自分ってなあに


自分の価値観


自分の非を認めて自分を許す事。
自分の過ちや失敗を認めると言う事は、
想像している以上に辛い事さ。
だから、自分の非を認められずに、
自分を正当化したり、言い訳をしたり。

故意でなくやった事は尚更、
過失の事故なんてね、本当に始末が悪い。
自分に責任はないと思うのだけど、世間は、なかなか、許してはくれないしね。

なかなか、自分は悪いことをしたなんて思えなくて苦しいんだ。

友達に酷いことを言ったな、
したなと気がついても。
ゴメンねの一言が言えなくて・・・。
自分が正しいと信じていたことが、
ある日、突然間違っていたと気がついても・・・。
それを認めて改める事ってなかなか出来ない。
なんだか自分の存在を否定されるようでね。
自分の非を認められずに、日がたっていくと、
自分のことが嫌いになったり、卑下したりするようになる。
そして意固地になって、周囲の人も自分も傷つけて、
最後には、皆、ポロポロになってしまう。

自分の非に、気がついているのに、自分の非を認められなければ、
自分で自分を騙し続けなければならなくなる。
そんなのは偽りだよ。

そんなことをしていたら、自分で自分がだんだん許せなくなる。
それが、一番、怖いんだ。
自分で自分を壊す事になるから・・・。
自分が自分でなくなるから・・・。
自分が信じられなくなるから・・・。

何でもかんでも他人の言いなりになって
改めろと言っているのではないんだよ。
正しいと信じていることは別だ。
信念を持って守り通せばいい。
問題は、間違いや誤りがハッキリした時だよね、

俺、何も悪い事してないものという前に。
ゴメンねと言える素直な心が大切なんだ。
こんな事を言ったら、嫌われるんじゃあないかとか、
馬鹿にされるんじゃあないかとか、
今までの自分は何だったとか思い悩む前に、
自分が自分らしくあるために、
間違いは、間違いだと素直に認めようよ。
そして、自分を許すんだ。
過ちから自由になるために・・・。

前を向いて生きる為に・・・。

何が正しくて、何が間違っているのか。
若気の至りというのがある。
若い時には、正しいと信じて行ったことでも、
歳をとってから考えると浅はかなことだったと後悔する、
そんなことはいくらでもある。
人は過ちを犯すものだ。
事の正否善悪に、新旧老若男女の別はない。
人間は、一度犯した過ちを訂正することはできないのだろうか。
許されないの。
そんな事はありません。
過ちや失敗が、
許されないとしたら、改められないとしたら、
人間は、生まれた時から完璧でなければなりません。
完璧な存在は神しかいない。
人は神になれない。
だとしたら、生まれた時から完璧であろうとすることは、それ自体矛盾している。
完璧なのは、存在だけだ。
正しいか否かによって自己の存在は、測られるのではない。
どうあるか、どう生きるかによって
自己の正否は問われるのである。
昨日、正しいと信じていた事が、
今は、間違っていたと後悔するかもしれない。
今、正しいと信じている事も、
明日、間違っていることが証明されるかもしれない。
そう考えると何を信じて良いか解らなくなる。
だから、今を信じる以外にない。
今を信じて、常に、悔い改める事。
そして、常に、その時、その時、最善であろうと勤めること。
それが、肝心なのだ。
今の自分には、変わりがない。
自分を信じて。
誇りを持つことさ。

自分の過ちを正すのは、自分の名誉のためだ。

善悪の価値観は、自分と一体ではありません。
価値観は、尺度に過ぎない。
尺度にすぎない価値観で自分の存在が左右されることはない。
間違っていたと気が付いたならば、改めればいいのです。
自分の前非に囚われて、頑なに、自分の説に拘ることの方が問題だ。
真実から目をそむけてはダメだ。
価値観は、必要に応じて自分が産み出すもの。
間違いに気が付けば悔い改めればいい。
ただ本心から悔い改めなければ、何も変わらないけどね。
価値観というのは、人の世で生きていくための決まり事。
価値観は、大切である。価値観に囚われて自分を見失ってはいけないという事。
価値観がなくていいなんて言わない。
ただ、価値観は、人の世で生きていくために、必要だけれど、
今、生きているという事実とは、関係ないと言いたいの。
自分の存在は、生きているという真実だけ。
今、自分が、ここにいるという事実だけ。
だから、価値観は、自分が生きていく上に必要だけれど、絶対ではない。
その証拠に、価値観を、変えたからと言って、自分で、なくなるわけではない。
真の価値観は、生きている過程の中で形成される。
いろいろな経験を積み重ね。
失敗や過ちを繰り返し、後悔し、反省し、苦しみもがきながら作り上げていくもの。
過ちや失敗を繰り返しながら体得していくもの。
今は、絶対に正しいと思っていても、
将来、何時(いつ)の日か間違っていたと気がつくこともある。
その時は、過ちを認めるのが辛くても、辛くても
自分の過ちを素直に認めて悔い改めるしかない。
只、今は、今、自分が正しいと信じていることに従って生きていくしかない。

間違ってはいけないよ。
過ちは、過ちとして認めなければね。
価値観を変えるというのは、
それまでの自分の全てを否定されるように思うものさ。
それでも過ちを過ちとして認めなければ、自分を見失ってしまう。
だから心の底から悔い改めるんだ。

価値観が自分と一体ではないのだから、正義感はなおさらの事、絶対ではない。
絶対なのは、自分の命、存在だけ。
価値観こそ自分のものでなければ自由になれない。
偏狭な正義感は、
むしろ、自分を見失わせる原因となる。
何が正しくて、何が間違っているかは自分で決める事さ。
自分こそ全てなのであり、
他人の価値観に自分の世界を譲り渡してはならない。
他人から借りてきた正義感は、自分を狂わせる。

人格も自分ではない。
多重人格といっても、自分がないわけではない。
自分の考えが分裂して、まとまらないとしても、自分を見失うことはあっても、自分がないわけではない。
性格も人格も自分で磨くもの。
自分があって人格もある。
自分というのは、生きる真実。
それ以外の何ものでもない。
だから、生きている限り、意識がなくなったとしても、自分はある。
自分が、わからなくなっているだけだ。
自分って、そういう存在。

記憶も自分ではない。
記憶がなくなったからと言って、自分が、なくなるわけではない。
自分とはそういう存在。

価値観は、自分ではない。
だから、安心して、悔い改めなさい。
なぜなら、自分は、今しかいない。
今の、あなたが最善であればいいのです。
しかし、本心から、悔い改めなければ、なりません。
なぜなら、自分をごまかすことはできないからです。

この世の中には、
自由な人間と奴隷しか居ない。
権力の奴隷、富の奴隷、名声の奴隷、金の奴隷、
中でも、他人の価値観に囚われた奴隷ほど始末の悪い者はない。

結局、自分を裁くのは自分。
最後は自分なんだ。
他人の価値観に縛られるなんて愚かだ。
過去の自分に囚われるのも愚かだ。
その時に、自分が何を正しいと信じるかさ。
明日の自分に期待するのも、馬鹿げている。
今の、自分に純であることさ。
神は、人を裁いたりはしない。
自分を裁くのは自分。
自分で自分を裁くことになる。
自分が正しいとしたことで自分は裁かれる。
人を憎むことを正しいとした者は、憎しみによって裁かれる。
人を愛する者は、愛によって裁かれる。
一番恐ろしいのは、自分で自分が許せなくなること。
だから悔い改めるのだ。
自分を救済するために。
自分が許せるような生き方ができるかどうか。
自分を愛することさ。






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