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著書:  自由(意志の構造)上


                  間奏(そして、構造経済へ・・・。)

 起きて半畳、寝て一畳。人間が生活するのに必要な最小限の空間は、そんなものである。そして、この空間は、基本的には、万人に共通している。ところが、人は、必要以上に大きな空間を求めている。人の欲望は、際限がなく、人の一生は短い。ならば、一夜の夢に身を委ねれば、命も泡のように淡くせつないものに変じてしまう。
 人は、なぜ、もっと生き生きと有意義な生き方ができないのだろう。人の一生は連続した過程である。自らを欺いて生きることは、自分の存在を否定する事と代わりはない。自分の存在を否定することは、この世の一切がっさいを否定することである。
 幸せとは、一体なんであろうか。この様な問いかけを近代の物質文明を目の前にして自問自答したとき、私は、軽い戸惑いを覚えてしまう。豊になることが幸せなのか。確かに、物質文明が築き上げた豊かさを否定することはできない。また、物質文明がもたらした富を抜きに、現代という時代を、考えることはできないであろう。ただ、その豊かさが、人間にもたらせた物をどう受け止めるかによって、幸せに対する考え方に微妙な違いが生じるのは、なぜなのだろうか。豊かさの代償として人間の魂まで売り渡したとしたら、幸せになれるのだろうか。
 人は、なぜ、幸福の絶頂で堕落するのだろう。繁栄は、なぜ、人の心を脆弱にするのだろう。豊かさは、なぜ、人の心を貧しくするのだろう。恵まれた人ほど、なぜ、不満を持つのだろう。連日テレビで繰り広げられる戦争や飢餓の悲惨なニュースと、日曜日に遊園地で遊んでいる家族連れを、引き比べてみると、幸せという意味がますますわからなくなってしまう。多くの子供達が、アフリカでは、飢餓で苦しみ、また、紛争地域では、戦禍の中で地獄のような苦しみを味わっている。その一方で、屈託もなく両親と戯れている子供がいる。一見幸せそうに見える子供達にも、不幸の影が忍び寄っている。物質的に繁栄した国では、離婚が増え、麻薬がはびこり、子供達の犯罪や暴力に悩む。また、凶悪犯罪が、低年齢化する一方で、幼児に対する残酷な犯罪が増加する。豊かさの陰で行くあてのない年寄りが、一人で淋しく人生を終ろうとしている。しかも、孤独な老人の心の隙に付け込んで身ぐるみ剥ぐ者もいる。歓楽や享楽、刹那的な喜びに人は、酔いしれ、ただ、自分の快楽の為に他人を平然と犠牲にする。物質的に豊かになればなるほど家族の絆や人間同士の愛情が薄くなるのは、どうしたことであろう。無邪気に両親に甘える子供達の姿を見ていると、我々は、果してこの子供達に、どんな時代を残してやれるのかと、考え込んでしまうのである。
 豊かな物質文明は、同時に、自然の豊かな恵みを、奪ってしまっている。豊かな自然は、人間の心を養い、完成を磨くものである。それは、人間らしさの源であり、感情や心を失ってしまうことは、人間性を喪失することにもつながるのである。自然破壊それは、人間の心の豊かさをも奪っているのである。自然破壊を伴う物質的な豊かさは、精神の貧困をもたらしているといっても過言ではない。
 神は根本である。結果ではない。人の根本は、心である。心の根本は誠である。故に、神は、誠である。
 現代社会は、ある種の虚構の上に成り立っているのかもしれない。我々は、単調な日々の暮しに慣らされて、日常生活の背後に隠されている危機や真実を見失いつつある。歴史は、今、作られているというのに、自分達の置かれている環境や日常生活からかけ離れていると、それを身近な事として感じられなくなる。そして、歴史的な事件は、絵空事のように錯覚し、華やかな芸能界やマスコミが作り上げた虚構の世界を、あたかも唯一の現実として思い込んでしまう。それは、遊園地の中に作られた世界のように、華やかで楽しい世界に、表面的は、見えるが、その裏側は、人為的に作られた見せかけの世界に過ぎないのである。現代人は、虚構の世界に溺れ、現実を見失いつつある。それは、麻薬のように社会を冒し始めている。白日夢の様な悪しき夢が、やがて、現実となり、人間の幻想が一人歩きを始める。そして、メディアが発達した今日、ますます現実と虚構の世界との境目が失われつつある。
 虚構の世界の中へ、現実から逃避する事によって、いま、解決しなければならないことを、次の時代に先送りしたり、忘れてしまうことは、次の時代の、そして、将来の可能性すら奪い取る。奪い取るのみならず、人類の存在意義すら失わせてしまう。我々は、人間が本当の幸せを手にいれるためには、人間の人生は、どうあるべきなのか、もっと真剣に考えなければいけないように、私には、思えてならないのである。
 利己主義は、個人主義社会における癌のようなものである。個人主義を土台にして発展した民主主義社会において、利己主義が蔓延すると民主主義そのものが悪性な体制に変質し、民主主義の魂までもが圧殺されてしまう。しかも利己主義は、個人主義を隠れ蓑にして、成長するものであり、個人主義社会では、注意深く気を付けていても結局いつのまにか、社会全体に蔓延していることがあるのである。大切なことは、個人主義的な民主主義か、利己主義的な民主主義かを見極めることである。民主主義の土台が個人主義から利己主義に変質した時、民主主義は個人の欲望を制御することができなくなるのである。個人主義社会が利己主義社会に変質すると個人の倫理観をも変質してしまうのである。そして、個人の価値観の変質は、民主主義社会を自我と自我との相克の場に変えてしまう。そして、その争いは民主主義機構の根幹を破壊してしまうのである。全体主義や独裁主義が外部から民主主義を圧迫するのに対し、利己主義は民主主義を内部から冒していくばい菌である。獅子身中の虫こそ退治することが難しい。外からの敵は自覚できるが、内からの敵はなかなか自覚することが難しいものである。それ故に、民主主義にとって最大の敵は、利己主義なのである。
 人類が抱える諸問題を考察していくと我々は、次の時代を創造的で建設的なものとするのか、それとも破壊的で滅亡的なものにするのかの重大な選択を迫られていることに気が付くであろう。近代社会は、その華やかな発展の陰で常に、人類滅亡のくらい影を背負ってきたのである。例えば、最終戦争であり、環境破壊であり、資源問題、食糧問題、東西問題、南北問題、経済問題といった具合いにである。そして、その影は消えるどころか、ますます真実味を帯びて我々の上に重苦しくのしかかっているのである。確かに、いつの時代にも終末論が存在したものである。しかし、今日ほど切迫感を帯びた終末論はかつてなかったであう。しかも、皮肉なことに近代が抱えている問題を派生させたのは近代という時代を支える四つの要素なのである。
 近代を形成しまた危機に陥れている四つの要素とは、第一に近代科学であり、第二に近代民主主義、第三に近代会計学、第四に近代スポーツの四つである。四つの要素の頭に近代とつけたのは、近代以前の科学や民主主義、会計学、スポーツは存在しないわけではないが、ただ、近代のものとその本質が異なっているからである。近代科学は、近代技術の母胎として人類の生産性を飛躍的に高めた反面、環境破壊や資源問題、また、最終兵器といった人類の存亡に関する重大事をも同時に育てたのである。近代民主主義は、思想や信条の差を乗り越え一つの体制の基に意見や価値観の違うものを共存させることを可能とした反面、政治的な混乱や不安定さを招いたのである。近代会計は経済機構を飛躍的に発展させた反面、全ての価値観を計数化してしまいつつあるのである。近代スポーツは、法や制度の効用や原則を広く理解させた反面、人々の価値観を結果主義的なものに向かわせてしまったのである。この様にこの四つの要素は、近代という時代を作り上げてきたが同時に近代という時代が解決しなければならない重要な問題をも育ててきたのである。そして、近代的な問題を解決する為には、個々の要素を問題にするだけでは解決できないのであり、この四つの要素をより有機的に絡み合わせることによってはじめて解決されるのである。
しかも、自己を基礎とした個人主義社会は、同時に利己主義的な社会に変質しやすいのである。それは、民主政治が衆愚政治に変質しやすいことを意味しているのである。そして、衆愚政治は、独裁主義的な、また、全体主義的な勢力の温床となるのである。衆愚政治は、利己主義の変形だといっても過言ではないのである。全体主義や独裁主義が、民主主義の直接的な脅威として、外部から危うくするものであるならば、利己主義は内部から民主主義を蝕むものである。この様に近代的な社会を成立させてきた、個々の要素は、相互に影響し合いながら発展していく反面、同時に各々の体質を変質させていく傾向がある。それ故に、民主主義社会は絶えず個々の要素の健全性を保つような努力と機構を維持し続けなければならないのである。この様なことから、民主主義体制には均衡を保つことが重要な鍵となるのである。即ち、民主主義が平衡を失うと無政府状態か、潜主的な体制に変質してしまう傾向があるのである。民主主義者が平衡感覚を失わないためには、自己概念の確立とその検証が不可欠なことなのである。
 自己を対象化した概念が個人である。この個人を基本単位として個人主義が近代という時代の基礎的な理念を形成し、近代国家の礎を構築してきたのである。存在前提であり、主体存在である自己は、そのままでは、客体化しえない。そのために、自己を超越した存在、即ち、神を通して、自己を客体化するのである。この様にして、形成されるのが個人という概念である。存在前提としての自己、存在の根拠としての神、自己を客体化した個人、この三者が根源となって構造的な社会はその基盤を与えられるのである。そして、近代社会は、構造的なものでないかぎり、存続することが不可能なのである。
 東洋と西洋との出会いこそと融合こそが、次の時代を決定づける。近代社会は、神と自己との葛藤の中から生まれたのである。そして、東洋における自己概念と西洋的な神とが止揚されたところに、個としての主体的存在、つまり、個人が成立するのである。この個人こそ、個人主義の根本的な概念なのである。この個人の根底を為すのが、自己と意識と世界(客観的実在)の三つの要素である。この自己と意識と世界を超越し、これを一体化したものが神である。そして、自己と意識と世界はじめて、世界哲学は完成されるのである。即ち、自己概念の発達した東洋においては、世界に対する概念が発達せず、客観的実在を通じて世界概念が発達したが、内的な世界である自己概念が発達しなかったのである。この二つの概念を結び付けるのが、自己と客観的実在を通した意識なのである。主観的実在である自己と客観的実在である世界とを一体にした時、はじめて、科学は、哲学的な基礎を完成させることができるのである。
 神に対する信仰によって自己の存在を否定してしまえば、神の絶対化を意味し、逆に、自己のみを信じることによって神を否定する事は、自己の絶対化を意味する。この様な自己や神の絶対化は、対象の相対化、一般化を阻害する。対象を相対化、一般化できなければ、対象は、常に、主観的な観念の所産となり、対象を客観的な実在として、分析することが不可能になるのである。
 自己を絶対化することは、自己以外の存在全てを否定する事につながり、神を絶対化することは、自己の否定を意味する。他の存在の前提となる自己の存在と自己の存在を超越した神の存在、その双方を構造的に止揚することによってのみ、自己と対象とを公平に認識することが可能となるのである。
 対象を客観的な実在とする為には、自己の存在と、対象の実在の双方を前提とした上で、それを一つの構造として止揚するいがいにないのである。そして、それを構造的に止揚するために、自己と対象を超越したところに、存在を存在たらしめる神の存在を、想定しなければならないのである。この様な神を想定することによって主体的存在である自己を客体化し、自己を一個の客観的実在に置き換える事によって、自己を個人という概念に一般化する事が可能となるのである。そして、個人という概念によって社会を構成する一つの単位を確立し、確立した個人という単位に基づいて社会を合理的な理念でとらえ、再構成していこうと言うのが、個人主義なのである。
 近代社会は、個人主義を土台にして発展してきたといっても過言ではない。それ故に、近代という時代を考えるときこの個人主義は避けて通ることのできない概念なのである。この様な個人主義を土台にして、近代という時代を創り出したのは、近代科学、近代民主主義、近代会計学、近代スポーツの四つの要素である。その中で決定的な働きをしたのが、近代科学、近代民主主義、近代会計学の三つの要素である。そして、それらの基礎概念を集積され、絡み合いながら発展してきたのが、近代スポーツである。
 近代科学や近代民主主義、近代会計学はそれぞれが宗教革命、産業革命、市民革命を経て、相互に影響しながら、近代という時代の体制を形作ってきたのである。ところがこの四つの要素の土台である個人主義というのはいまだに理念として確立されていないのである。その原因は個人の概念の基になる自己概念が確立されていないことにある。そのために、結局、近代科学をはじめ近代民主主義、近代会計学といった四つの要素の基礎哲学が確立されておらず、結局、そのために近代体制を支える四つの柱の基礎が固まらないでいるのである。そして、この曖昧さにつけこんで民主主義社会の中に利己主義が蔓延しはじめているのである。そのために、政治体制と経済体制を貫き、安定した政治経済体制を構築することができないでいるのである。現代社会が抱えている多くの矛盾を解決し、安定した政治体制と経済体制を築き上げるためには、先ず個人主義の概念を確立し、それによって利己主義を排除し、その上で四つの要素の基礎を堅める必要があるのである。そして、この四つの要素の基礎を堅め統合的な政治経済体制を構築するための理念が構造経済学なのである。
 また、この様な構造経済学を構築する上で重要なヒントを与えているのが、第四の要素、即ち、近代スポーツである。近代スポーツは、近代という時代を象徴的に反映している。そして、近代社会の進むべき方向を暗示しているように思える。我々は、民主主義は自由と、平等、連帯感を根幹としていると考えている。しかし、この様な言葉を実体化しえた社会はまだないのである。ところが、ある意味で近代スポーツは、スポーツの世界の中だけとはいえ、この自由と平等と連帯を実現しているのである。つまり、ルールがあることによって競技者は自由な運動が保証され、また、ルールは、競技者に平等に適用される。この様なスポーツの社会では、選手の間に極めて緊密で濃厚な人間関係が発生するのである。法やルール、規則は人間の自由を拘束するものであるという間違った考え方が広く流布している。しかし、ルールがあるからこそ競技者の自由が確立され、保証されるのである。仮に、ルールがなかったり特定の権力者の恣意に委ねられていたら競技社には自由が与えられていないに等しい。競技者が不自由を感じるとしたら、それは、ルールに何等かの矛盾があるからである。ルールは、競技者に平等と自由を与える。それ故に、私は、近代スポーツに一つの民主主義の原型を見いだすのである。しかし、残念ながら近代スポーツを一つの手本として、近代や未来社会をモデル化しようという考えをまだ誰も試みていないのである。
 古代アテネにせよ、スポーツが発展するためには、民主主義に対する基本的な概念が確立されていなければならない。それは、スポーツが民主主義と同じ公理主義を原則として成立したものであり、民主主義の法治概念によってスポーツは維持されるものだからである。法の前には何人も平等であり、これを犯すことができないという観念が、万民に浸透し、尊重されているからこそ、スポーツのルールは守られるのである。法の拘束を受けない法治から独立した超法規的な個人を認めたならば、また、法の抜け穴となるような例外を認めたならば、民主主義は成立しない。これが、民主主義の公理主義的な由縁である。いやしくも、法治国家、民主主義を標榜する国家は、法の上に君臨するような超法規的な個人の存在を認めてはならないのである。同様にスポーツもルールを無視できるような選手を認めたら成立しないものなのである。それがフェアプレーの原則である。
 近代スポーツはいくつかの要素からなっている。それらの要素は、空間(フィールド)や次元(チーム、マネージメント、コミショナー)構造(チーム、審判、フロント)を成立させているのである。つまり、スポーツは一つのルールによって空間や次元、構造、運動を規定しているのである。そして、ルールは論理的であり、また、相対的なのである。この様なルールに従って一定のサイクルで一回一回のゲームが終了し、その結果は数値的に表現され、評価されるのである。同時にルールを制定し、それを運用するための制度が確立されており、原則的に民主的に運営されている。また、基本的にスポーツには国境がなく、ルールの基では選手は平等であり、ルールの基に公平な審判が保たれているのである。この様にスポーツの世界は一定の競争と協調が保たれており、自分の好きな競技を選択することができるのである。この様な万国共通性や公正さが保たれるのは、国際的な機構が確立されているからである。また、ルールは選手の行動の自由を保証するものであり、ルールがあるおかげで選手は、自由な運動が可能なのである。そして、スポーツの世界では選手は自分の実力と成績によって評価されるのである。この様な近代スポーツは、民主主義社会の一つの形を示していると思われるのであ。そして、近代スポーツと同質同根の民主主義が確立された時こそ人類の未来を建設的な方向に向けることが可能となるのである。
 近代社会は、中央集権的な国家計画経済体制と分権的な自由市場体制の二つに分裂しているといっても過言ではない。そして、その二つの陣営は丁度正反対の理由でどちらも危機に陥っているのである。中央集権的な体制は、制度の自律性を喪失させ、放任的な体制は制度の制御力を失わせる。つまり、放任主義的な体制もまずいが、かといって全てを確定的にとらえるのもおかしいのである。この様な問題を解決するためには、経済体制そのものを構造化し、経済体制自身に自律的な制御能力を持たせるいがいにないのである。問題なのは、政治や経済が絶対的ドグマによって自由な発想を阻害されていることである。そのために政治機構や経済機構の問題がイデオロギー論争に巻き込まれ本質的な問題点を摘出できずに曖昧になってしまっていることである。大切なのは、政治でも経済でも機構の問題である。要は、経済を一つの機構としてとらえ、それを設計する技術や運営する技術を磨けばいいのである。それが構造経済学である。
 我々が計画を考える時、時系列的なものを思い浮かべるが、本来計画は、多次元的なものであり、ただ、時系列的に並べても計画は成功しないのである。また、時系列的なものといっても、ただ単に時計のような発想ではなく段階的な考え方を導入することも可能である。要は、計画を硬直的なものとしないで計画が状況の変化に機動的に反応できなければ、計画は効果がないのである。計画を成功するためには、計画を構造的なものにする必要があるのである。人工的な世界は無機質な世界ではない。経済は生きているのである。生き物である経済を無機的な物質としてとらえるかぎり、解決策はない。経済を生き物としてとらえ、現代医学のように全体を生きた構造として分析し、各々の部分の機能を正しく知ることが必要なのである。
 逆にあらゆる事は、全て自然状態におけば自然に一つの均衡した状態に達するという考え方も極端な考え方である。あらゆる人為を排したり、最低限のところにとどめるべきだというのは、あまりにも楽天的すぎる。人間の社会は、意志的な世界であり、人間が存在するところには必ず何等かの人間の意思が働いている。この現実を無視して無為自然に任せれば万事が治まるという考え方は、無謀である。それは、狂信的な宗教の一派の中にあらゆる現代医学を受け付けない一派があるそうであるが、それは、神から与えられたものは、ただ、何もしないで受け入れなければならないという教えに基づいているそうである。しかし、人間は、人間である。人間が自分達の英知で病を克服することは罪悪ではない。何もしないで手をこまねいている事の方が罪である。放任主義的な経済というのは、この様な考え方によくにている。この様な考え方は、現代医学の発達する以前の状態に似て、病気の根本的な原因を明確にできないで、ただ、症状に対する対処療法的な治療しかできないないのである。また、飛行機のような物でも何もしないで自然状態に放置しておいて、ただ、黙って見ていれば、自然にできあがり、また、自動操縦の装置がない状態で誰も操縦をしなくても、飛行機が自然に空を飛ぶといったような考え方である。それは気球や凧のようなものなら当てはまるが、最先端の飛行機にまで当てはめようとしたら現代の魔法みたいなものである。その様な考え方は、経済を農業や生物学的なものと等値した考え方である。確かに、経済は有機的な要素が多分にあるが、原則的に考えれば経済は人工的な世界であり、人為を全て否定してしまうような考えは、人間の創造性を否定することであって極めて非人道的な考え方である。大切なことは、合理的で正常に機能する機構を組み立てることであり、機構そのものを否定することは危険なことである。この様な経済体制は自由主義体制というより、無政府主義体制である。
 構造経済学とは、これまで現象面からとらえてきた、経済を市場構造や産業構造という面からとらえ直し、その原則を明らかにして、市場や、産業自体に自律的な制御能力を持たせようという思想である。それは、解剖学の発達する以前の医学のような対処療法的な考えではなく、市場や産業の構造を明らかにしたうえで経済体制を計画的に設計しようということである。そのためには、個々の産業の歴史、特性、労働の性格といったようその分析が重要な課題であり、また、個々の産業を形成する要素や過程を明らかにすることが肝心なのである。つまり、一つ一つの産業は、研究、開発、資金調達、工場の建設、原材料の調達、製造、加工、貯蔵、流通、配送といくつかの段階を持ち、各々が独自の特徴と市場を形成しているのである。この様な産業が効果的に機能を発揮するためには、経済をただ単に一つの全体としてとらえるだけではなく、個々の産業を一つの構造としてとらえる必要があるのである。経済を一つの情報系としてとらえるならば、産業をブラックボックスとせずそのシステムを明らかにしなければならないのである。それが構造経済である。
 貧困は、犯罪の温床である。清貧という言葉があるが、自給自足的な社会が崩壊し、資本主義経済が発達し、貨幣制度が、隅々にまで浸透した現代社会に於て、貧しいことは、即ち、生きていくための最低限の権利をも奪い去ってしまう。そのために、人は、貧しくなれば、犯罪を犯さざるをえないのである。生きる為には、麻薬を栽培し、育てられぬが故に、子を捨て、家族を養うために、体を売るのである。確かに、豊かさの中に潜む犯罪もある。しかし、貧しさ故の犯罪とは、質の違うものである。しかも、貧しさは、生きられぬが故に、犯罪を正当化し浄化してしまう。つまり、現代社会においては、貧しさは、それ自体、悪なのである。まことに、衣食足りて礼節を知るのが、現実なのである。
 貧富は、相対的なものである。つまり、貧しさとは、作られたものである。国家経済が破綻し、貧困が蔓延するのは、貧富の格差と社会的な不平等による。国全体が貧しいのは、国際社会全体にある歪から生じる不平等によるのである。貧困は、何処にでもある。しかし、貧困が国家全体に蔓延し、国民の倫理観や生きる気力まで喪失させてしまうような病的な貧困は、社会構造の歪みが創り出した貧困である。そして、この様な貧困こそが犯罪の温床となって世界を蝕んでいくのである。つまり、一部の富裕層が富の大半を握り、社会の公平な分配システムが喪失された時、貧困は、国家の宿痾となるのである。富が、隅々まで行き渡らず、一部に滞留し、それが、淀みとなれば、そこから犯罪が生まれるのである。更に、富が富を生み、一つの階級形成されると経済は停滞し、やがて、その流れが止まってしまうのである。
 貧富の差が激しい国の王宮の方が豪華である。そして、貧富の差が大きければ大きいほど、富む者と貧窮者との対称は際だつのである。そして、ある程度、持てる者と持たざる者との格差が広がると、その差は、拡大するだけで余程の事がないかぎり、縮まる事はない。この様に持てる者と持たざる者との間に越えることのできない距離が生じたとき、貧富の差は、構造的なものとなり、更に、制度的なものに変質をして、階級が生じさせるのである。その結果、労働者は常に貧しく、有産階級は、何もせずとも安楽な生活が、一生約束されるのである。この様な経済や社会が健全であるはずがなく、階級化された社会は、硬直化していくのである。
 ここで言う社会的な平等とは、構造的なものである。富を均等に分配する事が平等なのではない。平等と言うのは、例えば、死の前の平等である。人間の私的な関係や感情から純粋に開放され、公平で公正な分配の仕組みを作るあげることが、社会的な平等を確立する事なのである。それ故に、平等とは構造的なものなのである。そして、平等な社会が成立した時、人間は、先天的な関係から開放され自由となるのである。この様に、自由と平等は、不離不可分な関係にあり、どちらか一方だけが、単独で成立したり、他方を犠牲にするということは有り得ないのである。つまり、自由な社会は、即ち、平等な社会であり、平等な社会は、自由な社会でもあるのである。それ故に、元来、法や制度は、自然の法則のような先天的なものではなく、意志的なものでなければならないのである。つまり、血縁関係や友人関係といった情実の絡んだ私的な関係を土台にするのではなく、論理や理念を土台にして、法や制度を構築しなければならないのである。法や制度は、人間の意志によって私的な世界から開放されなければならないのである。
 民主主義を維持するためには、一つの体制が絶対であるという考え方も危険である。体制は、その体制が成立するための歴史的な、また、社会的な必然性によって決定されるべきであり、一概に集権的な体制が善いか悪いか、分権的体制が是か非かといった議論は成り立たないのである。それよりも、民主主義にとって体制の変換の手続きが制度的に組み込まれているか、いないかが重大なのであり、それが民主主義の一つの目安となるのである。それは、民主主義運動の発展段階においても言えることである。国家体制や指導体制の是非を論じる前に、体制を平和的な手段で変換できる制度を有しているかいないかが重要なのである。もし、平和的な手続きによって体制を変換することができなければ、状況に体制が適合しなくなると暴力的な手段によってしか体制を変革することができなくなるのである。そして、この様な体制の変革手続きは制度的に確立されている必要があるのである。それ故に、独裁者による独裁体制でも一党独裁でも、いかなる形であろうと独裁体制というものは、民主主義体制に反する考え方である。独裁体制は、国民の意志を権力の中枢に反映することができなくなる。独裁体制と集権的な体制を混同してはならない。国民が国民の意志によって国家体制を選択し、成立させる権利を有することが民主主義における基本的な理念であり、単純に一つの体制を判断するのに善悪の価値基準を用いて民主主義を論じることは、危険なことである。集権的な体制であっても、その体制を制御する機構や変換する手続きが保証されているかぎり、問題にはならないのである。逆に封建体制のように分権的であっても民意が反映されない体制もあるのである。
 体制の是非を論じる場合、その国家がおかれている状況や前提条件を先ず問題にすべきである。その状況や前提に順応することができなければその国家は外圧や内乱によって危機的な状況に陥るであろう。だいいち、民主主義的であるか否かは、国民が自らの意志によって国家体制を成立させ、また、変更させることのできる制度を持っているか否かによって決まるのである。つまり、法治主義であり、そのために立法と司法、行政が独立しており、正当的な選挙制度が保証されていなければ民主主義とはいえないのである。そのためには、必然的に複数政党制度とならざるを得ないのである。これが集会の自由、結社の自由の根拠となる概念である。
 経済状況とは政治状況は連動するものである。即ち、いかに善政を敷いても経済状態が悪化すると体制を維持することができない。政治的な破綻は、内においては内乱を、外に対しては戦争を引き起こす原因となる。また、政治的な混乱は、経済活動を停滞させる。この様な前提から、政治状況は、経済状況に左右されると考えても差し支えない。このことは、個人であろうと国家であろうと政治的独立や自由は、経済的独立や自由なくして成立しないことを意味している。この事実を政治的な指導者は充分に理解をしておく必要がある。さもないと、救国の英雄も、亡国の暴君となるのである。いかに強権を持って民意を圧殺しても経済が発展しない限り人民の支持は得られない。どの時代の動乱、革命も最初は生活に密着した要求から生まれるものである。観念的な要求によって変革を望むものは、ごく限られたものに過ぎないのである。政治だけでは人間は生きられないし、幸せにもなれないのである。人間にとってもっとも切実な欲求は生活なのである。生きるために必要だからこそ人民は命がけで立ち上がるのである。
 この様に生活に密着した変革に対する請願は多くの場合、最初は平和的な手段でとられるものである。しかし、変革を実現するには、既成の保守的な体制や思想では、遂行するのに無理があるものである。人民が変革を求めた時、権力者が権力に固執して、民意を圧殺しようと試みた場合、多くの歴史は流血の惨事を引き起こすのである。既得権を手放して平均的な生活に甘んじながら権力機構を維持するには、権力者個人の力だけではあまりにも負担が大きいのが通例である。巨大な機構を維持するためには、何等かの権力を必要とする。その権力を維持するためには莫大な費用がいるのである。しかも、個人の力や特定の機関によって全体の要望を掌握するにはどうしても限界がある。結局一部のグループの要望しか聞けなくなるのである。それ故に、たとえ権力者が民主化に理解を示したとしても周りの人間が許しはしないのである。そのために結局、民意が反映できなかったり、権力の平和的な移行が円滑にできずに権力闘争を生み出し、その手段が徐々にエスカレートして、過激なものに変質するのである。この様な混乱を避け時代や状況にも適合し得る体制を築き上げるためには、民主的な仕組み、機構が必要なのである。この様な仕組みや機構を忘れて無闇に自分の思い通りにしようとすると力と力がぶつかり合って民主的な勢力の中でも内部抗争が派生するのである。そして、この様な抗争によって一番被害を被るのが人民なのである。
 だからといって政治的な解決を一個人の力に委ねてはならない。政治的な解決は、政治的指導者を絶対視した時、失われるのである。独裁的な指導者が生まれた時、民主主義は終るのである。それは民主政治の敗北を意味する。
 それ故に、民主主義国家は、体制を維持するための法の上位に国家とその体制の整合性を保つための成立意義を規定した原則と体制の変換手続きを制定した制度を備えてなければならないのである。それが、憲法であり、民主主義の立憲主義である。故に、民主憲法は国家体制の存在理念とその変換手続きを規定した条項を含んでなければならないのである。即ち、この様な立憲体制は、憲法と現体制を維持するための一般法とからなる二次元的な体制なのである。このことから民主憲法は、国家を成立させ体制の整合性を保つための公理的な理念と、公理的理念を保護するための制度、国家体制の成立させまた変換するための手続きとによって基本的に構成されるべきものなのである。そして、この様な憲法は、とうぜん公理的なものであるからスポーツのルールのように明確で厳正なものでなければならず、精神論的な曖昧な概念は極力排除されなければならないのである。制度的かつ法的に体制の変換が保証されていない場合、極めて暴力的な手段に訴えない限り、周囲の状況の変化に対応することができなくなる。また、体制の変換を制度的法的に保証しようとする場合は、その体制は極めて構造的なものにならざるをえない。
 故に、政治的にも経済的にも権力が独裁的であったり、寡占的な状況下では、体制の変換を保証できるような体制を作ることは極めて困難なのである。特権階級の大多数は、自分達の権益を侵すような民主化には否定的である。そのために独裁政治や貴族政治下での権力の交替は、常に、血生臭いものになるのである。この様な権力闘争を未然に防ぐためには、法や制度を超越した個人を認めてはならないのである。翻っていえば法や制度を超越した個人を容認する体制は民主主義体制ではないのである。かといって民主主義体制は、超人的な力や偶然によって成立するのではなく、寧ろ、民主主義体制ほど人間の意志と計画性がなければ成立することのできない体制は他にはないであろう。なぜならば、民主主義は、明確な論理と制度的な裏付けがなければ成立できないからである。民主主義体制の目的が、特定の指導者の意志によって人民を支配するのではなく、法や制度によって国家を統治する装置である以上、国家体制を設計し明確な青写真をもって国家を建設する必要があるからである。そのためには、民主主義を論理化し、制度化し、その体制を設計できる技術者達(テクノクラート)が必要となるのである。つまり、それは近代科学が科学と技術という分野で分業し、原理的な分野を科学者が担当し、実用的な分野を技術者が担当したように政治、経済の分野でもこの様な分業が成立する必要があることを意味しているのである。そして、政治や経済が科学となるためには、組織構造や経済構造を複数の人間が討論しながら理論を洗練していけるような土俵を作り上げる必要があるのである。この様な点を考慮すると民主主義体制とは極めて構造的な、また、制度的、論理的な体制なのである。また、この様に構造的な政治体制を有効たらしめるような経済は同様に構造的なものにならざるをえないのである。政治や経済、産業の構造の土台となる原則を明らかにして、政治体制のみではなく、経済や産業の構造を設計して、計画的に建設しようとするのが構造経済学である。
 民主主義は、法と機構による統治が原則である。それ故に、民主主義の発展段階は、個人から、機関へ、そして、機構へと成長させていかなければならない。民主主義を軌道に乗せるためには、法と機構を整備することが前提となるのである。そのためには、入念な準備と時間が必要となるのである。すなわち、民主主義体制は、一度機構が確立されると非常にしなやかで強靭なものとなるが機構が確立されるまでに時間と手間がかかるのである。それは、民主主義の強みであると同時に弱味でもある。即ち、民主主義の原則は機構が整備確立されるまで、民主主義に否定的な勢力に取って格好の的となるのである。故に、民主主義は、その前段階において、強烈な個性を持った指導者によって指導され、その次の段階で前衛的な組織によってそして、最後には一つの機構によって確立されなければならないのである。但し、各段階に於て次の段階にへの移行の為の手続きを明らかにしておく事を忘れてはならない。個人から機関へ、そして、機構へという過程は民主主義のみではない。全体主義的な体制も封建的体制も同様の過程を取ることがある。ただ民主的な発展段階との決定的な相違は、各発展段階に民主的な機構へ転化していく仕組みが組み込まれているか否かである。また、民主主義者達は、観念的な議論を避け、具体的に民主主義の機構を描いてその機能について議論するように努めなければならない。民主主義運動の指導者達は民主主義の特徴をよく理解して、民主主義を発展させる各段階において慎重かつ勇気のある行動をとることが要求されるのである。
 極めて論理的で構造的な民主主義体制は、それ故に、一人の指導者、英雄を輩出しにくい体質を持っている。このことは、民主主義の機構がいったん確立すると非常な強みとなる反面、民主主義を確立するときに集中力や統一性をかく原因ともなる。民主主義的な指導者は、その性格上どうしも特定の人間の個性によって全体が支配されることを嫌うものである。個々の個性が発揮されることが許されるのは民主的な機構が確立された後でなければならないと彼らは思い込んでいるのである。しかし、民主主義が個人を基礎とした体制であるいじょうその成否は指導者の個性におうところが多いのである。そして、そこでもっとも重要なことは、指導者が民主主義的な道徳を身につけているか否かである。民主主義者の多くは、特定の思想によって人民を指導することを忌避する傾向がある。思想信条の自由は制度として正しいのであって個人が無思想でなければならないといっているのではない。寧ろ、個人としての主体性の確立を前提とした民主主義社会においては指導者の価値観こそ重要な要素なのである。民主主義社会は決して無思想な社会ではなく、かえって思想的な社会なのである。現在民主主義社会が抱えている問題を解決するためにも民主主義的な道徳律を確立することが望まれているのである。そして、現代の民主主義を築き上げてきた指導者達は、極めて個性的で道徳的であることを忘れてはならないのである。民主主義を築くためには、個性的で道徳的な指導者が必要なのである。
 民主主義者の多くは、博愛主義者でもある。博愛主義者の生き方は崇高なものであり、それ自体は高く評価すべきである。しかし、博愛主義者が人類愛を尊重し過ぎて、民主主義を敵視している勢力の本質を人民に見誤らせるのは危険なことである。民主主義を敵視する勢力は、同時に人類愛も敵視する。それは、民主主義が人民に対する信頼を根底においているのに対し、反民主主義勢力は、人民をまったく信用していないか、軽蔑しているからである。この様な勢力を自分達と同じ発想でとらえているのは、飢えた虎を説得するのと同じ結果を招くだけである。人民の敵は、彼らが人民と同じ立場にならないかぎり、信用してはならないのである。また、民主主義の原則が有効に機能するのは、民主主義体制が確立した後の事である。民主主義の原則は、民主主義的な体制が確立されていないとかえってマイナスに作用する場合が多い。この様な民主主義の弱点を補うために、民主主義体制が確立されていない社会においては、前衛的な組織を結成する必要がある。
 自由で民主的な制度と言うのは、極めて論理的で非人格的な制度である。そのために、特定の人間の恣意や個人崇拝、全体主義的な発想を本来受け付けないのである。そのために、たとえ前衛的な組織といえども民主主義運動と言うのは、組織を形成したり、運動を展開する過程そのものが民主主義運動でなければならないのである。そして、組織を結成したり、運動を展開する段階で民主的な体制を作り上げることが肝心なのである。即ち、民主主義運動は、たとえ個性的な指導者によって指導されても一人の指導者に絶対的な服従をすることによって展開するような運動ではなく、組織を作ったり、組織的な活動を通じて民主主義の原則を学習しながら発展していかなければならないのである。初期の段階においては、この様な組織を作ったり、民主主義の原則を指導するような教官のような指導者と民主主義運動を引っ張っていくような力のある指導者の二つのタイプの指導者が必要ではあるが、だからといって超法規的な存在、絶対的な指導者と言うものを認めてはならないのである。また、組織の構成員に対し規律を守らせながら遵法精神を植え付け、いかなる者でも法の前には平等であることを浸透させていなければならない。即ち、民主主義運動における前衛組織は、その基本に指導、実践、学習の三つの機能を持っていなければならないのである。
 我々は、自由と民主主義は常に脅威にさらされていることを自覚し、自由と民主は、我々の意志によってのみはじめて勝ち取ることも擁護することも可能だということを肝に銘じておかなければならないのである。特に、自分達の同胞の血によって民主主義をかち取った経験のない日本人は、あたかも民主主義が無為自然に出来上がる体制であるような錯覚を持っているが、これは重大な間違いである。民主主義は最も人為的な体制であり、民衆の意志がなくては維持できない体制である。民主主義は、個人の自覚の上に成り立っている体制である。ただ単なる処世術や事なかれ主義、日和見主義によっては護ることはできないのである。
 個人主義を土台にして築かれる民主主義は、利己主義的な体制にとりいられられたり、また、変質する危険性を常にはらんでいるのである。特に、独裁勢力や全体主義勢力、軍国勢力は、人民の蜂起による成果を横取りしようと虎視耽々狙っているのである。それ故に、民主主義の前衛的な組織においては、内部に対して、民主的な原則を適用しても、外部に対しては、組織を防衛する手だてをこうじなければならないのである。民主主義勢力が人民の意志を民主主義に結集するためには、常に、たとえ民主的な体制が確立されたあとでも中核となる組織の温存が必要であることを忘れてはならないのである。そして、その様な組織は、日常的な活動を通じ、民主主義の正しい理念を啓蒙し根付かせて、しかもいついかなる時でもその根が枯れないように地下や人民の中にしっかりと根を張っていなければならないのである。
 この様に構造的で多次元的な民主主義は、体制の規模とその影響力が及ぶ範囲によって制度的にも次元が生じる。例えば、国家体制の変換と企業体制の変換は、当然、その効力の及ぶ範囲が違い、必然的に国家体制の変換はより広範囲の合意を必要とするのである。そこに憲法と一般法との差が生じるのである。このために、民主主義体制の法体系は、必然的に多層的な構造をとることになるのである。つまり、民主主義体制は合意事項を積み上げていく体制であり、個人に近付けば近付くほどその主張が鮮明になる体制なのである。つまり、個人の思想信条を守るために、自己を主体的なものから対象的なものに転換し、その個人を基礎単位として制度化した社会が民主主義なのである。それはまた、個人からあらゆる属性を取り除いて、一己の主体的な対象として、その存在を定義づける事によって成立している社会でもあるのである。その意味で基本的な合意、最低限の合意を前提とし、その合意の上に成り立っている社会だともいえるのである。この様な民主主義の特性は、スポーツを例にとるとその実体がよく現れている。スポーツのルールは、各人の属性である人種、宗教、思想、家柄、民族といったものから独立している。そして、スポーツのルールは、スポーツを行う選手の位置や運動、その場の関係について規定しているに過ぎないのである。そして、この様なルールの上に各々のチームの規則や、カラーが積み上げられているのである。このように、個としての人間を規定し、その位置と運動、関係を権利や義務として規定し、定義づけたのが民主主義の法であり原則なのである。そしてこれが、民主主義における思想信条の自由の原則を支える基本的な考え方なのである。
 力は常に安定を求める。即ち、権力その草創期には、活気に満ち革新的な政策を推し進めるが、やがて、成熟期になると草創期の活力を失い安定を求めて保守的なる。それは、力は常に均衡した状態に戻ろうとする傾向があるからである。その様な安定化や保守化は新しい階級の発生を促し、国家体制を封建的で硬直的な体制に変質させてしまうのである。それは、人種、民族、家柄、宗教、思想といった個人の属性を制度化することによって政治的、経済的な安定を計ろうとする結果である。権力機構が個人の属性によって制度化されると、たちまち、国家は、活力を喪失してしまう。そして、この様な権力機構を維持しようとすると必ず力による対立が発生する。経済や政治の安定は観念的な問題ではなく、現実的な問題であり、この様な体制の保守化や硬直化を防ぐためには、個人の属性を制度から切り離して構造的な安定を計る以外にはないのである。
 社会を動かす力は人間の欲望である。しかし、人間の欲望は、利己主義を生み出す原因でもある。たとえていえば人間の欲望というものは火の様なものである。火を直接手に持つ事はできない。火力を制御し、有効に活用しようとしたら、何等かの装置が必要なのである。また、火は人間の役にも立つが扱い方を間違えたり、制御することができなくなると、かえって人間に災難をもたらすことになるのである。同様に、欲望は、政治や経済を動かす活力ともなるが、反対に人間を堕落させる原因ともなるのである。欲望を抑制し、政治的、経済的な活力に転化して、それを維持し、活用しようとした場合、何等かの制度が必要となるのである。この様な制度や産業経済を計画的に設計し構築して、政治、経済の構造的安定を計るのが構造主義である。また、立体的な計画という観点からみて構造経済を新計画経済といってもさしつかえがないと考える。そして、民主主義は、この構造主義的な考え方が根底になければならないのである。
 極めて構造的、制度的で開放的な民主主義は、それが確立されると柔軟でかつ堅牢な体制になるが、それが成立する過程では、かえってその強みが弱味になる事が多い。即ち、情報の公開や複数会派の存在はそれが成立した後は民主主義の活力の源となるが、民主主義が成立する以前では、逆に情報の公開を原則とするため機密が守りにくく、複数会派の存在を認めるためにカリスマ的な指導者や反対勢力や小数派と協調していかなければならず、そのために統一性やまとまりに欠け、それが原因となって統制力の強い、独裁者や独裁体制の小数派に付け込まれることが多くある。また、民主主義は、その原則の正しい意味をよく衆知させておく必要があり、そのために一定の教育期間をおかなければならない。その教育期間中に民主主義の原則が固まっていないと、民主主義と相反する知識が混入しやすく、かといって、検閲を強めることは、民主主義の原則に抵触する危険性がある。民主革命が、初期の段階で無政府な状況に陥ったり、恐怖政治に変質したり、独裁体制にとって変わられるのは、この様な民主体制の弱点によるのである。この様な弱点を補うためには、最初から完成された民主主義体制を構築するのではなく、早い時期に基本的に原則と立法手続き、権力構造を憲法によって明らかにし、個としての個人の意見を正しく反映するために、成立時点から公正な選挙制度が確立されていなければならない、そのうえで、制度的な裏付けをし、その様な基盤の上に段階的に体制を作り上げていくことが、肝心なのである。特に、政治的には、法制度や選挙制度、教育制度、三権分立、そして、経済的には、金融制度、運輸通信設備、エネルギー設備といった制度的、構造的な基盤を整えることが優先されなければならないのである。
 民主主義体制において重要なことは個としての個人と全体としての人民を国家体制がいかにして両立させていくかである。民主主義制度の基礎単位が個人であるならば、その個人は、政治的のみならず経済的にも独立していなければならない。人間の基本的人権は、政治的にも経済的にも自立した自己によって保証されるものである。つまり、政治的独立は経済的独立によって保証されるのである。故に、基本的人権の擁護が前提である民主主義は、政治的にも、経済的にも自立した人格を基本としないかぎり実現できるものではない。私的所有権を全面的に否定してしまった場合、この経済的な自立を護ることはできない。ただ、私的所有権が長い世代を経過するに従って累積し、富裕階級を生み出すことが危険なのである。階級制度は常に体制の硬直化を招く原因となる。それ故に、私的所有権を侵さない程度で財産の累積を防ぐ機構を経済制度に組み込んでおく必要があるのである。
 そして、この様な個人の権利を保証するためには、政治は、常に軍事に優先した力を保持しなければならないのである。軍事が政治より優先した力を保持した場合、民主主義は、その根本である基本的人権を擁護できなくなるのである。この様な軍事に対し政治が優先的な力を維持するためには、民主主義体制下の軍人は極めて高い倫理観と信念を持たなければならない。軍人が誇りを持って任務につける社会的環境を作らなければならないのである。民主主義勢力と軍隊というのは、難しい関係に陥りやすい。軍部は、通常体制的なものである。統制を重んじ、命令絶対の軍隊の組織は、民主主義と馴染まない面を多く持っている。しかし、民主主義を成就しこれを維持するためには、軍隊を味方にする事は不可欠な条件である。人民の軍隊を創設したり、軍隊を味方にするためには、軍隊がなにに対し忠誠を誓うかを明らかにする事である。軍人も人の子であり、しかも多くの時代、体制において軍人の出自は、一般庶民である場合が多い。それ故に、一般の兵隊は、人民の側に立つ可能性が高いのである。人民は、人民の軍隊を持たない限り、民主主義を成立させることはできない。人民を敵にまわした軍隊は成立し得ないと言うのは、長い目でみれば妥当かもしれないが現実の歴史では、多くの専制君主が軍部の力を背景にして民衆を圧殺し続けたのである。武装した兵士の前では、徒手空拳の民衆は無力なのものである。民主勢力は、自分達の軍隊を持たないかぎり、権力闘争の道具にされるだけである。権力闘争は、本来、正義と悪、思想と思想による、戦いではなく、利益と利益、力と力の戦いなのである。あえて言えば人民の利益、人民の力を味方にする事ができれば強力な威力を発揮する事ができるにすぎないのであり、最終的な勝利をえるための決定的な要素にはならないのである。民主主義革命の多くが短命に終わり、真実の民主主義体制を確立した国家が少ないのは、民主主義勢力が自らの軍隊を結成できない事と軍隊を味方にできない事に原因があるのである。
 自己を絶対化している専制君主は、それがいかに平和的な手段であろうとも、絶対体制の根幹を犯すような要求は絶対的に受け付けないものである。それは、自己と体制が一体化しているからである。自己を相対化しえない、支配者や権力者は、人民の要求と自己の要求が一致している時は、人民の要求を受け入れるが一度人民の要求が相反すると、強烈な弾圧に乗り出すものである。いかなる独裁体制も同様であり、少数派の意見を容認しない体制が武力をもって弾圧をした場合、結局、武力をもって対抗せざるをえなくなるであろう。情報を公開せず、機密主義に徹する事は、不正を生む温床となる。また、長い間少数の人間による統治が続けば支配階級を派生させることになる。支配階級は必然的に特権階級となり、人民の利益から遊離し始めることになる。この様な社会が機密主義的になると支配階級は腐敗堕落する。そして、この様に支配階級の利益は、国家、人民の利益と必ずしも一致しなくなるのである。そのうえ、支配者は、支配階級の利益と密接に結びつく事によって権力闘争も、支配者の人格や利益だけで解決できる問題ではなくなり、支配者は支配階級の利益代表に過ぎなくなるのである。そして、人民と支配階級は決定的な対立関係に陥るのである。この様な対立は、支配者個人の人格に帰すべきではなく、国家体制の構造的欠陥を問題にすべきなのである。この様な社会においては個としての個人よりも、個人の属性に重きがおかれ、本来の個人としての権利が失われていくのである。そして、それが社会に階級的な亀裂を派生させ、社会構造が分裂することになるのである。この様な構造的な亀裂は、修復する事が困難であり、革命の直接的な原因となるのである。専制君主や独裁者、支配階級の発生を防ぎ構造的な亀裂が生じないようにするためには、常に、情報を公開し、少数意見の存在を容認できるような国家体制が必要となるのである。
 この様に考えると民主主義が成立するためには、いくつかの前提条件と偶然が重ならなければならないことがわかる。即ち、民主主義的な思想が広範囲にわたって認知されている事、民主主義的な指導者が多数を占める事、ある程度政治体制が整備されている事、経済体制が成熟している事、反動的な独裁勢力がつけいる隙がない事、軍部を味方にしている事、主導権争いによって混乱しないようなルールが出来上がっていることといった具合いに非常に難しい条件を満たしていなければ民主主義革命は成功しないのである。
 現代人、特に、民主主義体制下の国に住む人間には、民主主義は、最終的に勝利するという楽天的な見方がある。自分達の血によって自由や民主主義を戦い必ず取った経験のない日本人は、特にその傾向が強いようである。しかし、それは幻想にすぎない。その証拠に人類の歴史の中で民主主義体制が実現した時期と言うものは極めて短く、近代以前には、古代ギリシャやローマにおいて僅かに例があるだけである。それも近代民主主義からみると極めて不完全なものである。今日においても真の民主主義が実現している国家と言うものは、非常に限られているのである。この様な幻想が民主勢力の結集や組織化、運動を阻む重大な原因となっている。
 特に、非民主的な体制下に於て民主化を推進して行く場合は、極めて慎重に行わなければならない。急激な変革は、強烈な反動が予測されるのである。そのうえ進歩の各段階には、越えなければならない壁がある。それを越えるためには、相当の犠牲を覚悟し、そのために飛躍が必要なのである。運動が大地にしっかりと根付いていなければ冬の時代を越える事ができない。圧政の下では、必ず地下組織がなければならない。民主主義運動の指導者達は、権力者が自発的に権力を投げ出すと言うことは奇跡的なことだということを理解しておく必要がある。しかも、民主主義は、機構が整わないとその威力を発揮できない厄介な代物であることも忘れてはならないのである。それ故に、基礎的な機構が完成されるまでは、辛抱強く、民主主義を下層社会に浸透させながら、段階的に発展させていかなければならないのである。その場合、その時の権力者に対しある程度の妥協や譲歩をすることはやむおえないが決して油断をしてはならない。平和的に民主体制に移行することは理想であるが、特権階級が享受してきた利益はそれを許すほど少ないものではなく、また、それを得るために行ってきたことは弁解だけで許されるほど甘いものではない。そのうえ権力者と言うものは気まぐれなものである事を覚えておかなければ危険である。自分に都合が悪い事が露見したらすぐに牙をむき出すものである。それ故に、常に戦う姿勢や体制を準備しておかないと民主主義体制は、民主主義運動は絶えず脅威にさらされており、その時の情勢によって権力者の生贄にされる危険性をはらんでいる事実を忘れてはならないのである。
 人民を開放する武器と人民を支配する武器は同じものであることが多い。それ故に、人民が権力を監視する仕組みを持っていなければ民主主義体制は守れないのである。例えば情報機関の発展した今日、情報は民主主義を守り、発展させるための重要な機関となると同時に民主主義を圧殺するための強力な武器となることを忘れてはならない。情報の管理を権力が一元的に行っている状況下では民主主義の発展は、阻害される。それ故に、情報の公開なくして、民主主義は維持されることはないのである。しかし、民主主義に否定的な体制では、情報は権力者によって管理されているのが常である。
 人民が政治に関係できるようになったのは最近の事である。また、地域的に見ても民主主義の基本原則が完全に履行させている地域は、まだごく狭い地域に限られているのである。民主主義体制とは、それだけ成立させるのが難しい体制なのである。民主主義は、開放的な体制である。開放的であることは民主主義の強みであると同時に弱味でもある。誰にでも開放されている体制である民主主義は、同時に民主主義に対して敵対している勢力をも温存してしまうのである。反対勢力にも開放されている民主主義勢力においては機密は護りにくいものである。また、逆にいろいろな流言飛語が流されやすいのである。民主主義は個人主義の砦である。つまり、民主主義が崩壊すれば個人の権利も失われてしまうのである。利己主義に冒された民主主義社会において民主主義の理想が功利主義にとって変わられてしまうと民主主義そのもの土台が崩れてしまう。個人主義を護るためには、民主主義の体制を常に浄化しなければならないのである。民主主義を浄化するのは、健全な言論であり、そのために、言論の自由は護らなければならないのである。この様に民主主義は絶えず外に対しても内に対しても働きかけていかないと維持することができない。但し、その働きかけは自立した個人によって為されなければならず、そのために、言論の自由は初期の段階で確立されていなければならないのである。そして、言論の自由が護られるためには、言論人が経済的に独立していなければならないのである。この様に、自由と経済的自立は不可分なものである。
 なぜ、民主主義勢力や共和主義、自由主義勢力は、今日、人民の側に立った戦いができないのであろうか。かつて、人民戦線といえばむしろ自由主義、民主主義、共和主義の代名詞のように使われてきたのである。然るに、現在人民の名は、共産主義や社会主義の代名詞のようになってしまっているのである。私には、民主主義や自由主義が自分達がよって立つ基盤を喪失しつつあることが原因であるように思えてならない。民主主義や自由主義は、その基盤が個人主義である以上、一部の特権階級や権力者の手先の道具になっればその本質を喪失してしまうことを忘れてはならないのである。民主主義が権力者を正当化するための御用学問となればそれは、民主主義の破滅を意味するのである。民主主義の原則は主権在民である。民主主義の原点がフランス革命やアメリカ独立戦争にあるとするならば、革命や独立の本質を失ってはならないのである。民主主義者が庶民、民衆の側に立てなくなれば民主主義の本義を失うことになる。かといって必ずしも反体制的でなければならないというのもおかしい。即ち体制から常に自由であるべきなのである。民主主義が人民の利益を擁護しえなくなる事はそれ自体、自己矛盾なのである。 
 人民の支持を失った権力者が一人で時代の流れに逆らうのは、大河の奔流を一人の力でせき止めようとするようなことである。しかし、だからといって次の時代が民主的な体制になるとは限らない。民主主義が体制として確立するためには、人間の英知と理性が一番必要なのである。新しい体制は混乱の中から生まれるものである。混沌とした中から新しい秩序が生まれるのである。いま、二十世紀の世紀末において我々は、新しい時代をどの様な時代にすべきかの重大な選択を迫られている。子供達の澄んだ瞳を見るたびに、我々が彼らに対して課せられた責任の重さを痛感せざるをえないのである。子供達に我々のつけを払わせてはならない。今こそ勇気を持って人類の正義を実現しなければならないのである。
 求めるものは、起きて半畳、寝て一畳。青天を屋根とし、大地を床とす。生きている時は、大地の精気を吸い、伸び伸びと天に向かって命を育む。死して後は、母なる大地の腐植土とならん。おのれの生をただ尽くして悔いを残さず。常に、学びては、青々とした英気を養う。自分に与えられた、定めに従い。人を恨まず、妬まず。不幸な人を見れば、真の涙を流し。幸福な人を見れば心から祝福し。愉快な事があれば、心の底から笑う。過ちを認めれば素直に改め。不正を憎んで、一度、怒りを発すれば、それを正すまでやまず。名もなく、地位なく、富もなし。されど、求めるものは、ただ、生き生きとして生きる事のみ。風評に惑わされず。天の下された陽光を全身に受け、誇りたかく、まっすぐな志しをもって堂々と生きていく。大地にしっかりと根を張り、踏まれても踏まれても、くじけることなく。風に吹かれれば風を楽しみ、雪が積もればじっと春のくるのを待つ。大地を這いづりまわっては、土臭く、泥臭い生き方を厭わず。人情の機微に通じて、人の心に感応する。仏に逢えば、仏を背負い。鬼に逢えば、鬼を背負い。神に逢えば、神を背負い。人に逢えば人を背負う。それが草の思想である。そして、世に住む草々が民主主義の根幹を支えているのである。


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