個人主義・自由主義・民主主義


 平等とは、存在に対する概念であり、必ずしも、同一、同等を意味するものとは限らない。つまり、どんな人間も生、病、老、死から逃れられないと言う意味で平等なのである。言い替えると、死の前の平等である。
 人は、いま生きている。この世に存在しているという事において平等と言える。
 故に、その対極において死ぬべき存在として平等なのである。
 存在において平等だからといっても何もかも同一、同等という事ではない。平等は、同等という意味ではない。
 人として存在していると言っても、その有様は皆違う。
 そう、人は、皆、違うのである。違うことにおいても平等だと言え変える事もできる。

 人は、皆違う。
 人は、皆違うのだから、皆を同等に扱うことは、かえって、不平等になる。違う者を同じに扱うのだから、不平等なのである。

 人は、皆、違う。人は、姿形も、性格も、能力も違う。生まれも、育ちも違う。好むところも信じるところも違う。人は、違うことにおいて平等なのである。
 男と女は、違う。人の背丈は違う。指紋が違う。顔形も違う。

 人は、死の前に平等であるが、死ぬ時と場所、死に方は、千差万別である。死の在り方が千差万別だという点で、人は、平等だとも言える。

 人は、皆、一組の男女の両親を持つ。そう言うことが平等なのである。でも、同じ親はいない。

 どんな王侯貴族でも死ぬことには変わらない。どんな美人も、英雄豪傑も老い衰える。聖人君子と言えども霞を食べて生きてはいけない。何かを、食べなければ生きていけない。どんなに金持ちでも糞尿はする。科学者でも物忘れはする。

 差や違いを否定したところで、平等になれるわけではない。かえって不平等になるだけである。
 差や違いを受け容れる事でしか平等にはなれない。
 問題なのは、差や違いが、何等かの社会制度や経済の仕組みに結びついて、人と人との関係を不当に歪めてしまう場合である。
 何が人と人との関係を不自然に歪めてしまうのか、それを知るためには、差や違いの根拠となるものを明らかにする以外にない。

 人の不平等は、人間の意識が生み出すものなのである。
 差や違いを社会制度に結び付けるのも人間の意識である。
 つまり、不平等の根源は、人間の意識の底にあるのである。

 人は皆、その存在において平等なのである。

 そして、平等も又、自由と同様、自己中心の概念なのである。自己という在り方において、人は皆、平等なのである。
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そして、平等について