。
 民は、国民国家の主、君主である。則ち、立法府と司法府の根源は、仁義礼智信にある。行政府の根源は、忠にある。そして、民の礎は、孝と悌にある。

 政は、民を養うに在り。(書経)

 天の声は、民の声。民の声は、天の声。天人合一。則ち、民の声を受けて政権は、禅譲すべし。

 民の欲する所、天必ず之に従う。(書経)

 忠の向かうところは民にある。民は、忠の源である。そして、忠は、職務を生み、職務は、権限と職責を生じる。権限と職責に源は、権力である。則ち、権限と職責によって権力は発現する。

 忠は、権利と義務の源でもある。権利と義務の行使は、国家への忠誠心の証である。忠義とは、国家の義を実現する事で極まる。

 天の聰明は、我が民の聰明に自(よ)る。天の明畏は、我が民の明威に自(よ)る 。(書経)

 民に忠と言う事と、民に迎合することとは違う。民の心を心とし、民の痛みを知り、民が真に欲する処を与える事である。糖尿病患者が欲するからと言って砂糖を与えること善しとはしない。同様に民に追従して目先の利を誑かすことは、政ではない。民は、愚かではない。一時的に目先まりに惑わされたとしても、いつかは覚醒する。覚醒しなければ、国が滅びるだけである。
 肝腎なのは、志である。民を思い国を良くすることです。

 志は、気の帥なり。気は体を充(すこぶる)ものなり。夫れ志至れば、気はこれに次(とど)まる。故に、曰わくその志を持(まも)りて、その気を暴(そこ)なうことなかれ。(孟子)

 忠の本源は、志にある。民の気は、国家を充(すこぶる)ものなり。志すところは、国の安寧である。民の厚生である。天下を平和を保つことである。

 誠は、天の道なり。誠を思うは、人の道なり。至誠にして動かされざる者は、未(いま)だこれあらざるなり。誠ならずして、未だ、能(よ)く動かす者はあらざるなり。(孟子)

 権力者は、自分を知らないが故に力に溺れる。権力者に求められるのは克己心である。権力の源泉は民である。故に、民に見捨てられた権力者は力を失う。
 権力者の本性を映す鏡は民である。民乱れれば国も乱れ。国、乱れれば、民も乱れる。民迷えば国も迷い。国迷えば民も迷う。民過てば、国も過ち。国過てば民も過つ。

 国の命は、体制に現れる。封建体制にも仁義礼智信はある。体制が変われば本性の発現も変わる。民主主義には、民主主義の仁義礼智忠信孝悌の形がある。しかし、その本性は変わらない。

 天の命ずるを之れ性と謂い、性に率うを之れ道と謂い、道を修むるを之れ教えと謂う。道なる者は、須臾も離れるべからざるなり。離れるべき道は、道に非ざるなり。(中庸)

 仁義礼智信は、不易。体制は変易。民の性は易簡である。

 道は、変わらず。器は変わる。民の暮らしは、相応である。

上善(じょうぜん)は水の如し、水善(よ)く万物(ばんぶつ)を利(り)して争(あら)そわず。衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。
 居(きょ)には地を善(よ)しとし、心は淵(えん)なるを善しとし、与(あた)うるには仁なるを善しとし、言(げん)は信なるを善しとし、政(せい)は治まるを善しとし、事には能なるを善(よ)しとし、動くには時なるを善(よ)しとす。
 夫(そ)れ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)なし。(老子)

 性と形は、相い応ずる。性は、形を変え。形は、性を変える。故に、体制の歪み偏りは、本性を偏らせ、歪める。しかし、性は、体制の偏りや歪みを撥(おさ)める力がある。
 天は性にある。例え、肉体に障害があっても性正しければ、形を補い正す。民が正せば、体制は変わる。

