経済と陰陽五行(実績編)

経済の実際

 国家が、経済に対して成さなければならない事象で、真っ先に、又、最重要な事象は、経済体制、則ち、経済の仕組みを構築することである。

 現代人の多くは、経済の仕組みは自然できあがり、人間が生まれてから一つの一貫した仕組みが続いていると思い込んでいる節がある。自然出来上がるとは言わなくても歴史的に形成されたものであり、人為的に作られた仕組みだという認識が乏しい。
 それは、自然現象と同じように経済から人為的な作為を排除しようと言う思想によく現れている。いかになる権力の介入をも徹底的に排除するの事が、自由だとする思想が好例である。この様な考え方は、思想である。自由は、国家権力の介入を排除することによって実現するのではない。
 大体が、経済現象というのは、自然現象とは違う。経済現象は、人間の観念の所産であり、経済の仕組みは人為的に作り上げられたものである。
 よしんば、何等かの原則に基づいて作られた構造物だとしても、それは自動車や建築物のように法則を見出し他のは人間であり、その法則を人為的に作り上げたものである。その結果に対する責任は、人間に帰すべきものであり、自然や神に帰すべき事ではない。
 無為に放置すれば、何等かの均衡した状態に成るというのは、思想と言うよりも、むしろ信仰に近い。
 経済の仕組みは創り出すものであって、自然に成る物ではない。そして、その根本には、何等かの人間の作為があり、利害得失がある。つまり、高度に政治的な問題なのである。

 日本は、資本主義の国である。市場経済を前提として成り立っている。資本主義や現在の市場経済というのは、近代会計制度上において成立した思想である。故に、近代会計制度が理解できないと資本主義は理解できない。

 現金収支を基礎とした経済体制から経済体制を基礎とした経済体制への以降には、何等かの分岐点があったと考えるのが、至当であり。その分岐点を考える上で重要な鍵は、市場と貨幣と会計にある。

 思想という観点から言えば、現金収支に基づく経済体制と期間損益に基づく経済体制は、異質な経済体制である。この点をよく理解しておく必要がある。
 二十世紀に生起した多くの経済現象は、現金収支を基礎とした経済体制から期間損益を基礎とした経済体制への移行期に現れる現象だと言える。この点を理解しないと恐慌や戦争の持つ意味を理解するのは不可能である。

 経済は、人間の思索の所産である。故に、経済現象を表す用語は、全て、何等かの定義に基づいている。
 定義に基づくという事は、合意に基づくと言う事である。合意に基づくと言う事は、合意を前提とし、合意がなければ成り立たないことを意味する。
 故に、経済の仕組み、則ち、経済体制は、国家的に基づく国家権力の強制力によって維持されている。

 例えば紙幣は、国家によって定められた規定、法に基づき、紙幣の価値と働きが強制され、且つ保障されることによって成り立っている。
 つまり、紙幣による取引の決済は、国権によって強制されている事によって成り立っているのである。紙幣は、自然に湧き出る物ではない。

 現代の経済体制は、借金の上で成り立っていると言える。早い話、紙幣は、借用証書の一種が変化したものと言える。

 現在の経済体制を維持していきたいという前提に立てば、借金と上手く付き合っていくことを考えなければならない。借金の是々非々を問題にしても仕方がないのである。
 もう一つ重要なことは、借金を成り立たせているのは、安定した収入、又、予測可能な収入だと言う事である。
 つまり、現代の経済体制に欠くことのできない要素は、定収、或いは、予測可能な収入、借金だと言う事である。そして、それを保証しているのが期間損益だと言う事である。
 定収入や予測可能な収入を確保するために、収益という概念、そして、利益という概念が成立したのである。つまり、期間損益計算によって収益を平準化し、損益を基礎にして負債や収支を均衡させるという思想である。

 経済の仕組みや体制が、その時点の国家、政府によって構築される構造物だとするならば、経済体制もされから派生する経済政策も合目的的な事象である。
 経済の実態を分析し、経済政策を立てようとした場合、経済の本来の在り方を明確にし、経済政策の目的を明らかにする必要がある。

 経済とは人々暮らしであり、経済体制とは、人々の生活を成り立たせている仕組みである。経済を構成する要素は個人であり、経済の基礎単位は、家計と財政と企業である。市場経済を構成する要素は市場と共同体である。経済体制は、労働と分配、生産と消費、需要と供給を制御し、人々の必要な物資を提供する仕組みである。
 経済単位の役割とは、貨幣の流通、生産と消費の調整、労働と分配の決定である。

 一口に、経済規模と言うが、経済には、人的経済と、物的経済、金銭的経済がある。
 今の経済は、金の経済ばかりである。しかし、実体経済は、人や物にある。なぜならば、経済の本性は、人を生かす道にあるからである。則ち、経済の基盤は、人々の暮らし、生活にあるのである。

 金の経済に人の経済を合わせようとするからおかしくなる。人件費が好例である。人件費を人ではなく。金に合わせようとするから、派遣のような問題が起こるのである。貨幣価値という観点から人件費を見れば一律で均等な費用であることが望ましいからである。
 また、人と物とは違う。当然、人と物との経済は異質な物である。人を物と同じように扱えば、人件費は単なる一律な費用に過ぎない。しかし、人間は一律な存在ではない。同じ物を前提にできても、同じ人は前提にできないのである。人は部品にはできない。同じ条件の人はいないのである。人件費というのは属人的な費用なのである。人を人として識別することのできない経済は、経済としての本性を喪失している。
 経済は、人間を生かすものでなければならない。故に、人間の経済にこそ合わせるべきなのである。物の経済や金の経済は、人間の経済に従属すべき経済であり、特に、金は、あくまでも道具、手段に過ぎないことを忘れてはならない。

 経済的価値は、物の価値と人の価値と貨幣価値が複合されることによって形成される。経済現象を単なる貨幣的現象だと思い込むと経済現象の実態が掴めなくなる。なぜならば、貨幣価値は虚だからである。
 物の価値と、貨幣価値は、表裏の関係にある。物の価値が上がれば貨幣価値は下がり、貨幣価値が上がれば物の価値は下がる。そして、それを決定する因子は、人の価値観である。そして、人の経済的価値観は、購買力、所得に依存している。

 現代人は、経済を金銭的な現象としか捉えていない傾向がある。しかし、経済というのは、本来、生きる為の活動を意味する。生きる為に必要な活動とは、生活に基本がある。根底は、衣食住の実体である。生きる為に必要な物を調達し、分配をすることが基本である。又、人の一生をどうとらえるかによって決まる。経済とは、生きる事自体の活動である。

 多くの人は、経済を金銭的問題だと思い違いをしている。経済の実は、物の経済や人の経済にある。貨幣は、虚である。

 今でこそ、貨幣価値が経済的価値の全てであるように思われている。しかし、近代にのみ経済があるわけではない。ただ、近代以前の経済は、人々の記憶から抹消されてしまっているから近代経済が古代から営々と続いているように錯覚しているだけである。近代以前の経済の主役は物である。

 経営を再建しなければならなくなったとき、何をするのかを考えれば経済の本質は見えてくる。
 ただ、会計処理を変えれば経営が再建できるわけではない。経営再建は、合理化や経費の削減、新製品の開発、販売組織の組み替えと言った具体的な施策によるのである。

 貨幣を食べたても食欲を充たすことはできないし、貨幣を着ることはできない。貨幣は、食料や着る服を得るための手段に過ぎない。つまり、貨幣は、交換の手段、道具である。貨幣自体にしよう価値があるわけではない。あるとしたら、観賞用の価値程度である。その点を忘れては成らない。貨幣に価値があるのではなく。貨幣は、交換価値を指し示した指標、象徴、尺度にすぎない。

 経済本来の目的は、生きる為に必要な物を調達することである。ただ、貨幣経済体制下、市場経済体制下では、生きていく為に必要な物資は、貨幣という道具を用いて市場を経由して手に入れる以外にないのである。それが、貨幣経済、市場経済の原則である。

 現在の貨幣経済、市場経済が成り立つには、成り立つための前提がある。その前提とは、社会的分業が深化しているという事である。又、貨幣経済を前提として国家機構やそれに準ずる社会機構が構築されていると言う事である。その端的な例は、所有権は国家によって保障され、、税は、金納である事が前提であり、現代人は、国家に依存しなければ生きていけない体制が出来上がっているという事である。そして、国家に依存して生きていかなければならない限り、貨幣経済から逃れられないという事である。それが現代経済の大前提である。もし、貨幣経済から逃れたければ、国家権力の及ばない地域に移住する以外にない。しかし、それは、一部の密林地帯や山岳地帯か、南極のような生活するためにはかなり過酷な制約がある地域に限られている。その地域もどんどんと狭めれている。要するに、現代人は、貨幣経済や市場経済を受け容れないと生きていけない環境に置かれていることが前提なのである。

 そのことを前提として経済政策の目的を考える必要がある。ただ、注意すべきは、最初に貨幣ありきとすると経済の実相を見失うと言うことである。
 貨幣はあくまでも虚である。

 貨幣というのは、虚である。
 日本が高度成長時代に突入する以前は、物不足の時代であった。物不足によってハイパーインフレが発生して利している。物が不足しているから、実物への投資、製造へのが先行した。つまり、物への投資によって借金、則ち、貨幣の流通量が増大した。
 投資が一巡すると物から貨幣へと則ち、実物から虚へと主軸は移っていく。物が溢れる一方で借金も膨れあがるのである。
 その典型がサブプライム問題である。借金によって欲しい物は手に入れたが、借金も又膨れあがるのである。つまり、貨幣が市場や社会、経済に浸透するに従って虚の部分が増幅するのである。そして、やがて虚が実を支配するようになる。
 現代日本は、物が社会に溢れているというのに、家計も企業も国も借金だらけである。それが深刻な社会問題を引き起こしている。

 紙幣は、ある時払いの催促なしの公的借用書と変わりない。それでも兌換紙幣は、現物による返済が義務づけられていた。不兌換紙幣にはそれすらない。つまり、紙幣を増発することは国の借金、公的負債を増やしていることと変わりない。問題なのは、借金をすることではなく。その量と資金の流れる方向である。
 重要なことは、貨幣の機能、働きをどう特定するかである。その働きを有効にするために、どの様にして流量を制御するかである。それが金融政策の主眼となる。金融政策は、経済政策の重要な一部である。

 銀行業は、言い方を変えれば金貸し業なのである。故に、銀行取引の増加は、それだけ借金の増加に繋がるのである。

 経済政策の目的は、社会基盤の整備、雇用の確保、産業の振興、生活必要物資の確保、物価の安定、格差の是正である。
 経済政策は金のためにあるわけではない。国民生活の向上にある。金銭的な問題に目を奪われて国民生活を犠牲にするとしたら、それは本末の転倒である。要は、実質的な問題であり、なぜ、期間損益を確立せざるを得なかったかを考えれば、財政赤字の解決の糸口も見つかるはずである。所詮、会計というのは、観念の所産に過ぎないのである。
 財政赤字は解決しなければならない問題だが、根本は、考え方、基準や原則、目的、仕組みの問題でもあるのである。経済とはそういうものなのである。計算の結果よりもどの様に計算したかが重要なのである。

 経済を構成する要素は個人である。経済の基盤を構成する経済主体の基本単位は、家計、企業、財政である。市場経済は、経済主体と市場、生産手段によって構成される。

 経済で重要な働きをしているのは、場に働く圧力の方向と強弱、性質である。

 経済現象は、構成と方向、働きが重要で、構成と方向と働きは、位置と運動と関係を形成する。

 現代人は、市場を拡大し続ける空間、成長し続ける空間だとして、経済成長を前提として経済を認識する傾向がある。認識するだけでなく。経済の仕組みや構造、政策を拡大均衡型のものしようとする。その為に、一旦経済が縮小均衡の状態に陥るとなすすべを失い、周章狼狽する。その為に、最悪の場合、社会組織そのものが破壊されるしまう。

 人を雇えば年々歳々、人件費を上げ続けなければならなくなる。それが前提である。商売は、同じ事をやっている限り、収益は頭打ちになる。又、製造は、同じ設備、装置を使用している限り、生産力には限界がある。売上は、市場競争によって一定の所で天井につき、良くて横這い、悪くすると減少に転じる。要するに、経費は上昇するのに、収益は横這い、悪くすると減少する中で過酷な競争を強いられることになる。これが経済の実相であることを忘れては成らない。

 又、人生にも波がある。人は、生まれて成人に達するまでは、自分以外の人間の世話にならなければ生きていけない。人間の社会は、一人では生きていけない仕組みになっているのである。一般に、結婚をし、子供を産み、育て、やがて、老い、或いは、病気をして死んでいく。人生で必要とされる三大資金は、教育資金、家を建てるための資金、老後の蓄えだと言われる。その他にも結婚資金も必要である。価値観の問題だと言われるが、生きていく上で支出される資金には、一般に波がある。そして、この波は消費を形成し、資金需要を生み出す。
 又、乳児、幼児、児童、思春期、青年期、壮年、熟年、老人と変遷していく。人は老いるのである。感傷に浸っているだけでは生活はできなくなる。年齢に応じた役割を担っていく必要があるのである。そして、それが経済の在り方を形作っていく。

 経済を構成する基本単位の企業や家計が拡大一辺倒でないのであるから、必然的に、経済は、拡大均衡と縮小均衡を繰り返すものだと言うことを前提とすべきなのである。

 先ず、経済規模の変化を測定する必要がある。その上で経済の変化の方向を見定める。例えば経済規模が拡大均衡に向かっているのか、縮小均衡に向かっているのかが、経済の政策を立てる上で決定的な要素となるからである。

 経済規模を表す代表的指標は、国内総生産、国内総支出、国内総所得である。そして、この三つの指標は一致すると言われている。則ち、生産、支出、分配は、表裏の関係にあり、実体は一つである。この事を経済の三面等価の原理、三面等価の原則という。

 ただし、国内総生産、国内総支出、国内総所得は、金銭的な意味での経済規模である。経済規模には、この他に、物的経済規模と人的経済規模がある。そして、物的経済規模と人的経済規模が実体的経済規模である。

 物的経済規模には、物資の生産力、社会資本、産業基盤などがある。又、地理的な要件などがある。人的経済規模は、第一に人口がある。また、消費量や所得、貯蓄量等がある。

 日本の食糧自給率は、カロリーベースで41%、生産額ベースで65%しかない。1950年には、57%あったエネルギー自給率も1980年代にはいると6%台に落ち、2000年以降は、4%台に落ち込んでしまった。これなども物的経済の実態を示している。

 次ぎに経済の構成と比率の変化を見る必要がある。経済の構成と比率の変化によって内部構造の動きを分析するのである。

 内部構造の動き、変化の分析の次ぎに、経済の働き、変化の方向を見る。

 例えば、負債と資産との構造的変化である。現代経済は、借金の上に成り立っている。その借金を成り立たせている前提は、事業の継続と予測可能な収益である。予測可能というのは、収益であって収入ではない点を注意する必要がある。つまり、予測可能な、或いは恵存可能な収益を基にして、資金調達、則ち、収入を測るのである。現代経済は、この二重構造によって成り立っている。つまり、資金収支と期間損益である。

 経済政策上の多くの誤謬の原因は、金融機関の当事者や経済政策当局が資金の流れる方向に対して無頓着である事に起因する。多くの為政者は、資金の量的問題ばかりに拘って資金の流れる方向や働きに無関心である。その為に、金融政策や経済政策が上手く機能しないのである。

 現代の経済思想は、凶悪である。対立ばかり、争うことばかりを前提としている。引力と斥力双方が均衡することによって構造は維持される。争いのみを前提としたら、社会の秩序は保てないのである。疑問をもつ事は悪いことではない。しかし、根本に信頼関係がなければ猜疑心に潰されてしまう。助け合いがあって始めて競い合うことができる。助け合うことを忘れて争えば、妥協点は見失われる。際限のない殺戮だけの世界しか残らない。規則もなく、話し合う事も許されないような競争は、競争ではなく。闘争である。市場は、競技場でなく。戦場になる。

 共産主義も資本主義も対立を前提としている点は変わらない。故に、いずれの体制をとろうとも行き着くところは、争いによる世界であり、強調や妥協を許さない孤独な世界である。金や物が人間を豊かにするわけではない。豊かさの基準は人間の心に依存しているからである。
 いくら制度や設備を立派にしても老人の孤独を癒すことはできない。老人の孤独を癒すことができるのは、家族の愛情以外にないのである。人間の本性を置き忘れたところでは、経済は成立しない。

 本来人間関係は、対立と強調の均衡によって成り立っている。人間関係は、認識上における作用と反作用に基づいて形成されるからである。

 対立や競争、争うだけでは世の中は、治まらない。かといって、協調精神だけでは、活力が失われる。要は、前提条件の有り様である。そして、力の均衡である。
 競争だけに、頑なに固執するのは頑迷である。

 この要の全ての富を独占することはできない。例えば、この世にある土地の全てを所有することは、所有していないのと同じ事である。富は、相対的だからである。人の富は、比較する対象があって成り立つ。この要の全ての富を独占できる存在は神以外にいない。
 故に、経済的価値というのは相対的なものであり、限りあるものなのである。
 ホテルに例えば、部屋数は、ホテルを建てた時に決まるのである。つまり、宿泊者の上限は決まっているのである。故に、ホテルの収益の上限も自ずと決まっている。それなのに、未来永劫、実質的な拡大、増収増益を前提とするのは、明らかに矛盾している。もし、増収増益を前提とした経営を続けるとしたら、その為には、内部要因ではなく。外部要因に依存せざるを得ないのである。それが現在の経済の実体である。

 無理に増収増益を前提とせざるを得ないから、市場は荒廃し、事業の継続性が立たれるのである。結局は経済を破綻させ、縮小均衡に向かわざるを得なくなる。
 人間は、神から与えられた資源、自分の能力に限界があることを自覚しなければならない。人間が自らの能力を過信した時、人間は凶悪となり、自滅していくのである。
 人は、満ち足りている時、天を侮り、飢えると天を呪う。しかし、天は天である。人の都合によってどうなるものでもない。自らを不幸にしているのは人間である。住みやすい世界を造るのも住みにくい世界を造るのも人間の心の有り様にである。





                       


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