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自由について

自己について



 現代は、自己中心の世界である。
 それでありながら、自己中心というと、どちらかというと、マイナスのイメージの方が強い。多くの人たちが、自己中心的な生き方に対して否定的な見方をしている。
 自己中心などというと、自分さえよければ、他人のことはどうなって良いのか。お前は、世界が自分中心で廻っていると思っているのだろう。
 そのほかにも、独善、わがまま、ナルティスト、自分勝手、身勝手、思い上がり、自惚れ、エゴイストといった言われ方がする。いづれにせよ、このような言われ方をするとあまり、良く捉えられることはあまりない。どちらかといえば、悪口の類である。
 周囲の人間の対する思いやりのない、気配りや配慮の欠けた、いやな奴という印象しかない。ひどい時は、人格に、どこか、欠陥があるといわれかねない。
 自分のためにしか、何もしないとか、自分のことしか考えていない、といわれることは、人間関係上、致命的になりかねない。
 僕は、自己中心的な人間だというのには、かなり勇気がいる。それに対し、自己犠牲や献身という言葉には、美しい響きがある。自分さえよければいいなどと言うと、自分一人で生きているなどと、思い上がるな。大勢の人のお陰で、今の自分が、あるんだと叱られてしまう。しかし、その反面、人のためになどというと、どこか偽善ぽく聞こえる。現に、世のため、人のためという大義名分によって、かつては、自己犠牲は強要されたが、最近では、世のため人のためという言葉すら死語になりつつある。では、どうしたらいいのか。どう、言えばいいのか。大いに悩むところである。この悩みこそ、現代人の悩みを象徴している。
 自己中心の考え方には、個人主義と利己主義の二つがある。自己中心主義対する誤解は、この二つの考え方の違いからくることが多い。個人主義と利己主義は、双子のように似ている。それでありながら、まるで性格は、正反対である。個人主義は、自己実現を利己主義は、自己否定をもたらす。結果的に、個人主義は、自由を、利己主義は、破滅を招くのである。
 利己主義は、個人主義に姿を借りて成長し、世の中に増殖していくのである。それ故に、高度に発達した個人主義社会は、同時に、高度に発達した利己主義の社会でもあるのである。そのうえ、個人主義よりも、利己主義の方が、大衆には分かり易く、受け入れやすい。利己主義は、甘く、甘美な香りがする。それに対し、個人主義は、辛く、冷徹な香りがするのである。
 自分のために自分のためにといいながら、自己を破滅へと誘うのが、利己主義である。
 そして、彼等は、自由の衣をまとって人に接する。曰く、言論の自由、結社の自由、生きる自由。
 双方とも、自分のために、自分のためにと近付いてくる。両者を見分ける力がないと、人は、惑い。やがて、甘美な誘惑に身を委ねてしまう。
 個人主義が、成就した栄光によって利己主義は、賛美され。個人主義が、勝ち取った自由の名の下に、利己主義は、無法を行う。利己主義が招く、災害によって、個人主義は、責められ。利己主義が犯した罪によって、個人主義は、裁かれ、罰せられる。
 利己主義が蔓延すると、自己中心的な考え方は否定されるようになる。つまり、利己主義自体が、自己否定的なのである。その為に、個人主義社会は、自己中心的な制度をとりながら、自己中心的な思想が否定されるというジレンマに陥るのである。
 このような錯誤は、日常生活の中に、深く、深く浸透し、何気ない会話の中にも潜んでいる。そして、人々の価値観を分裂し、主体性の崩壊へと導いている。
  何のために、勉強をするのと聞くと、自分のためにという答えが返ってくる。その反面に、自分のことばかり考えては、駄目と教えられる。矛盾していると言えば、本音と建て前は、違うと言う事で誤魔化される。つまりは、表面では、自分のためと言いながら、裏では、自己犠牲を賛美する。この逆もある。しかし、きちんと本音と建て前を整理していないと本音と建て前は、最後まで一致しない。自分に都合がいいように使い分けられる。これでは、価値観が分裂してしまう。価値観の分裂は、主体性の分裂であり、自己の崩壊を引き起こす原因となる。また、主体性を喪失すると自己は、他に支配される。自己を支配するものは、必然的に自己犠牲を強いる。
 自己犠牲を押し進めると、自分を押し殺すことが要求されるようになる。そして、自分を抑圧し、押し殺すことを、美徳だとする風潮に、支配されるようになる。今の日本がそうだ。何事も我慢、我慢である。意味もなく目的もなく、我慢だけを強いられる。
 学校を卒業するまで我慢。一人前になるまで、我慢。子供が産まれるまで我慢。いつまでたっても我慢、我慢である。なぜ、我慢するのか。なぜ、我慢する必要があるのか。そのようなことは、どうでもいいのである。ただ、ひたすらに我慢、我慢。最後には、我慢することが、人生の究極の目標になってしまう。では、なぜ、我慢するのか。それは、何か、目的があって必要に応じて、仕方なく我慢するのである。目的がなければ、我慢する必要はない。
 表だっては自己中心、個性の尊重と社会は、自己中心的な制度が発展し、自己責任の時代といいながら、現実には、自己犠牲や献身は美徳、自己中心は悪徳という考えが潜在的に、社会の広い層に浸透しているように思われる。いざとなると上っ面の考えより潜在的な考えの方が強い。それ故、建前は、自己犠牲、本音は、自己中心という具合に、使い分ける人間が増えてきている。また、開き直って、自分さえよければいいと、宣言して生きていくとしても、何らかの後ろめたさを引きずってしまう。
 これでは、どうしたらいいのか、どう生きたらいいのか、わからなくなってしまう。現代人の悩みや迷いの原因がここにある。つまり、何に、依って生きたらいいのか。何を、信じたらいいのか。自分とは、何なのか。多くの人達は、皆目、見当がつかなくなっている。
 自己中心の世界でありながら、自己中心的な考え方が否定されたら、人は、迷う。迷いがこうじると、自分の価値観に自信がなくなり、同時に、人が信じられなくなる。結局、困った時は、誰も助けてくれない、自分だけがしか、頼れないと人間不信に陥ってしまう。その結果、自分さえよければと言う考え方が歪められ、一時の衝動や快楽のみを委ね、結果的に自己否定、自滅への道を歩んでいることに気がつかないでいる。これが利己主義である。このような形で、自己中心的な思想を形成したら、それは、独善的なものになってしまう。個人主義は、我のみが正しいとする独善とは性格を異にする。利己主義は、個人主義とは、相容れない思想である。利己主義が仕掛けた落とし穴、現代社会の罠がそこにある。
 自分さえよければという言葉の真意には、刹那的で、自暴自棄的な意味は、本来ない。むしろ、長い人生を、いかに有意義に過ごすかという、前向きな姿勢こそが、本来の意味である。無責任で、怠惰な生き方を、正当化することでもない。
 これほど性格の違う利己主義が、なぜ、個人主義に化けて人をたぶらかす事ができるのか、それは、自己の定義が、なされていないことに、根本的な原因がある。そこで、次に自己を定義したいと思う。


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