経済と陰陽五行(実績編)

産業の実際

 現代の経済は、産業によって成り立っている。産業が栄えなければ経済は成り立たないのである。その点を現代の日本人は、どこかに置き忘れているように思えてならない。自国の産業が衰退するような政策を平然と支援する。経済の安定は、産業の安定に他ならない。

 経済は、現実である。経済は、人々が生きていく為の活動である。生々しい出来事である。理想でも絵空事でもない。現代人は、思想に囚われて人々が生きていく為の生々しい現実から目をそらそうとしている。

 経済の問題の根底には、産業の収益の問題が隠されている。経済の根幹にあるのは、産業である。産業が適正な収益をあげられなくなるとその地域の経済は衰退していくのである。
 自由主義経済にしても、社会主義経済にしても、どこか、商売という生業を蔑む風潮がある。経営者や実業家は、不正な行為をして利益を計ろうとしている。或いは、自分の利益だけを追求し、公を蔑ろにしているのではないか。また、人を騙したり、誤魔化すことで利益をあげようとしているのではないか。
 その多くの根拠は、偏見であり、僻みである。確かに、不正をする経営者はいないとは言わない。しかし、大多数の経営者は、真面目に事業に取り組んでいる。倫理観のない指導者の下では事業は継続できないのである。不正に手を染めた経営者でも、望んで不正に手を染めるわけではない。不正をしなければ事業を継続できなくなる様な状況に追い込まれ、不正を行わざるをえなかった場合が多いのである。多くの事業家は志を以て事業をしている。その点を見落としてはならない。
 いまだに世の中には、私的企業を蔑視する傾向がある。その現れは、公益事業の経営者は、赤字を出しても、また、破綻しても責任を問われないが、民間企業の経営者は、私産を没収されり、国民としての権利の一部を制限されたり、最悪の場合、犯罪者にされてしまう。
 大体、最初から公共事業は、利益の追求を目的としなくて良いことになっている。つまり、経営責任は、最初から免除されているようなものである。年金事業が破綻しても誰も責任を問われることがない。民間では考えられないことである。民間で同じ様なことが起これば、経営者のみ成らず管理責任者まで、刑事事件として裁かれかねないのにである。
 多くの経営者は自分の利益のみを追求しているように言われる。しかし、大多数の経営者は、自分達の信念や倫理に基づいて経営をしている。重要なのは、良心的に、或いは、正直に事業を継続していくこうと経営者が思っても、良心的に、正直に経営していたら、資金が廻らなくなる事態に追い込まれることがあるという事実である。
 むろん、不当に過剰な利益や、階級的な格差に繋がるような利益は、許されるべきではない。しかし、多くの経営者は、身を削るようにして経費の節減に努めているのである。
 経済における最大の問題は、産業が適正な利潤をあげられない構造になり、構造不況業種になっていくことなのである。構造不況業種というのは、継続するのも困難であり、尚かつ、清算することもできないと言う状態に陥っている産業である。

 週間新潮2009年10月29日号に75%が赤字で「倒産」続く「ガソリンスタンド」という記事が掲載された。
 資源エネルギー庁が、全国石油協会に委託したガソリンスタンドの経営実態調査(08年度)によると、赤字がほぼ50%で。必要経費を差し引くと赤字に転落する店舗が25%あったという。4軒に3軒は潰れてもおかしくない状況である。96年に特定石油製品輸入暫定処置法が撤廃されて価格競争が激化したことが原因だとしている。そして、このままでいけば、全国153の市町村で無スタンド状態になる怖れがあると書かれている。

 75%のガソリンスタンドが成り立たない市場環境というのは、異常である。しかし、もっと異常なのは、その状況を異常だと感じずに放置する事である。行政も、学者も、言論も異常だとは思っていない。異常だと気がつかないから、異常事態として対処できないのである。なぜ、異常だと思わないのかというと、適正価格、イコール、廉価だと思い込んでいるからである。つまり、安いことが全てに優先しているのである。適正価格と、廉価とは違う。異常に安い価格は、異常なのである。経営が成り立たなくなるような市場環境は異常なのである。
 原因は、特定石油製品輸入暫定処置法が撤廃されて価格競争が激化したこととハッキリしている。しかし、だからといって特定石油製品輸入暫定処置法を復活して競争を抑止しろとは、行政もマスコミも言わない。この点がおかしいのである。原因がハッキリしているのに、原因と対策を結び付けようとする発想が乏しい。
 それは、競争による廉価は、善だという思想が牢乎として彼等にあるからである。

