自分ってなあに


プロローグ


自由は、自分を核とした概念である。
だから、自由を知るためには、
自分を知らなければならない。
自分を明らかにする必要がある。

自由主義は、自己中心の思想である。

自分中心というと、利己主義と勘違いする人がいる。
そう言う人は、
自由というと
自分さえ善ければいいという考え方でしょといった後で、
たいてい、他人はどうなってもいいのよねと付け足す。
自分さえ善ければ、
他人はどうなってもいいなんて言っていないのにである。

そう言う人の大半は、
自分さえ善ければと言う意味がわかっていない。
自分というのは、何か。
善ければと言うのは、どういう意味なのか。

解っていない。

先ず、善ければである。
自分さえ善ければの善ければは、
善である。
悪い事ではない。
やりたい事をやるという意味ではない。
欲望の儘にでもない。
善ければである。

いいというのは、善である。
悪ではない。
人に善くすることである。
自分が正しいとすることに忠実であるという意味である。
それが自分が善ければいいという意味である。
自分の目を意識して不善を為さずと言う意味である。
他人がどう言おうと善は、善だという意味である。

次に、他人なんてどうでもいいとは言っていない。
自分さえ善ければと言うけれど、
自分に善い事がなぜ、
他人なんて関係ないとか。
他人がどうなってもいいと言う考え方に結びつくのだろうか。
誰も他の人がどうなってもいいなんて、
関係ないなんて言っていない。
そんなことを言うのは、
自分と他人との関係が見えてないだけじゃないか。

自分は、一人で生きているわけではない、
そんな事ぐらい解っている。
だから、自分を善くしたければ、
他人との関係を無視できるはずがない。
周りの人が不幸なのに、
自分だけが幸福になれるわけがない。
自分を善くしようと思えば、
当然、周囲の人達を善くしようとするに決まっている。
自由の根本は、個人主義で、利己主義じゃない。
エゴじゃない。

自分が善ければいいという考え方の中には、
愛する人の喜ぶ姿を見たいとか、
幸せにしたいという考え方が当然ある。
女性が化粧をするのも自分を美しく装いたいという欲求があり、
その欲求の対象は、
愛する人である。
人を喜ばせたいとする、
自己中心的な考え方は、献身的ですらある。
自分が善ければと言う考えと、
他人なんてどうでもいいという考え方とは同一でも
対になる考えでもない。

自由というのは、自分というものを良く知らなければ、
実現できない。
一体自分が何をしたいのか。
どんな生き方をしたいのか、
それが解らないで、
自分の欲望や感情のままに
やりたい事をやったとしても
それは、自由などではない。
欲望や感情の奴隷に過ぎない。
全然、自由じゃない。
衝動的な行動を繰り返すだけで、
自分で自分がコントロールできない。
自分が解っていない。
自分すら自由にできていないだけである。

自由というのは、自分の延長線上にある。
だから、先ず自分を知らなければ、
何が自由なのかを知る事はできない。

だから、先ず自分について考えてみよう。




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