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著書:  自由(意志の構造)上


                  第1部第2章第1節  自覚と自我

 個人主義が、自己善や意志の追求によって自己の人格形成を目的としているのに対し、利己主義は、自己の欲望や快楽を追求する事によって、現世的利益、即物的利益を目的としている。
 個人主義が、より普遍的で、善的なものに自己の存在の根拠を求めるのに対し、利己主義は、あくまでも快楽的で、刹那的なものに、自己の存在の根拠を見いだそうとする。
 つまり、利己主義は、狭視野な自己が生みだした、精神的奇型児なのである。
 では、利己主義は、どのようにして派生するのであろうか。
 利己主義が派生する土壌は、自己の生命の保全というような、消極的な原因にすべてを帰すベきではない。むしろ、生命の保全という点からすると、反対の結果を招く場合が少なくない。利己主義は、自己と他との区別を不明瞭なものにし、又、自己と他との関係を歪め、結果的に自己を孤立させ、その生存を危うくする。利己主義は、即物的で、刹那的であるが故に、自己を破滅させる原因とはなっても、自己の生命を救済するものになりえないのである。
 このような利己主義の危険性は、広く知れわたっている。それでありながら、利己主義には、一種人をひきつける、麻薬のような作用があり、破滅するとわかっていながら、多くの人間が利己主義のとりことなって、堕落してきた。
 その事を考えると、自己の生命の保全は利己主義を生み出す一因かもしれないが、それ以上に 積極的な要因が、その影で働いているように思われる。
 利己主義は、すぐれた人格をもち、強固な意志と信念に裏打ちされたような人物でも、功成り名遂げたような人間ですら、逃れる事ができない。否、むしろ、栄達した人間程、利己主義的な 考え方に囚われていく、そんな業ともいえる要因が、利己主義には潜んでいる。
 人間の偉大な業績の背後には、利己主義の見えざる落し穴がある。個人主義と利己主義が不可分なうちは、時として、善が悪となり、意志が欲望となる。我々は、この事をよく理解し、自己の善を正しくとらえねばならない。

  A 自覚

 自覚とは、自己の実在を認識する事である。自己の実在は、自明なものであり、すべての認識と、そこから派生する価値観の前提となるものであるが、自己が間接的認識対象であるが故に、考えている以上にむずかしいものである。
 又、自己が主体存在であるが故に、自覚は直観によらざるをえず、その為に、なお余計、困難にしている。
 自己は、自己の属性である肉体や価値観の前提となる存在であるが、自己の本質は、肉体や価値観の内容にかかわりあいなく独立している。つまり、自己の実在は、その存在自身を意味し、絶対的なものである。
 しかし、自己が間接的認識対象である事によって、自己の実在は、外的媒介物がなければ、確認・立証する事ができず、その為に、媒介物自体や、媒介物との関係を自己の本質として錯覚し、自己の代替とするような現象がある。このような現象を移入といい、移入によって生じる代替物を自我という。
 自己が認識主体であると同時に、間接的認識対象であるという事は、対象を認識するという外へ向かった作用と、自己を認識するという内へ向かった作用の両作用が、同時に進行する事を意味する。このような認識の作用を認識における作用反作用の関係という。
 現象を順逆の二元性でとらえていこうとする人間の思考傾向は、認識の作用反作用の影響と考えられる。
 ただ、人間は、一定方向の作用しか見極める事ができず、外向的であるか内省的であるかのいれかに偏する傾向があり、自覚は、こうした偏向を防ぐ為に不可欠な要素である。
 自覚は、認識の作用反作用によって、自己と対象との位置や関係を客観的に認識させ、そこから価値観を導き出し、主体的な運動を保証する為の不可欠の要因である。
 自己とは、純粋に観念的な存在であり、存在それ自身をさす槻念である。我々が日常生活の中で同国人と話す際に、文法を肌で感じる事がないように、自己の存在を通常の生活の中では意識する事はない。あるとすれば、生命の誕生や死といった現象に遭遇した時に間接的にである。が、死生という現象は自己の存在とは直接的なかかわりあいはない。つまり、存在は存在、現象は現象なのである。故に、自覚は直感によってしかなされない。
 このことは、従来の個人主義が、自己を個というものに置きかえる事によって人間の社会を客観的にとらえようとしたのに対し、個人主義本来の在り方は、まったく正反対の前提から出発しなければならない事を示唆している。
 つまり、自己を個というものに置きかえて客体化する事なく、主体存在である事を前提とし、人間のあらゆる属性、すなわち、感情や道徳感、恋愛感、嗜好といったものの存在を是認し、より積極的に取り入れていかなければならない事を意味する。その時、科学や学問は無味乾燥なものから解放され、滋味豊かなものへと変化していくのである。
 自覚は、自己と他者との区別を明確に意識しなければ成立しない。つまり、自己の存在を意識する事は、自己と異質な他者の存在を見極める事である。人間の知能は、この自他の区別によつて高められたと考えられる。つまりは、自己と他者との相対的位置や関係を見いだす事によって、意識的に価値観を生み出し、社会を形成していく事が可能となったのである。そこに、私は人間の悟性を見いだす。
 又、このような悟性は、人間を自然にそなわった自己制御能力から解放し、意図的な自己制御能力、つまり自制心を生じさせる契機となった。このような悟性を、他の生物がもっているかの議論は、この際保留しておく。
 このことは、多くの人々がもつ個人主義への偏見、つまり、個人の行動や価値観を無条件に是認するのではなく、自制心を前提としている事を意味し、無自覚な人間を容認するものではない。
 無自覚な人間は、自己を制御できないが故に暴走したり、又、社会の内に自己を位置づけられずに疎外されたり、他者との関係が理解できずに通常の社会生活が営めなくなったりする。個人主義社会において教育は不可欠なものであるが、その教育は、人間の自覚を促すものでなければならず、偏向した教育によって、かえって自覚を阻害するものであってはならない。
 人は、現象の背後に隠れている原因を見ずに、表層に表われた結果に執着する。だが、問題たのはむしろ結果ではなく原因であり、行為ではなく動機である。人間は、肉体によってのみ活かされるのではなく、内的活力である生命力と外的表象である肉体との相互作用によって活きているのである。同様に、人間の行動は、内的動機と外的動作によって構成されている。この内的動機の原因こそ自己である。自己は、人間の行動の背後に存在する原因である。原因である自己は、表面に表われた行動に目を奪われて見落とされがちである。一連の行動の目的や動扱が、忘れられてしまう。人と話をしていて、自分が何を謂わんとしていたかがわからなくなるのは、会話の動機や目的が失われてしまうからである。人間の行為は、結果から堆し量れない部分の方が多い。本来、真に行動の成果を計るという意味からいえば、結果よりむしろ原因の方が重要な基準となる。結果は、その目的より測るべきである。外見上、いかに成功に見える結果にしても、内実は目的や動機に照らし合わせてみると大失敗であったり、失敗に見えた事が、実は成功であったりする。又、良い事をしているように見えても動機が不純ならば、それは決して正しい事ではない。成功不成功の基準にしても、正否を計る尺度にしても、外見上の結果よりも各自の動機や目的に負うところが大きい。
 人間が、自己の在り方、生き様を決めるのも同じ事である。人の生き様を決する基準はいかに在るべきかであり、何をなすべきかではない。いかにあるべきかから導き出されたなすべき事に従って、人間は自己の一生を測り、生活の方針を定めていくのである。自己の在るべき姿を知るという事は、すなわち自己を知るという事、つまり、自覚を意味する。そして、そこに自覚の必要性がある。自己を知るという事は、社会の中における自己の位置を見極め、その中で、自分の進むべき道を指示する道標を与える事である。社会の中にあって、自己の指針を持たないという事は、羅針盤を持たない小舟で大海を渡るようなものである。又、原因である自己を見失うという事は、行動そのものの目的動機を見失う事である。自己を知る事は自己の行動を方向づけ、その動機や目的を明らかにし、かつ行為における筋道を明らかにする。故に自覚は、社会において生活していく上に必要不可欠な事である。
