経済と陰陽五行(実績編)

関   係


 経済で重要なのは、関係である。関係は、元(もと)から生じる。元(もと)とは、自己である。元とは、基であり、本である。源である。そして、元から生じる関係とは、自他の関係である。故に、関係の根源は自他の関係である。

 自他の関係は、自を、即ち、自分、自己をどの様に定義するかによって決まる。

 自己とは、唯一の主体的存在であると、同時に、間接的認識対象であると定義する。
 この主体的存在であると、同時に、間接的認識対象であるという事が、自他の関係を決定付ける。
 自己が主体であり、間接的認識対象であるという事は、自己は、認識主体であると同時に間接的認識対象であることを意味し、それが、対象との関係を認識する際に作用反作用の関係を生み出す。

 自己を客体化することによって自他の関係が、他対他の関係に転換する。それが対象の基本的関係を性格付ける。
 この事は、他対他に関係にも作用反作用の関係を成立させる。作用反作用は認識上の問題である。しかし、作用反作用は、働きや関係を考える上の基本となる。

 経済は、社会的現象である。即ち、経済は、自己と人、人と人との関係によって成り立っている。

 関係は、比によって明らかにされる。関係は、一定の状態から、一定の状態への変化を促す働きや力を意味している。故に、関係を表す関数は、変化する以前の位置と変化した後の位置から求められる。位置とは、点と線と空間の状態を意味する。

 関係とは、対象間の結びつきである。対象間を結び付けているのは作用である。結びつきとは、対象間に働く力に依る。対象間に何等かの作用があるという事は、何等かの力が働いていることを意味する。この力の性質を理解することが関係を解明することに繋がる。

 関係を構成するのは、複数の対象(要素)の存在とそれを結び付ける作用、関係を成立させる空間である。即ち、関係は、複数の対象(要素)と作用、空間の存在を前提とする。

 経済的現象の多くは、現象の元となる複数の要素が相互に連関して引き起こす場合が多い。故に、個々の要素間の働きを理解することが重要となる。

 数学は言語である。会計は、言語である。数学は、論理である。会計も論理である。そして、会計は思想である。

 会計は、言語である。言語は、言語だけで成立しているのではない、言語を成立させている社会や世界と言った空間を前提として成り立っている。言葉だけでは、言葉の意味を成立しない。言葉の根底にあって言葉を成立させている対象の存在が意味を形成する前提となる。
 会計を成立させているのは、人間の存在と人と人の間の経済的取引である。つまり、人の存在と人間関係が会計の根底にある。この様な会計をただ、会計上の論理だけで理解しようとすれば、根底にある人間性が失われる結果を招く。企業経営を会計の論理だけで運用しようとすれば、経営から、人間性が削ぎ落とされてしまい、経済が非人間的な行為に堕落してしまう。
 故に、会計は、言語、数学であると同時に、思想なのである。
 会計は、数学である。そして、会計は思想なのである。会計に基づく行為の意味を正しく解釈するためには、会計の背後にある人間の営みをどう認識し、評価するかによるのである。

 会計を成り立たせている要素の一つが貨幣価値である。貨幣価値は、数字によって表現される。故に、数字は、会計の言語の一つである。数字化されることによって会計は、演算することが可能となる。
 数字が表現するのは量と比である。関数は、量と比を表した式である。

 関数を構成するのは、量と時間と速度である。量には、分離量と連続量とがある。連続量には、距離、体積、力などがある。
 速度は、単位時間あたりの変化率、変化量を言う。速度には、生産力、販売力、賃金などが含まれる。
 会計は、取引を期間損益に変化するための操作、手続を規定した基準をいう。期間損益は、時間と貨幣価値と財の量の関数である。即ち、時間と貨幣価値と財の比によって構成される。

 意味というのは、関係から生じる。意味は、自己と対象、対象と対象との関係から生じる。数字も意味の一種である。故に、数字も自己と対象、対象と対象との関係から生じる。故に、数字は、比であり、抽象的、相対的な認識に基づいて成立する。

 数字が成立するためには、数字を成立させるための実体、対象の存在が前提となる。一には、一人の人、一台の自動車、一リットルのガソリン、一箱のキャラメルといった対象が前提となる。二には、二人の人、二台の自動車というように一とか、二という数を象徴する事象が存在する事が前提となる。中でも一となる対象は、単位の根源となる対象であり、一以外の数は、比によって形成される。

 単位は、任意な基準である。定義と定義に対する合意に基づく。例えば、長さの単位もイギリスでは、12インチは、1フィートであり、3フィートは、1ヤードであり、1760ヤードは1マイルに相当する。
 貨幣単位も十進法とは限らない。イギリスでは、1971年2月15日以前は、12進法が採用され、1ポンドは、20シリングであり、240ペンスだったのである。日本でも江戸時代は、一両が四分、四貫文と四進法だった。

 貨幣は、人為的な物である。貨幣単位も人為的な物である。貨幣は、自然の産物ではない。貨幣単位も、何等かの物理的対象を基とした物理的単位とは違い、市場取引を変動する単位である。

 貨幣価値は、実体的な財から交換価値のみを抽出し、それを数値化する事によって成立する。貨幣価値は、取引という交換行為に通じて取引が成立した時点毎に裁定される分離量である。

 貨幣価値は量である。そして、貨幣価値は、自然数に還元される。なぜならば、貨幣価値は、交換を前提とした数値だからである。ただし、途中の過程においては、自然数でなければならないと限定されているわけではない。取引が成立する時点においては、自然数に限定されると言う意味である。即ち、貨幣価値は、基本的にスカラーである。ただ、キャッシュフローは、方向を持った数値、即ち、ベクトルである。

 また、貨幣価値と貨幣価値とは、加減はできても乗除はできない。複式簿記は、加算を基本としている。そして、残高の均衡を見る。その前提は、個々の取引は成立した時点で均衡しているという事である。これは、会計上の前提であり、根本は会計思想である。

 会計は思想である。故に、会計基準は、根本に社会的合意がある。即ち、歴史的事象であり、自然現象とは違う。この様な会計基準が資本主義の根底を成している。資本主義は会計の文法上に成立している思想なのである。

 石油のような物資は、石油を輸入する業者に備蓄が義務づけられている。備蓄を必要とする物資の在庫が問題となる。重要なのは、なぜ、戦略的な備蓄が必要なのか。石油の備蓄は、会計的な論理からは理解できない。そこには、経済的な視野が求められるのである。この様な問題は、会計以前の思想の問題である。つまり、国家経済の基盤の問題であり、経済思想の問題である。
 何を戦略的に備蓄するのか(石油、エネルギー資源、食料、希少金属)。それが一日でも不足すると国民生活が成り立たなくなる物資で、自給自足ができない物や生産が安定していない物。
 備蓄の目的は、軍事戦略なのか、経済的な物なのか、政治的な物なのか。それによって運用の基準が違ってくる。この問題も根本は思想である。
 石油の備蓄も経済的な目的があるならば、その目的にそって基準を設定しておく必要がある。備蓄を取り崩したり、放出するのは、基本的に非常時や緊急時である。備蓄を取り崩したり、放出しなければならない事態が発生した段階で実際の運用基準や手段を検討したのでは、最初から目的に沿わないのである。特に、経済的判断は、利害関係が複雑に絡む例が多く、その時点、その時点での判断が難しい事例が多い。故に、事前に明確な基準、指針、責任を明らかにしておく必要がある。

 会計の基準は会計思想の所産である。自然の法則のような現象を観察して導き出される法則とは、根本的性格が違う。会計は、経済現象の上に形成された従属的な言語である。会計があって経済があるわけではない。
 故に、会計は、経済の本質を変えることはできない。しかし、会計は、経済の状況を誘導することは可能である。
 資本主義は、その会計制度を基にして形成された思想である。

 現行の会計制度と資本主義は、資本主義に成立させ、尚かつ、資本主義に準拠すると言う相互依存関係にある。

 会計は、言語である。故に、会計は、会計を構成する要素の順番や組み合わせを規定する文法を基盤として成り立っている。会計の文法を規定するのが会計基準である。人的基準である会計基準は定義によって設定される。

 会計の基準は、定義することによって成り立っている。会計の基盤は、複式簿記である。故に、会計基準は、複式簿記を体(てい)とする。

 会計上の取引は、複式簿記によって均衡している。実際に取引の内容が均衡しているかどうかは別の問題である。複式簿記の基準基づいた帳簿上均衡しているのである。即ち、会計処理をするための計算上必要であるから均衡していると見なすのである。会計は思想であり、複式簿記の基準も思想的に形成された尺度である。即ち、個々の取引における貸方、借方が均衡しているのは、誰かが、均衡すると取り決めたかに均衡するのである。

 現行上の利益に対する会計的定義に基づいて利益の最大化を計れば、総資産、総資本を極力圧縮し、可能な限り、総資産を零にすることが求められる。要するに資産は何も持たない方がいいのである。そして。費用もなるべく削減した方がいいことになる。費用の上昇も会計上の合理性を欠くために、抑制しなければならないことになる。これは、会計的合理性を突き詰めた結果である。

 会計主体の最終利益は、何に帰属するのか。即ち、資本とは何か。利益は、株主に還元するのか、国や社会に還元するのか、経営者に還元するのか、債権者に還元するのか、労働者に還元するのか、それは思想の問題であり、会計技術の問題ではない。

 現行の会計制度の整合性からすると会計主体は何も所有しない方が有利である。設備も土地も資金も借りた方が有利である。社員も常雇いの正規の社員を雇用するよりも、臨時雇いの非正規社員を必要な時だけ雇った方がいい。つまり、人件費は純粋にコストと見なした方が会計上は妥当なのである。年金や福利厚生費は会計主体にとって負担を大きくするだけである。できれば下方硬直的労働費可能な限り機械化した方が収益は安定する。利益は全て単期毎に分配するのが前提である。
 可能な限り総資産を圧縮し、身軽にすることが会計上の生産性が高くなる仕組みなのである。
 しかし、これは思想なのである。この様な考え方は、決して会計制度の原理によるのではない。現行の会計制度の設計思想が基になっているのである。

 経済の目的と会計の目的は、違う。会計の目的は、経済の目的に準拠するものである。会計のために経済があるわけではない。経済の目的を達成するために会計があるのである。会計は、経済の部分集合である。経済は、会計が全てではない。そして、経済の目的は、国民生活を実現維持することである。会計上の利益が実現できないからといって生きられない状況が生じるとしたら、それは、会計制度のどこかに、何かしらの矛盾があるのである。

 バブル崩壊後、日本で問題となったのは、三つの過剰だと言われている。即ち、過剰設備、過剰雇用、過剰負債の三つである。そして、この三つの過剰、即ち、過剰設備と過剰雇用、過剰負債は、経済の本質を象徴している。
 三つの過剰に共通することは、長期的資金か固定的費用に関わった要素だと言うことである。長期的な周期の変動が経済を考える上で重要な鍵を握っているのは明らかである。

 産業の国際競争力は、人件費の差による部分が大きい。労働条件の差は、経済状況に重大な影響を与える。機械化するかしないかは、労働条件と機会のランニングコストとの比較による。そして、労働条件は、その国の民度に依存しているのである。
 さらに労働条件の問題は、仕事に対する認識の違いからくる部分が大きい比重を占めている。そうなると人件費の違いには、文化や世代の違いが反映される。
 多くの人間にとって仕事は、ただ所得を得るためだけのためにあるというのではなく。仕事は生き甲斐なのである。ところが今日、日本では、仕事は、所得を得るための手段でしかないと言う風潮がある。それは労働の質の劣化を招いている。この様に、経済には、道徳的、文化的な問題が潜んでいるのである。
 そして、その根底は、経済に対する思想の問題なのである。会計の仕組みは経済に対する思想に準拠して成立している。しかし、思想を体現するのは会計の仕組みである。

 国家経済の基幹は、人件費である。人件費とは、個人所得であり、個人支出、個人消費の原資である。即ち、個人の生活水準の前提条件である。個人の生活水準は、国家経済の水準を決める。個人所得の上昇率は、生産面、消費面両面から物価の上昇率を決める。同時に経済の上昇率を象徴する。更に言えば、人件費は、産業の国際競争力の決め手である。又、人件費は、国家の内部経済の基盤となる。故に、国内経済の基準を形成する。為替の水準の基礎となるのは、内部経済の物価水準や生活水準だからである。故に、人件費の上昇、水準をどう戦略的に捉えるかが、経済政策、経済戦略の鍵を握る。
 人件費、即ち、個人所得は、経済の成長期、拡大期には、順調に上昇し、それに伴って消費も拡大する、しかし、経済が成熟期にはいると上昇の速度も低下し、消費も量から質への転換が見られる。経済が収縮期にはいると経済体制の再構築、、再編成が測られるが硬直的な人件費は、経済の転換の阻害要因となる。経済の収縮期は、経済の転換期であり、必ずしも負の要素だけではなく、むしろ、次の飛躍への充電期間であるが、再編に失敗すると経済の混乱を招く原因となる要は、収益構造の中で個々の費用がどの様な作用をするかであり、その働きを明らかにするためには、収益構造の構成の変化を見る必要がある。
 特に、経済的に、人件費をどう位置付けるかが、重要となる。その根底には、会計的にどう利益に結び付けて処理するかの問題が隠されている。単に人件費をコストの問題としてのみ捉えたら、経済の本質は見えてこない。

 大量生産型産業は、過剰生産の問題を常に抱えている。過剰に生産された生産財は、余剰な生産財の捌け口となる市場を必要とする。つまり、過剰生産を過剰消費によって賄っているのである。この様な体制は、産業や市場に歪みを生じさせる。即ち、生産と消費が地域や国毎に偏って現れる。
 生産に偏るか、消費に偏るかの決めては、国力やその地域の生産力、地域や国が、過去に蓄積してきた資産力、個人所得の量、個人消費の性向、生活水準、物価水準、労働環境、為替相場などの差が決めてとなる。
 いずれにしても、個人の所得と企業の収益力の差が決定的な要因となる。個人の所得と企業の収益力を左右するのは、労働市場である。

 即ち、労働市場を確保することが国家経済の健全さを維持するための必要条件となるのである。労働市場を失うことは、国家の分配構造に重大な欠陥や歪みを発生させる原因となる。それは、経済の衰退を意味する。内需拡大と言うが、それは、国内の労働市場の整備を意味している部分が大きい。観光立国と言ってもそれが雇用に結びつかない限り、地域経済は、活性できない。

 国際経済では、成長発展期にある国や地域と成熟期、或いは衰退期にある国や地域が混在している。一律には語れない。

 経済や市場は、均衡を目指して動いている。労働条件や所得水準、生活水準を一定の水準に均衡さ様とする力が働いている。この働きが成長発展の方向に向かう経済と縮小向上の方向に向かう国や地域を生み出しているのである。経済は、歪みや偏りによって動く。

 成長発展期にある国の人件費の上昇は、経済の成長や市場の拡大によって吸収できる。しかし、経済が成熟期に入った市場では、経済の量的な拡大だけでは、人件費の上昇を吸収することが困難になる。故に、質的な転換が求められるようになる。経済が収縮期に入った市場では、下方硬直的な人件費は、経済にとって阻害条件となり、構造的転換が求められるようになるのである。

 経済の振幅は、人的市場、物的市場、貨幣的市場が一定の水準に均衡するまで続くことになる。

 これまでは、アメリカの旺盛な消費力に世界経済は依存してきた。しかし、その関係に陰りがでてきたのである。生産拠点がなく、過去の蓄えを食い潰すような体制には、最初から無理がある。

 経済は、相互作用によって成り立っている。特定の国や地域だけが繁栄し続けることができるようには経済の仕組みはできていないのである。
 生活水準にせよ、労働条件にせよ、いずれは均衡する。そして、均衡する方向に向かって経済は変化する。
 一方が生産をし、他方が消費をするだけというような偏りはいずれは是正される。是正される方向で調整される。

 他国との競争力を付けるために、付加価値の高い商品や真似のできない商品を生み出すことだという人がいるが、これは錯覚であり、一歩間違うと差別に結びつく。基本的に労働の質に大きな差はないと考えるべきなのである。問題は人件費の水準と生活水準にある。民度の問題である。

 質的な観点から見る労働構成の基本は、急激には変化できない。なぜならば、労働市場を構成する要素を質的な観点から鑑みた場合、人の一生が基本単位となり、人の能力や知識、性格は、そう簡単に転換できないからである。年齢が重要な要因ともなる。
 肝腎なのは、人間であり、人間の一生なのである。物のようには扱えない。

 付加価値の高い労働と言っても、例えば、資本市場や先端技術の開発に従事できる素養を持つ人間はかぎられているのである。その高度な技術や知識を持つ者を前提とした労働市場を基礎として、国家の産業構想を構築すると、重大な過ちを犯すことになる。

 経営主体は、資金によって動かされている。資金が供給されることによって生かされているのである。その資金の供給を保証しているのが収益である。
 経済を動かしているのは資金の流れである。経済を動かす為には資金の流れる道を確保しなければならない。資金の流れる道は、利益にある。その利益を規定するのが会計である。会計の仕組みが機能しなくなると資金の循環が途絶えることになり、産業も壊死してしまうのである。

 経済が順調に機能するためには、資金の通り道を造る必要がある。そして、収益が資金の正当的な通り道である。

 損益は、固定費と変動費、及び、数量の関数である。問題なのは固定費が前提によって可変的、可動的なことである。その可変的、可動的費用が、支出を伴わない費用であると言う点と逆に支出を伴う長期借入金の返済が計上されていない点にある。その為に、資金収支と損益とが直接結びついていない。その結果、実際の資金の流れと期間損益との関連が、外部はからなかなか伺い知れないのである。

 貨幣価値は、経済的価値から派生する価値である。貨幣価値は、経済的価値の部分であり、全体ではない。貨幣価値は、経済的価値に従属した価値である。即ち、独立した価値ではない。

 貨幣その物に価値があると考えるから解らなくなるのである。貨幣というのは、あくまでもその時点での貨幣価値を指し示している物なのである。即ち、貨幣価値を実現している物なのである。貨幣価値は、交換価値を数値化したものである。即ち、貨幣価値は、交換価値を測る尺度なのである。そして、交換価値の根源は、必要性なのである。
 しかも、貨幣価値が測る対象は、欲望という得体の知れない対象だという点にある。即ち、貨幣単位とは、距離(メートル)や体積(リットル、u)、温度といった客観的、物理的対象の量ではなく。欲望という、主体的、人的対象を測る尺度だと言う事である。

 貨幣は、単に貨幣価値の表象であるだけでなく。交換する権利をも表象している。つまり、貨幣は債権証である。貨幣が債権を有すると言う事は、貨幣の貨幣価値を保証する機関は、潜在的な債務がある事を意味する。日本では、貨幣を発行するのは中央銀行であり、中央銀行は国家機関であるから、日本では、貨幣の発行残高だけ国家に債務があることになる。

 経済的価値と貨幣価値とは同じ価値ではない。経済的価値とは、潜在的なある価値である。即ち、生活に必要な物としての価値は、貨幣価値が成立する以前からある。貨幣価値というのは、経済的価値を交換する必要が生じた時に派生する価値、即ち、交換価値に基づいて成立する価値である。
 貨幣価値というのは、所与の価値として存在する価値ではなく、交換する必要性によって変換されることによって生じる任意の価値であり、基本的に数値として表現される。即ち、潜在的な価値である。
 貨幣価値は、財と別個に存在するというのは、錯覚である。或いは、結果的な認識である。貨幣価値は、本来、財と切り離しては考えられない価値である。即ち、貨幣価値は財の属性なのである。少なくとも貨幣価値が成立する当初は、財を変換する必要があるのである。それが貨幣価値の裏付けでもある。
 貨幣価値は、貨幣という物として表現される。貨幣価値は、貨幣に置き換わった瞬間、貨幣としての実体を持つ。そして、貨幣その物が財としての実体を持つようになる。その為に、貨幣価値は、操作することが可能となる。それは、言語が文字によって、数値が数字によって実体化されるのと似ている。 
 貨幣価値が実体化されると貨幣価値を所有したり、貯蔵することが可能となる。貨幣価値を所有したり、貯蔵することが可能となると、次ぎに、貨幣価値を貸し借りすることが可能となる。それが、貨幣の潜在的な力を持たせることになる。
 そして、貨幣価値の貸し借りは、債権と債務を生じさせる。債権と債務は、負債を成立させる。負債は、その財の元にある価値を増幅させる作用がある。それが経済における位置エネルギーの源である。

 経済的原点というのは、手持ちの資産の潜在的価値が前提となる。トランプのゲームや麻雀を思い浮かべればいい。トランプのゲームや麻雀は、最初に各々が何等かの手持ち、或いは、取り分を所有、保有していることが前提となる。

 位置とは、残高水準、即ち、負債や固定資産、在庫の残高水準を意味する。位置の持つ働きは、位置エネルギーとなる。
 在庫水準にも景気に対する潜在的な位置エネルギーがある。在庫には、市場の需要と供給を調整する機能がある。過剰な生産物は、滞留して在庫となり、過剰な在庫は、価格を引き下げる効果がある。逆に、在庫が不足すると価格は上昇する。故に、在庫の水準は、経済の動向を占う重要な要素となる。
 特に、戦略的物資の在庫の動向は、経済だけでなく。政治や軍事にも影響する。大東亜戦争に突入する直前の日本は、石油の備蓄が底をついていた。それが戦争の引き金を引いたと言われている。
 ただ、備蓄の目的には、軍事的、政治的、経済的の別があり、その目的を明確に区別しておかないと有効な手だてを講ずることができない。

 経済は、複数の元、要素からなる集合である。

 経済的価値の総量は、必要とする財の総量であり、貨幣は、それを測り、分配するための手段である。即ち、秤の分銅である。経済の本質は、分配の問題であり、貨幣の問題ではない。貨幣は、分配をはかる手段の一つである。財や貨幣は集合の元、要素である。故に、経済は集合の問題なのである。

 経済を構成する個々の要素間の作用には、引力と斥力、働きの増幅、加速、促進と抑制、触発、変換・変質(凝固、気化、液化)、発散、収束、結合、解体、媒介、生産、消費、分配などがある。