 ただ,、政には勢いがある。勢いには力がある。政を決するのは、形勢である。時に、勢いに、形が負けることがある。勢いは、時に、人心を惑わせ誤らせる。体制を整え、堅固にし、勢いを制御する事か肝要である。
 勢いは陽、形は陰である。為政者は、形と勢いを見極め。国と民とを善導することが務めである。その為には、形と勢いの均衡が重要である。

 道、之を生じ、徳、之を畜(やしな)い、物、之を形づくり、勢い、之を成す。(老子)

 先ず、志すことである。国や民の進むべき方向を明らかにすることである。志は、姿勢を正す。

 教育は、義務であると同時に権利でもある。義務と権利は、同時に発生する。その根源一つである。

 子曰わく、教えずして殺す、これを虐(ぎゃく)と謂う。戒めずして成るを視る、これを暴と謂う。令を慢(ゆる)くして期を致す、これを賊と謂う。猶(ひと)しく人に与うるに出内(すいとう)の吝(やぶさ)かな る、これを有司と謂う。(尭曰第二十 論語)

 国が民を忘れ暴虐となった時、天命、革(あらた)まる。

 国が建ち、天下定まれば、政治と経済が生じる。

 政治も経済も仁義礼智信があって成り立つ。そして、政治や経済にも、心気技力体があり、情意形理欲が働く。
 情から明暗、正負が生じ、意から、善悪が生じ、形、美醜が生じ、理から真偽、是非が生じ、欲から損得が生じる。

 惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり、是非の心は智の端なり。(孟子)

 資本主義、社会主義、共産主義と言うように、現代の国家体制は、経済が主で、政治が従の体制である。

 経済の語源は、経世済民である。利を専らにすることではない。

 今の政治にも経済にも、利ばかり有って徳がない。徳がないから品位がない。下品である。

 何をもってか位を守る。曰く仁。何をもってか人を聚(あつ)むる。曰く財。財を理め辞を正しくし、民の非を為すを禁ずるを、義と曰う。(周易繋辞下伝)

 経済は、利に従うだけでは成り立たない。経済にも仁義礼智信の働きが必要なのである。

 経済的価値を、貨幣価値、商品価値でしか測れない社会は、虚しい。不幸な社会である。経済的価値というのは、根本に生きていくことの価値がなければならないはずである。なぜならば、経済は、生きていく上での営みだからである。

 利に放って(よって)行えば、怨み多し。(論語)

 経済は、金儲けの手段ではない。生きる為の手段なのである。
 故に、金儲けのために、生活を犠牲にするのは愚かなことである。しかし、金儲けは、いやだからという理由で生きる為に、又、家族のために働くこともしなくなるのは本末の転倒である。
 生きる為に、そして、家族を養う為に、人は、働くのである。

 生活環境をよくするために起こした産業が原因で、生活ができない環境になってしまうのは愚かな行為である。それは、経済の目的を見失った結果である。

 豚に真珠、猫に小判と言うが、豚は真珠のために、猫は、小判のために、同胞を殺したり、親と争ったり、他国を侵したりはしない。豚も猫も必要な物しか欲しがりはしない。猛獣も空腹でない限り、無闇に他の動物を襲いはしない。ならば、真の価値を知っているのは、人間なのか、それとも、豚や猫なのか、どちらなのだろうか。

 政治は、況や、経済こそ、克己復礼が求められる。

 天の道は、其れ猶お弓を張るがごときか。高き者は之を抑え、下(ひく)き者は之を挙ぐ。余り有る者は之を損し、足らざる者は之を補う。天の道は、余り有るを損して足らざるを補う。人の道は則ち然らず。足らざるを損して以て余り有るに奉ず。孰(た)れか能く余り有りて以て天下に奉ずるものぞ、唯だ有道者のみ。(老子)

 経済の基準は、損益である。故に、利を争う。しかし、利益だけで経済は、成り立っているわけではない。経済の根本は、民の厚生である。民の厚生を忘れて利のみを求めれば、経済は、根本を失う。

 経済を動かす力は欲である。エネルギーは、電力も、原子力も危険物である。ある種の気である。無形な物である。故に、器によって制御する。欲も気である。扱い方を間違うと人の生を害する。しかし、欲がなければ経済は立ちいかない。要は、いかに欲を制御するかである。その為に、仁義礼智信の働きがある。

 信があって損得は成り立つ。経済は、信の上に成り立っている。信がなければ経済は立たない。信によって欲は抑制される。欲は活力である。欲が悪いのではない。欲に負ける心の弱さが災いを招くのである。

 市場は、欲を制御する場である。故に、欲を制御する仕組みが必要となる。欲を制御する根本は礼である。則ち、克己復礼にある。そして、礼によって護るのは信である。
 市場を野放図にすれば、経済は荒れる。市場は荒廃する。倫理は廃れる。信が保てなくなる。

 市場は、絶えず拡大と縮小、発散と収束の運動を繰り返す。

 かつては、欲を抑制し、徳を磨くことを本分として考えていた。しかし、今は、欲を野放しにし、利を求めることを専らにする。それによって、世の中から我が失われ、道義が廃れたのである。

 事上の錬磨。生きることは修道である。仕事は、修業である。職場は道場である。ただ欲に委せて国を荒廃し、身を滅ばすのではなく。大義に生きて、内心の自由を得ることが経済の目的である。

 欲に負けて、家族が離散し、国が侵され、天下が乱れれば、良識から遠ざかり、結局、無明の闇を流離(さすら)うだけである。それは経済の本来の目的ではない。経済の真の目的は、欲に克って欲を活かし、身を修めて、暮らしを豊かにし、国を繁栄させて、平和な世界を実現し、真実に目覚めて物事の道理を通す事にある。
 経済の目的は、利益を追求することにあるのではない。利益の追求は、不可欠な手段の一つである。

 現代人は、拝金主義に冒されていると言われる。拝金主義で言う金とは、現金である。現金とは、貨幣価値を実現した指標、数値を言う。貨幣、「お金」は現金を表象した物である。拝金主義は、虚(むな)しい崇拝である。何の実もない。「お金」は使ってこそ価値がある。「お金」自体は崇拝の対象になりえない。なぜならば、「お金」の実は、働きにあり、存在が虚だからである。

 市場は、太極である。市場から財と貨が生じる。貨幣から債務と債権が生じる。

 経済が生じ、市場が立てば、財が生じ、貨が巡る。財は肉であり、貨幣は、経済の血液である。財は陽であり、貨幣は、陰である。

 金銭は、虚である。実は、生活にある。虚によって実を損なうのは愚かなことである。

 市場は、取引によって成り立っている。取引を成り立たせているのは、財と貨幣である。
 貨幣は、貨と弊より成る。貨幣は、器である。貨幣自体に実があるわけではない。貨幣は虚である。虚である貨幣は、信用によって用をなす。信用が貨幣価値の全てである。信がなくなれば貨幣は成り立たなくなる。
 貨幣は、表象である。貨幣は、交換価値を表に現した象である。故に、貨幣は、表である。
 則ち、貨幣は、虚で、器で、表象である。
 貨幣は、使うことによって用をなす。貨幣は、使わないと用をなさない。貨幣の用は、交換の仲介である。貨幣は、物と物との交換を仲介する以外、用がない。役に立たないのである。それが貨幣の本源的な価値である。
 交換を仲介し、尚かつ使わなければ用をなさない貨幣は、博く行き渡っている必要がある。博く行き渡った上に、循環しなければ効果を発揮しない。つまり、貨幣は、循環を前提としている。

 貨幣は虚である。虚である貨幣を基盤とした貨幣経済というのは、貨幣という虚に基づく支配である。貨幣経済は、信用を基礎にして成り立っている。信用を失えば成り立たない。
 虚である貨幣が表に現れて、実物の流れを支配しているのが、貨幣経済である。そして、その貨幣経済が前提としているのが、市場である。市場取引から財と貨幣が生じる。ただし、貨幣経済と市場経済は同一ではない。

 紙幣は、国家の信を担保とした国民からの負債である。

 相生、相克して全体の調和は保たれる。

 市場が成立すれば、生産と消費、供給と需要、労働と分配、流通と在庫の別が生じる。生産から消費が生じ、供給から需要が生じ、労働から分配が生じ、流通から在庫が生じる。そして、消費が生産を呼び、需要が供給を作り、分配が労働を必要とし、流通が在庫を作る。こうして経済は、循環を始める。

 貨幣価値から成る金融や資本は虚で、産業は実である。産業は陽で、金融や資本は、陰である。産業と金融、資本は一体である。

 経済の本性は自他にある。自他の関係は内外の関係を生む。内外の関係は、自他の関係でもある。則ち、内外の関係の自他の関係に還元される。

 内外の関係は、経済においては、利害、得失の関係を生み出し、それが、収支、損益の下地になる。内外の関係は、内外の働きの均衡によって保たれる。均衡が保たれなくなると破綻し、新たな均衡を求めて彷徨う。それが政治や経済の乱れを誘う。

 昔の一(いつ)を得る者,天は一を得て以(も)って清く,地は一を得て以って寧(やす)く,神は一を得て以って霊に,谷は一を得て以って盈(み)ち,万物は一を得て以って生じ,侯王(こうおう)は一を得て以って天下の貞(てい)と為る。其のこれを致(いた)すは一なり。(老子)

 共産主義も、社会主義も、全体主義も、共同体主義も、無政府主義も、個人主義も、民主主義も何も目新しい思想ではない。
 中国の古代には、いずれの思想も、体制も存在した。ただ、共産主義も、社会主義も、民主主義も近代的な装いをしているだけである。近代思想をあたかも欧米が独自に生み出したというのは偏見に過ぎない。あるとすれば文化の違いである。しかし、中国の思想、哲学を否定する決定的な要因にはならない。
 子供を社会全体や共同体で育児や教育するような社会思想や体制も、獲物や収穫物を平等に分配する経済観念は、現代人や先進国の専売特許ではない。元々、根本あるのは共同体に対する考え方なのである。

 天や神を奉(まつ)ることを未開だとするのは、現代人の横暴である。人智を超えた存在を信じる事は迷信ではない。ただ、天や神を己の私欲のために利用する者が悪いのである。

 中国の古典思想を古くさくて封建的だと決め付けるのは、横暴である。中国があれだけの大国を維持し運営し得たのは、中国の思想、哲学に負うところが大きい。
 中国の代表的な思想、哲学である論語は、組織体制を維持するための現実的で実際的な教学である。しかし、その論語ですら、根本を民心に置いている。
 中国の思想や哲学は、体制や組織を維持するために有効だったから反民主的な思想だというのはあたらない。思想の根本を民をおいている中国の古典的思想、哲学は数多くある。又、天命の基盤を民に置いている思想も多くある。中国古典が単に君主政治を擁護しているものだと断定するのは短絡的である。
 又、新しい時代には、新しい儒教が育つのである。温故知新。それが中国の偉大さでもある。

 宗教の本質は、人々の行動や道徳を律する規範である。それが特定の勢力の権力を護持するために悪用されるのが問題なのである。宗教そのものに罪があるわけではない。
 それは神の名の下に行う人間が犯す罪である。神に罪があるわけではない。神は深淵にして不可知な存在である。

 いずれにしても、人間の側の問題、則ち、俗の問題である。言うなれば、俗の問題を聖なる者の側に押し付けているに過ぎない。人間が罪を犯したからと言って信じる神や天に罪があるわけではない。
 古代では、俗なるものを聖なるものによって浄化しようと心懸けてきたのである。それを現代では、聖なるものを卑しめて俗なるものを正当化しようとしているのに過ぎない。

