経済と陰陽五行(実績編)

質・量・密度

 現代人は、経済というのは、数学的世界だと思い込んでいる。数学的世界、則ち、数値的世界であり、量的世界である。量的世界とは、質的世界が逸脱した世界である。つまり、質がない世界である。
 しかし、現実の経済は、量だけの世界ではない。むしろ、質が重要な役割を果たしている。

 経済には、人的経済、物的経済、貨幣的経済がある。そして、経済の実体は、人的、物的空間にあり、貨幣的な空間は、いわば、経済の実体を写像した虚の世界である。しかし、貨幣は、現実の経済に対して絶大な力を持っている。そして、経済現象の多くは貨幣の振る舞いによって起こっていると言ってもいい。

 貨幣経済は、経済的価値情報を数値化する事によっなりたっているといえる。貨幣は、経済的価値を数値化するための指標であり、手段、道具である。つまり、物差しに過ぎない。ところが、現代社会では、手段である貨幣が目的化して、経済的価値の全てを支配している。
 その為に経済的価値の本質、言い換えると経済の本質そのものまでが変質している。

 経済的価値は、量的な部分だけで成り立っているわけではない。質的な部分も量と同等或いはそれ以上に重要なのである。ただ、貨幣経済では、全ての経済的価値を量化する事によって一律に処理をすることを可能としたのである。
 数値化する事によって異質な物を一律に取り引きすることを可能としたのである。また、貨幣化することによって時間差のある取引をも実現することが可能となった。そのお陰で、労働力や権利、サービスといった無形なものの取引も可能としたのである。
 しかし、その反面において経済は、質的な部分の要素を剥奪する弊害も招いた。例えば思い出のある物の価値とか、自作の物の価値などは全く価値に反映されなくなる。
 本来、価値というのは主観の問題なのである。主観の所産である価値に客観性を持たせる過程で貨幣価値が生じたと考えるべきなのである。つまり、自他の関係から主客の関係へ変換する過程で経済的価値は形成されたのであり、価値の本性は主観的認識である。故に、質が重要な要素であることに変わりはない。

 今日の自由経済は、則ち、市場経済といえる。自由経済の基盤は市場にある。市場は、取引の集合である。取引の実相は、単価×数量×時間によって表される。そして、時間は、一般に陰に作用するために、表面には表れない。

 質は、価格、単価に反映し、量は生産量、販売量に反映される。故に、経済は、質×量=密度によって成り立っている。量は、基本的に物理的量、則ち、物的経済を表している。
 則ち、単価は、経済的価値を数値化する事によって物理的量に結び付ける機能を果たしている。
 単価は、即ち、物の値段の単位である。単価は、単なる量ではない。単価は、価格の単位であるが、単に数値としての単位だけでなく、人や物、時間の単位といった複数の単位から成る。この単位の基準の複合性に価格に籠められた質的部分が隠されている。
 価格とは、構造的な物であり、ただ単に市場の競争だけで形成されるべきものではない。
 適正な価格を形成し、維持することが経済状態を正常に保つために不可欠な要素なのである。そして、その為の市場原則なのであり、競争の原理である。仮に、競争によって適正な価格を維持できないと判断された場合は、競争を抑制するようにするのも一つの方策である。競争は手段であって目的ではない。重要なのは価格がもたらす情報を正しく解析することなのである。

 経済を構成する価値は、質と量、則ち、密度によって定まる。
 市場価値は、交換価値であるから、本来、質が重んじられる。しかし、現在の市場では、圧倒的に量が重要な要素になる。なぜならば量は、単価に、即、反映されるからである。それが大量生産経済、大量消費経済の悪弊である。大量に生産し、大量に消費する事で、質が問われなくなる。