 又、納税申告で黒字企業が三割をきったという報道がされたが、これも異常である。税収が記録的に落ちている時に、95兆円の予算が組まれるというのも異常である。しかし、先に言ったように、それを異常だと思わない方がもっと異常なのである。

 産業や産業を構成する企業には、利潤追求という以外にも目的があり、又、役割、働きがある。むしろ、役割、働きを果たすために、利潤の追求があるのである。
 重要なのは、国家、社会に必要な産業や企業が適正な利潤を確保できるかにある。適正な利潤とは、産業や企業が社会的責任を果たせるために必要な利潤である。利潤の根本的な存在意義は、社会的責任にある。単に、収益−費用、或いは、費用対効果だけで測られるべきものではない。問題は費用の内容であり、働きである。
 社会的責任の中には、雇用の問題がある。つまり、人々に生活の糧を購入するための原資を分配することにある。収入を減らしたり、定収入が確保されなくなることは、消費を減退させることであり、巡り巡って景気を後退させ、企業経営を圧迫する原因となる。人員削減、経費削減だけで企業単体の利益のみを追求することは、合成の誤謬である。
 経営や経済の重要性は、過程にある。つまり、経営も経済も継続性を前提とした行為だからである。ところが、現代経済では、利益も事業も過程を無視して結果でしか判断しない。その為に、経済、則ち、人々の生活が荒廃するのである。産業や企業が存在する根本の意義抜きに、ただ、市場の需給だけで市場価格を決定する仕組みでは、経済本来の機能を発揮することは不可能である。

 最初から、産業や市場を保護しようと言う考えがないのである。その根底には。私的企業は必要悪だ的な発想が隠されている。つまり、企業、産業は保護すべき対象ではなく。取り締まるべき対象だと言う事である。必要な事象は悪ではない。故に、必要悪など存在しない。
 公的機関は、信用できても、私的機関は、信用できない。しかし、経済的結果は、逆に出ている。つまり、公的機関は経済的合理性に欠け、私的企業は、経済的合理性を追求している。だから、今度は、民営化である。そして、競争が原理になる。どうも、発想が短絡的で一本調子である。単純すぎる。極端から極端に飛躍している。

 民営化、市場重視を唱える識者は、何が何でも競争は正しくて、保護や規制は悪だと頭から決め付けている。しかし、重要なのは、経済の役割である。つまり、経済現象間背後で働いている仕組みであり、法則である。
 大体、自然環境ですら保護しなければならないと言うご時世に市場は保護してはならないという考え方自体が理解できない。

 私的企業は、悪であり、できれば淘汰されべき対象であるといった認識である。しかし、産業を成り立たせてきたのは、私的企業であり、それに反して公共団体は非効率な組織であることが明らかにされてきた。そうなると今度は民営化、民営化で、民営化してしまえば何でも解決できるみたいな風潮になる。
 又、競争は原理であり、企業間の競争を煽っていれば何でも解決すると言った乱暴な理念がまかり通っている。しかし、競争は、一つの手段に過ぎない。競争は万能ではない。市場の状況に応じ、競争を促進したり、抑制すべきなのである。何でもかんでも競争させればいいと言うのは、野蛮である。大事なのは加減である。
 そして、重要なのは、産業が成り立っていけるような収益構造を確立することであり、その為の適正価格なのである。何でもかんでも安ければ良いというのはおかしい。

 赤字になるのも然りである。赤字だから悪いと決め付けるのは間違いである。中には、健全な赤字もある。健全だから赤字になるという事もある。問題は、赤字の原因である。原油の高騰や為替の変動という経営者にとって不可抗力の原因で生じる赤字もある。この様な赤字は兆候である。又、業界全体が蒙る赤字もある。個々の企業、経営者の不行跡、怠慢による赤字もある。ただ、正直に努力すれば赤字を回避できるとは限らない。正直だから赤字になることもある。逆にあくどいことをして黒字にする事もできる。今のメディアは、味噌も糞も一緒くたである。

 良い例が、テレビ番組や映画である。視聴率かがとれたり、興行的に成功すれば、何でも許されるとメディアは思っている。倫理的に問題があると指摘された映画でも、興行的に成功しているという理由でうやむやにされた映画がある。反社会的な行動をとるタレントでも視聴率がとれれば、反社会的行動は黙殺される。それがどれ程社会に悪影響を与えてもメディアの人間は、お構いなしである。

