経済と陰陽五行(実績編)

産   業


 なぜ、経済問題を考える時、産業の構造を産業の性格を問題としないのか。それが経済問題を難しくしている最大の原因である。

 産業の構造には、象と形と相がある。
 又、産業を構成する原因には四つある。則ち、形相因、質料因、作用因、目的因である。

 産業や産業を構成する企業の働きを理解しようとしたら、先ず、産業や企業の形と相を診る必要がある。産業や企業には、産業や企業を成り立たせている形とその時々の現れる相がある。形には、目に見えない象(かたち)と外に現れる形がある。

 形を診ると言う事は、表に現れる変化と変化しない部分をとを見極め、変化を引き起こしている要因を明らかにすることである。変化にも表に現れている変化と、表に現れない変化がある。

 また、形や相、則ち、形相には、人的な形相、物的な形相、金銭的な形相がある。更に、経済現象には会計的な形相がある。それをよく見極めることが肝腎である。

 個々の産業には、各々、固有の形と相がある。そして、その形と相によってとられるべき政策にも違いが生じる。前提条件や状況を無視して一律に規制を緩和し、無原則な競争を強いれば均衡状態に達するというのは野蛮な考え方である。大体、その場合の均衡状態というのは、独占、寡占状態を指して言う。
 例えば、需要にも形と相がある。必需品、消耗品のように継続的に一定の需要がある財もあれば、贅沢品や耐久消費財のように需要に波があったり、周期がある財もある。又、流行品みたいに一つの山しかない場合もある。

 産業の性格は、形相によって形成される。特に時間的形相によって決まる。形相の違いは、時間が陰に作用しているか、陽に作用しているかの違いである。時間が陰に作用している象(かたち)を形と言い、陽に作用している象を相というのである。

 産業の形相の根本は、人生の形相である。人生の形相は、人生の形相は、暮らしの形相であり、暮らし、生活の形相は家計の形相である。家計の形相は、消費の形相であり、所得の形相である。所得の形相は、企業の形相であり、企業の形相は、産業の形相である。産業の形相は、国家経済の形相である。

 産業の形相を知るためには、産業を分類する必要がある。産業の分類には、第一に、産業の働きの基づく分類の仕方がある。第二に、産業の位相、形相による分類がある。第三に、産業の性格に基づく分類がある。

 位相というのは、時間の変化や次元の変化によって表れる相を言う。

 産業には、第一に、水平的構造と第二に、垂直的構造、第三に、時間的構造がある。その水平的、垂直的、時間的構造の個々の局面における相を位相という。

 例えば、自動車には、基盤、製造、販売といった次元がある。それらの次元には固有の形や相がある。また、派生的に、部品とか、加工といった次元が生じる。また、中核企業に、下請け、子会社、特約店といった階層的な産業構造がある。階層を構成する企業群は、固有の構造を持っている。これらの要素が複雑に絡み合い、組合わさって産業は形成されている。

 市場を基盤とした現代自由主義経済体制下における産業は、会計的空間に成立した企業の集合体である。
 この様な個々の産業は、固有の構造と特性を持っている。そして、産業に対する施策は、個々の構造や特性を前提として成されなければならない。
 これが大前提となる。
 又、集合体である産業は、部分と前提から成る。則ち、部分と前提には、部分としての働きと全体としての働きがある。しかし、全体としての働きは、必ずしも部分の働きの総和として捉えきれるものではない。

 産業は、部分も全体も自律的に機能しなければ維持できない。産業が有効に機能するためには、部分が自律的の機能する必要がある。部分が自律的に機能しなければ、全体の機能も維持できない。
 財政が破綻する原因は、財政を機能させている期間、則ち、国家機関が自律的に機能しなくなるからである。国家機関には、多くの制約があり、部分が自律的に機能することが阻害されている場合が多い。その為に、国家を構成する部分が自律的に機能できなくなる。それは、官僚機構を構成する者の資質の問題と言うより、構造的問題、又、仕組みの問題だといえる。
 自律的機能を発揮するためには、双方向の働きが必要なのである。組織が巨大になると双方向の働きが失われ、一方通行の働きに陥りがちである。一方通行の働きでは、組織上で情報が循環しなくなる。全体の関係は、情報が循環することによって維持されている。なぜならば、全体は、斥力と引力の均衡によって保たれているからである。

 そして、産業の構造には、人的な構造、物的な構造、貨幣的構造がある。それらを統合したところに会計的構造が成り立っている。

 現代経済は、人的経済、物的経済、貨幣的経済の三つの要素によって成り立っている。そして、この三つの要素を結び付けているのが現代会計制度である。複式簿記、会計は思想である。

 経済は、生きる為の活動である。決して、金儲けのための活動ではない。金儲けは、貨幣経済体制下において生きる為に必要な手段であり、生きる為の目的ではない。金儲けは、生きる為の手段として重要である。しかし、金儲けを生きる目的にすれば、人間は、手段に隷属することになる。貨幣経済を成り立たせているのは、貨幣だけではない。

 現代貨幣経済を構成する要素は、人的経済、物的経済、貨幣的経済の三つである。この三つを結び付けているのが、近代簿記、会計である。

 経済の本性は、生きる為の活動である。即ち、人的経済というのは、生活を基盤としている。生きる為の活動が、暮らし、則ち、衣食住が人的経済の基盤である。そして、今日、自己実現がそれに加わった。それが娯楽や趣味、教育に関連した活動である。

 人的経済は、組織の経済でもある。いかに人を組織化し、最大限の効率を引き出すかの経済である。それが人的経済である。組織の根本は分業である。又、評価である。分業や評価は、労働と分配とを結び付ける仕組みでもある。

 貨幣経済では、分配は、所得の形で支払われる。即ち、貨幣収入である。産業には、所得を定収入化させる働きがある。

 産業には、収入の定収入化、則ち、平準化という役割、機能がある。定収入には、固定的という側面と一定という側面がある。
 収入が安定し、貨幣化されることで借金の技術が発達した。借金の技術の発展が投資の技術の発展に結びついていたのである。

 借金の技術の発達が、資本主義経済の礎を形成した。資本主義というのは、資金の調達側から見るとと借金と投資の経済といえる。

 投資は、資本の元となる。負債と資本の違いはどこにあるのかというと、基本的な違いはない。資本は返済する必要のない資金に対し、負債は、返済を前提としているという事になっている。しかし、実際には超長期の借入金というのは、限りなく資本に近い。

 投資と借金の効果を知るためには、資金の流れる方向が重要となる。資金の流れる方向は、産業を構成する企業の総資本・総資産の総和の増減を見ると解る。
 即ち、総資産が増大している時は、投資側、運用側、即ち、借方側に資金は、流れ。総資産が縮小している場合は、返済側、回収側、即ち、貸方側に資金は流れているのである。
 回収側に資金が流れていれば、公共投資によっていくら資金を供給しても実物市場に資金は流通しない。

 投資を問題とした場合、物の経済を理解する必要が生じる。物の経済は、財の生産、流通、貯蔵、販売、そして、消費に関わる経済であるからである。いずれにしても、設備投資を前提としている。

 物の経済で重要なのは、償却と所有の概念である。その対極に投資と借金、則ち、融資がある。償却と所有の概念は、資産と債権を構成する。投資と借金は、負債と債務を構成する。それが貸借対照表の土台となるのである。

 自前の資金で設備投資をした場合、減価償却費が発生しないと言うのならば、話は別である。かなりの原価が削減できる。しかし、設備投資を自前の資金で賄ったとしても減価償却費は生じる。それが、会計の決まりであり、仕組みなのである。しかも、この決まりや仕組みは税制によって裏付けられている。

 金融機関は、元本で利益を上げているわけではない。金利で利益を上げているのである。その意味で金融機関は、元本を返済されると元も子もなくなるのである。
 ただ、減価償却費は、資金流失のない資金だという誤解がある。確かに、減価償却費自体は、資金支出を伴っていない。しかし、その代わり、元本の返済は、費用化されていないのである。

 ただ、問題なのは、金融機関や経済政策当局である。金融機関が、不良債権の解消策として、或いは担保不足を理由に、元本の返済を強要したら、ただでさえ、資金にゆとりのない企業は、資金不足を引き起こし、多くの企業は黒字倒産を引き起こす。それが貸し剥がしである。企業は、余剰の資金を蓄えておけない仕組みになっているのである。この様な元本の返済を強要されることで生じる破綻は、経済政策者の誤謬が原因である場合が多い。

 投資によって生じる債権が、固定的資金か、短期的、流動的な資金かを見極めることが重要なのである。

 借り手も買い手も固定負債は、借り換え(リファイナンス)を前提としている。つまり、長期負債は、企業経営の継続を前提とした資金だと言う事である。
 長期固定資金というのは、企業経営が継続している限り保証されている資金だと言う事が前提となっている。
 それを裏付けていたのが従来は、資産、則ち、担保資産の価値の上昇だったのである。
 そして、高度成長期においては、物価の上昇によって解消される負債だったという事である。
 返済圧力といわれるのは、この長期負債の元本に対する圧力であり、金融機関が借り換えに応じなくなることを意味している。

 問題は、返済圧力が強くなる原因、理由である。
 返済圧力が強くなるのは、所謂、担保資産が不良債権化することによって担保余力が小さくなったり、逆に、物価上昇によって調達資金が増大したのに対して、資産価値が相対的に不足した場合や収益が悪化した時である。いずれの場合も当然資金が不足していることに起因する。

 地価が下がったという理由で住宅ローンを一括して返済しろと要求されたり、失業したという事が原因で一括返済を強要されたら大変である。しかも、一度も返済を滞ったことがないとしたら、それは、明らかにルール違反であり、横暴である。

 固定的、長期的資金というのは、リファイナンスを暗黙に前提としているのである。問題は、企業経営における前提を無視して、その暗黙の前提を前触れもなく、突然、崩すことなのである。

 固定的負債が限りなく資本に近く、元本の返済が原則的に保留されているとしたら残されているのは、金利と配当である。しかし、これも本質的な差とは言えない。
 あるとすれば、資本による経営権の支配である。

 いずれにしても、今日の経済は、借金で成り立っている。借金の是非は別にしても、借金がなくならないとしたら、借金と上手く付き合っていく必要があるのである。そして、借金、則ち、負債の意義と役割、働きをよく理解する必要があるのである。

 決算書上に表れる数字というのは、ある意味で形骸である。つまり取引の痕跡に過ぎない。実際に取引によって生じた現金や財は、決算上に表された時には、決算上に表れた数値とは違った価値を形成している。時間が経過すると痕跡は、実体と乖離していく。
 市場取引は、資金を媒介として成立している。取引の効果、働きは、資金の流れを把握しないと理解できない。ただし、ここで言う資金の流れというのは、キャッシュフローとはちがう。一般に言うキャッシュフローというのは、資金が流れた結果を表したものである。しかし、資金の流れとは、資金の流れそのものを指す。
 例えば、会計上の負債は、借入金をさすが、金の流れから言うと金を借りて、物を買うという一連の取引が通常は隠されている。つまり、多少の時間差はあるが、借り入れた資金は、お釣り以外残っていないのである。残っているのは、債務と債権である。つまり、取引というのは、一定の貨幣の運動によって成立した貨幣価値と同量の債権と債務を生じる行為なのである。
 言い換えると融資は、借りて買うのか、投資は、権利を売って買うのである。そして、買って売るのである。これが、経営活動の基本運動である。
 そして、企業の内部に残って物、債権の価値と調達した資金の量と債権の量の差が純資産になる。
 問題なのは、この債権、債務が形成される過程と、どの様に、処理され解消されるかの手段である。それが経済体制の有り様まで左右する。
 例えば、個々の企業が持つ負債が生み出す資金の流れる方向と量が景気の状態を生み出すのである。故に、経済政策は、資金の方向と量を見極めた上で立てなければならない。

 現代の産業が会計的空間に成立する以上、会計の働きを理解することが産業に対する施策をする上での前提となる。

 会計は、形式である。言い換えると会計は、形式によって成り立っている。現代人は、形式を封建的として否定的にとらえる傾向がある。しかし、形式を軽視しては成らない。形式の弊害は、形式が形骸化することによって生じる。本来、科学も民主主義も形式である。形式主義である。今日の科学や民主主義の弊害は、科学や民主主義の形式が形骸化したことにある。
 会計は、形式によっなりたっている。故に、会計の形式を理解することが重要となる。
 これも大前提である。

 又、会計上の事象は、定義によって成り立っている概念である。実体的事象ではない。
 会計上の概念が定義によって成り立っているという事は、何等かの合意に基づく事を意味する。つまり、会計上の概念は合意がなければ成り立たないことを意味している。そして、この様な合意は、国家権力によって保障されていなければならない。
 例えば、利益や資産、負債という概念も合意を前提として成立している。そして、それらの概念は、税法や商法、金融商品取引法といった法によって強制されている。
 この様にして成立した会計上の概念は、現金収支による概念とは異質な概念である。故に、貨幣的経済と会計的経済は別次元の経済である。

 なぜ、土地は減価償却しないのか。会計の教科書を読むといろいろな理由が書いてある。しかし、理由は、明確なのである。則ち、そう言う取り決めがされたからである。
 基本は、取り決めであって物理的現象のような所与の法則ではない。そこには、何らかの意図がある。それが会計原則や基準である。

 産業は何によって成り立っているか。会計的に言えば利益と言う事になる。ただし、利益というのは、会計上の概念である。真理のような絶対的なものではない。又、自然現象のような客観的事象ではない。人為的に設定された基準によって導き出された値である。自然現象と経済現象を同一視することはできない。これも、重要な前提条件の一つである。

 利益は、会計的概念である。概念とは、定義された命題から論理的に導き出された命題なのである。利益とは、会計的に定義から論理的に導き出された命題である。即ち、利益は、自然の法則のように所与の原理ではない。合意や契約によって制度的に定められた基準に基づいて算出された数値なのである。利益は、絶対的な値ではない。あくまでもその前提となる会計制度に基づいて導き出された結果である。則ち、利益とは形式的な値である。
 利益は、会計基準によって変化する相対的値である。しかも形式的な値である。つまり、利益を設定するのには、何等かの目的、言い換えると利害が絡むのである。利益というのは思想の産物なのである。
 中でも、一番大きな思惑は、徴税者の思惑である。そして、税の在り方が経営には決定的な作用を及ぼすことを忘れては成らない。即ち、税とは合目的的な制度なのである。目的や機能の不明瞭な税制は、経済体制を破綻に導く。常に、為政者は、税の効果と働きに目を光らしている必要がある。

 利益の指し示す値は、費用対効果の関係である。
 日本では利益は、五段階で表示される。この利益の表示の仕方も国によって違う。三段階、四段階で表示する国もある。要するに任意の問題であり、どの様に表示するかは、その国の政治の問題である。
 利益をなぜ、段階的に表示する必要があるのか。それは、段階毎の費用対効果の関係を明らかにしたいからである。そこに、利益をあげる、或いは、利益があがらない仕組みや原因が隠されていると考えるからである。
 今日、会計基準を国際的に統一しようと言う気運がある。しかし、それはその国の経済的根幹を揺るがす大事であることを見落としては成らない。

 期間損益を考える上で忘れてはならないのが、貸し借りの関係である。元々、期間損益は、損益という思想と貸借という二つの思想からなるのである。損益と貸借というのはある意味で違う思想に基づいているのである。それは、損益が期間の動きを表しているのに対して、貸借は、ある一時点の状態を表していることからも伺い知ることができる。
 貸し借りの関係は、使用権と所有権の分離を意味する。使用権と所有権が分離すると所有権から時間価値が生じる。その典型的なのが金利や家賃である。財産は、ただ所有するだけでは利益は生まない。しかし、財産を他人に貸すことによって利益を生み出すようになるのである。この様にして生み出される利益は不労所得として見なされ、問題視される。
 同時に、貸し借りの関係が企業収益の前提を形成するようになる。

 自前の資金で設備投資しても利益には反映されないのである。それが会計上の決まりである。そのお陰で、自己資金で起業した者と借入で事業を興した者との差が極端に生じないのである。これが自由競争の前提である。

 自前の資金だけで、則ち、無借金で設備投資した場合、減価償却費はどこへ行くのか。それは、主として内部留保である。内部留保は期間損益には反映されない。内部留保は、資本に還元される。資本が威力を発揮するのは、清算される時である。継続を前提としている企業では、それは含み損益として表に出てこない。その含みを表面化させようと言うのが、時価会計制度である。しかし、時価を期間損益に反映することは、本来、期間損益が目的とする一定期間における営業活動の成果の算出という事から逸脱する危険性がある。
 又、資本は、株式取り分を意味する。費用対効果には直接関係しない。資金調達、則ち、貸借上における貸方の事象なのである。

 産業は、会計的空間に成立しているとはいえ、産業を成り立たせているのは、会計的な働きによるのではない。
 産業を成立させている要素には、人、物、「お金」がある。「お金」と会計的概念とは異質のものである。この点を注意しないと錯覚に陥る。「お金」の問題と会計の問題は違う。

 産業を会計的に分析する場合、最初から損益、貸借に分離するのが一般的である。しかし、本来、損益、貸借は一体のものである。会計的現象の全体を理解する上では、損益と貸借を最初から分離して考えるべきではない。先ず全体像を掴んだ上で、個別の問題に目を向けるべきなのである。

 会計制度を設計するにあたり、充分に考慮されなければならないのは、会計が経済に与える働きである。つまり機能である。一定の勢力が自己都合によって会計制度を歪めることは、経済現象全般に悪影響を与える。
 会計制度の在り方というのは高度に政治的問題なのである。

 会計制度を設計する場合重要になるのは、経済の仕組み、中でも市場の仕組みの目的と働きである。会計上の利益は指標であり得ても、目的化させてはならない。利益が目的化される原因は、利益の持つ意味を理解しないで、利益を絶対化することである。この様な利益市場主義に陥ると市場も経済も硬直化してしまう。期間損益が指し示す経済的意味を正確に読みとり事が肝腎なのである。

 会計制度の働きを理解する為には、会計的結果が、何を意味し、経済の仕組みにどの様な影響を及ぼすこと知る事である。会計基準を何等かの真理、原理と同一視、経済的な働きや機能を全く無視して絶対視すると経済は、硬直化して破綻してしまう。しかも、当事者には原因が把握できなくなる。それが最も危険な行為であることを忘れては成らない。会計基準はあくまでも人為的な基準なのであり、その時点、状況において最も適切な基準を選択すべきなのである。

 産業の基本運動は、回転である。又、経済は、相対的な価値によって成り立っている。故に、産業の基準は、回転と比率である。利益は、回転運動の過程であらわれる相対的比率、或いは、費用と成果の差である。

 回転運動は、人、物、金、各々にあり、各々が違う周期を持っている。それが経済現象を複雑に見せているのである。

 形は、構成比率として現れる。相は回転率として表される。則ち、構成比率と回転率は、固定性と流動性に還元される。

 資金は、流体である。産業には、長期的資金と短期的資金の流れがある。長期的資金は、固定的働きを短期的資金は、変動的働きを形成する。

 損益を分けるのは、固定費と変動率の比率である。産業の性格を決定付けるのは、固定比率である。つまり、固定性と変動率の違いは、産業の特性を定めるのである。

 資金は、一カ所に止まることなく。信用を創出しながら流れていく。信用というのは、ある意味で資金が流れさった後の痕跡、抜け殻であり、資金的裏付けがあるとは限らないのである。

 また、貸借増減運動が資金の流れる方向を定める。

 名目的価値と実質的価値比較して、値が大きい方に向かって資金は流れる性格がある。貸方は、名目的を表示し、借方は、実質的価値を暗示する。

 重要なのは、フリーキャッシュフローの構成とその使い道、運用先である。フリーキャッシュフローの使い道が新規投資や更新投資であれば、資金は、運用の側に流れる。借入金の返済であれば、返済側に流れる。

 初期投資は、資金を運用側に流し、以後は返済方向に流す。公共投資の効果を測る場合は、この資金の流れる方向が重要な要素となる。

 資産でも、株でも表示された価値があることが重要なのである。則ち、資産は、実際の取引が成立しない限りは、名目的価値しか表示できないのである。

 一定の利益を確保しようとした場合、一定の利益率と回転率を維持する必要がある。逆に利益を上げようとした場合は、利益率を上げるか、回転率を高めるかしかない。利益が減少した場合は、利益率が減少するか、回転率が落ちたか二つの原因が考えられる。
 現在の市場経済では、利益率は、常に圧縮圧力がかかっている。利益を確保する為には、回転率を高め様とする傾向がある。

 産業には、段階や次元、局面の別がある。そして、個々の段階や次元、局面に形相がある。
 例えば、段階には、創生段階。発展段階、成熟段階の別があり、局面には、拡大局面、縮小局面などがある。又、次元には、製造とか、販売と言った次元がある。

 相として顕在化した現象に対してどの様な形に、どの様にして変えていくかが重要なのである。




                       


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano