死は、一定(いちじょう)。人間は死すべき運命にある。
 人はいつかは死ぬのである。
 そして、死ぬ時は、只一人、神の前に立たされる。
 いつか死ぬと、死を思い定め、覚悟した時に生きる覚悟が見えてくる。

 朝、目覚めて、朝食をとり、家を出て職場に行く。我々は、それを当然のことのように受け止め、未来永劫、同じように繰り返し続くと思っている。明日も同じように目覚めて、同じ様な一日が始まると信じている。
 しかし、明日の我が身は誰も知らない。
 人の命は、儚(はかな)いのである。それが真実なのである。いつ災難に巻き込まれ全てを失うか、いつ事故にあって命を失うか解らないのである。
 永遠に同じように繰り返すように思えても、人は、いつの間にか年をとり、やがては、体力も気力も衰え、気がついてみると、思うように体さえ動かなくなる。
 いつまでも働けると自負しても、宮仕えをする者には、定年退職がやってくる。それまで働いてきたきたことや働いてきた場所、全てが奪われてしまうのである。それでなくても死は必ず訪れるのである。若い若いと思っていても気力体力の衰えはいかんともしがたい。
 どんなに愛し合う者でも哀しい別れは必ず来る。深く愛すれば愛するほど別れは生きる気力さえも奪いさってしまう。
 そして、いつかは、死の床につく。それが、人の定めである。
 人生の岐路に立たされた時に、俺の一生は何だったんだと悔いても遅いのである。
 為すべき時に為すべき事を為せ。その時のために人は、常に志を持つべきなのである。

 江戸時代、日本人は、「男は、敷居を跨げば七人の敵がある」と心構え。家を出る時は、火打ち石を切って身を浄め。一寸先は闇、油断をすると何が起こるか解らないと身構え。生と死は、隣り合わせと心得。武士は、常に清潔な下着を身につけるよう事を嗜みとしていた。

 日和見主義、事なかれ主義では志は持てない。
 治にいて乱を忘れず。平和と戦争、豊かさと貧困は、紙一重なのである。

 国家が志すところは、平和と豊かさである。
 戦前は、平和と豊かさを富国強兵によって実現しようとし、経済においては、殖産興業を志したのである。

 戦後生まれの我々は、豊かで平和である事が常態だと錯覚している。しかし、今のように豊かで平和の時代の方が、稀なのである。誰かが飢え、どこかで争いがあるのが世の常である。いつまでも今の状態が続くはずがない。その自覚もないままに、不安を抱えて怠惰な生活を送っていることが異常なのである。
 自分達で自分達の家族を自分の国を、自分自身すら護らなければ、誰も護ってくれないと言うのが現実なのである。
 現実の厳しさを直視することなく、他人頼りの生き方をしていたら、自分の運命すら他人の手に委ねる結果を招く。主権や独立が護れなくなるのである。
 自分の力で生きていく。翻ってみれば、自分の家族や自分の国も同じである。家族や国は自分達の力で守り抜くしかないのである。だからこそ、生きる為には、志が必要なのである。

 私の息子が通う小学校は、戦後、廃墟となった故郷に学校を再建しようと有志が資金を出し合って設立した。
 廃墟の中でも人々は、志を失わなかったのである。
 その小学校も息子が二年生になる時廃校となった。

 海難救助に役立ちたいと海上保安庁に勤務する若者達。又、辺境の山里や離れ島の診療所にあえて勤める医師。その一つ一つの行いは、志に基づいているのである。

 生き甲斐とは、死に甲斐でもある。
 生と死は、表裏の関係にある。
 生きると言うことは、死へと続く道である。
 生きるとは過程である。

 何を護って生きていくのか。それは、何を命懸けで守らなければならないことを意味しているのである。
 自分が命を賭けても護らなければならないものを見つけた時、自分が人生の源と生きていく方向が定まる。それが志す処と方向である。

 儒教徒は、忠と義と孝。一神教徒は、信仰。思想信条、即ち、信じる者によって志のありようも変わってくる。しかし、志が生きる指針に変わりはない。志とは、生きていく為の方向を示すものなのである。それは、決断の方向を促す指針でもある。
 
 大切なのは、何を重視すべきかである。家か、会社か、国か。それによって生き方も違ってくる。

 悠久の時を貫いて流れる道。見果てぬ夢。失えば人でなしになる一分。命懸けで守らなければならない大義。一生かけて追い求めても極めがたい境地。
 人々の平和への思い。願い。飢えや貧困との闘い。
 永久(とわ)に繋がる魂の連鎖。魂の連鎖を紡ぐのは志である。
 人の一生に限りはある。しかし、その限りある一生を超越し、自分の想いや願いを未来へと継承していくのは志である。

 自分は一人しか居ない私なのである。
 自分の人生は一つしかない。
 他人の人生を生きることはできないし、他の人に代わってもらうこともできない。
 自分の人生は、自分一人で生きていくしかない。
 一生は、一筋の道なのである。
 しかも、一寸先は闇である。
 未来の事など誰も解らない。
 自分は、この一瞬の今しか居ない。
 今、ここで、行う事、言ったことによって全てが変わる。
 今、自分は、人生を産み出しているのである。
 だからこそ、志が必要なのである。
 人生が一筋の道ならば、志は、一筋の光明である。

 生と死、天と地の間に、人の一生はある。

 自分は一人しか居ない。しかし、同時に人は一人では生きていけない。
 人は助け合って生きていくしかない。

 自分が生かされている事を知り、自分を生かす何者かの存在を自覚し、自分を生かす存在に感謝し、自分を生かす存在を信じ、護って生きていく。自分を生かす永遠不滅な存在に結び付けるのが志である。自分と自分を生かす存在との根本を貫くのが志である。

 他人に代われない人生、そして、無明の闇の中にある、未来。
 繰り返す事のできない人生ならば、自分を超越し、自分の生かしてくれる何者かの力を信じなければ、一歩も前に進めなくなる。
 己を超越し、己を生かす存在か、天に向かって発する己の叫びが志となるのである。
 志は己に発し天を貫く一筋の光である。

 現代人は、自己を超越した何者かの存在を見失った。
 そして、その何者かを、現代人は、怖れなくなった。
 現代人の全ての不幸は、その時から始まったのである。
 神を否定する者は、自らを神とする。
 自らを神とした時、この世は闇に包まれ、何もかも見失う。
 真理は混沌とした闇に覆われる。
 幸福なる時、人は神を侮り。不幸になると、人は神を呪う。
 しかし、神は、神である。
 神こそ超越した存在、人間の都合によって動かされ存在ではない。
 神は、人間が誕生するずっと以前から存在し、また、人間が滅亡した後でも存在し続けるであろう。

 自己を超越した何者かの前に立たされた時、人は、己の存在の限界を知る事ができる。己(おのれ)の限界を知った時、それは又、無限の可能性を知る事でもある。

 この世には、人智の及ばない世界がある。自らを超越した何ものかを知らなければ、死と生を知ることはできない。

 それは、神聖なるものである。神聖なるものを知る事である。侵すことのできない聖なるものを知る事によって、人間は、護るべきものを知る。護るべきものは、守るべき則を形成する。自らの心中の掟である。
 心中の定めと聖なるものが結びついた時に志は、その力を得る。それが天命である。天命を知れば、自分の使命が明らかになる。その時、人は、生きることの意義を知る。

 人の一生は限りがある。限りある者が、何ものをも怖れなくなれば破滅するしかない。
 人間が驕るのは、怖れるものを失ったからである。
 天を、神を、怖れなくなった時、人は驕り破滅する。
 志のみが、人を糾す。

 怖れよ。そして、跪(ひざまず)くのだ。
 人間の悪行の報いは、人間が償わなければならない。人の犯した罪を神に擦り付けることはできない。自らを省みた時、己(おのれ)の犯した罪は、己にはあからさまなのだ。全ては明らかなのである。

 気が籠もれば、心となり、心が籠もれば命となる。命が宿れば神となる。
 志は、気の帥である。心とは精神である。命とは魂である。国体とは、国家の肉体である。国体に魂が宿った時、神は甦る。国体に魂を宿すのは、国民の気であり、志である。

