経済と陰陽五行(実績編)

家   計


 家計の本源は愛である。家族愛である。

 家計というのは、現代の経済では最も虐げられている経済主体である。
 しかし、家計は、消費経済の根源である。そして、消費は、景気を決定付ける基本的要素である。

 家計は、消費経済の中核である。経済は、生産だけで成り立っているわけではない。生産と消費は表裏関係にあり、経済は、生産経済と消費経済から成る。消費経済は、生産経済と同じぐらい重要な経済である。

 現代社会は、大量生産型、大量消費型経済である。この大量生産、大量消費が資源の浪費や環境問題を引き起こし、社会、経済を不安定にしている。生産を制約するのは、消費である。その消費の在り方が、無秩序であるから、経済が無軌道になるのである。経済は、生産だけに重点があるのではなく。消費にも重要な役割がある。生産と消費は経済の両輪なのである。

 そして、家計の本質は人の経済でもある。家計は、所得と支出から成る。所得と支出は、収入と消費でもある。消費の根本は、生きる為の活動であり、人生である。

 人の経済は、人々の暮らし、則ち、生活を基盤としている。この生活費は、固定的支出を形成する。つい近年まで衣食住が経済の中心であった。

 また、人の経済は、組織の経済でもある。人の経済は、共同体の経済である。
 人の経済は、人の一生にある。則ち、人の生き様にある。

 消費というのは、固定的で、一定で、周期的である部分が大きい。つまり、生きる為の活動は、単純、反復、繰り返しの事象が主体なのである。又、日常的な活動には、一日、一週間、一月、一年、一生の周期で繰り返される事象に区分される。その他に、臨時的、不定期な事象がある。
 例えば、炊事、洗濯、掃除は、一日の活動である。結婚は、一生に一度の出来事であることが前提である。
 この様に、消費が固定的で、一定であるのに対して、従来では、収入や所得は、変動的で、不規則、不確実なものであった。企業や機関は、この変動的で、不規則、不確実な所得、収入を定収入化する働きがある。そして、定収の有無が、家計の基盤に重要な作用を及ぼしているのである。

 定収入化すると言う事は、消費を計画的なものにする事ができるようになる。消費を計画的にすることが可能になることは、計画的な借金が可能となる。つまり、定収入化は、借金の技術の発展を促すことになる。
 消費者金融は、消費経済が認知されていない分、不完全なままに放置されている。それが、消費者経済を不安定要因にしている。つまり、消費経済が確立されていないために、消費経済が成り立たず、消費者金融が成り立たないために、消費経済が確立できないと言う悪循環に陥っているのである。
 消費者金融の確立は、消費経済を確立する上での必要十分条件の一つである。

 家計の根本は、家族である。家族の関係は、基本的に血縁関係によって成り立っている。この様な家族の関係には、親兄弟、姉妹、叔父叔母、従兄弟という所与の関係、則ち、与えられた関係と夫婦、子供、養子、義母と言った生み出す関係がある。

 現代社会は、所与の関係に対して否定的で冷淡である。それが家庭の崩壊、家計の脆弱を招いている。その為に、消費経済の確立ができないでいる。

 家計を考える上では、先ず家族関係のことを考える必要がある。

 家族は、生活の基盤である。生活の基盤と言う事は、人生の基盤である。自分という存在は、父母の存在なくして成立しない。則ち、父母の間から自分は生まれたのである。この夫婦、親子が人間関係の原点であることは間違いない。客観的な事実である。ただ、現代社会は、この関係に対し懐疑的である。つまり、血縁関係に自己の意志を認めない傾向がある。しかし、自己の意志、主体性の源も父母の関係との関わりにある。否定しようが、肯定しようが、親子関係というのは、人間関係の原点であり、人生の起点でもあるのである。否定する事自体、その関係の存在を前提としている。
 問題があるとしたら、この親子関係を基盤とした人間関係が築けないことにある。

 家族に対して否定的であるから、必然的に家計に対しても否定的である。家計に対して否定的というのは、家族を経済における最小単位とすることに否定的だという事である。つまり、家族を一個の経済主体として認めないことを意味する。家族を共同体として見なさないのである。そして、経済主体を全て個人に還元する。この場合、個としての人間関係以外の人間関係は認められない。婚姻関係も、扶養関係も存在しなくなる。つまり、経済に関する権利と義務は、全て個に還元される。
 故に、出産、育児、老後の介護もすべて個としての権利と義務に還元されてしまう。社会的な権利、義務関係には、家族は関わりがないという事になる。家族というのは、便宜的に共同生活をしているだけの同居人に過ぎないのである。在るとしたら、愛情という曖昧模糊とした感情だけの繋がりである。
 現代人が、何かにつけて愛を求めようとする気持ちが解る気がする。つまり、人間関係、絆は、愛しか認められないのである。その愛も血縁関係以外の人間関係の中ででしか認められない。それが現代社会の基礎である。私には、殺伐としているとしか言いようがない。

 親子の情愛も兄弟の愛情も一切が無駄としたら、正常な人間関係は築けなくなる。なぜならば、親子の愛が人間関係の原点だからである。

 市民革命の原点は、自由と平等と同志愛(fratemity)にある。日本では、fratemityを博愛と訳している。しかし、本来は、友愛という意味に近く、同志愛と言った方が適切であろう。つまり、志を同じくする者達の間にある連帯感である。この連帯感を敷延したところに普遍的な愛がある。なぜ、愛があるのか。つまり、自由と平等の行き着いたところ、或いは、中間には愛が必要だからである。

 人間関係の起点は自他の関係にある。この自他の関係の原初にあるのは、親子、特に母と子の関係である。つまり、親子の愛情である。この親子の愛情を前提とするのか、それとも断ち切って考えるのかによってその後の人間関係は決定的に違ってくる。

 自他の関係は、主観、客観の問題、則ち、主客の問題でもある。

 先ず家計を考える上では、自分と家族との関係を明らかにする必要がある。その上で、どの様な考え方を基礎として家族を組み立てるかが重要となる。

 大家族主義を採るか、核家族主義を採るか、又、夫婦別家計を採るからによって家計の在り方は全く違ったものになる。

 ただ、基本的に全てを個人に還元する事は、現在の経済体制では不可能である。それは、乳児や幼児というのは、何等かの保護者が居なければ、生物学的に生存できないことが前提であるからである。
 故に、何等かの共同体を前提とせざるを得ない。その共同体を家族とするか、公共団体、或いは、地域社会、自治体、国家にするかによって国家体制は決まる。
 それは婚姻制度や教育の在り方にも決定的な影響を及ぼすのである。

 なぜ、自由や平等だけでなく、愛が必要なのか。自由にせよ、平等にせよ、突き詰めると人間関係に至るからである。人と人との関係を前提としなければ自由も平等も成立しない。人間関係の出発点は自分である。人間関係の本源は愛にある。
 人間関係は起点は自他の関係にあり、自由と平等は主客の関係にあるからである。主体的な関わりがなければ人間関係は生じない。主体的働きは愛にある。愛は、自分と他者との関係から生まれる感情なのである。
 自己が確立されていなければ他者との関わりは隷属関係でしかない。自分を制御するのは主体性である。主体性がなければ人間は自律できない。自律できなければ他者の支配下に置かれる。乳児、幼児期がそれである。正常な人間関係が結べるか否かは、自律性の問題である。他者に支配されてる限り、自由も、平等も実現できない。
 自分がなければ、則ち、愛情がなければ自由も平等も成り立たない。なぜならば、自分の存在を前提としないという事は自己否定を意味するからである。誰も愛せない人間が自由や平等について語っても虚しい。
 ところが現代人は、自由や平等について議論するばかりで肝腎な愛について議論しようとしない。そして、曖昧模糊としたところで愛を持ち出してくる。
 愛がなければ、自由も平等もただの関係、働きに過ぎない。愛は自己実現である。愛を否定することは自己否定である。そして、その愛は、限定的な愛ではなく、普遍的な愛なのである。
 愛の持つ厳しさ、そして、権利や義務については目を瞑り。又、愛と欲望とをすり替えてただ、自分の快楽を充たすことだけに愛を利用しようとする。しかし、愛の本源は母性愛にある。家族の中心に母親が居るのである。だからこそ、母親を保護する形で家族関係は構成されるのである。それが家族の形と相を表す。その根源にあるのは愛の象(かたち)である。
 自らの卑しさや淫らさを正当化するために愛を持ち出すのは愚劣な行為である。愛の本質は禁欲的で、純潔ですらある。愛と性欲とを混同するのは身勝手なことである。
 自分を抑制し、愛する人を大事にするからこそ、愛は、実現するのである。自分の欲望のために、他人を犠牲にする行為を愛とは言わない。

 家は内である。家は、内と外との関係をつくり出す。そして、内には内の外には外の規範が働く。内なる規範は、道徳、倫理を本とし、外なる規範は、法や規則を本とする。外は、不道徳な世界であり、内は道徳的な世界である。内には愛があり、外には力がある。外の力を内に取り入れることによって家は、活力を得る。外には内なる規範によって立ち向かう。内は戻るべき処、住むべき処なのである。

 愛は、人間関係の中心にある。そして、その愛の本性は母性愛である。家族はこの母性を中心によって築かれる。男は、家族を外敵から護ることを本分とする。そこに内と外の関係が生じる。内と外との関係は、家族の境界線と範囲によって決まる。
 家族の主体は一つである。統一される必要がある。家計が分かれれば、家族の生活も分裂する。故に、家族は、経済主体の最小単位の一つなのである。

 家庭内労働と家庭外労働の性格は違う。家庭内労働は収入に結びつかない労働であり、消費的労働である。故に、出費を伴う労働でもある。

 家計にも形と相がある。家計における形、相が家計の性格を決める。故に、家計の形は重要である。家計の形相を左右するのは時間の作用である。時間には、日常的な側面と非日常的な側面がある。それが固定的な費用と変動的な費用を発生させる。固定的な費用は位置に転じ、変動的な費用は運動に転じる。

 家計における日常的な収支と非日常的な収支を区分することが重要になる。則ち、費用には、固定的な費用と変動的な費用がある。固定的な費用は、必需的費用である。則ち、固定的費用は家計の基盤を構成する費用である。

 そして、家族か生活していく上で何が必要なのかに依って家計の基礎と構成が定まる。それは、消費の問題である。欲望の問題ではない。消費が確立されて始めて、生産は成り立つ。故に、消費と生産は経済の両輪なのである。
 消費は必ずしも市場を経由して為されるものではない。使用価値は、交換価値に全て還元れはしない。貨幣価値が全てではないのである。
 大量消費を前提とした経済は、物理的限界にいたって破綻する。経済は、物理的制約の上に成り立っていることを忘れては成らない。人間が、食べられる物には、限界があるのである。人間が生きられる時間には限りがあるのである。

 生産と消費は表裏の関係にある。生産と消費が表裏の関係にあるという事は、産業と家計は表裏の関係にあることを意味する。生産は供給の元となり、消費は需要をつくり出す。つまり、生産と消費は市場経済の基盤である。

 収入と支出も表裏の関係にある。収入と支出は、入りと出の関係でもある。ただし、収入と支出は、入りと出の関係の一部に過ぎない。収支の他に、入りと出の関係には、物と金と人がある。
 生産と消費、入りと出の関係は内と外との関係に根ざしている。内と外との取引は均衡している。それは、内部と外部の取引が均衡しているという意味だけでなく、内部の取引も均衡している事を意味する。
 外部取引とは、外が売り、内が買うと言う関係で当然均衡している。内部取引は、購入した物が内にあって物や消費となり、外に金銭を支出する事であると言う関係である。この関係も均衡している。
 この様な内部取引と外部取引は、表裏の関係にある。そして、この外部取引と内部取引が家計の形と相を決める。

 家計は、消費から成り立つ。消費とは生活そのものである。生活とは、生きる為の活動である。生きる為の活動とは人生である。則ち、家計は、家族の人生が複合する事によって形成される。
 家計を考えることは、人生を考えることである。人間の生き様を考えることである。自分が生きていく時間を考えることである。そこに消費経済の意義がある。

 生活をしていくためには、外部から生活に必要な財を摂取する必要がある。外部から必要な財、物資を摂取するとは、外部から貨幣で購入することを意味する。その為には、収入が前提となる。
 その為に、家計は、労働を提供して収入を得るのである。つまり、労働と引き替えに分配の権利を得るのである。この関係も表裏の関係を生じる。この関係は家族の人的構成、役割分担を形成する。

 家族の重心には、内向きな者と外向きな者がある。つまり、名目的な重心と実質的な中心である。名目的な中心は、一般に世帯主であり、実質的な中心は、主婦、或いは、主人である。内を護る者は、母親、女性でなければならないという事ではないが、実質的中心の本性は、母性である。名目と実質は、陰陽の本となる。母性は太極であり、一である。則ち、家族を生み出す根源である。

 現代人は、生きる為に何が必要なのかを考えずに、ただ消費させることばかりを考える。だから家計が滅茶苦茶になる。人としての根本を忘れている。だから、欲望だけが先行する。それでは餓鬼である。現代の経済は餓鬼道、修羅場である。

 自分の欲望を充足するためには、他人を犠牲にすることを厭わない。あさましい限りである。恥も外聞もあったものではない。人間としての尊厳など欠片もない。品位も失われた。金儲けに長けた者が世の誉れを受ける。どんなに悪逆な作品でも売れれば勝ちなのである。言論も地に堕ちた。言論の自由は猥褻な物を世に出すときのみ叫ばれる。どんなに不道徳な物でも言論の自由の下で許される。現代の経済には徳がない。

 消費を欲望に委ねるべきではない。欲望に消費を委ねれば、後は破滅するだけである。物には限りがある。人間に与えられた時間にも限りがある。欲望には際限がない。限りある物を際限ない欲望に委ねれば、自制、抑制が利かなくなる。残された道は破滅である。

 欲望に市場の原理を委ねている限り現在の経済は、自滅的経済である。

 人生は、量ではなくて質であることを忘れてはならない。
 人生は、仕事と消費の質によって決まる。そして、調和のとれた人生にこそ上質な人生がある。そして、その上質さこそが豊かさや幸福の尺度なのである。そうしてみると豊かさは調和のとれた生活にある。
 豊かさというのは、調和のとれた生活にある。現代人は、その調和を忘れ貨幣的価値ばかりを追い求めている。
 例えばいくらお金があっても使い道がなければ豊かとは言えない。又、いくら物質的な恵まれているとしても愛すべき人達がいなければ幸せとは言えない。
 お金があれば上質な人生が送れると思い込んでいる。金さえあれば、どんなに美味しい物でも食べられると錯覚している。
 しかし、いくらお金を出しても愛情の沢山つまった暖かな料理を手に入れることはできない。大切なのは、何を美味しいと感じるかの感性である。美味しい物を食べるために、家族や愛する人達を犠牲にしたら、上質の人生は送れない。
 食文化と言うが、今、文化は、均質化しつつある。国々や土地々の食文化が滅び、味覚が均一化されつつある。味覚というのは、最も個性的でな感覚であり、自己主張する感覚である。それが、一つの国どころか、世界が一つの味覚に均質化されつつある。それを豊というのであろうか。
 若さや、健康も金では買えない。それに、お金があっても暇がなければ使い道がないし、暇があってもお金がなければ、暇を持て余してしまう。
 豊かな国の一日の食事代にもならない年間所得しか稼げない国がある。そんなことは本来あり得ないのである。あるとすれば異常なのである。それを異常と感じられなくなっているとしたらそれ自体が異常であり、経済感覚が麻痺している証拠である。それは国民的病気である。所得の多寡ではなく。そこに人々が生活をしているという事実である。
 つまり、生活ができるという事実であり、重要なのは生活の実態がどうなっているかである。
 貨幣価値ばかりで豊かさを測ることほど空疎なことはない。なぜならば豊かさや幸せは主観的な尺度に基づくからである。そして、多分に錯覚に基づいている。
 例えば、高級料理店で出される料理と採れたての野菜や魚とではどちらが美味しいかは、主観の差である。どちらの価格が高いかに依るのではない。高級品が美味しく感じるのは、高価な物が美味しいと錯覚しているだけである。味覚に関しては、余程子供の方が騙されない。子供は、価格ではなく、自分の舌を信じているからである。
 我々は、本当に豊かになったのであろうか。豊かになったと錯覚しているだけではないのだろうか。
 我々は、本当に幸せになったのであろうか。幸せになったと錯覚しているだけではないだろうか。




                       

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