 価格を維持しようとする行為は、何が何でも悪い事という印象がある。しかし、販売業者が目玉商品として捨て値で販売する例もある。原価割れを承知で売られ、その為に適正な価格を維持できなくなる事を防ぐことがなぜ悪い事なのであろうか。それは、経済ではなく。奉仕である。

 安売り、乱売ばかりを奨励しても真の競争力は得られないのである。ちなみに、安売り、乱売合戦を煽る、出版界や放送業界は、再販制度や参入規制によって堅く守られているのである。

 日本の産業は、資本主義体制の上に成り立っている。資本主義というのは、近代会計制度上において成立した思想である。故に、近代会計制度が理解できないと資本主義は理解できない。例えば、資本や利益、取引の持つ意味である。資本や利益は、きわめて会計的な概念なのである。資本も利益も会計的に定められた期間損益を前提とした概念なのである。そして、資本主義経済では、期間損益が経済現象の根本を成している。

 損益というのは、経済的な指標の一つである。赤字だから倒産するのではなく。資金の供給が断たれるから倒産するのである。

 借金や損失を単純に善悪の基準に当て嵌め、借金や損は悪い事だと決め付けてしまう傾向がある。しかし、借金や損失を善悪の基準で推し量ると過剰な反応に陥る危険性がある。

 倫理観を貨幣価値に換算するのは、馬鹿げた事である。金で正義は買えないのである。どんなに正しいことを行っても資金の供給が断たれれば企業は倒産するのである。言い換えれば、どんなにあくどいことをしても、資金の供給が断たれなければ、経営を継続することはできるのである。

 借入金というとただ、金を借りることばかり注目するが、金を借りるのは、目的があって借りるのである。つまり、使い道があるのである。金を使えば、当然、資産が残り。現金は通過していく。残されるのは、資金と負債と残金である。この一連の取引の流れが経済の実体である。そして、お金が流れることによって生じる現象と痕跡によって会計的価値は形成されるのである。

 産業の社会的役割には、人的役割、物的役割、金銭的役割がある。資本主義経済では、これらの役割が、会計的文法の上で調整される。
 産業の人的役割には、雇用がある。物的な役割には、必要な財の生産と供給がある。金銭的な役割には、貨幣の供給と信用の創出がある。

 例えば、投資の周期において人的役割、物的役割、金銭的役割を具現化すると人的役割は、人材投資であり、物的投資には、設備投資と更新の周期として現れ、金銭的周期は、投資に基づく資金計画、資金繰りとして表され、会計においては、減価償却の形で表される。これらの事象には、形と相があり、時間価値が陰に陽に関わってくる。
 そして、この形と相が経済現象に重大な働きをする。

 産業構造を分析するための項目は、市場規模、生産能力、シェア、流通構造、製造形態、工程等である。
 産業には、固定的な部分と変動的な部分がおり、それぞれの部分に施す施策は異なる。基本的に普遍な部分、長期的に変動する部分、短期的に変動する部分を見極めそれがどの様な形を持ち、又、前提を変えることによってどの様な相を持つかを見極める必要がある。

 企業実態や産業実態をする場合は、自他の確認から入る。自分の立ち位置によって内外の意味も、企業や産業を分析する主旨も、の目的も違ってくるからである。自己の立ち位置は、自己の行為の目的を規定する。同時に制約条件を明らかにする。そして、自己の立ち位置は、自己の置かれている前提条件に基づいて定まる。自己の立ち位置が定まれば、内外の定義と範囲の画定をすることが可能となる。

 企業や産業を分析する者の立ち位置には、先ず、企業内部、産業内部の人間か、外部の人間かによって利害関係に違いが生じる。その違いは、分析の目的や入手できる情報の質と量に差が生じさせる。分析の目的に応じて会計に対する見方を分析者の変え、基準にまで影響を及ぼす。その結果、会計の在り方も違い、内部の者に対する会計と外部の者に対する会計そのものを別の体系として区分することもある。その場合、内部の者が基本とする会計を管理会計、外部の人間が基本とする会計を財務会計と区分する。

 産業を分析する目的には、第一に産業政策の決定の基礎資料の作成、第二に、産業の再編のための基礎調査、第三に、新規参入の為の事前調査等である。

 固定資産、収益、費用は、産業毎に固有の形と相がある。産業を分析する者は、その形と相を見極めることから始めなければならない。産業の地盤の形が産業の実体の前提を構成するからである。

 産業を分析する要点は、産業の構成の変化、収益の偏り、産業の歴史と発展段階、産業の置かれている環境・状況(為替や市場変化、原材料の価格の動向等)、産業の特性・傾向、設備投資の周期、社会的役割、経済に与える影響等である。

 石油産業を例にとると、先ず石油という商品の性格である。
 石油は軍事行動になくてはならない戦略物資でもある。故に、政治に利用される要素が大きい性格を持っている。そして、産油地は特定の地域、国家に限られており、多くの産油国は、政治的に不安定な地域にある。
 石油は、国家経済の基盤的な産業であり、過去に、第一次石油ショック、第二次石油ショックなどの経済事件を引き起こしている。
 石油産業は、一般に、上流部分と下流部分に分かれる。上流部分は、原油の探鉱、採掘、生産部分を指し、下流部分は、精製から販売部分を言う。更に、下流部分は、精製部分と販売部門に分かれる。上流部分と精製部門は、初期投資が巨額にのぼる上に、変動費の変動幅も大きい。その為に、上流部分は、資金力を持ったメジャーといわれる巨大な多国籍業や国営企業によって支配され、精製部門もある程度の規模を持った大企業によって占められている。それに対し、販売部分は、石油精製会社の直営企業から中小零細企業、個人事業者と大小さまざまな企業によって形成されている。

 産業において重要なのは、資金の調達と投資である。資金の調達には、借入、資本、収益がある。運用には、投資と費用がある。資金の調達は収入を意味し、運用は、支出を意味する。資金の流れは、順な流れは、収入から支出に向かい、逆な流れは、回収から返済に向かう。借入、資本、そして、投資と収益と費用との区分は、長期か、短期かによって区分される。長期か、短期かは、単位時間によって定められている。

 資金調達と投資が、経済や経営に一定の資金による周期運動をもたらす。この資金需要の周期が資金の流れる方向を決める。設備投資は、初期の段階で運用の側に流れ、以後は、返済の側に流れる。企業は資金を滞留させることは許されない。なぜならば、企業は、資金を循環させるための機関、器官なのである。

 例えば、固定資産は、決められた周期に従って拡張と収縮を繰り返す。その原動力は、投資運動と回収運動である。

 何に投資し、投資に必要な資金をどこから、どの様にして調達するかが重要なのである。

 産業には、草創期、成長期、成熟期、停滞期、衰退期などの段階があり、各々の産業に相がある。その相を生み出すのは、産業の形である。
 草創期には、開発競争が起こり、なかなか収益には結びつかない。一旦、成長期になると市場の拡大よる収益の拡大が期待できるようになる。やがて、新規参入が増えて過当競争が起こり収益が低下する。成熟期になると企業の淘汰が進み、収益が採算ギリギリまで落ち込む。停滞期にはいると市場が、新規需要が見込めなくなり寡占独占状態に陥り、新規参入がむずかしくなる。
 草創期には、開発のための支援が欠かせない。また、自動車のように裾野の広い産業では、インフラストラクチャー、社会資本の整備が先行する必要がある。成長期には、資金需要が旺盛になる。成熟期には、競争を抑制し、共倒れするのを防ぐ必要がある。
 産業政策は、その時その時の個々の産業の相に応じて個別に施されなければならない。

 産業は、企業の集合体である。産業を構成する企業は、資金によって維持されている。
 よく経営の教科書で企業は利益を上げることで成り立っていると書いている本があるが、それは錯覚である。企業は、資金を供給することで成り立っている。利益は、資金を供給するか否かの目安に過ぎない。
 企業は、資金が廻れば存続できる。資金の供給が断たれてしまえば、企業は経営を継続できなくなる。実質的に経営の生命線を握っているのは、資金であって利益ではない。だから、企業は赤字でも存続できるし、黒字でも倒産することがあるのである。

 企業の集合体である産業には、産業を構成する企業が共有している部分と固有の部分があり、共有している部分と個別の部分が産業の有り様や性格を形作る。

 産業を構成する個々の企業の総資産、総資本の運動は、資金の循環運動の原動力となる。つまり、資金の流れる方向を定める。産業内部にも調達、製造、流通、販売などの産業毎固有な次元があり、各々の次元によって形・相に違いがある。