 貨幣には、交換を仲介する作用がある。又、証券化は、資産に流動性を付加する働きがある。この様な働きを理解することによって経済的要素の結びつきを明らかにすることは、経済現象を理解する上で不可欠な要件である。

 関係を明らかにする場合、何と何が等しくて、何と何が均衡し、そして、何が独立しているのかが鍵になる。これは、従属的な関係、独立した関係かを意味する。即ち、従属変数なのか、独立変数なのかである。
 従属的な関係か、独立した関係かの問題は、比率の問題なのか。独立した個別の問題なのかである。

 従属した関係上において何を主とするか、何を従とするかは、任意の前提であり、相対的である。絶対的な前提ではない。

 何と何が対応関係にあるのか。相関関係にあるのかが重要なのである。そしてそれらの関係の基礎となるのが自他の関係である。

 自他の関係は、表裏の関係の関係になる。この表裏の関係が要素間を結び付け、全体を均衡させている。

 収入は、支出であり、売上は、仕入れであり、貸しは、借りである。これらの関係は、取引の成立時点では、等価、等量である。
 自分の売上は、相手にとっては仕入れになる。自分の仕入れは、相手にとっては売上になる。売上は売上債権になり、仕入れは仕入れ債務になる。則ち、取引を通じて、債権債務の関係が成立する。そして、この収支の関係が成立、即ち、取引が成立した時点では、等価、等量である。そして、この売上は、商品となって均衡する。

 経済は、労働と分配、生産と消費、需要と供給、収入と支出、フローとストックの問題である。

 経済を構成する要素は、相互に関連し、表裏の関係を構成している。そして、それが発展して自他の関係による運動を生み出す。それが作用、反作用の働きであり、関係である。この働きと関係は、不可分の関係にあり、一組の関係、一体である。
 経済を構成する労働と分配、生産と消費、収入と支出、需要と供給、フローとストックは、相関関係にある。

 内的均衡、外的均衡は、各々が相対取引を前提として、それが要素間を相互に結び付けている。この結びつきが全体の関係を成立させている。

 これらの関係は、相互に関連し且つ、表裏の関係を成す。表裏の関係は、陰陽の関係を生む。そして、この関係は、必然的に相対的なものになる。

 三面等価、即ち、国内総生産、国内総支出、国内総所得は等しい。生産、消費、所得は表裏の関係にある。故に、生産、支出、所得は等しい。則ち、元は一つである。そして、生産と消費、所得は内的均衡をする。
 また、これらの要素は、外国との取引においても均衡している。それを外部均衡という。

 経常収支は、資本収支に依って均衡している。均衡することによって為替市場の連続性が保たれている。連続性が保たれることによって貨幣価値は安定する。この均衡が保てなくなると為替市場は破綻し、貨幣価値の不連続な変動、急激な変動を引き起こす。
 為替の変動は、国内の経済の均衡を破綻させる。

 財政収支は内的に均衡しなければ破綻する。財政は、内的に均衡するためには、外的に均衡しなければならない。

 経済を構成する要素は、相生、相克する。

 複数の部分、要素が何等かの力や働きによって関係付けられている集合の全体を構造体いう。要素と力の関係を構造という。
 国家は、構造体の一種と見なす事ができる。複数の要素というのは国民を指す。何等かの力にと言うのは法や制度である。国民が法や制度によって関係付けられたいる体制、空間を国家という。
 経済体制は、この国家体制の一部である。市場は、経済体制の一部である。経済体制や市場も構造を有する。即ち、構造体である。

 構造には、時間が陽に作用する要素と陰に作用する要素がある。時間が陽に作用する部分というのは、可動的部分であり、時間が陰に作用する部分は、固定的部分である。固定的な部分の表象を形といい、可動的な部分の表象を相とする。

 この様な構造は、部分に対する働きや作用が全体に波及する性質を持つ。また、全体に対する働きは、部分に波及する性質を持つ。そして、前提の形、相を変化させる。

 為替の変動は、経済全体に一定の働きをする。為替の働きに対し個々の産業や企業は一律、一様の動きをするわけではない。

 構造体には、構造を維持しようとする力が働いている。それが構造体を構成している要因だからである。組織は、組織を維持しようと言う動機がなければ、最初から形成されない。この様な組織を維持しようとする働きが統制であり、維持しようとする力が統制力である。

 構造体を維持しようとするな力は、構造の中心に対する引力と斥力の均衡によって保たれている。それが調和である。

 保護主義と自由主義を対立的な構図で捉えるのは間違いである。部分を保護しようとする全体の力と個々の部分の自律性を保とうとする力の調和によって構造体は維持されるのである。個々の部分の自律性とは、個々の部分の自由度に依存するのである。故に、保護と自由は対立的概念ではなく。調和的概念である。

 人間が環境に合わせて自分を保護するのは当然の権利である。南極で南国のように裸で暮らせと言うのは、虐待以外の何ものでもない。砂漠で毛皮を着させるのは拷問である。同様に経済環境に合わせて市場や産業を保護する事と自由を抑圧する事とは別の問題である。保護主義か自由主義かといった択一的問題ではなく。前提条件の問題である。

 構造体の動きを理解するためには、常に、全体と部分との動きを連動させて観察する必要がある。又、構造体を制御する場合は、全体に与える影響と個々の部分に与える影響をよく見極め、全体と部分の関係が破綻しないように複合的に組み合わせて対処する必要がある。

 経営破綻や不況、政治状況を一個人や一企業の責任に帰すだけでは、問題の解決にはならない。企業も国家も構造体であり、構造的な対処の仕方が要求されているのである。

 戦後の日本経済の潮流を変えた事象は、石油価格の高騰と為替の変動である。特に、為替の変動によって日本の経済行動は、大きく揺さぶられた。
 為替の変動では、恩恵を受ける産業と犠牲になる産業の差がハッキリと浮かび上がった。そして、この様な産業間の差は、為替が劇的に変動する都度、日本経済全体を揺る動かし、徐々に日本の経済構造を変化させてきたのである。

 基本的に為替や原油価格、災害による被害は、不可抗力な出来事である。一企業や産業で防ぎきれる事象ではない。1992年、投機筋の動きにポンドの動向が翻弄された英国のように、大体一国家の力だけではどうしようもないことですらある。

 故に、為替の変動や原油価格の高騰と言った経済の急激な変動に依る経済的衝撃をいかに吸収し、和らげるか。その為にはどの様な仕組みを構築しておく必要があるのかが重要なのである。

 また、為替の変動や原油価格の高騰と言った経済的変動の影響は、どの産業、どの企業にも一律に働くのではない。

 為替の変動によって過剰な利益を得る産業と損失を被る産業がある。そして、これは構造的な問題である。
 要は、為替の変動は、水準の変更と時間が、運動、即ち変動にどう関わっていくか、関係していくかの問題である。そして、変動を誘導している力は資金なのである。為替の変動は、この資金、即ち、貨幣価値の変動、水準の変動を意味している。故に、より直接的に景気の変動を主導するのである。

 注意しなければならないのは、資金の動きと利益とは、直接的に結びついているわけではなく、会計的処理や決済手続と言う過程を経る事によって結びついている。故に、為替の変動による資金収支と利益計上との間に時間的なズレが生じると言う事である。利益が上がっているのに、資金繰りがつかなくなったり、損失がでているのに、資金は潤沢であるという例が多い。そして、資金がないのに、多額の税金を払わせられたり、儲かっているはずなのに、資金が集まらないといったこととなり、どちらの場合も企業は危機的状況に陥るのである。

 資金と利益との関係には、第一に、利益が上がっても資金も潤沢。第二に、利益が上がるが、資金が不足する。第三に、利益は変わらないが、資金は、潤沢。第四に、利益は変わらないが、資金が不足する。第五に、損失がでいるが、資金を足りている。第六に、損失が出て、資金も不足していると言った形が想定される。
 各々の状態によってとられるべき政策にも違いが出る。同時に金融機関は、前提とする条件を確認することが重要となる。

 資産価値の圧縮が資金の調達能力、即ち、借入や収益を圧迫してくる。
 資金の調達手段は、借入か、増資か、収益かによる。そして、借入の裏付けは、不動産や有価証券であり、また、増資は、株式相場に左右される。不況によって売上が低下すれば、収入も減少する。つまり、株、不動産、売上の低下は、資金の調達能力を直撃するのである。

 兎に角、収益が確保されなければ、必要な原材料も人件費も、経費も金利も支払えないのである。収益構造に欠陥があり、構造的に利益が上がらなくなった産業は、早晩成り立たなくなる。
 収益を維持するためには、市場の構造も重要な要素である。規律がなく、無秩序で抑制が効かず過当競争による慢性的な乱売合戦が続く市場構造は、収益構造を劣化させ、産業を荒廃させる。

 結果があって会計制度があるわけではない。会計制度を経済環境に合わせて変更するのは危険な行為である。
 基本的には、利益とは何かという定義、約束事があり、その上での基準なのである。結果に併せて尺度を変更し続ければ、会計本来の目的が見失われる。問題なのは、適切な経営をしていながら、利益があげられないと言う状況なのである。その状況を改善しない限り、会計制度を変更しても、問題の解決には結びつかず、かえって歪みを大きくするだけなのである。
 ただ会計技術論的に利益を追求すると実質的な収益が出なくなる危険性がある。安売りによって売上高を増やしたり、在庫を調整したり、未実現利益を計上したり、償却を遅らせることによって見かけ上の利益を積み増しすることは可能である。つまり、利益はあくまでも利益であり、必ずしも資金的な裏付けがあるわけではない。
 又、機関化した企業というのは、いざという時の蓄えができなくなり急激な変動に脆くなる。その為に、ちょっとした変動でも簡単に潰れてしまう。又、何の前触れもなく潰れてしまう。
 又、近年では短期的視野でしか企業実績を評価しなくなったために、長期的展望、即ち、長期的な資金の活用が難しくなっている。その為に、収益構造が歪められてしまう傾向がある。
 実体経済の収益構造が歪むと資金が実物市場から逃げ出すことになる。実物市場は、実体経済の基盤であるから、実体経済が機能しなくなる。合理化や経費削減、効率化、人員削減によって企業の財務内容は改善されるとしても、失業や倒産が増え、所得が低下し、消費が低迷する。会計の本質は、あくまでも手段であって目的ではない。利益を絶対視する事は危ういことである。

 安ければ良いという発想は危険な発想である。あくまでも適正な価格の維持であり、適正な価格と廉価とは同じ意味ではない。適正な価格を維持できなくなれば、経済構造が歪むのである。

 収益と企業の構造は、切っても切れない関係にある。利益を基準にして企業が成り立っている。少なくとも、収益によって費用を賄い、又、収益から費用を引いた利益が借入による資金調達の保証となる以上、そして、企業が資金によって存続している以上、適正な収益をあげることは、必要不可欠な要因である。
 その収益を計算するための基準が会計なのである。

 例えば、特定の財を仕入れ原価以下で販売されれば、その財を製造している産業は大打撃を受ける。目玉商品として、或いは、話題作りとして捨て値で売ることは、安売り業者にとってはおとり商法といった販売戦術かもしれないが製造業者には、死活問題である。極端に安い価格で売るのは、明白なルール違反である。

 正直で真面(まとも)に経営していても、良い結果が得られるとは限らない。しかし、正直で、真面(まとも)な経営者が市場から排除されるような体制がよくないことだけは明らかである。決められた原則通りに経営をしていても実績が上がらないとしたら、どこか仕組みに欠陥があるのである。その根本にあるのは、モラル、道徳の問題である。儲けるためならばどんなに悪辣、理不尽なことでも許されるという社会は、破綻してしまう。

 ジーパンが安くなったから、ガソリンが安くなったから助かるといった部分だけを誇張している様な発想では、経済の本質は理解できないのである。問題は、その背景にある構造を読みとることなのである。それが真に賢い消費者である。

 産業構造や市場構造の在り方によっては、高い精度の需要予測が可能な産業と、需要予測が立てにくい産業がある。需要予測の精度によって産業構造や収益構造にも差が生じる。
 予測が立てやすい産業は、一定の収益を前提とした経営がしやすいが、予測が立てにくい産業は、利益が上がっているうちに償却をしておきたいと考える。また、借入金の返済を急ごうとする傾向がある。ところが借入金を返済しても金利負担以上の軽減は計れず、かえって資金繰りに支障をきたし場合もある。これ等の要素を勘案した上で、統合的な経営をする必要があるのである。

 仮に、売上やシェアだけを基準に経営をする経営者が現れると産業全体の収益構造が、劇的に変化する場合がある。収益が圧迫されて淘汰される例もでてくる。それが、妥当な原因ならば、適度な競争は、産業の発展に寄与するが、経済的な歪みによって生じた変動だと産業構造のみならず、雇用構造や経済構造を著しく毀損させてしまうこともある。

 為替の変動や原材料の高騰などが産業や経済全般にどの様な影響をもたらすかを見極めた上で対策を立てる必要がある。対処療法的場当たりな政策は、かえって有害である。

 対外交易による収益を圧迫する要因には、内外価格差、人件費の違い、労働条件の差、市場構造の歪み、為替制度、生活水準や物価水準の差、文化や生活様式の違いなどが考えられる。これらの多くは構造的な要素である。

 なぜ、計画経済や統制経済が上手く機能しないのか、。それは、人間は、全知全能の神になれないからである。






                       


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano