経済と陰陽五行(実績編)

家計の実際


 経済には、人的経済と物的経済、金銭的経済がある。経済を構成する要素は、家計と、企業と財政である。
 人的経済から見ると家計は、労働力を提供し、企業は、所得を分配し、財政は、所得の分配と再分配、失業対策、そして、分配の手段を提供することである。それらの要素を前提とした上で会計は、分配のための基準を設定する。
 物の経済から見ると家計は、財の購入と消費を担い。企業は、財の生産と販売。財政は、社会資本の整備を担う。
 貨幣的経済では、家計は、投資と貯蓄。企業は、設備投資と借入。財政は、貨幣の信用保証、貨幣の供給を担う。

 自由経済では、財の交換は、貨幣を媒体として市場を経由してなされる。貨幣は、所得という形で分配される。

 即ち、家計の役割とは、労働力を提供することによって所得を貨幣という方で受取、生活に必要な物資を市場において貨幣を媒体にして受け取り、消費することである。又、余剰の貨幣を直接、間接に産業に投資し、又、税金を支払うことによって公共財に貨幣を供給することである。
 家計の基盤は、家族という共同体であり、家族の内部は、非貨幣的経済空間、非市場的経済空間である。
 また、家族は、独立した経済単位、政治単位であり、私的所有権を有する個人の集合体である。家族には、家族に属する扶養家族の保護責任と私的財産の管理責任がある。

 これが、自由経済で家計を成立される前提である。

 家計は、経済単位の一つである。家計は、消費経済の中心である。家計の基礎は家族である。家族は、生活共同体であり、運命共同体である。家族は婚姻制度と血族関係を土台とした集団の単位である。家族は、原初的社会集団である。

 家族は、生活共同体である。家族の場は、生活の場である。そして、全ての経済単位の中心にある。そして、経済の最終目標が家計にあると言える。則ち、生活が全ての経済の基本なのである。

 近代とそれ以前とを区分する決定的な要因は、家族に対する認識である。現代、政治や経済の思想では、家族、及び家族に関連した概念にたいして否定的な考えが主流である。
 家族に関連した概念の中には、世襲、血族、親族、婚姻等がある。

 現代では、否定的にとらえられる家族でも、かつて、人間関係の中心的概念として捉えられてきた。例えて言えば、忠と孝は、儒教において中核的な概念であり、イタリアでは、大家族制度が一般である。又、祖先崇拝は、東洋では一般に見られる。

 つい最近まで、一家、一族中心に人間関係は、形成され、婚姻も家同士の結びつきとして捉えられていた。それは、結婚式の儀式や仕来りに象徴的に表されている。家族制度の崩壊は、結婚式にも如実に現れている。

 忠と孝は、現代では、封建思想と結び付けられて捉えられるが、忠と孝という思想そのものが、封建的というのではなく。封建的社会の中で忠と孝という関係が封建的にとらえられ、概念化されてというのが至当である。忠、本来の考え方は、誠実なり、いつわりのない行為という意味であり、孝は、親に対する真心、愛情と、親子の関係から派生する義務、責務を意味しする。
 民主主義には、民主主義の忠と孝があるのである。忠と孝が封建的なのではない。忠と孝は、関係から生じる働きである。

 社会を構成する要素の大部分は、家族を基本として、国家や社会は、それを補完する関係に位置付けられていた時代が長く続いてきたのである。
 大家は親も同然、従業員は、子も同然という考え方が主流であり、親分子分の関係や、義兄弟の契りという言葉がもてはやされたのである。
 それだけ、人間関係が親密だった証拠である。日本では、義理人情という言葉で表現された。そう言った濃密な人間関係を否定したところに現代社会はある。そして、その非人間的な部分が現代社会の病巣なのである。
 現代社会では、親子の情よりも、介護施設や介護制度、年金、福祉が重視されている。人間としての倫理、愛情より、金や施設の方が信じられる世の中になったのである。愛情より信じられるのは快楽であり、人間の欲望である。だから、現代人は、愛情に飢えているのである。しかし、それは自業自得である。
 そして、政治や経済の根底も、倫理や愛情から快楽や欲望へと移ってきた。現代人にとって家族の絆は徹底的に否定すべき関係なのである。しかし、それは、人間が生き物である限り、親子の関係は否定しきることはできない事実なのである。

 人間の存在が両親を前提としている限り、この家族という単位を否定する事はできない。故に、現代でも家族の絆を断ちきることはできない。結局、政治の世界でも代を重ねると世襲議員の率が高くなる。それが生物学的現実なのである。家族という関係を頭から否定するのは、むしろ、非科学的行為である。
 そして、この家族が経済における最小単位の一つになる。家族を基礎として経済が家計である。
 又、政治も家族か中心であった。宮廷官房学が財政学の起源であることがその証拠である。つまり、財政の起源は家政なのである。

 かつては、家族が全ての中心にあった。政治も経済も家族主義、それも大家族主義が基本にあった。ただ、母系か、父系かの違いがあっただけである。

 現代社会では家族の存在を前提としていない。少なくとも経済的な意味で家族の存在に期待していない。
 家庭内は非市場的経済空間、非貨幣的経済空間である。その家庭内にすら市場経済や貨幣経済を持ち込もうとしている。それが家族の崩壊や喪失を促進している。
 経済的価値は、家庭内には認められず。常に家庭外にしか認められなくなりつつある。貨幣に換算できないことは、まったく経済的価値を認めないのである。外に働くにいくという表現が象徴されている。外に働きに出ない者は、経済的、社会的に自律していないと見なされるからである。また、経済的な弱者でしかない。
 出産、育児、教育、掃除、洗濯、料理、病人や老人の介護といった労働は、一切外注化されるべき労働であり、家内労働は、否定される。性すら単なる商品と化す。そうなると、家族は同居している根拠すらなくなる。結果的に家族は解体されていく。老人の孤独死が増えるのは必然的帰結である。
 そして、この家族の関係を支えてきたのは、人間としても道徳である。現代経済は、徳のない経済である。あっても損得の得であり、人徳の徳ではない。
 経済の本質は、思いやる心である。現代の経済には、思いやる心など持ちようがない。あるのは、金銭による取引だけである。信じられるのは、「お金」だけであり、親や子供ですら信じる事のできない経済社会である。親に売られ、子に捨てられるのが当然の社会である。
 金を出さなければ、子供でも親の世話はやかないのである。

 この様な思想は、生きることの意味を見落としている。つまり、人間の繋がりや愛情を単なる物質的な価値に置き換えているだけである。それが資本主義や社会主義の正体である。

 平等という思想と、同等という思想は違う。人間は、平等だけれど同等ではない。つまり、人間は存在において変わりはないが、人は、皆、違うのである。平等は、一人一人の人間まったく違った個性を持つという前提の上に成り立つ思想である。
 違うからこそ、お互いが助け合い、補い合う関係が生じる。人間関係は、一方的なものではなく、双方向の関係である。その典型が家族である。

 家族は、補い合い、助け合う関係である。親に迷惑をかけない子供はいない。生まれたばかりの赤ん坊は、自分一人の力だけでは生きていけないのである。老いたら、子供が面倒を見る。立派な設備に預けっぱなしにはいかない。そして、それなくして家族は維持できない。それが家族の絆である。家族が助け合うことが当然な社会と、そうでない社会とでは、経済の有り様が違ってくる。
 家族の力が当てにできなくなれば、国や社会が子供や老人の世話を全面的に見なければならなくなる。

 むろん、従来の家族主義もそれなりの理由があって否定的にとらえられるようになったのである。世襲制度や同族主義には、決定的な弊害がある。その最たる部分が、身分的差別、階級的差別に結びつくことである。身分制度や階級制度は、基本的人権を制限し、経済的格差を否定的なものにしてしまう怖れがある。

 貧困を生み出すのは、格差である。生産量や供給量の不足ではない。貧困は、経済を破綻させる原因、或いは、経済が破綻した結果と見ることができる。いずれにしても貧困は、人民を不幸にする種であり、しっさいの最たる結果である。その貧困の原因となる要因として差別や格差がある。差別や格差を生み出す元となるものに身分や階級がある。

 また、異常な格差が生じるのは、資金の流れに偏りがある証拠である。資金の偏りは、貧富の差を広げる重大な要因でもある。

 身分制や階級制を生み出す要因の一つとして、世襲や同族経営は忌避されてきたと考えられる。また、それは、世襲や同族主義の致命的な欠陥である。
 そして、世襲や同族会社を生み出す要因の一つが家族主義である。又、家族主義は、特定の家族や一族に権力の集中をもたらす原因となる。それが権力闘争の根源でもある。血で血を争う醜い権力闘争は、人心を荒廃させ、戦争や革命、国家滅亡の原因となる。その温床となる家族主義が否定的にとらえられるのも必然的な帰結である。

 しかし、家族主義の弊害を前提としても、家族そのものを否定する事はできない。人間の社会は、家族中心に成り立っており、又、家族を中心に据えなければ、成り立たないのである。家族という単位を否定したら、人間関係を構築するための要がなくなってしまうからである。

 世襲や同族、また、そこから派生する身分制度や階級制度の弊害を取り除いたうえで家族を基盤とした経済体制を築く。その為にこそ、経営と所有の分離があるのである。ただ、いずれにしても、経営や家計の主体を失ったら、経済は自律的機能を喪失してしまう。なぜなら、人間の社会は、あくまでも人と人との絆よって成り立ちその根本はだからである。

 家計は、消費を基礎としている。家族を否定的にとらえることによって家計も否定的にとらえられるようになり、その結果、消費経済も一段低く見られ、未だに確立されていない。

 かつては、生産の現場も家族が中心であった。一次産業が典型であり、工業も家内制工業が中心であった。生産現場と消費の現場は一体であった。当然、職住も一体であった。社会的分業が発達するにつれて生産の現場と消費の現場は分離した。又、財政の発端も家政、家計である。この様なことを考え合わせると、家計は、経済単位の源だと言えるのである。

 生産が消費を形成し、消費が生産を規制する。供給が需要を創造し、需要が供給を抑制する。生産と消費は、経済の両輪である。

 消費は文化である。消費行動は、文化的行為である。

 生活を考える上で重要なのは、生活を成り立たせている前提である。生活を成り立たせている前提は、その国の文化や価値観に根ざしている。その点を抜きにして、経済を語ることはできない。例えば食生活や住宅、衣装である。

 かつては、高額な酒税が掛けられていた。また、お酒には関税も掛けられていた。しかし、それが前提として生活が成り立っていれば、家計には、何の支障もないのである。なぜならば、家計は、生活環境を前提として形成されているからである。生きていく上で必要な物資が確保さえされていれば、基本的には、生活は成り立つのである。

 消費経済が、産業の有り様を形作る。消費経済は、垂直的な段階があり、産業は、水平的な段階で成熟していく。つまり、消費経済は、衣食住の必需品、日常品から贅沢品、自己実現のための出費へと発展していき。産業は、創生、成長、成熟、停滞、衰退と移行していく。

 安ければ良いという風潮が蔓延している。その為に、乱売合戦が起こり、市場が荒廃してもお構いなしである。その結果、デフレの振興であり、不景気である。
 消費の質もどんどん低下している。しかし、消費の質の低下に誰も気がついていない。消費の質を落とすことは、生活の質、文化の質を落とすことになるのである。

 安かろう、悪かろうは、生活の質も、文化の質も安っぽい、劣悪なものに変えてしまう。かつては、高くてもいい物を買って、それを大切にして何世代にもわたって、使ってきた。衣食住でも現代よりずっと寿命が長い。また、いい物を見抜く目、本物を見抜く眼識を養うのも重要な徳目として見なされてきた。
 経済としても修理屋や営繕、修繕が職業として成り立ってきたのである。それが社会であり、経済である。大量生産、大量販売、大量消費だけが経済なのではない。
 物を大切にすると言うのは徳目なのである。決して吝嗇(りんしょく)だからではない。それが資源や環境の保護にも繋がるのである。

 近代は、大量生産に始まったと言っていい。しかし、現代人は、この手大量生産に落とし穴があることに気がついていない。大量消費は、浪費、無駄遣い、使い捨て文化に繋がるのである。
 環境破壊、産業廃棄物、ゴミ処理、化学物質汚染、資源問題、薬物汚染、家庭崩壊これらの諸問題の根源には、大量生産、大量消費が隠されている。
 生産は、消費と表裏を成している。消費は、人々の生活によって成り立っている。人々の生活は、人々の生活観、人生観を背景としている。そして、本来は、消費が生産を決めるのである。
 大量生産は、大量消費を前提として成り立っている。故に、現代の大量消費型社会は、消費による要請によって成り立っているのではなく。主として生産者側の都合によって成り立っている。

 それが安売りに繋がっているのである。

 いい物を買って修理、修繕しながら末永く使うという思想は失われたのである。いい物を長く大切にすると言う思想から安い物を買って使い捨て、常に新しい物を求めるという思想に変化したのである。そして、それが地球規模での環境破壊を引き起こしている。

 経済には、固定的な部分と変動的な部分がある。産業にも、消費にも、家計にも、企業にも、財政にも固定的な部分と変動的な部分がある。
 固定的というのは、長期的、静態的、普遍的な部分であり、変動的というのは、短期的、動的、刹那的部分である。ただし、固定的、変動的といっても、相互に関連した事象である。相互の関連や前提条件を確認しないと一概に固定的、変動的と決め付けることはできない。即ち、固定的か、変動的かの基準は、相対的なものである。

 家計を構成する基本的要素の基幹にあるのは、衣、食、住、そして、自己実現に対する出費である。衣食住は、生きているために不可欠な物資、必需品、日常品である

 経済は、必需品、日用品から、暫時、成熟していく傾向がある。経済全体が成熟してくると必需品を扱う産業の成長が頭打ちとなり、贅沢品を扱う産業が発達するといった現象が見られる。その為に、経済全体から見ると偏りが生じる。

 その結果、構造不況業種には、必需品や日用品を扱う産業、俗に言う、コモディティ産業に多く見られる傾向がある。

 構造不況業種は、成熟産業に多く。構造不況業種には、素材産業や繊維産業のような基幹産業が含まれている。

 消費の有り様が市場の構造を形成するからである。放置すれば、素材産業や必需品産業、エネルギー産業といった基幹産業が構造不況業種に陥ってしまう。

 家計を考える上で重要なのは、第一に収入の形相である。第二に、支出の形相である。
 収入と支出、いずれにも時間的要素が加わる。そして、その時間的要素が収支の形・相を形作るための決定的な要素となるのである。
 収入の形でいえば、定収入の有無が重要となる。定収入とは、一定の固定的収入を意味する。なぜ、定収の有無が重要なのかといえば、定収の有無によって時間的な要素の度合いに変化が生じるからである。この点は、支出の形である、可処分所得の在り方にも決定的な働きをする。また、借金の在り方にも重要な要素となる。極端な話し、決まった定収が期待できない者は、借金すらできなくなる。又、金利にも格差が生じるのである。物や住宅を借りることも制約を受ける。この事は、貧富の格差の潜在的要因ともなる。
 可処分所得の根底には、固定的資金がある。その固定的資金は、税金や社会保険費、住宅ローンの返済といった長期的、或いは恒久的な費用、則ち、社会的費用によって形成されている。

 家計において問題だったのは、支出は、ある程度一定していて固定的なのに対し、収入は、一定せず変動的だという事である。支出と収入というのは、貨幣経済的概念で物的にいえば消費は固定的で生産は、変動的だという事である。人的にいえば生活、即ち、生きていく為に必要な物は日々一定しているのに、手に入れられる物は、一定していないという事である。

 狩猟生活を主とした時代では、収穫は、常に一定せず食料の保存も思い通りにならない。それでも、日々一定の食料を摂取しなければ飢え死にしてしまう。日照りが続いて水が涸れれば生きていけない。農耕によってある程度は、保存の効く食料を手に入れ事が可能となり、定住することも可能になった。しかし、それもその年の天候や作柄に左右され、飢饉になるリスク逃れられない不安定な生活であった。
 現代でも個人事業者や定職を持たない者は、日々の資金繰りに負われ、借入や保険といって長期的資金の調達にいろいろな制約を受けているのである。

 つまり、収入が一定しない限り、生活は安定しない。そして、日々の生活が安定しなければ長期的な展望も、計画も立てられないという事である。

 家計は、収入と支出から成る。自由主義経済における家計の顕著な特徴は、収入の定収入化と私的所有権の確立にある。つまり、個々の家計が自律的に存在するという点である。

 この定収入化が長期的借金を可能とし、現代の消費経済の基盤を形成するようになった。定収入化の基盤にあるのは、企業である。故に、家計と企業とは表裏の関係にある。
 定収入化によって消費の有り様も変わってきたのである。

 かつて、社会主義国では、一律の基準で所得を分配し、収入を平準化することで平等な社会状況をつくり出そうとしたが、結局は失敗した。
 なぜ、所得の分配において絶対的な基準は適さないのか。

 第一に言えるのは、経済現象は、複数の要素の相互作用によって引き起こされる。一律の基準で単純に割りきれるものではない。
 所得だけを一律に分配しても均等な分配が行われるという保証はない。
 第二に言えるのは、経済には、不確定な要素が多く。未知数な部分が多いからである。
 だいたい、需給が未知数なのである。需要量は、必要量と消費量から導き出される。供給量は、生産能力に依存している。
 消費には、はやり、すたりがある。又、市場の成熟度によって消費も影響を受ける。安定した消費を望める市場は、過当競争に陥りやすい。
 生産能力といっても農産物のように天候や作柄に左右される物もある。又、政治、災害、自己によって生産量や流通に影響がでる物資も多い。つまり、生産量には、未知数が多いのである。
 第三にいえるのは、必要とする財に個人差があることを前提としなければならないという事である。
 更に、個人差は、個人の能力、個人の嗜好、その人の体格や健康状態、その人のおかれた環境、家族状況、経験といった多岐にわたる。

 この様に、生産と消費を完全に予測することはむずかしい。だから市場の仕組みに委ねるのである。

 消費の傾向は、家計の構造に現れる。故に、家計は、経済の根源といえるのである。

 消費は文化である。故に、家計は、その国の文化の縮図である。

 親子兄弟姉妹ほど、不条理な関係はない。なぜならば、親子兄弟姉妹は、自らが望んで結んだ関係ではないのである。親子兄弟姉妹は、所与の関係である。それ故に、その絆は、切っても切れないのである。一生つきまとう。前提である。
 しかし、その親子関係の要にあるのは、一組の男と女の関係である。男と女の絆は、選択が可能な関係である。そして、今日、その根本を愛情と自らの意志に基づく事を前提とするようになってきた。
 所与の人間関係と選択的な人間関係が組合わさって社会が構成されているからこそ、人間関係の偏りを防ぎ、社会の均衡、平衡を保つことができるのである。それこそが神の意志なのである。
 この家族という関係抜きに政治や経済を語ることは不毛なことである。そして、それは男と女の関係を律することでもある。

 経済とは、生きることである。仕事はその為の手段である。同時に、仕事をすることは生きることでもあるのである。仕事は、労働である。だから、労働は、経済なのである。
 現代人は、労働を忌避すべき行為だと錯覚している。しかし、労働は、生きる為の手段であると同時に、自己実現の手段でもある。その点を忘れてはならない。
 よく仕事をとったら何も残らないと自嘲気味に言う者がいるが、それは、滑稽である。仕事は生きる事であり、生きる手段である。人は、仕事によって生かされているとも言える。だから天職とも言う。働くことは喜びであり、働けることは感謝すべき事なのである。働かなければならないことを呪うことは、生きることを呪うことに相当する。だからこそ、主体性のもてない労働は、苦役なのである。労働が苦役なのではない。労働に主体的になれないのが苦しいのである。
 現代人のように、なるべく休みを多く取り、なるべく早く、仕事から引退することを望み、又、制度化すれば、人間は生きる術(すべ)を失ってしまう。それが現代人の病根である。人は、仕事によって生かされているのである。そのことを忘れてしまえば仕事に生き甲斐を見出すことも、やりがいもなくしてしまう。仕事は、ただ単なる金儲けの手段に過ぎなくなる。そこに疎外がある。人は、パンのために働いているわけではない。パンは生きる為に必要な物である。しかし、それは目的ではない。人は生きるために働くのである。人は、働くことによって生かされているのである。

 生きる為に働くのであって、働くために生きているわけではない。そう思えれば、むしろ、働くことは生き甲斐になるのである。人間は、働くことによって生かされているのである。働くことが喜びにならない限り、生きる喜びは得られないのである。

 自分から仕事をとったら何も残らないと言うのは間違いである。全てを剥ぎ取った時、人間である。我々は、仕事によって生きることの意義を学ばされているのである。仕事を通じて何も学ぶ事ができなかったからこそ、何も残らないのである。それは結果であって原因ではない。元来、仕事に対する考え方を間違っていたのである。
 仕事によって生かされる事、生きる事、それが経済である。生きる事、生かす事を置き忘れた時、経済はその本質を失うのである。なぜならば、経済は生きる為の活動だからである。

 例えば、父親という仕事、母親という仕事である。父親という仕事、母親という仕事は辞めることができない。
 ところが現代人は、父親という仕事、母親という仕事を辞めることができると錯覚している。だから家庭が形骸化するのである。いやになったら、父親だって、母親だって辞められると思い込んでいる。子供が成人したら、父親や、母親はお役ご免だと思っている。仕事に定年退職があるように、父親にも母親にも定年退職があると思っている。
 ならば、仕事にも終わりがあるのだろうか。仕事の原点は、親となること、或いは養うべき家族を持つことである。親という仕事、愛するという仕事には、仕事ができなくなったから引退するというのは間違いである。

 知り合いの父親は、認知症になっても畑にでると不思議と認知症になる以前と同じように仕事をし続けたという。かつての職人は、死ぬまで職人であり続けた。哲学者は、哲学で死ぬのである。つまりは、仕事は人生そのものなのである。仕事共に生き、仕事によって死ぬ。これ程幸せな一生はない。現代人、特に、欧米人は、頭からそれを否定する。仕事に喜びを見いだせない。それが現代人の不幸の源なのである。

 現代人にとって仕事という言葉には醒めた響きがある。
 仕事に愛情だとか、人生に対する思いれれの様な情を見いだせない。仕事は、仕事、所詮、金の為じゃあないかと突き放して考える。
 だから、父親も、母親も、夫も、妻も仕事だというと違和感を感じ、否定的にとらえる。父親や、母親は、無償の労働であって仕事ではないという。現代人にとって仕事はあくまでも報酬を得るための手段に過ぎない。仕事だから仕方なくお愛想を言うのである。現代人は、その人の価値観や生き様と仕事は無縁だと考える。だから、金のためならどんなに悪どい事であろうとお構いなしである。裸であろうと、人を傷つけることであろうと恥じることな平然とやってのける。仕事だからと現代人は言う。
 しかし、それは欧米流の考え方である。日本人にとって、仕事場は、生きる為の修業の場であった。だから、武道になり、商人道が生まれ、職人気質が形成されたのである。日本の商人は、命懸けで信用を守り、職人は、自分の仕事に誇りを持ち、納得のいかないどんなに金を積まれても仕事はしなかった。教育者は、子供を育てることを天職と考え、子供達に愛情を注ぎ、死ぬまで面倒を見た。だから、教え子は、先生を結婚式に招いたのものなのである。信用を守り、寝食を忘れて腕を磨き、子供に愛情を注いだのは、それが仕事だからである。同じ様に仕事を口実にするにしても全く逆の発想である。
 日本人にとって仕事は修業なのである。だから、休むことさえ惜しんだ。休め、休めという思想とは異質である。

 定年退職という思想は、日本人にはない。働けなくなるまで働き。働けなくなったら、隠居するのである。隠居しても、仕事から離れるのではなく。ただ後進に道を譲ると言うだけである。
 現代人は、仕事を仕事として受け止められないから、生き甲斐が見いだせなくなってのである。一定の年齢が来たら、仕事がなくなるから自尊心を失ってしまうのである。また、働けなくなったら、働く場がなくなるから、自分の信条を保てなくなったのである。そして、道徳がなくなり、家族に対する愛情や絆が失われ、家庭が崩壊し、同僚への思いやりがなくなり会社が守れなくなり、経済がおかしくなるのである。
 要するに、守るべきものがなくなってしまったのである。それが喪失の正体であり、疎外の原因なのである。現代人は、あえてそこから目を背けている。最後に問われるのは、愛情なのである。だからこそ、自由、平等の最後に愛が必要となるのである。
 共に生きることを考えることが経済を考えることなのである。争い、対立するのではなく。助け合い、補い合って生きていくのが経済である。

 自由と言い、平等という。しかし、最後に友愛が来るのは、愛がなければ自由と平等の調和が計れないからである。人々は、自由や平等についてはよく論じるが、真実の愛については、議論することが少ない。しかし、最後に求められるのは愛なのである。





                                



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