 故に、志せ。志のみが進むべき道を明らかにしてくれる。

 今の民主主義には、徳がない。民主主義の根源は人倫である。
 国民の信である。
 国民の信なくば国民国家は成立しえない。
 国民の信のえられない民主主義は、偽りである。

 民の声は天の声。

 民主主義は、国民の意志によって成り立っている体制である。
 国家とは家である。家とは空間である。国民の意志が凝縮された時、国家は聖なる空間となる。聖なる空間に神は臨在する。

 今の政治家に欠けているのは、志である。
 なぜ、政治を志したのか、その志すところが判然としない。政治家になることが、或いは、大臣になることが目的なのか。それとも、金や利権なの為なのか。
 政治家は、単なる利益代表に過ぎないのか。
 それでは、政治屋に過ぎない。政治は、金儲けの手段となり、身過ぎ世過ぎの生業に成り下がる。

 政治家や官僚が、志すべき方向は、である。公を志すと言う事は、私を滅することを意味しない。むしろ、私を活かす道である。だから、志すのである。

 政治家になりたくて政治家を目指す者には自ずと限界がある。政治家になるのは、手段に過ぎない。政治家にならんと欲するのは事を成就することに目的がある。重要なのは、為すべき事である。天下万民の為に、何を為さんとするかである。その為には、名もいらぬ、地位もいらぬ、命もいらぬ。ただひたすらに天下万民の為に尽くす覚悟である。それでなければ、大義など成就しない。だから、志なのである。

 志を突き詰めたところに、思想や哲学が生まれる。
 そして、思想や哲学こそ、理想の根源である。

 は、気力である。志には礎がなければ、志は定まらない。志に、進むべき方向、指針をもたらすのは信念である。信念の根底は思想、哲学、理念にある。政治に思想や哲学、理念がなければ志を進むべき方向を見失う。志を定める礎は、思想、哲学と言った理念である。

 理想が人々の幸せと生活に結びついた時、国家理念が創造される。それこそが建国の精神である。それが建国の意志である。建国の意志は、建国の理念となって具現化する。

 建国の理念の基は、国家観、国家論である。それが思想である。

 国家とは家である。国家とは空間を意味する。人を生かす空間こそが国家である。
 家を建てるためには、構想が必要である。構想を具体化した設計図が必要である。

 どの様な国にしたいのか、どの様な社会を目指しているのか。それが国家構想である。

 故に、を志す者に求められるのは、国家構想であり、国家理念が問われるのである。つまり、思想であり、哲学である。

 今の政治家には、肝心の思想や哲学が欠けているのである。残されているのは、権勢欲か、名誉欲、虚栄心しかない。
 重要なのは、この国をどの様な国にするかである。それも持たずに、国政に任ずるは罪悪である。

 権勢欲や名誉欲、虚栄心が生み出すものは、権力か富かしかない。思想や哲学がない、信じるところがない政治家は、権力や富の権化にやがては変じていく。

 志は、志すところが信念となり、志す者の生き様となった時にその姿を現す。

 義は法の本なり。礼は、形を作り、智は理を生む。

 真善美は、一つの如く。心は、理、善は法、礼は美。これらが一体になった時、神は甦る。
 義は、意をなり、礼は情を形作る。知は性と形成する。

 国民国家において法を定めるのは、国民である。法を定めるのは、国民一人一人の義である。国民が大義を忘れれば、法は乱れる。大義の大本は、仁にある。仁とは徳であり、愛である。愛国心こそ義の本源である。家族愛こそ義の本性である。自己愛と家族愛と愛国心、人類愛は一貫して違わない。

 最高の民主主義は、礼の民主主義である。
 法によって国を統治する。それが法治主義であり、民主主義の原則でもある。
 しかし、国民国家において法を成り立たせているのは、国民の倫理観である。

 人が見ていないからと言って他人の家や公共の建造物に落書きをする。歴史的建造物に自分の名を刻む。それを自由とは言わない。無頼なのである。
 ただ法だけで、この様な悪行を取り締まることはできない。法の前に義がある。
 公義を滅した法は成り立たない。
 現代人は、真の自由の意味を知らない。
 自由とは、孤高にして気高い生き様である。何でも好き勝手にする事を意味しない。
 自由と、自儘、我が儘とは対極に位置する。
 誰も見ていないところで法を守るのは自由だからである。
 自由の根源には自分の意志がある。

 法は、義より生じるが、義そのものではない。法を守らせるのは義である。
 しかし、法を守ったからと言って義を守れるとは限らない。
 法を守らせるのは、国民一人一人の道徳である。
 法を守らせるのは礼義である。
 法を維持するのは信義である。
 信なくば、法は成り立たない。
 法を実現するのは、忠義である。
 法の根源は、仁義である。
 道徳なくして、法は成立しない。
 法を定めるのは、国民の公義だからである。

 公義は、礼節に集約される。法の根源は、礼と義である。
 克己復礼こそ、民主主義の原点である。

 大義を誤れば、大義の名の下に不正がまかり通ることになる。
 現代の日本人は、自由や平等を大義とし、自由と言い、平等と言えば、何でもまかり通ると思っている。
 言論の自由、言論の自由を喚き立てて自由を卑しめ、平等、平等と押し付けては、新たな差別を生みだしている。
 公平、公正と言うが誰のための公平であり、公正なのか。自分達の主張を押し殺すことが公平なのか。声高に叫ぶ人間だけが正しいとされるのが公正なのか。
 公平、公正を建前とするならば、公(おおやけ)を明らかにする必要がある。

 日本は、戦争に負けた。戦争に負けただけでなく、大義を見失った。大義を見失うことで、志を失った。志を失うことで誇りを忘れた。恥を忘れた。
 魂までも売り渡した。
 残されたのは、敗北主義と奴隷根性である。
 自国の歴史や文化を卑しめる教育をするのは、植民地でしかない。

 大義を滅した日本人に与えられた自由は、家畜の自由でしかない。
 野生の自由ではない。家畜の自由は、与えられた範囲内での自由に過ぎない。
 主人が望めば屠殺されて贄になる。家畜の自由など偽りの自由にすぎない。
 独立なくして、真の自由はない。
 自らの家族を守れずして、国家の独立はない。

 政治は、大義を滅すれば必ず腐敗する。政治家は、志をなくせば必ず堕落する。
 政治を正せるのは、道であり、政治家が所信を保てるのは志故である。
 今の政治家に欠けているのは、古典に対する造形である。
 そこに奢りがある。

 知は、品性である。
 ただ知るを知性とは言わない。
 知るとは、対象の背後にある本性を見抜くことである。
 知ってどうするかである。
 世の不正を知るだけでは、真の知とは言わない。
 その不正と立ち向かうことによって知は実現する。
 本意を知って始めて知は、叡知となる。

 誰も護ろうとしないものは、守りきれはしない。
 国も、家族も、そして、幸せも、自分達で守ろうとしなければ、守りきれない。
 法も、道徳も、礼節も誰も守ろうとしなければ、成り立たない。
 大切な物を守ろうとするのは、人間の意志である。
 国家国民の安寧と幸せを守ろうとするのは国家の意志である。
 それを愚かと笑わば笑え。
 しかし、守るべきものを、蔑ろにすることを、自由とは言わない。
 国家の独立は、精神の自由を保障する。

 日本人は、戦争に負けて、日本のまでも失おうとしている。
 アジアの誇りまで売り払おうとしている。

 日本人よ。気高くあれ。誇り高くあれ。
 気高さだけが、自由の意味を教えてくれる。

 自由、平等だけでは、自らを律することはできない。
 自由、平等の根源は、自らの意志である。

 人間として守らなければならない存在こそ、誉(ほまれ)の源である。
 人間の尊厳である。
 自らを律する掟の本源である。

 日本人は、戦争に負けて国家を忘れた。
 だから、国の指導者ですら、国益という言葉をおおっぴらには使えないのだ。
 日本人としての矜持、自尊心がないから破廉恥にもなれる。

 なぜ、堂々と世の為、国の為、人の為と言えなくなったのか。
 それは、日本人が国を失ったからである。
 日本人の精神が虚しくなったからである。だから、今の日本には虚脱感が横溢している。
 国を良くしたいという一念において、あらゆる思想は、許容される。翻って言えば、国を良くしたいという志がなければ、どんな思想も無意味である。
 国を良くしたい、人々を幸せにしたいという心があって思想や哲学は成り立つのである。ただ、不満や不平ばかりで叛逆するのは、何の義もない。

 は、国民の意志が凝縮したところに宿る。それが国民国家の真理である。
 自己を超越した存在となった時、国家は、聖なる存在となる。

 聖なるもののために死すは本懐である。
 聖なる存在は、命賭けても守るに値するもの、さこそ志すのである。

 志なき指導者は、その存在自体悪である。
 志すところがない政治は悪行である。

 今の政治家は、大衆に媚びて、凡夫、匹夫を誇示するが、政治を過てば、先の大戦の例を引くまでもなく、どれ程の災難に国民は見舞われるのかを肝に銘じるべきである。

 指導者の徳が問われないことに、今の世の一番の問題がある。

 公を志す者は、高遠な理想、節操が求められるのである。

 現代人の不幸は、自分を超える存在を信じられなくなったことだ。

 志すとは、あてもなく大海に小舟を漕ぎ出すような心持ちである。
 名もいらぬ、地位も、富もいらぬ、命すらいらぬ。世に認められる事も、受け容れられる事も、結果も、確実なものは何も求められない。その様な状況の中で何を頼りに、何を成就しようと言うのか。
 無謀、狂気と言われても可笑しくない行いである。それでも、尚、志を持てと言う。なぜならば、それが自分の生きる道の行き着く先を指し示すものだからである。
 何か得体の知れない力に揺り動かされやむにやまれぬ気持ちが志させるのである。
 例え、生きているうちに認められたとしても、得るものは少ない。名声や、地位や、富は、かえって自分を堕落させ、志を挫折させる原因になりかねない。
 そうなると、金儲けや出世と言った形ある目的を見出すわけにもいかない。
 それでも尚、志をもてと、私はいう。
 なぜなら、それが生きる事そのものだからである。

 サッカーの一流選手は自由自在にボールを操り、フィールド内を駆け巡る。一流のサッカー選手は最初から一流だったわけではない。弛みない修練、工夫、努力によって自由となったのである。
 自由は、放縦ではない。無法ではない。無能でもない。放蕩無頼の輩を自由人とは言わない。自由人には、志がある。
 自然の法則と社会の法と自己の善が一つになった時、自由になれる。真偽、善悪、美醜の理を明らかにし、真善美を一体とする。それが心技体の一致である。真善美、心技体を一つにするのは志である。
 無我夢中こそ自由の境地である。この様な境地は、選ばれた者だけに与えられる境地ではない。一心不乱に志した者ならば誰にでも得られる境地である。大切なのは、志すことである。
 人は、天命によって自由となる。天命が指し示す処こそ志す方向だからである。
 自由の境地こそ志すところである。自由は選ばれた者だけに与えられる境地ではない。自由は、志によって誰にでも与えられる境地である。自由は、志すことによって得られる境地である。自由は、人間に等しく与えられた可能性である。それが、平等の本意である。

 人生とは、修業である。生きるとは修業である。
 生きるという営みを通じて、人は、色々なことを学ばせていただいている。
 生きることから多くのことを学ぶから生きることは喜びとなるのである。
 ただ、結果だけを追い求めても得る物は少ない。
 そう考えると、人生その時々に学ぶ事があり、得る物がある。喜びがある。
 若く盛んなときだけが人生ではない。
 老い衰えても学ばなければならないことが多く。それだけに喜びもある。
 だからこそ、志すのである。
 生きる喜びを得て、自分を生かす何者かに感謝するために、志すのである。
 結果は、一瞬に過ぎ去っていく現象の一齣に過ぎない。
 栄光も、挫折も、一介の記憶にしか残らない。
 栄光も拘れば哀(あわ)れとなり、挫折も学べば糧となる。
 人生は、不断に続く過程である。
 ただひたすらに、ひたすらに、志に向かって進む時、苦しみも哀しみもやがて喜びへと変わる。
 老いも、過ぎゆく時間も心地よいものに変わっていく。
 志は、生きる先をいつも照らしてくれる。だからこそ、結果を求めずに志すのである。
 生きる喜びを求めて、ただひたすらに信じる為に、志すのである。

 なぜに、志さずにいられようか。
 志なき人生なんて生きるに値しない。





                       



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