 市場経済の実体は、質と量、比率と回転率によって表される。
 質は、率に反映し、量は、回転に反映する。
 質は、形、象を元とし、量は相を元にする。
 形とは、例えば固定と変動の構成率に表れる。費用における人権の占める割合や減価償却費の割合。
 大量生産、大量消費は、回転率を高めることによって実現し、品質の向上は、利益率の向上によって維持される。
 現代の市場経済は、回転率を高めることばかりに向けられている。利益率を追求する事は悪であるかの如くメディアは扱う。その為に、安売り業者のみが跋扈する。その為に、商品やサービスの質を高めても利益率を向上させることができない。
 そして、安売り業者に市場が席巻されることで、結局、消費者の選択肢も狭まるのである。

 市場を構成する個々の取引は、取引が成立した時点時点で均衡している。
 個々の取引には、反対取引がある。反対取引は、表裏の関係が成り立っている。売りがあれば買いがあり、支出があれば収入がある。
 即ち、支出の総和が減れば収入の総和も減るのである。それは、当然、個人所得にも反映される。消費の減退にも繋がるのである。

 数値だけで経済を制御しようとしている現在のの経済は、現実感や生活実感が感じられない。経済政策が庶民の感覚から乖離してしまっているのである。その為に、経済政策が庶民の生活を変化させるだけの影響力を発揮できないでいる。
 経済の実体は、人的経済、物的経済の側にあることを忘れてはならない。

 経済とは、生きるための活動を言うのである。即ち、経済は生活である。生活感のない経済は、成り立たない。根底に生活があるから、経世済民でありうるのであり。それ故に、経済は文化なのである。

 昔、自分達が学生の頃は、街には小さな喫茶店がいくつもあった。歌声喫茶やジャズ喫茶など、喫茶店は、ある意味で文化の発信地だった。それぞれが店の個性を競い合っていた。
 退職後は、小さな喫茶店でも開いてのんびりと過ごしていきたいといった夢を持っていたサラリーマンも結構いたものである。
 それが街であり、経済である。経済の主役は人間なのである。物や金ではない。経済は、本来人と人との交流があって成り立つものである。
 街や生産現場から人の温もりや臭い、笑い声が失われつつある。義理も人情も無縁の世界に街がなりつつある。それは経済とは言わない。
 人々の生活があり、人生がある。それが人間の生きている空間であり、経済的な空間なのである。人間の生きられない空間では、経済は成り立たない。人間は、心のない物ではない。生きているのである。魂があるのである。
 小さな店で店番をしながら日向ぼっこをしているおばちゃんの姿や子供相手に談笑する駄菓子屋のおばちゃんの姿が下町の商店街ではよく見受けられたものである。三ちゃん経営の個人商店だからこそ成り立つこともあるのである。そんな下町にある多くの商店街も、いつの間にかシャッター街になり、おばちゃん、おじちゃん、子供達の姿が消えてしまった。恋人達の待ち合わせの場であった小さな喫茶店も姿を消し、巨大なネットワークを持つチェーンストアに姿を変えた。お陰でコーヒーの味は万国共通になり、地方都市でもニューヨークと同じ味のコーヒーが飲めるようになったのである。
 おじいちゃんやおばちゃんがいた店に変わってがらんどうの倉庫のような巨大な空間に棚を並べて商品を置き、セルフサービスや機械化によって最小限の人間しか雇わない、そんなショップに占領されてしまった。しかも、店員は、臨時雇いである。
 効率化された店と失業者の群でどうやって経済を立て直すつもりなのであろうか。
 その上、おじちゃんやおばちゃんを無味乾燥な施設に追いやってしまった。それを、高効率な高福祉社会というのであろうか。
 私には、地域社会の崩壊としか見えない。非人間的な経済にしか見えない。つまり、経済の破綻でしかないのである。
 沖縄のガソリンスタンドは、人でばかりが多くて過剰サービスだと批判をされた。そして、規制が緩和され、確かに、沖縄のガソリンスタンドは、合理化されたかも知れない。しかし、沖縄ではガソリンスタンドが雇用を創出していたという事実を忘れてはならない。効率性ばかりが経済ではない。非効率の経済もあるのである。そして、環境問題は、効率性ばかりでは解決できない問題なのである。つまり、量の経済から質の経済への転換が必要なのである。

 問題は、前提条件である。物が不足し、飢えている人々がいる地域や時代と物が溢れ、飽食の地域や時代とでは、自ずと採られるべき施策が違うのである。

 なぜ、不景気なのか。それは儲からないからである。なぜ、儲からないのか。それは物が売れないからである。なぜ、物が売れないのか。人々が、物を必要としていないからである。
 不必要な物をひたすら大量に作り出し、無理矢理、消費する。それは、無駄と浪費の極みである。しかも、その一方で飢餓に苦しみ人々がいるとしたら、それは大罪である。
 食べ物について考えてみれば明らかである。
 今の日本人は皆、満腹なのである。満ち足りているのである。飽食なのである。そんな人々に、工業製品の食料を大量に供給しても無駄なのである。しかも、大量に捨てている。その一方で環境破壊が進み。飢えに苦しむ人々が増殖している。人々が欲しているのは、少なくてもいいから、美味しい物であり、健康にいい高品質の料理なのである。

 現代の経済状況は、もっと深刻とも言える。現在は、金余りなのに安売り業者が跋扈している。それが事態を拗(こじ)らせている元凶なのである。金があるというのに、あえて質を低下させ、人々は、大量製品を購入しようとするのか。その背景にある意識や文化が問題なのである。物質的な貧困以上に意識の貧困が問題なのである。

 経済は、大量生産、大量消費と言った量の経済から質の経済へと転換すべきなのである。量的拡大は質的な変化を伴う。

 安くて大量の食料から、少なくても美味しい料理、健康的な料理へ転換することなのである。それは、ある意味で過去への回帰なのかもしれない。つまり、近代的工業生産から徒弟制度的職人の世界への回帰である。農薬づけの農法から、有機農法への回帰です。
 一見非効率な仕事のようだが、それが、高付加価値を生み出すのである。
 過去への回帰と言っても、懐古主義、復古主義とは違う。過去との違いは、昔は、美味しい料理を食べられたのは一部の特権階級に限られていたのが、現代は、多くの人が美味しい食事をしようとすれば可能だと言うことである。

 量の経済から質の経済への転換とはどの様な事であろうか。

 大量生産、大量消費から多品種少量へ。標準化、単一性から多様性へ。マスからミニへと言った経済の質の転換が求められているのである。
 つまり、物を大切にし、慈しむ経済である。
 例えば、大量生産による自動車ばかりの世界から、手作りによる自動車や個人の嗜好に合わせた改造自動車の普及と言ったことである。むろん、改造自動車と言っても暴走族用の自動車を指すのではない。自分の生活信条やスタイルに合わせて自動車を改造するという意味である。自分の生き方にあった自動車を作り出す創造的経済である。
 手作りの自動車や改造自動車を普及させる事によって多様な職種を新たに作りだし、雇用を増加させるのである。
 ボランティアなどと言わなくても、かつては、世話焼き婆さんのような役割をする人間が町内には必ずいて、結婚の世話などを一生懸命した。経済思想というのは、本来、そう言う社会体制であり、根底に流れている思想であり、又、その為の仕組み、或いは、礼節と言った文化なのである。そして、その文化こそ経済だったのである。

 現代人には、経済思想というと金儲け主義か、組合主義と言った偏った思想だというような誤解があるが、助け合いというのも経済思想の一種なのである。つまり、日常生活に対する考え方を洗練したものだと考えるべきなのである。
 革命思想とか、拝金主義のような非日常的な次元で経済思想を捉えていると経済思想の本質が見えてこない。
 経済思想は、家族の問題とか、恋愛観だとか、結婚問題と言った身近な細々とした事柄の積み重ねの上に成り立っている思想なのである。

 いくら小手先の理論で省エネルギー、環境保護を叫んでも何も変わらない。生き方を変えない限り、資源問題も、環境問題も改善できないのである。





                       



ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano