経済と陰陽五行(実績編)

位   置


 最初の位置は、自分との距離に依って定まる。それが基準である。位置と距離は、量的なものを指すだけでなく、質的なものを含む。質とは、長短、温度、強弱、速度等である。

 位置は距離を表している。まず第一に、自分と対象との距離が基準となる。次ぎに対象間の距離が問題となる。

 距離は、自己と対象との隔たりの程度である。距離は、自己と対象と距離を測る基準とによって設定される。つまり、自己と対象と基準の距離は定まる。自己は間接的認識対象であるから、自己を任意な外的対象に写像する事によって中心は定められ。しかし、その時点ではまだ自と他は未分化である。

 基準は中心点が確定することによって成立する。最初の認識の中心は、自己である。故に、最初の基準は自己である。中心点とは、原点である。故に、原点とは自己である。
 基準は、位置である。最初の基準は自己を中心に成される。

 自己が外部に投置され、任意の位置に確定される事によって外部化されることによって基準点が客体化される。基準が客体化されて対象は、相対化される。

 故に、大前提は、自己の存在であり、対象の存在である。自己と対象の存在と、その距離によって最初の位置は定められる。

 会計的現象や物理的現象は、数値に置き換えられて解析される。会計的空間や物理学的空間は、数値的空間に置き換えられることによって現象を方程式化する事が可能となる。会計的現象や物理学的現象は方程式化することによって法則化される。

 数には、測る量と数える数という二つの側面がある。測る量というのは、図形的な数であり、比によって形成された連続した量である。それに対し、数える数は、個々、独立した要素の集合によって成立した不連続の数である。

 足し算、引き算の演算は、同質、同種の量の間で行われるが、掛け算とわり算の演算は、異種、異質の量の間でも可能であり、新しい量を生み出す力を持った操作なのである。
 例えば距離(長さ)と面の足し算や引き算はできない。それに対し、距離(長さ)と面との掛け算は可能で、その結果は体積という異次元の量を表す数値に変換される。(「数学入門 上」遠山 啓著 岩波新書)

 貨幣的価値は、最終的には、自然数に還元される。それは貨幣が物としての実体があるからである。即ち、貨幣価値は、分離量だからである。しかし、経済的価値は、連続量である。故に、経済的価値は、必ずしも自然数に還元されるとは限らない。

 所得は、分離量で計算されるが、労働は連続量である。

 物理現象は、長さと時間と質量によって測られるが、経済現象は、貨幣価値(交換価値)と時間と質量によって測られる。
 物理量で基準になるのが単位であるのに対し、経済の基準は単価である。即ち、単位は、一単位あたりの量であり、単価は、一単位あたりの貨幣価値である。

 会計的な数値は、数と量を掛け合わせる事によって成立している。それは、分離量、不連続な数と連続した量とを統合することを意味する。即ち、単位あたりの価格、単価と実物の数量を掛け合わせたものが経済的価値を構成するのである。

 家族というのは、象徴的な単位である。家族という関係は、親子兄弟姉妹という所与の関係と一組の男女の任意の関係、選択的関係によって成り立っている。
 つまり、親子と言う内的結合関係と男女という外的結合関係が組合わさり、核となって家族を構成する。つまり、連続的関係と不連続な関係を統合することによって家族は成り立っているのである。
 家族の有り様で重要なのは、家族の位置と働き(役割)と関係である。

 量は位置に反映される。

 位置と運動は関係を成立させる。

 位置は、運動を発生する。運動は、位置の変化である。変化は、位置の移動によって現れる。位置の移動は、時間と位置との関数である。故に、運動は、時間と位置の関数として表される。

 量、即ち、位置の変化は、流れを変える。流れの変化とは、流れる方向や速度の変化を意味する。例えば金利の高さや総資本の総量は資金の流れる方向を変化させる。
 力、即ち、働きの変化は、速度に影響する。速度の変化は、その時点時点に進んでいる方向と作用する力の方向の総和によって決まる。

 数式は、定数と、変数、関数からなる。定数は位置を示し、変数は運動を表す。関係は関数によって表現される。

 変数には、独立変数と従属変数がある。何を独立変数とするか、従属変数にするかは任意な問題である。

 貨幣価値は、経済的価値から派生する価値である。貨幣価値は、経済的価値の部分であり、全体ではない。貨幣価値は、経済的価値に従属した価値である。即ち、独立した価値ではない。

 経済的価値と貨幣価値とは同じ価値ではない。経済的価値とは、潜在的に在る価値である。即ち、生活に必要な物としての価値は、貨幣価値が成立する以前から存在している。貨幣価値というのは、経済的価値を交換する必要が生じた時に派生する価値、即ち、交換価値に基づいて成立する価値である。
 貨幣価値というのは、所与の価値として存在する価値ではなく、交換する必要性によって変換されることによって生じる任意の価値であり、基本的に数値として表現される。即ち、潜在的な価値である。
 貨幣価値は、財と別個に存在するというのは、錯覚である。或いは、結果的な認識である。貨幣価値は、本来、財と切り離しては考えられない価値である。即ち、貨幣価値は財の属性なのである。少なくとも貨幣価値が成立する当初は、財を変換する必要があるのである。それが貨幣価値の裏付けでもある。
 貨幣価値は、貨幣という物として表現される。貨幣価値は、貨幣に置き換わった瞬間、貨幣としての実体を持つ。そして、貨幣その物が財としての実体を持つようになる。その為に、貨幣価値は、操作することが可能となる。それは、言語が文字によって、数値が数字によって実体化されるのと似ている。 
 貨幣価値が実体化されると貨幣価値を所有したり、貯蔵することが可能となる。貨幣価値を所有したり、貯蔵することが可能となると、次ぎに、貨幣価値を貸し借りすることが可能となる。それが、貨幣の潜在的な力を持たせることになる。
 そして、貨幣価値の貸し借りは、債権と債務を生じさせる。債権と債務は、負債を成立させる。負債は、その財の元にある価値を増幅させる作用がある。それが経済における位置エネルギーの源である。

 借入金の残高は、現金を調達した量、また、将来、支払う義務のある現金の量を意味している。
 現金というのは、貨幣という形で現れるが、その本来の働きは運動によって発揮されるのである。

 資本主義経済は、会計と法学と数学の上に成り立っている。故に、経済学は、会計と法学と数学の融合の上に成立すべき学問である。ところが現在の経済学は、経済学としてしか成立していない。

 資本主義体制には、カジノ的な要素がある。むろん、カジノは賭博場であり、資本主義と賭博を同列に扱うつもりはない。ただ、資本主義、貨幣経済の仕組みには、カジノの仕組みに類似した部分があり、カジノを例に出して説明した方が解りやすいと思う。
 先ずカジノで掛けに参加する場合は、手持ちのチップが必要となる。チップは、胴元から購入するか、借りるかである。いずれの場合も金利はかからないことを前提とする。掛け金が不足したら、胴元から必要なだけ、購入するか、借りる、そして、カジノを出る際に、チップを清算し、現金に換える。
 つまり、購入という形式をとるにしても最初にチップを胴元から借りるのである。このチップに相当するのが貨幣である。元金というのは、最初から限られている場合もあるし、また、必要に応じ追加される場合もある。しかし、いずれにしても手持ちのチップがなければ、賭け事には参加できないのである。又、チップがなくなり、補充されなければゲームは終わりである。それ以上続けることはできない。それが市場の決まりである。残高というのは、手持ちのチップの量のことをいい。その残高の量がその人の掛けに対する潜在的な力、経済的位置エネルギーを意味する。
 そして、最終的には、現金に依って決済される。現金とは、現在の貨幣価値を実現した値である。貨幣とは、現在の貨幣価値を指し示した物である。

 表象貨幣の価値は、手持ちの資産の潜在的価値が前提となる。即ち、貨幣経済は、手持ち資金を零として設定されているわけではなく。ある程度の持ち分を想定することによって成り立っている。トランプのゲームや麻雀を思い浮かべればいい。トランプのゲームや麻雀は、最初に各々が何等かの手持ち、或いは、取り分を所有、保有していることが前提となる。掛け金のない者は参加できないのである。貨幣経済の原点は、手持ち貨幣の有り高、残高によって決まる。そして、最初の手持ち資金は、借金によって賄われる。
 そして、麻雀やトランプのように予め手持ちの資金は、必要に応じて手持ちの資産を現金化、即ち、貨幣への転換する事によって調整されているのである。その転換操作によって発生するのが債務、即ち、負債である。逆に言うと、貸し借りという操作によって貨幣は創造されるのである。それが信用価値である。つまり、貨幣価値というのは信用価値でもある。
 要するに、貨幣価値は、経済的価値の潜在的位置、保有量を前提として成り立っている。最初から決まった貨幣量が想定されているわけではない。貨幣の総量は、経済の状況によって調整されるべきものなのである。

 位置とは、残高水準、即ち、負債や固定資産、在庫の残高水準を意味する。位置の持つ働きは、位置エネルギーとなる。

 現在の資本主義は、会計制度の上に成り立っている。故に、現行の資本主義経済では、会計原則が経済現象の前提として働いている。

 会計は、取引を記録し、仕訳し、転記し、集計し、決算処理し、損益と貸借に分割される過程を経て形成される。
 この一連の操作を通じて現金主義から期間損益へと会計処理、変換されるのである。即ち、この一連の処理過程にこそ、資本主義経済の仕組みが隠されているのである。

 決算処理は基本的に残高処理である。

 会計上の定数とは、残高を表している。又、会計上の定数とは、固定的な部分を言う。

 例えば会計上の定数には、負債の元本や固定費、固定資産を表した部分、資本金等がある。それに対して、変数は、金利や配当、利益、変動費を意味する。

 総資産と費用を足した値に占める減価償却費の割合や総資産と収益の関数、即ち、総資産回転率などが重要な指標となる。

 また、固定費の位置と変動費の運動の組み合わせによって損益分岐構造が構成されるのである。損益分岐点の構成比率は、経営上だけでなく産業構造を知るためにも重要な要素となる。

 ストックで問題なのは、水準であ。即ち、位置である。フローで問題なのは速度と方向であり、運動である。水準と変化の関係によって損益の関係が構成される。それが損益分岐点である。

 故に、経済政策を選択する場合、位置に関係した問題なのか、運動に関係した問題なのかをよく見極める必要がある。

 位置は、比率でもある。位置とは、全体に占める割合を意味する。

 比にも割合と比較という二つの側面がある。そして、変化は時間の関数である。
 故に、経済や経営の分析の基本は、比率を出すことと、比較をすることと、推移を明らかにすることから始まるのである。

 経済的位置は、相対的な値であり、比率として表現される。
 例えば、企業経営において貸借対照表上の総資産に占める固定資産の比率は、長期的に期間損益に重大な影響を与える。
 又、費用に占める固定費と変動費の比率によって損益構造が形作られる。
 固定資産や損益構造は、産業の基礎的構造をも形成する。そして、この基礎的構造が景気の動向を潜在的に方向付けている。為替の乱高下や原油価格の高騰といった経済変動の影響は、基礎構造の在り方によって違いがでる。
 故に、この基礎的構造が理解できないと経済現象を解明することはできない。翻って言えば、産業の基礎構造が解らないと状況に適合した景気対策、経済政策も立てることができない。

 貸借対照表の対象性と比率に経営の秘密が隠されている。

 税の働きは、税が掛けられる対象とその対象に税が占める割合によって決まる。

 現行の日本の法人税は、法人の所得を課税対象としている。課税対象が期間利益でも、期間現金収支でもない点に注目する必要がある。

 借入金の元本の返済資金は、損益上には現れてこない。故に、期間損益には反映されない。借入金の返済は、負債の減少として現れる。しかし、それは、個々の借入金と直接的に結びついて表示されるわけではない。つまり、資金繰りとの関わり合いを読みとるのは困難である。
 借入金の原資は、減価償却費として計上される。しかし、非償却資産に対する借入金の返済の裏付けはない。

 現行の税制、会計制度上では、固定資産に含まれる非償却資産の原資は、資本化することを前提としている。

 なぜならば、非償却資産の原資は、資本以外、制度上認められていないからである。即ち、非償却資産の調達原資は、資本以外に清算する手段がない。
 固定資産を調達するための資金の調達手段には、借入と資本がある。資本問いのは、投資家に資金を提供してもらうことである。
 資本家から資金を調達する以外には、借入による手段しかない。借入の場合、融資をした者、即ち、融資者に返済する義務が生じる。返済の原資は、収益によって賄われる。
 これが前提である。
 そして、これは、現在の国家の根本的経済理念である。
 非償却資産というのは、主として不動産を指して言う。

 まず第一に、会計上の問題である。大前提は、借入金の返済額は、費用と見なされていないという事である。
 借入金の返済は、損益上には現れてこない。なぜならば、借入金の返済額は、費用として見なされていないからである。借入金に関連して損益上に計上されるのは、金利と減価償却費、そして、借入の際にかかった費用だけである。
 貸借対照表上において借入金は、総資本の側に負債として計上され、総資産の側には、負債の運用された結果が記載される。そして、借入金が返済された場合は、負債を直接減額することで表示される。即ち、借入金の返済額は、明確に表示されるわけではない。

 減価償却費は、借入金と同額を計上する事を意味しているわけではない。減価償却費は、借入金の元本の返済を意味しているわけではないのである。言い換えると減価償却費と借入金の返済額は同じ性格の科目ではない。さらに言えば、非減価償却費の返済額は、減価償却費の中に、含まれていない。又、借入金の返済で、減価償却費を超える部分は利益処分の中から捻出することになる。
 つまり、借入金の元本の返済は、会計上正規の処理の中に含まれていないのである。

 それを補うためにキャッシュフロー計算書が作られるようになった。しかし、期間損益には、借入金の返済は反映されていない。
 つまり、借入金の元本の返済が実際の経営収益にどの様な影響を与えているかを計測する術(すべ)がないという事である。資金が経営を実質的に左右しているというのにである。

 仮に、借入金の返済を早めたとしても期間損益には反映されない。かといって負債を直接減額するために、相対となる科目が曖昧になり、貸借対照表の均衡を崩すことになりかねない。故に、経営者に借入金の返済を早めようと言う動機が働かない。

 減価償却費にも問題がある。一度償却資産として計上されると規定に従って償却することが強制される。利益が上がったから、早めに償却をしてしまおうとしても会計上許されないのである。その為に、利益が計上されている時に借金を前倒しに返済してしまおうとしても、結局、資金繰りが苦しくするだけの結果を招くのである。
 逆に、不景気だからといって例えば投資を控えたとしても容赦なく償却費は費用計上しなければならなくなる。

 貸し渋り、貸し剥がしの対象は、借入金の元本に相当する部分で金利ではない。故に、金利をいくら優遇しても貸し渋り、貸し剥がしはなくならない。

 補助金の限界は、補助金は、資金上の問題であり、収益に反映されないという事である。同様のことは、公的融資や保証制度にも言える。収益が改善されない限り、経営の安定は得られないのである。

 貸し渋り、貸し剥がしの問題点は、融資の更新の時、借り換え時の問題である。即ち、新規融資や更新融資の際の問題である。
 又、深刻な問題を引き起こすのは、運転資金である。運転資金と言っても実際は新規融資と変わりない。むしろ、運転資金の方が融資基準は厳格である。運転資金を借りる際に問題になるのは、何を担保するかであり、その場合は、非償却資産の含み価値である。

 融資の基準は、担保か、収益、即ち、実績にあるという点である。裏がして言うと担保力や収益力が低下したり、また、為替の変動や石油価格の高騰によって実績が悪化した時、つまり、資金を一番必要とした時に融資基準が厳しくなることを意味する。

 強制的に不良債権を処理させても借入金が減るわけではない。むしろ、将来の借入金の返済の原資を失うことになる。
 又、不良債権と言われる部分には、稼働している設備が含まれる。稼働している設備に担保権が行使されると営業の続行が不可能となる。
 大体、一般の企業は、資産を遊ばせている程、経営にゆとりがあるわけではない。又、遊休資産は原則的に、税制上、或いは会計上、保有できない、或いは、収益的に不利になる仕組みになっている。
 つまり、遊休資産以外の不良債権の処理を強行すればするほど、景気は悪化するのである。

 第二に、税制上の問題である。
 先ず、税制上の減価償却に対する基準と会計上の減価償却に対する基準に微妙な違いがあることである。ただ、実務的には、日本では、確定決算主義がとられているために、減価償却の算出方法が税務処理に準拠する傾向がある。しかし、早期償却を行った場合、納税額と利益との関連性がなくなるので、結局、税効果処理を採用せざるをえなくなる。

 償却費以上の返済原資は、利益処分から賄われる。しかし、利益処分の項目には、借入金の返済は認められていない。内部留保は原則禁止されているのである。その為に、未上場企業は、内部留保は課税対象である。

 非償却資産、即ち、不動産を処理した時に上がった収入は、税制上、収益に計上される。しかも、利益には課税される。利益は、収益から原価を差し引いて出される。借入金は費用に計上されないから収益から引かれる費用に、借入金の返済額は含まれない。故に、借入金が減るわけではない。

 資本に対しては、株の売却時に税が課せられる。
 経営者と株主が同一人物である場合が多い未上場企業の場合、事業継承時に多額の納税資金が必要となる。
 事業継承で問題なのは、企業は誰の物かと言うことである。
 つまり、企業の主体性は誰に帰すかである。企業を組織とするならば、組織を構成する物の総意に企業の主体性は、反映されるべきところである。また、企業が存続するために必要なのが資金であるとするならば、資本の問題に社員が関わる必要がある。しかし、資本と社員とは切り離されている。その為に、企業を構成する社員は、企業の存続に関われないのが原則なのである。
 企業の所有権を誰に帰すかは思想なのである。又、世襲は基本的に認めないとするのもしそうである。思想であることを明確にすべきなのである。そうしなければ国民の意志を問うことはできない。

 経営主体は継続を前提としているとするならば、事業の継承を円滑にする方策を定めておく必要がある。企業は継続を目的とするというのは思想なのである。
 逆に、非償却資産を資本によって賄うというならば、その思想を明確にすべきなのである。この点はあくまでも思想なのである。だからこそ明確とすべきなのである。

 税制は、経営主体の行動規範を制約する。経営者の行動規範を制約することによって景気のような経済状況に重大な影響力を及ぼすのである。
安易に税を考えるべきではない。税は国家思想を実現したものなのである

 重要なのは、借入金の存在を前提とするならば、借入金の元本の扱いを明確にすることなのである。非償却資産の元本の精算を前提としないのならば、金融機関も行政も非償却資産の元本を清算しなくてもすむ仕組みや体制をとるべきなのである。
 即ち、借入金の元本は、基本的に会社が清算される時に清算されるべき性格の借入金だと言う事と借入金は常に存在しつづけるという事を前提とすべきだという点である。

 現行の会計制度も税制も事業の長期均衡を原則としながら、実務的には、単年度均衡を前提としているのである。そこに制度的な矛盾、不整合がある。そして、その制度的歪みが経済全般に悪影響を及ぼしているのである。

 重大なのは、会計の仕組みは、現在の経済の行動規範を構成していると言う事なのである。故に、会計を理解しないと経済現象を引き起こしている要因を解明することができないという事なのである。

 期間所得に対し課税するというのは、思想であって経済的根拠はない。つまり、それが経済現象にどの様な影響を与えているかを考慮された形跡はない。考慮されたとして技術的な問題に限定されている場合が多い。

 つまり、現行の法人税は、資金収支にも期間損益にも関係ない、期間所得にかけられており、その為に、法人の資金繰りや期間損益に重大に障害を引き起こしているのである。
 たとえば、期間損益上は黒字であっても資金繰りが逼迫すると言う事が往々にして発生する。この様なときに、納税のために借金をしなければならないと言う事態が発生するのである。

 法人という言葉がある。その代表的な存在が株式会社である。株式会社の所有を巡っては諸説ある。しかし、そのほとんどが、法人の人格を認めていない。つまり、法人というのは、法制上の便宜的な意味でしかない。つまり、法人は、主体性を認められていないのである。その為に法人から自律的機能が失われている。法人は死んでいるのである。
 基本的に、現在の資本主義思想は、法人という経済主体を機関として見なし、法人に対して主体性や自律性を持たせるという思想はない。その為に、利益は、全て株主と徴税主体と経営者と債権者の間で分配するという思想が強い。それは、法人の共同体としての性格を毀損し、法人から共同体としての実体を喪失させている。

 M&Aが盛んである。つまり、企業合併が盛んに行われている。しかし、その前提は、企業が合併せざるを得ない状況に追いやられていることを意味している。つまり、企業が自立できない状況が前提としてあると考えるべきなのである。
 そして、企業が合併を繰り返す背景には、必然的に合理化、効率化の要請があり、それは必然的に雇用の削減に繋がると言う事である。
 経済学者の中には、生産性の低い労働から付加価値の高い労働へ転職させればいいと言うが、現実的な話ではない。人間の人生には限りがあり、又、取り返しのつかないものがある。人の人生は不可逆的な過程であり、付加価値の高い仕事ほど、特殊な技術や知識、経験がなければできるものではなく。おいそれとは転職できるようなものではない。少なくとも時間が必要なのである。
 つまり、合併を繰り返すことによって企業の生産性は向上するかも知れないが、その結果、経済は、停滞するのである。過剰な安売りにも同様な効果がある。つまり、市場の機能の低下に結びつくのである。
 単純に生産をあげればいい、安ければ良いという発想だけでは経済を捉えきることはできない。経済で大切なのは、位置、即ち、割合なのである。

 経済主体の経済に対する働き、役割は、位置に関係する。個々の経済主体の果たす役割や働きは、順序や順番に影響されるからである。例えば、製造、卸、販売と言った順番は、製造の部分に属する企業の役割や働きを規制し、卸の部分に属する企業の役割や働きを規制するようにである。そして、この様な役割や働きは、個々の企業の形相や構造を確定する。製造には、製造の企業の形相があり、又、構造がある。そして、それは位置に関係している。

 経済的位置というのは、時間が陰に作用した現象である。経済的運動というのは、時間が陽に作用した現象である。

 時間が陰に作用するというのは、時間の働きが全くないというのではなく。時間の働きが直接現象に結びつかず表に現れてこない状態を言う。

 時間が陰に作用する、陽に作用するというのは、静と動として現れる。例えば、ある時点における財務内容を表示した文書が貸借対照表であり、一定期間の収益の費用の動きを表示したのが損益計算書である。貸借対照表は、時間が陰に作用している静的な部分を表しており、損益計算書は、時間が陽に作用している動的な部分を表していると言える。

 貸借対照表の中にも固定資産と流動資産の別がある。又、費用の中にも固定費と変動費がある。

 位置は、順番に深く関わっている。位置は、順序を決める要素である。順序、順番は、時間的な位置である。順番というのは後先の並びである。
 位置は、量の元となり数や並びを生み出す。数は比較の元となり、並びは、順番、順位の元となる。論理的体系では、論理を構成する命題、要素の位置が重要となる。
 簿記、仕事、組織も論理的体系を持ち、この順序、組み合わせが重要な意味を持つ。つまり、機能と位置は関連している。働きは、関係の元である。故に、位置によって関係は生じるのである。関係とは、どの様な力によって、どの様に結びついているかである。

 物事を他人に教えたり、説明する場合、話の組み立ての順番が重要になる。即ち、論旨である。話の順番、前後を間違うと相手に自分の真意が伝わらないどころか、無意味に感情的してしまうことだってある。物事を教えるのも順序がある。順序を間違えると相手はかえって混乱し、解らなくなる。
 つまり、論理というのは、命題や言葉の順序が重大な役割を果たしているのである。
 論理というのは、仕事や組織で言えば、手順や手続、段取りである。近代的な組織や制度は、手順や手続によって成立し、維持されていると言ってもいい。そして、それは形式でもある。
 又、礼儀作法は、手順、段取りが重要である。礼儀作法とは、手順、段取りが様式化し、権威と結びついて特別な意味や働きを持つようになった形式といえる。
 結婚というのは、相手の了解を得てはじめて成立する。相手の了解を得ないで結婚をするという事はできない。物事には順序があり、筋がある。その順序や筋が、その社会の仕来りや掟となり、法の根源となるのである。それを一概に形式として斥けるのは文化の否定である。
 そして、形式の本質は位置である。

 企業や産業は会計制度の原則に従って資金によって動く仕組みである。会計制度は、期間損益に則り、資金繰りは、現金主義に則っている。その為に、会計上に表れる結果と実際の資金繰りの状態とは必ずしも一致していない。
 経済政策を立てる時は、期間損益に影響を及ぼす政策か、資金繰りに影響を政策かを見極める必要がある。

 会計上の数値というのはあくまでも見かけ上の数値である。実際に企業や産業、経済を動かしているのは、資金である。では、会計上の数値は意味がない、役に立たないのかというとそうではない。目的が違うのである。会計上の数値というのは、債務債権の状態を明らかにすると同時に、一定期間の経営実体を明らかにし、長期的な均衡を可能にするためにあるのである。

 例えば、決算上、空前の利益をあげているように見える石油会社が実は、資金繰りに窮していたり、逆に、大赤字であるはずなのに資金は潤沢にあると言ったことが現実に起こる。そして、いずれの場合も経営が破綻することがあるのである。
 会計情報上に現れた数値が何を意味し、また、経済政策がどの様な効果をもたらしたかについてよく把握する必要があるのである。

 資産以外に実体はない。あるのは名目的価値である。例えば資本金と言っても表示された現金があるわけではない。売上と言っても同様である。売上として表示されている数値は、これだけの売上が計上されたと言うだけの数値である。
 又、資産の中でも現金、現金等として表示されている以外の金額は、見かけ上の残高に過ぎない。

 会計上においては、位置が重要な意味を持つ。即ち、取引の結果、計上された勘定科目の位置とその結果の残高が経営実績を表すからである。そして、勘定科目の位置によって取引の働きが評価される。

 会計を構成する個々の取引は、取引が成立した時点で均衡している事が前提である。
 個々の取引が均衡しているという事は、取引は、何等かの対称性を持っているという事を意味する。この取引の持つ対称性と非対称性が経済現象の根幹を形成する。それが複式簿記の特性である。
 会計取引は、二つの方向に分割して表示される。そして、取引が表示される位置が重要な意味を持つ。

 複式簿記の発想の根本は両天秤であり、左右を釣り合うように設定することにある。取引が釣り合っていると言うよりも、取引が釣り合うように操作していると考えるべきなのである。丁度、両天秤の一方が、もう一方に釣り合うように錘を調節するのと同じように、貨幣価値を調節しているのである。つまり、一方の値は錘に相当するのである。

 表示された会計取引の位置によって財と資金の流れが定まる。

 会計を構成する五つ要素、即ち、資産、費用、負債、純資産、収益には正の位置がある。資産と費用は、借方が正の位置で貸方が負の位置。負債、純資産、収益は、貸方が正の位置で、借方が負の位置。資産、費用、負債、収益は正の位置にあるときは、加算され、負の位置にある時は減算される。
 資産、費用、負債、収益は、正の位置の残高は、零より小さく、即ち、マイナスしない。

 会計上の数値というのは、ある意味で残像なのである。会計情報に現れる数字というのは、残高の高さである。それは、見かけ上の位置を示している。実体は、その数値の裏にある物である。ところが、その数値に囚われて実体を潰しているのが実情である。先ず、経済本来の目的に立ち返って実体を見極めることが重要なのである。そして、貨幣経済を実質的に動かしているのは、貨幣の力である。ただし、貨幣も目的があって始めて活用できる。何の目的もなく貨幣を垂れ流せば、自ずと弊害が生じるのである。

 人生にも目的がある。目的もなくただダラダラと生きているだけで、自分の命を上手に活用することはできない。

 注目して欲しいのは、貸借対照表は、残高試算表を元にして作成されていると言う事である。

 会計は、基本的に加算主義、残高主義である。つまり、各科目毎の前期末残、入、出、今期末残が集計されることによって経営実績を顕在化する手続が会計なのである。

 この様な計算をするための原則は、会計上、借方、貸方に表示された数値の総和は常に等しい。即ち、借方と貸方は常に均衡していることである。
 経営実績を表す考え方は、期間損益、即ち、会計的手法だけではない。その他に、現金主義がある。現金収支では、最初に元金があり、現金取引が生じた都度、収入と支出を加算、減算し、常に残高が零にならないように調整する。

 貸借対照表上に表示されているのは貸借対照表を構成する課目の残高の高さである。残高は、その時点での財務の状態の位置を表している。
 残高の意味も期間損益と現金主義では基準や定義が違う。期間損益では、会計を構成する要素、勘定科目の残高を意味するが、現金主義では、現金残高を意味する。

 現金残高を基準とする現金主義では、現金残高が問題なのであり、均衡という思想はない。では期間損益において、何が均衡しなければならないのかというと、債権と債務である。

 実際の貨幣経済を動かしているのは、貨幣の流れ、資金の流れである。資金の流れを見る場合、重要になるのは、資金の流れる量と方向と速度である。貸借対照表や損益計算書だけでは、この資金の流れる量や方向、速度を見極めるのは困難である。なぜならば、貸借対照表や損益計算書といった財務諸表は、資金の流れていった結果、痕跡を示した物にすぎないからである。

 例えて言えば、企業が設備投資に対して貸借対照表に提示されるのは、設備投資時に購入した資産の購入原価と設備投資時に借り入れた負債の量である。損益計算書に提示されるのは、購入時かかった費用である。そして、償却が終了するまで、減価償却費である。注意すべき事は、減価償却費は実際の資金の流れを示した数値ではない事である。

 資金は、投資時点では運用の側に流れ、投資が終了した後は、回収側、即ち、調達の側に流れる。

 重要なのは、収益によって投資した資金を回収することが可能か、不可能かである。また、借入金の返済に充てる資金がどの様に表示されているかである。
 収益によって回収することができない負債は、資本化せざるを得なくなる。負債が資本化するという事は、貸し付けた側は、貸し付けた資金が資本化することを意味する。それは、貸付金を貸付先の収益によって回収するのではなく。資本市場から回収することを意味する。

 会計は、貨幣価値によって計算される。

 貨幣価値は、経済的単位である。現金は、貨幣価値を実現させた物である。表象貨幣は、現金価値を指し示す指標である。
 即ち、貨幣価値は、経済的位置を意味する。

 経済現象において経済的な位置というのは、重要な役割を果たしている。位置が持つ潜在的な力を見逃すと経済現象は理解できない。

 経済的価値は、時間の関数である。即ち、時間が陰に作用する部分は定数として表示され、時間が陽に作用する部分は、変数として表示される。
 貸借対照表は、時間が陰に作用した結果と見なす事もできる。故に、貸借対照表に表示されるのは残高なのである。そして、損益は、時間が陽に作用した結果とも言える。

 物価は、なぜ、上昇するのか。それは時間価値の作用による。時間価値は、インフレーションの原因の一つである。つまり、時間価値というのは、時間の経過に伴って附加される価値だからである。時間価値を生み出す最大の要因は、金利である。金利以外に、地代、家賃、配当、人件費、則ち、付加価値を構成する要素である。つまり、時間価値とは付加価値といえる。
 そして、付加価値が自由主義経済の根本にある以上、物価の上昇は防げないのである。現代の自由主義経済が時間的価値を前提として成り立っている限り物価の上昇を前提とせざるを得ない。つまり、時間価値が経済の原動力(エネルギー)だからである。
 そして、物価の上昇を前提とすることによって、時間価値は、名目的価値と実質的価値を派生させる。
 時間価値は、必然的に位置に影響する。それは、金利は、元本となる経済的価値の多寡に依存した値だからである。

 世界経済を考える場合、それぞれの国や産業、企業が置かれている位置が重要になる。位置とは、地理的な位置と機能的な位置である。そして、経済において位置は決定的な役割を果たしている。

 位置は、世界市場に対する個々の国や企業に潜在的な力を持たせ、その国の経済の有り様に強く規制している。位置は前提条件の一つである。
 例えば、アメリカは、国際通貨制度の中心に位置し、アメリカの通貨は、基軸通貨として機能している。このアメリカの位置が、世界経済やアメリカ経済、そして、我が国の経済に決定的な作用を及ぼしているのである。

 外貨準備高の残高や経常収支の残高、資本収支の残高が世界市場における当該国の位置を決める。

 アメリカが、経常収支が赤字ならば、必ずアメリカ以外の国で黒字の国がある。そして、経常収支が赤字の国か、黒字の国かによって国際市場の役割、即ち、位置が決まる。
 経常収支の不均衡の背後には、過剰生産の国から過剰消費の国への流れが隠されているのである。貿易というのは、総和において均衡していることが前提となる。つまり、全体の総和は、常に、ゼロサムに調整されることが前提である。その上での位置付けなのである。

 むろん、地理的な位置も重要な要素である。地理的という意味には、地質的、又は地政的という意味も含まれる。



参考

石油元売り3社が増益、出光は赤字 4〜6月期決算
 新日本石油など石油元売り4社の平成20年4〜6月期連結決算が4日出そろった。原油高による期初の割安な在庫の利益かさ上げ(在庫評価益)効果で、新日石、コスモ石油など3社が最終増益を確保した。一方、原油在庫の評価方法が他社と異なる出光興産は赤字となった。

 コスモ石油が4日発表した4〜6月期は、最終利益が前年同期比74.3%増の228億円だった。原油高で在庫評価益が361億円発生し、利益を押し上げた。4〜6月期の在庫評価益は、新日石で926億円、ジャパンエナジーを傘下に置く新日鉱ホールディングスも333億円だった。

 出光を除く3社は期初の在庫額と四半期ごとの仕入れ額を合計して平均する原油在庫の評価法を採用しており、原油価格が上昇すれば評価益が膨らむ仕組みだ。一方、在庫評価で「後入れ先出し法」を採用している出光は評価益がなく最終赤字となった。

 21年3月期の業績見通しは新日石と出光が経常利益を当初より上方修正した。新日石は在庫評価益が4月時点の予想に比べ800億円膨らむ。出光は原油在庫の評価期間を変更したため、会計上の利益が約500億円発生するという。
(産経新聞2008.8.4)

石油元売り大手決算 出光除く3社は大幅最終赤字
 石油元売り大手4社の平成21年3月期連結決算が7日、出そろった。原油価格の急落で在庫評価損が膨らんだことから、評価方式の異なる出光興産を除く3社が経常、最終損益で大幅な赤字となった。

 新日本石油と新日鉱ホールディングス(HD)、コスモ石油の在庫評価方式は、原油価格の値上がり局面では利益に、値下がり局面では損失として計上される仕組みで、昨夏以降の原油価格の急落の直撃を受けた。また世界的な景気悪化による石化製品の販売不振も響いた。

 ただ、ガソリン販売価格の適正化が進み、採算が改善したことから、在庫影響を除いた“真水”ベースでは、3社ともに経常黒字を確保した。出光は逆に207億円の在庫評価益を計上したこともあり、経常、最終黒字を確保した。
(産経新聞2009/05/07 )



                       



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