 漢字は、中国文明の精髄である。漢字だから表すことのできる思想や哲学、漢字でなければ表すことのできない思想や哲学が数多くある。漢字を軽んずるべきではない。
 漢字は、漢字そのものが一つの哲学を構成する。一字一字に宇宙や世界がある。中国文明の宝庫であり、豊かさの象徴である。

 漢字は、中国古代文明の化石でもある。人類の宝である。

 道とは、路のごときなり、事物の当に然るべきの理にして、人の共による所なり。故にこれを道という。
 道を行って身に得るあり。故にこれを徳(特)という。
 仁は心の徳にして、愛の理なり。
 義は心の制にして、事の宜なり。
 四者(道・徳・仁・義)みな礼よりして入り、礼をもって成る。けだし礼は敬をもって本となす。敬は、徳の聚(しゆう)なり。(「朱子」、「四書五経入門」竹内照夫著 平凡社)

 克己復礼。

 礼は、民主主義の本質なり。礼によって民主主義は確立され、保たれる。徳を失えば民主主義は忽ち衆愚政治に堕落する。

 個としての人間関係を基礎として民主主義は成り立っているとしたら、民主主義の基盤は礼節にある。そして、自己を基礎として組み立てるならば、礼の働きは、双方向の形式でなければならない。礼が一方向になれば、礼は、循環せず、形骸化する。礼の働きを生かすためには、礼は、人と人とを連関し、相互に位置付ける必要があるからである。
 生き生きとした礼節を確立されるためには、礼の働きは双方向の働きである必要がある。そして、双方向の礼節こそ、民主主義の根本である。
 その双方向の礼は、民を戴くことによってできる。かつての封建体制が機能しなくなったのは、民を戴くことがなかったからである。それは、経済を考えれば解る。独占的な体制によって客を無視するような産業は忽ち停滞するのである。お客様は神様ではないが、常に顧客に忠たらんとする産業は、革新を繰り返すのである。
 民を主とし、人民に忠たらんとする体制は、常に革新を怠らない。それこそが国民国家における礼である。

 子には親に対する、親には子に対する礼がある。民には国に対する、国には民に対する礼がある。陰の礼、陽の礼。礼は、双方向に働いた時、循環し、完成する。

 他人を許すことはむずかしい。しかし、それ以上にむずかしいのは、自分を許すことである。人は、自分を直接見ることができない、人は、外に映った姿形から自分を判断する。だから礼が大切なのである。自分を律するものは、外に表れた形、則ち、礼である。己に克って礼に復る。礼の本質は克己心である。

 人は、満ち足りている時は、天を侮る。足らざる時は、天を呪う。しかし、天は天である。天は、自身の力だけで存在している。
 道を求めているのは、人である。天ではない。天と道とは一体である。人がいなくても天も道も存在する。
 人は、自らの存在意義を明らかにするために、道を必要とし、求めている。天を侮り、呪う前に、自身を知るべきなのである。
 現代人は、自分達は、天の法を明らかにしたつもりになっている。しかし、実際には、本然的な法は何も解っていない。生老病死の真実は何も明らかにされていないのである。 人は、生まれ、老い、病になり、そして死んでいく。それすら何も解っていない。
 言葉や観念で理解することと、真実を悟ることとは違う。現代以前の人達は、その点を明確と区別していた。だから、修業という思想が成立していた。
 現代人は、本に書いてあることを理解しれば、全てを悟ることだと錯覚している。それは現代人の傲慢さである。そして、現代の惨禍の源に現代人の傲慢さがある。
 事の正否善悪に、新旧老若男女の別はない。科学の進歩を正否善悪に結び付けるのは、現代人の進化論的悪癖である。
 温故知新。

 これが哲理である。

 中国人民が自信と誇りを取り戻し、仁義礼智忠信孝悌に基づいて国威を発揚した時、世界は革(あらた)まるのである。

 中国は偉大だ。



                    


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