 自覚とは、自己の存在を明確に意識する事と定義したい。すなわち、意識された自己の始点である。自己を意識するとは、自己と対象との関係を知り、自己を外的内的世界の中に位置づけていく事を意味する。つまり、自立した自己の始点でもある。自覚は、自己に対する目覚めである。自立した自己とは、自己の力によって、自己統制、自己制御(自制)、自己調整、自己操作、自己管理、自律等が可能となる事を意味する。人間は、諸々の関係の中で生きている。この関係の中に自分を位置づける事、それが自立である。複雑極まりない現代社会にあって、自己を見詰め、捕え、位置づけ、評価し、育成し、創造し、維持する。それが、自己の自立がもたらすものである。又、自立するとは、対外社会に自己の存在を主張していく事、自己主張していく事である。
 なるほど、人間は自覚しなくとも生きていける。自覚は、人間にとって生きるための必要条項だとはいえない。自覚しなければ、生きていけないというわけではない。むしろ、自覚せずに生きている人間の方が多いくらいである。自覚せずとも、日常生活において事欠く事はない。文法を知らずとも、日常会話に困る事はない。物理学の原理を知らなくとも、テレビのスイッチぐらいは入れられる。しかし、自分の意志を正確に伝えようと思ったり、相手の考えを正しく読み取ろうと考えた場合、言葉の持つ正確な意味や文章の構成に対する、ある程度の知識を必要とする。又、機械を設計するためには、少なくとも物理の初歩的法則を知らなければならない。同じように、自己を養成し、成長させ、延いては対外世界に参加構成させていく為には、自覚は必須な事なのである。しかも、人間は社会的な動物である。社会的な動物である人間が社会の中で生活していく為には、自己をとりまく社会と自己との関係を知る事が、どうしても必要となる。人間は、自己の存在を外部対象に主張し、投げ掛けてはじめて、自己の存在を知る事が可能となる存在なのである。つまり、間接的認識対象である。間接的認識対象である自己にとって、自分の存在を主張する事が、自分が生きている証であり、生きている者達の社会に参加する唯一の手段なのである。死は必然。しかし、人間は、死に怯える前に自己の生に気がつかなければならない。なぜ自分が生きているのか思い煩う前に、自分が今生きているという事実を受け入れ、前提としなければならない。そして、それが自覚である。
 自己の存在は、気がつきにくい。一つには自己が終極原因だからである。又、一つには自己は、意識される以前の存在であり、前提だからである。表面に表われる現象や行動に人は注目するが、その背後にある原理や原因は見落としがちである。物体が落下するといった現象に対し、人は驚くが、その背後にある法則や原理に対しては冷淡である。なぜ、物体が落下したかといった原因に対して、さして注意を払わない。競技に勝った負けたと騒ぐが、なぜ、その競技会が催されたかという問題は忘れられてしまう。その為に、親睦を深める事を目的とした競技が、いつのまにか争乱の種になっていたりする。それは、当初の目的や動機が確認されたり、明確に意識されていないからである。原因や動機は、ともすると表面に表われた勝敗といった結果の前に隠されてしまう。親交を目的として始められたゲームが、不和の元になるという原因がそこにある。同様に、行動の原因たる自己も見落とされがちである。行動の影に隠れて気がつきにくいからである。
 自己は、意識される以前に存在する存在である。物事を考える以前に自己は存在する。自己の存在は、当然すぎる程当然な存在である。故に、自己は、生まれてから死に至るまでに、ことさら自己を意識する梯会は少ない。その上、自己が間接的認識対象であるという事も手伝って、自己の存在は認識しにくい。自己は、すべての意識、認識の前提であり、又、すべての存在に先立つ存在だからである。つまり、自己が存在しなければ、その自己にとってすべての存在は、存在しないのも同じ事だからである。このような、すべての存在に先立つような存在である自己は、自己にとって最も認識しにくい存在である。自己を自覚する手段は、自己自身の知覚・認識・行為・行動を通して為される以外にないからである。自己が、痛みを感じて自己の存在を知覚し、対象を見る事によって自己の存在を知り、鏡に映った自分の姿を見て自己の存在を認識し、思考といった行動を通して自己の存在を悟るのである。しかも常に、この場合、自己に痛みを感じさせる外部対象(自身の肉体の一部を含む)、自己の存在を知らしめる対象を、自己の行動に対応反応する対象を必要とする。自己自身のカだけで、自己自身の存在を認識する事はできない。
 自己の存在を感じさせる事を、存在感を感じさせる対象と呼び、自己の存在を感じる事を、存在感があるという。自己に自己の存在感を与える自己認識作用の中で、感情作用程、自己を自己に強く印象づける作用はない。そして、感情作用の中でも、最も強く自己の存在感を高揚させるものが、感動である。感動は、自己の感情を激しく動揺させ、存在感を高揚させる。時として感動は、自己を陶酔させる事もある。自己は、このような感動を与える対象に傾斜していく。その為に、自己の感動が、対象からもたらされるように錯覚し、自己の存在に根ざしている事を忘れ ると、自己を見失う事になる。
 自己は、自己の存在感を意識する事によって自覚する。しかし、自己に自己の存在感を感じさせる対象は、自己内部には存在しない。故に、自覚する為には、自己を対象界に投げ出す、つまり、自己主張を必要とする。そして、自己が自己の存在を強く意識した時の感覚が感動であり、感動の中でも内なる感動、すなわち、自己の存在に根ざした、自己の内部から発する感動こそ が、真の自覚を促すのである。
 自覚は、むずかしい。しかし、自覚するしないにかかわらず、自己は存在する。人間は生きている。死は、人間にとって必然だという。しかし、生きている人間で、死を経験した老はいない。故に、死も死後の世界も厳密に言えば、堆論、仮定の域を出ない。確かなのは、自分が生きているという事実だけだ。そして、まず、自分が生きているという事実を認める事、それが、すべての対象に対する認識の始まりである。自己が生きるという事は、自己が生きているという事実からすれば必然の産物である。しかし、自己が生きているという事実を認めなければ、いかに生きるべきかという問題を解決する事はできない。又、存在する自己を知らなければ、そこから派生する諸々の事象を掌握する事ができない。自己から派生する事象を把握できないのならば、自己を自己のカで、統制、制御、調整、操作、つまりは、コントロールできない。すなわち、自立する事ができない。自立する事ができないのでは、自己の将来に対する構想、在り方の意思決定ができない。生きているという事実に立脚してはじめて、自分というもの、又、自分の将来に対する展望、自己の在り方といったものが、見えてくるのである。
 自己は、すべての存在に先立つ存在である。認識する存在が存在しなければ、認識される対象も存在しない。認識主体と認識対象は一方が成立しなければ、もう一方も成立しない連帯関係にある。すべての存在に先立つ存在である自己に対する意識は、すべての対象に対する意識、認識の前提である。自覚する事が、すべての主体的行動の前提であるのはその為である。生きているという事実を受け入れていく事によって、はじめて最善の生き方について考える事ができるようになる。又、死という現実に対しても、冷静に受け止める事が可能となる。自覚は、人間にとって、その人間を最善に生かすための施策を生み出す最大の原動力である。
 自己は、対象認識の前提である。対象と自己の関係は連帯関係であるから、認識主体としての自己を知るという事は、自己と対象との関係を同時に知る事を意味する。対象と自己との認識は同時に進行する。自分を知るという事は、つまりは、自分と他人とのかかわりあいや、自分の社会における位置、自然環境と自己の閑係を知る事を意味する。厳密に言えば、自覚し始める、つまり、自己を知り始めるという事は、対象との関係を知り始める事である。自分をとりまく環境の持つ意味(もちろん、自己にとっての意味だが)を知る事が、自覚である。自覚の持つ大きな役割の一つは、それまで不明瞭であった自己と対象との関係を明らかにする事、つまり、それまで意味(注1)のなかった対象に意味を与える事、無名な存在に対して名前を与える事、それまで役割のなかった行為に役割を与える事である。曖昧模糊とした関係や、不明瞭な意味を清算して明らかにする事は、自覚の持つ重大な役割である。自己と外界との関係を知らずに、自己が外界に対していかに振舞うかを決する事はできない。自覚した後に、自己が外界に対して、どのように対応したらいいのかが、わかるのである。
 自立するとは、自分の意志による判断で行動し、その行動に責任を持って生きていく事である。人間が、一つの行動を起こす際、必ず、その前に何等かの意思決定がなされている。しかも、その行動に責任を持つとなると自己の下した判断の根拠を知らなければならない。故に、自分の判断で生きていくという事を煎じ詰めてみれば、自分の判断の出所を知る事である。判断という行為の大多数は、無意識のうちになされているものであり、当人はその判断の出所を意識していない場合が多い。単調で変化の少ない日常生活の中では、慣習や慣例となっている一連の意思決定は、ことさらに意識する事がなくても、生活を破綻させる事はない。同じ動作の繰り返しが無意識のうちに、判断に至る過程を定形化してしまうからである。日常生活の中でなされる判断は、何気なくなされる判断であり、意識するまでもない判断である。しかし、このような判断は、突発的な出来事や緊急を要する判断といった、定形的判断の埼外でなされる判断、意思決定には、適応ができない。むろん、このように不定形な意思決定は、日常生活のいたる所に浸透している。しかも、不定形な意思決定に基づいてなされる行為は、往々にして、重大な結果をもたらすものである。しかし、生活がある程度安定した状態に落ち着くと、不定形な意思決定に対する必要性も減少し、同じパターンによる意思決定で、充分間に合うようになる。単純な型の生活様式(朝、日を醒まして、食事をしてから仕事に出かけるといった繰り返し)の中では、自立する必要はないかもしれない。しかし、一旦、社会に出れば、そのような単純な様式の繰り返しによって生活を維持する事はできない。社会は、各個独立した自己の集合体である。社会の中では、諸々の自己の在り方が複雑に錯綜していて、単一な自己を、絶えずおびやかしている。その上に、自己の意思決定は、自己の近隣社会に対して何等かの影響を与える。社会生活を営むという事は、諸々の関係の糸で自己を結びつけるという事である。故に、その関係の糸は、自己の意思決定によって影響を受けざるを得ない。そういった社会の中では、自分の判断がどのような価値基準に従い、どのような経路をたどってもたらされたものなのか、つまり、自己の判断の出所を求める事は、必然的に要求されてくる。
 自分の下した判断の出所を知り、自分の犯した誤りを認め、それ以後の行動を自分の力で律していこうと努力する事は、社会人としての必須条件である。複雑な要素がからみあった社会の中で、自己を保全していくという事は、自己の存在を絶えず確認していく事によってのみ与えられる。しかし、自己の存在を確認する、すなわち自己の存在感を感じる為には、自己が間接的認識対象であるから外界からの刺激を必要とする。思索は、外部からの刺激を絶えず必要としている。本を読むのは、本からただ知識を得る為だけではない。思索の為の刺激を得る事もある。又、本に書かれている内容を理解する為には、暗記するよりも、思考する事の方が、より重要である。しかし、その為には、文章を追い、必要な項目に関して記憶するという消極的な行為も要求されてくる。定形化された意思決定と、不定形な意思決定は、相互の補助によって、その効力を発揮するものである。単調な生活は、その意味において、自己の存在感を慣習の中に埋没させてしまう。だからといって、刺激のある生活を追い求めてばかりいたのでは、自分の生活の基盤を失ってしまう。自立するというのは、簡単なようでいてむずかしいものである。一方において単調な生活に耐えながら、又、一方において常に新鮮な刺激を追い求める事、それが、社会の中で生活を営む人間の宿命である。
 人間は、集団を形成していく。集団を形成していく原因は、いろいろ考えられるが、その中でも比較的重要な原因と思われるのは、自己が、間接的認識対象であるという事である。集団を形成する原因を、諸々の利害関係に置く事はよく考えられるが、自己が間接的認識対象であるといぅ観点から考察を加える事は、あまり見られない。人間にとって、自己の持つ人間的側面を投影してくれる存在は、人間である。人間との交際を断つ事は、自己の人間性すら失う原因になりかねない。多くの人間と交わる事は、自己を多角的に投影する事であり、自己の実像を知るための有効な手段である。自分が人間である事を知る為には、自分以外の人間を必要とする。さもないと、一つ目小僧の国に行った人間のように自分の本性を見失ってしまう(注2)。このようにして、人は人を呼ぶ。しかし、多くの人間と接触するという事は、それだけ多くの価値枕念の洗礼を受ける事である。価値概念は、地域差、経験の違い、年齢の差等といった事柄によって微妙な相違がある。複数の価値観が複合された場合、大きな誤解が生じる危険性が多分にある。そのような誤解から生じる混乱を禦ぎ、自己を維持していく為には、自己の存在を絶えず確認していく事が要求される。自己を知るという事は、自己が、そういった複雑に入り組んだ社会の中で、自己の下した判断の意味や責任を知り、その判断に基づいた行動に対する責任を自分でとる。つまり、みずからが、みずからを裁き、治め、制御する事を自覚は可能とする。そこに、自覚の持つ重要な役割がある。

(注1)意味については、第二部 対象のところで詳しく述べる。
(注2)一つ目小僧の国へ連れて行かれた人間が、年月が経るに従って、自分が二つ目である事を異常であるように
    思い込み、自分の片目を刳り貫いたという故事による。

B 自我

 自我は、自己が間接的認識対象である事に起因して、自己と対象とが転倒し、任意な対象に自己が移入する現象によって生じる、自己の代替着である。この代替者は、人間や物体とは限らず、地位や権力といった社会的価値や財産や貨幣といった経済的価値、又は、宗教や思想といった抽象的概念である事もある。
 一概に代替者それ自体を、悪と決めつけるわけにはいかない。しかし、自我は、悪や欲望の芽であり、自己と代替者との関係を明らかにして、早期に解消しなければならない。
 自己と自己を映す媒介物との関係を鏡像関係という。鏡像関係にある特定の媒介物自体、ないしは媒介物に映しだされた像を、自己と転置する事は、自己の主体性を喪失する事を意味する。それは、自制心を喪失する事を同時に意味し、抑制力をなくす事になる。
 自己は主体存在であり、自己を何等かの対象に置きかえ、客体化する事は、自己の存立基盤を揺がす事になる。自己は主体的であるが故に身を守る事ができるのであり、自己を客体化する事は、自己の存在自体を否定する事になりかねない。 又、自己の存在の目的に、自己実現という事がある。つまり、自己の存在を、行動や言動をとおして現実の世界に表現し、その事によって、自己の存在を確認し、立証していく。そうした自己実現という目的すら喪失してしまう。
 自己実現は、自己が生命ある存在である事を証明する事であると同時に、自己の存在を意味づけていく事であり、自由を規定する重要な要素であり、自己実現の途をとざす事は、自己の解放の途を閉ざし、自由への可能佐を喪失する事となる。
 自己の属性である価値観や肉体は、自己の支配下においておかなければならない。価値観や肉体の支配下に自己をおく事になれば、人間は外界との適合カを失い、自己の制御を不可能とし、ひいては価値観や肉体をも滅ばしてしまう事になる。
 我々は、欲望の虜となって身を滅ばし、あるいは、狂信者となって自制心を失い、想像を絶する残虐行為を平然となす者を知っている。行動を発し、その行動を評価する者は、自己でなければならない。そして、その自己が主体的でなければ、その事は不可能なのである。
 又、自我は、自己を他に転移する事によって、自己を分裂させる。自己の行動や価値を生みだす母体が分裂する事は、自己の行動や価値観に矛盾を生じさせ、自己の生き方を迷わせる。
 人間の行動や価値は、自己の実在のみを前提となし、その上で、対象とのかかわり合いの中で、その時々に決定し更新していくべきものである。つまり、人間にとって、自分が生きているという事実のみが、第一義的前提なのであり、生きているという事実を認めた上で、自分の在り方や、社会と自然とのかかわりあい方を考えなければならないのである。
 そのような自己の笑在を肯定する以前に、自己の代替者を他に求める事は、自己の存在そのものを否定し、ひいては自分が生きている事自体を否定しかねない。
 自己の実在は、自己自身にのみ依拠していなければならず、自己の価値観や行動ほ、自己に従属していなければならない。自己が、自己以外の存在に、その行動や価値の根源を求める事は、自己の隷属、もしくは否定を意味する。
 自己の分離は、その為に、精神や心理に重大な負担を課し、人格の破綻や多重性をもたらす原因となる。
 人格の統一という面からみても、自我は、有害である。
 自我のもたらす害を要約すると、第一に、自己の所在を不明瞭にし、自己と他とを位置づけたり関係づけたりする能力、当事者能力を消失する事。第二に、自己の主体性を他に転化する事にょって自制心を喪失させ、自己の維持を困雑にする事。第三に、自己実現の途を閉ざし、自己の解放を阻害して、人間を不自由にする事。第四に、自己を分裂させ、人格の破綻を招き、精神を不安定にし、自己の存立基盤を喪失させる事の四点である。
 故に、その結果として自我は、人間を疎外し、狂信的にし、無責任とし、無慈悲にし、無感動、無気力にする。
 そして、利己主義は、自我中心の思想であり、それ故に、利己主義は、憎しみや悪を蔓延させ、戦争や犯罪の温床となる。
 確かに、自己主張は、自己の肉体を滅ぼす結果を招くかもしれないが、その精神を滅ばす事はない。しかし、利己主義は、その肉体のみでなく、その精神も滅ぼしてしまう。
 自己と自我、個人主義と利己主義、それは表裏をなす主義であり、双児のように似通っている。しかし、その為すところは、正反対であり、似ても似つかない。
 認識主体と認識対象が同一の存在である自己の在り方が、善と悪、愛と憎を分かつ源であるというのは皮肉な事である。
 人間が自らを解放し、自由になる為には、自我をすて、自覚を促し、主体性を取り戻す以外にない。
 そして、人間の世界から、戦争や犯罪をなくす為には、人間を解放し、自由を確立する社会を創造する以外にはないのである。
 人間の社会というのは、人間が創造していくものであり、社会の構成単位は、自己である。人間性というのは自己の主体性の上に、自制心と自己愛とによって成立する。
 故に、人間の社会を、又、自分の人生をょり豊かにする為には、人間一人一人が自覚し、自由になっていく事なのである。
 この世には、自由人と奴隷以外には、存在しない。そして、自由人とは、自らを解放する者の事を言い、奴隷とは、自らを隷属する者をいう。時に、奴隷が自由人を抑圧し、弾圧する事がある。しかし、自由人は、いかなる境遇に居ても自由であり、奴隷は、どのようなカを手にしても、自分を拘束する鎖から逃れる事はできない。
 人間は、常に、美しくありたいと願っている。自分の醜さや過ちを認めたくない。しかし、現実はそれを許してはくれない。どんな美人でも、自分の気に入らないところの一つくらいあるものだ。むしろ、美人であればある程、かえって、さらに美しくなりたいと思うものであるらしい。それなのに、時間は、容赦なく人間を変えてしまう。
 だから、人は仮面をかぶり、着飾り、化粧をして、自分をごまかそうとする。しかも都合がいい事に、自己は、間接的認識対象である。二重に、自分をごまかせる。
 外界に映し出された自己の像は、あくまでも虚像である。実像ではない。ただでさえ、人間の認識能力には限界がある。そこに映された像が自分のすべてだと思ってはならない。だいたい、人間の評価は相対的なものだ。評価そのものが、時間や場所、場合によってまったく違ったものになる。評価は、普遍的なものではない。普遍的なのは、自己の主体性である。
 思想も、肉体も、絶対なものではない。絶対なのは、自己の存在である。自己の存在を信じる事、それが、自我から逃れる道なのだ。まず、自分を信じる事、そして、自分が美しくなろうとする事が大切なのだ。
 自我の危険性を増長させるものに、俗にいう、我をはるという事がある。見栄や意地によって無理に背のびすると、自己の像をそれだけ歪め、同時に、それにこだわりを生じさせる。
 人間は、誰でも美しくなれる。なぜなら、自己の存在そのものが美しいからだ。だから、自分を本当に美しくしたいと思うのならば、まず、あるがままの自分の姿を直視する事だ。自分を愛する事だ。自分の人生を大切にする事だ。そうしなければ、人を愛する事も、人の人生を大切にする事もできなくなる。
 自分に対して素直である事、正直である事、それは、自分を正しく知る為には欠かせない事だ。自分を正しく知らなければ、自分の才能を伸ばし、自分自身を活かす事はできない。あらゆる虚飾を捨て赤裸々に自分本来の姿に回帰する時、はじめて、自己の真の姿を悟る事ができる。その時、人間は、自由への道を知る事ができる。
 私は、自分を美人だと思いこんでいる人を美しいとは思わない。同時に、自分は醜いと思い込んでいる人も美人だとは思わない。自分を美しくしようと努力している人、それを私は美しい人だと思う。生きるとは、即、そういう事なのだ。


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