 多くの場合、借り手も買い手も固定負債は、借り換え(リファイナンス)を前提としている借入を起こす。長期固定資金というのは、企業経営が継続している限り保証されている資金だと言う事が前提となっている。つまり、長期負債は、企業経営の継続を前提とした資金だと言う事である。
 問題は、借り換え時である。資金を調達するための裏付けが必要となる。その裏付けていたのが従来は、資産、則ち、担保資産の価値の上昇だったのである。そして、物価上昇が状態である経済では、担保資産の価値も上昇し続けて、担保に余力が生じる。高度成長期においては、物価の上昇によって解消される負債だったという事である。
 一般に、返済圧力といわれるのは、この長期負債の元本に対する圧力であり、金融機関が借り換えに応じなくなることを意味している。
 
 景気が順調であれば、返済圧力の強まることはない。返済圧力が強くなるのは、所謂、担保資産が不良債権化することによって担保余力が小さくなったり、逆に、物価上昇によって調達資金が増大したのに対して、資産価値が相対的に不足した場合や収益が悪化した時である。いずれの場合も当然資金が不足していることに起因する。問題になるのは、返済圧力が強くなる原因、理由である。

 何によって資金不足は引き起こされるのか。則ち、資金不足を引き起こす原因を見極める事が重要となる。実は資金は流れているので、蓄えられているわけではない。

 財政や金融政策は、個々の産業が置かれている状況、形・相を見極めた上で発動されるべきである。つまり、診断と処方は一連の過程、手続を経てなされるべきであり、脈絡もなく施されるものではない。

 地価が下がったという理由で住宅ローンを一括して返済しろと要求されたり、失業したという事が原因で一括返済を強要されたらたまったものではない。金が不足して、金を必要としているときに返済圧力をかければ経済が成り立たなくなるのは道理なのである。その場合、経済は、破綻すべきして破綻したのである。

 何によって資金が不足するのか、或いは、過剰になるのかを見極める必要がある。

 固定資産以外にも産業を性格付ける要素がいくつかある。それは、最終的には、収益構造に現れる。

 総資産、総資本の運動を決定付けるのは、固定資産の性格による。固定資産の性格は、固定資産の在り方によって形成される。故に、固定資産の在り方は、企業経営のみ成らず、産業や経済全般に影響を与える。
 そして、固定資産の在り方は、費用の構成にも決定的な影響を与える。

 収益にも、費用にも、変動的な部分と固定的な部分があり、個々の産業毎にある程度この構成比率は、特性がある。それは、収益にせよ、費用にせよ、産業の在り方に規制されるからである。特に費用の在り方は、固定資産、設備投資に大きく影響される。

 商売というのは、確定した売上があるわけではない。その日その日の状態によって売上は左右される。
 昔は、もっと収入、即ち、収穫は、一定していない。狩猟民族にしてみれば獲物がある日もあれば、一匹の獲物にもありつけない日もある。定住だってままならない。農業は天候に左右される。その日暮らしであって収穫が一定していることの方が稀なのである。
 産業においても、収入は、本来、一定していない。生産量は、調整できても、売上にはかなりの幅で変動がある。それに対し、出費は、確定した物が多い。借金の返済など待ったなしに取り立てが来る。だから借金は怖い。これが大前提になる。将来が予測不可能となると貸しては、安心してお金を貸し出すことができない。それでは、借金の技術は発展のしようがない。あるとしたら博打である。
 この様な収入、収益や費用のバラツキを平準化しようという動機で会計制度は作られたといっていい。
 産業によって収益の形に違いがある。則ち、第一に、収益が比較的一定している産業。第二に、収益に一定の周期が認められる産業。第三に、収益が不規則に変動する産業である。
 収益の変動は、価格による変動と数量による変動がある。売上の上昇や下降の原因には、価格的要因と数量的要因がある。価格的要因とは、則ち、貨幣的要因であり、数量的要因とは物理的要因である。故に、価格的要因は貨幣価値の変動要因に左右され、数量的要因は、生産力や流通量などの物理的要因に左右される。経済現象の多くは、貨幣的要因と数量的要因が複合されて起こる。
 また、収益の変動には、長期的な変動と短期的な変動がある。収益の長期的な変動の周期と設備投資、設備更新の周期との差が産業の消長に多大な影響を及ぼす。
 この様な変動を補う役割を果たしているのが金融機関である。この点を忘れてはならない。単に収益だけを目的として産業も金融機関も成り立っているわけではない。それぞれが重要な役割を担っているのである。

 重要なのは、収益も費用もどの様な要素がどの部分にどの様な影響を及ぼすかである。しかも、収益や費用を構成する要素は、個々独立したものではなく。相互に連携したものだと言うことである。

 特に、固定費の性格違いは、産業の性格の違いに繋がる。
 なぜ、固定費の性格を固定資産が決定付けるかというと総資産に占める固定資産の比率は、産業によって違うからである。また、産業における労働形態や製造工程が固定費に色濃く反映されるからである。
 固定費の性格を決定付ける重要な要素には、人件費と減価償却費がある。そして、人件費の元は、賃金体系であり、減価償却費の元は、固定資産である。どちらも産業の根本的有り様に源がある。

 固定費と変動費の比率は、産業毎に違う。又、固定費の性格も産業毎に違うのである。

 現代経済は、借金の上に成り立っていると言える。借金というとどうしても良い印象が持たれていない。借金というのは負であり、なるべくだったらしない方が良い。企業経営でも無借金経営というのがもてはやされて久しい。
 しかし、現代社会において借金の存在が前提となっているのは紛れもない事実である。中でも深刻な問題として浮上してきたのが、国の借金である。
 世の中の風潮には、兎に角、何が何でも借金は悪い事だからなくせという考えが蔓延している。しかし、本当に借金はなくなるのであろうか。又、なくしてしまって良いのであろうか。
 坊主憎けれゃ、袈裟まで憎いという諺があるが、借金が憎ければ、借金の存在まで否定してしまう傾向がある。
 しかし、現代経済は、借金を土台にして成り立っていると言っても過言ではない。借金をなくしてしまうと経済そのものが成り立たなくなるのである。
 ならば、借金をなくすことではなく。借金と上手く付き合っていくことを考えるべきなのである。

 借金と上手く付き合うためには、借金の意味と働きを良く知る事である。それが産業の実際の在り方を考えることにも繋がる。

 貨幣その物が借金と無縁ではない。

 借金が成立する。則ち、借金の技術が発達する背景となるのは、収益が一定、且つ、固定していることである。つまり、将来の収入が予測可能であることである。それによって経済に時間軸が設定できるようになる。日常的に消費される部分と財産として長期間にわたって所有することの可能な部分とに区分され。その長期的な部分を借金に置き換えることによって財の均衡を測るのである。つまり、消費と蓄積の区分が近代経済の根源にある。そして、蓄積を前提とする部分が蓄財になり、また、その蓄財を担保する事によって借金が成り立つようになったのである。
 これは、近代産業の基本にも働いている。借金は、資本に転化していくのである。それが資本主義である。

 ここで注意しておかなければならないのは、資本主義や自由主義と市場経済、貨幣経済は同一ではないという事である。資本主義や自由主義経済が成立するずっと以前から市場も貨幣も存在していた。
 貨幣価値というのは、資本主義的産物ではないのである。資本主義と貨幣経済、市場経済を同一視するのは間違いである。又、危険なことである。

 市場や貨幣をどの様に定義し、扱うかは、一律ではない。それは思想に基づいて設定されるべき事象である。資本主義には、資本主義の市場の在り方があり、社会主義には、社会主義の市場の在り方がある。問題は、国家社会が何を理念、目的としているかによるのである。

 借金の技術が発達するためには、定収入化が前提となる。定収入化を担っているのが産業と金融機関である。産業は、一定期間の収入を貯蓄しておいて、所得を平準化する。金融機関は、産業に供給される資金の過不足を調整する。それが産業と金融機関の基礎的構造である。
 収入には、不確定要素が多く、一定していない、それなのに、支出は、確定的要素が多く固定的である。それが、経済を不安定にしている要素なのである。収入を一定化するためには、どこかに収入を蓄積していて払い出しを一定にすればいいのである。それを担うのが産業である。実際は、産業を構成する個々の企業である。この様な企業の集合体である。

 会計本来の役割、目的は、利益、所得、収益、費用の平準化である。その目的の元に期間損益は確立されたのである。そして、利益が平準化することによって資金調達をしやすくし、収入と支出を平準化するのである。その前提は、収益と費用、収入と支出の長期的均衡である。
 その為に、会計の内部は、常に貨幣価値が内的に均衡した状況、調達と運用の総和は零になるように仕組まれているのである。これも思想である。複式簿記を成り立たせている思想なのである。

 産業にとって深刻なのは、資金が円滑に循環しなくなることである。それは、血液が循環しなくなるのと同じ事なのである。故に、産業政策は、資金が上手く循環しない部分に資金を供給することを目的とすべきなのである。公共事業などを通じて、ただ、資金を供給しても経済政策の目的を達成することはできない。

 又、資金を供給する場合注意すべき事は、資金の流れる方向である。
 資金の流れの方向を見定める上で目安になるのが、総資産と総資本の増減運動である。なぜならば、総資産、総資本の増加、縮小が資金の流れの方向性を決めるからである。

 資金の量ばかり問題にするが、重要なのは、資金の流れる方向なのである。資金をいくら投入してもそれが、返済の側に流れ、投資の側に向かわない限り、市場には資金は循環しない。更に、回収された資金が実業に流れず。金融市場や資本市場に流れれば、バブルを再発するだけである。

 又、企業の総資産、則ち、総資本が収縮すれば、回収側、つまり、返済の方向に資金は流れる。逆に、総資産が拡大すれば投資の方向に資金は流れる。総資産を圧縮作用がある金融機関の自己資本規制は、資金を回収する方向に流す。この点をよく理解して自己資本規制を考えなければならない。

 原則として金利の上昇は、回収側に資金を向かわせ、金利の下降は、投資の側に向かわせる。ただし、金利による効果は、前提条件に左右される。

 急激な為替の変動や原油価格の高騰が与える影響は、産業によって違いがでる。例えば自国の通貨の急騰は、輸出産業にとっては逆風でも、輸入産業には追い風になる。ただ、長中期的には、市場によって調整される。問題は、短期的に偏りが生じることである。この短期的な偏りを是正するのが、行政と金融機関である。現代の金融機関の悪質さは、為替の変動による収益の悪化に苦しむ輸出産業から資金を引き揚げ、為替の変動によって資金が余っている輸入産業に供給することである。
 又、石油価格が高騰している時に、行政から金融機関に対し、キャッシュフローに注意するよう通達がでたことがある。物価上昇時に資金繰りが厳しくなることは明らかなことである。資金不足で苦しんでいる中小企業から資金繰りが苦しいことを理由にして資金を引き揚げるのは、首吊り人の足を引っ張る行為といわれても仕方がない。
 この様な転倒した行為が危機を引き起こし。尚かつ増幅しているのである。

 為替の急激な変動や原油価格の高騰が個々の産業の収益構造のどの部分に影響を与えるかは、ある程度予測することができる。ある程度予測ができるのであれば、対策を講じておくのが行政の役割なのである。

 資金の流れる方向が重要なのは、いくら、資金を供給しても資金の流れる方向が回収の側に向かっていたら資金は市場に流れていかないからである。かえって、資金を偏在化させる結果を招く。
 重要なのは、実業に資金が循環することである。しかし、実業が適正な収益をあげられないと資金は、実業へ向かわず、金融市場に滞留することになる。過剰流動性は、単純に資金が過剰に流れているというのではなく。資金の流れに偏りがあることによって生じる場合のあるのである。

 バブルが発生する前には、実物経済の停滞が見られる場合が多い。

 実業に資金が流れないのは、収益構造と不良債権問題の問題である。特に、収益構造、企業が市場で適正な価格を維持できないことにある。収益が確保できない中で不良債権処理に追われれば、経済は縮小均衡に向かわざるをえない。
 :現在のように、適正な価格が維持できないような状況下では、まず、過度の競争を抑制し、適正な価格を維持できる体制を採ることが重要なのである。

 過当競争を放置すればいずれ市場は寡占独占状態に向かうであろう。しかし、それは市場の機能の劣化を招く。何でもかんでも競争をさせればいい。競争は万能だという発想は間違いである。競争が有効なのは、一定の前提条件の下である。第一に、ルールを前提としている。ルールがなければ、ただ単なる生き残りをかけた喧嘩、闘争に過ぎない。

 借金に限らず、どうも経済的概念というのは悪者扱いされる概念が多いように思われる。その代表的な概念が借金である。又、金や商売というのも借金同じように悪者扱いされ、嫌われる。

 現代日本は、まだまだ士農工商的身分制度から抜けきれないでいる。又、金銭を卑しむ風潮も残っている。その為に、私企業を罪悪視する傾向が払拭できないでいる。

 この様な偏見は、自由主義的な思想の持ち主、社会主義的思想の持ち主の双方に共通してある。

 暫定的な処置としてよく用いられるのが、補助金である。しかし、この補助金が曲者である。暫定的な処置というのは、当座の処置という意味であり、ある一定の期間に一定の効果を期待して実施する短期的な施策である。所が暫定的な処置だったはずの施策が恒久的な物にすり替わったり、また、抜本的な施策が採られない間々終わってしまうことがままある。補助金のような施策は、一時的に企業の収益を改善する効果は期待できる。しかし、あくまでも一時的な効果である。一時的な効果が現れているうちに、抜本的施策がとられる必要がある。
 長期的な展望に基づけば、企業自体が収益を改善できる様な仕組みを作ることが肝要なのである。

 重要なのは、個々の産業をどの様に位置付けるかである。又、産業が不振な原因をどう分析し、どの様に、認識するかである。つまり、事業をどの様に見て、どう評価するかが重要となる。そこには、確固たる事業観が必要とされるのである。

 根本になければならないのは、国家観であり、国民に対する理念である。つまり、国家は産業に対して何を期待しているかである。産業は国家に対してどの様な役割を果たしているかである。
 産業の役割は、単に利潤の追求にあるわけではない。産業の主要な役割、目的は、国民の生命、財産の保障と生きる為に必要な物、社会に有用な財を調達し、生産し、分配することにある。そして、国民生活を豊かにすることである。利潤の追求はその手段に過ぎない。利潤追求のために、国民生活を犠牲にすることは本末の転倒である。
 企業が利潤を確保するために、人件費を削減し、経費を削減すること、則ち、支出を抑制することは、所得を縮小することに繋がる。所得を縮小することは、消費を減退させる。消費を減退すれば収入が減るのである。そうなると経済は、縮小均衡に向かう。合成の誤謬である。
 産業にとって適正な収益、翻って言えば、適正価格を維持することは、死活問題なのである。

 砂漠に籾を蒔いても稲は育たない。同様に、荒野のような市場では、産業は育たないのである。荒れ地を開墾することによって産業は育つのである。

 セルフスタンドを増やせば経営の効率化は進むかも知れないが、それだけ、雇用の機会は失われるのである。

 合成の誤謬という言葉を私は、好まない。「合成の誤謬」と言われる事象は、結果に過ぎない。「合成の誤謬」を起こさせている原因や仕組みが問題なのである。そして、その根本には、価値観や倫理観の歪みが隠されているからである。

 京都の町並みが美しいのは、規制があったからである。それに対し、近代都市は、一つ一つの建築物を見るとそれなりに凝った作りをしていても全体としては雑然とし、色褪せて見えるのは無秩序だからである。それを、合成の誤謬というのには抵抗がある。

 民主主義は、無秩序の中から生まれる。無秩序を耐え抜き、貫き通す意志が民主主義に必要とされる。

 自由とは通じることである。あらゆる法則、規則に通じきれば、法や規則に縛られることはない。それが自由である。

 政府の役割というのは、競争状態を維持することにある。競争状態を過熱することにはない。競争状態が過熱すれば市場の規律は失われ、市場は荒廃する。秩序なき競争は、競争ではなく、闘争である。生存競争は、寡占、独占を招く。寡占、独占は、市場の終焉を招くのである。競争の原理を守ることと市場を放置することは、背反関係にある。競争の原理を守るためには、市場は規制されなければならない。



参考
2009/10/28 20:21 【共同通信】
 法人所得、38兆円にダウン 下落率35%で過去ワースト
 今年7月末までの約1年間(2008事務年度)に税務申告した全国の法人所得の総額が、前年度比で35・4%減の37兆9874億円となり、過去最大の下落幅だったことが28日、国税庁のまとめで分かった。石油危機の影響でこれまで下落率ワーストだった1975年の18・2%を大幅に超えており、世界不況による景気低迷が法人所得からも裏付けられた。

 国税庁によると、法人税申告税額も9兆7077億円(前年度比33・2%減)と大きく減少。税務申告した280万5千法人(同0・2%減)のうち、黒字申告した法人割合は29・1%。国税庁に記録が残る67年以来、初めて30%を割り込んだ。

 黒字申告1件当たりの所得が4652万8千円(同28・1%減)だったのに対し、赤字申告1件当たりの欠損金は1555万6千円(同78・5%増)となった。

 また法人が社員の給与から天引きした源泉所得税の総額は14兆811億円(同6・1%減)で、2年連続の減少だった。



                       


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