悌とは、兄弟、姉妹の絆、結びつきを言う。
 悌の根源は恩であり、悌の要は、義である。
 恩が因となり、義が縁となって悌は成り立っている。
 悌とは、骨肉の情を本とする。

 兄弟、姉妹の絆は、切っても切れないのである。

 義兄弟という言葉がある。
 義によって結ばれた兄弟という意味である。最近では、専ら、博徒(ばくと)、博打打ち(ばくちうち)が用いるのであまり良い印象がない。しかし、本来、義兄弟で有名なのは、三国志にでてくる劉備玄徳、関羽、張飛や水滸伝の梁山泊の話である。
 劉備、関羽、張飛の契りは、桃園の誓いを嚆矢とする。桃園で、志を同じくする劉備、関羽、張飛は、義に感じ、生まれた時と場所は違うが死ぬ場所と時を同じくしようと誓いを立てる。義兄弟の本質は、義にある。そして、義兄弟にまで兄弟の持つ意味を拡大すると悌の意味の本質が見えてくる。
 つまり、悌とは、義に基づく結びつきなのである。義による結びつきが骨肉の情のように強くなったものを悌と言うのである。
 それだけに、悌の絆は、強いく篤い。

 そして、誓いと契りに悌の持つ可能性の鍵がある。なぜならば、義兄弟の始まりは、誓いであり、契りである。根本は義である。義とは、主義主張である。信念である。

 誓いの根本は信義であり、礼である。契約書や金ではない。現代は、信義や礼を契約書と金に置き換えた。契約を破れば金で償わせるのである。これでは、信義も礼も廃れたしまう。人としての尊厳も誇りも失せてしまう。人徳など磨きようがない。心が渇く。
 骨肉の情すら金銭に代えられた。
 親が亡くなっれば、すぐに遺産を争うことになる。子を富ませるはずの財産が、この心を貧しくする。

 恩と義を本とする悌は、侠気でもある。
 侠気というと、また、博徒がよく使う。しかし、本来は、弱きを助け、強きを挫く心意気である。不正、不義を憎む心である。
 考えてみればかつては、博徒にすら義侠心があったとも言える。今や政治家や官僚にすら義侠心が期待できない。金のためなら国家、国民を売りかねない。
 日本人は、この侠気、そして、義理と人情の中で生きてきた。その日本の文化を丸ごとぶち壊す事で日本の近代化が行われてきた。
 その結果、日本人は心を病んだのである。乱暴な近代化が日本人の心根を断ってしまったからである。

 人間関係は、契約によって結ばれ、情によって強化される。その情の部分にあるのが悌である。

 孝が垂直的人間関係に対する情であるならば、悌は、水平的人間関係に対する情である。

 家族主義を古いと馬鹿にするが、本来、共同体や組織の在り方の原形は家族にあるのである。形ばかりで精神のない組織は、機械か屍でしかない。

 悌は、これまで、あまり注目されていなかった。しかし、これからは未来を切り拓く鍵を握っている。なぜなら、悌は、水平的な人間関係を表す言葉だからである。
 従来の悌の根底にあるのは、情である。その情から義に転化した時、悌は新たな息吹を生じる。

 兄弟愛の延長線上に同胞愛、同志愛がある。同胞愛、同志愛から同胞意識、仲間意識が生じる。同志愛、同胞愛の根底には義がある。侠気がある。それは、人間関係に横の繋がりをもたらす。繋がりをもたらすと同時、人と人との繋がり、絆を強固なものとし、結束力や団結力となって連帯感、連帯意識となる。それが新しい体制や時代の胎動となるのである。

 悌を基盤とした横の繋がりには、従来から血縁、地縁がある。それに、恩を因とした縁、義を因とした縁が加わるのである。血縁、地縁に、恩を因とした縁、義を因とした縁が重なることで人脈は厚みが増し、又、拡大する。今風に言えばネットワークである。

 親と子が垂直方向の情なら、兄弟、姉妹は水平方向の絆。親子と兄弟姉妹の絆があって人間関係は、立体的になる。そしてそこに時間が介在する。それが歴史となり伝統となって文化を創造する。
 義と理による親と子の関係、兄弟、姉妹に関係は、義と理による骨肉によらない家族を立てる。それが近代的な組織である。この様な組織は、国の家、即ち、国家の原形、原点となる。
 その根底にあるのは、恩義であり、信義である。
 今の企業や組織は、恩義、信義がないから殺伐とするのである。働く者や関係する者の生活などお構いなし、儲からなくなれば遠慮会釈なく切り捨てる。それでは危機に際して結束のしようがない。

 現代人は恩義、信義を忘れようとしている。

 恩とは、世話になったことに対する感謝である。
 親の恩、兄弟、姉妹の恩、友の恩、師の恩、国の恩、祖先の恩、自然の恩、天の恩、神の恩。その一切合切を一文の得にもならないと捨て去ってしまった。鬱陶しい、煩わしいと恩に報いようとしないから、恵みを受けられずに、報復を受けるのである。自業自得としか言いようがない。
 人間は、一人では生きていけない。仮に、何か大事業を成就せんと欲したら、志を同じくする者達が、しっかりとした絆で結束する必要がある。その要になるのが恩と義である。

 この様な恩義は、因と縁によって結ばれる。それが家なのである。
 因縁が悌なのである。

 今、無縁社会がじわじわと社会を侵蝕している。
 無縁社会の広がりに合わせて孤独死が増えている。
 それは、人の世から情けがなくなってしまったからである。
 袖触れあうも多生の縁と隣近所との付き合いを大切にした日本人の心が失われたのである。不人情な社会になっただけで、近代とか、合理性とか、個人主義とは関係がない。

 人と人との繋がりを取り仕切るのは、恩義、信義であるべきである。そして、恩義、信義を形にしたのが礼である。
 恩義、信義が働かなくなれば、何でもかんでも権力に頼らなければならなくなる。力尽くで法に従わすことになる。結局、自分達の自堕落、不始末が強権を生み出すのである。それを法が機能しているというのではない。

 恩や礼儀、義理を欠いても誰からも文句を言われなくなり、世の中の柵(しがらみ)から自由になったと感じるのはお門違いである。
 ただ恩知らず、礼儀知らず、情け知らずになったと言うだけである。
 世間から見放されたと言うだけである。

 現代人は、恩や義など鬱陶しい柵(しがらみ)としか考えない。だから、なるべき人間と関わらないようにする。恩だ義理だというのが煩わしいからである。
 親の恩なんて痛痒にも感じない。親は、自分の召使いか使用人ぐらいにしか考えていない。

 二十年ほど前、罪を犯した者が友人に罪を告白し、助けを求めたが、とうの友人のうんでもなく、すんでもなく言葉に耳を傾けないどころか何の反応も起こさなかったという事件があった。それを友人だと思う方が異常である。
 あれから随分立つが事態は深刻さを増すばかりである。無関心が高じて世間とまともにつきあえない大人が増殖している。今は、それでも親や国が面倒を見ているが、親や国が面倒見切れなくなった時が怖い。
 逆恨みとしか思えない事件が多発している。それも見境なく人を殺そうとする。
 かと思うと楽に死のうという自殺志願者が後を絶たない。人生なんて簡単なリセットできると思い込んでいる。

 こんな世の中で人助けなんて最初から望む術(すべ)はない。助け合って生きていくなんて世迷い言である。助けようにも人に干渉される方が余程迷惑だと思っているから始末が悪い。友達や仲間なんてできるわけがない。だから無軌道に暴走する。

 人生、意気に感じるなんて夢のまた夢。人間は、損得づくでしか何もしないと本気で思い込んでいる。だから、金、金、金の世の中なのである。
 信じられる物は金しかないのである。

 今の世の信は金によって成り立っている。
 金がなければ信が成り立たない。
 家を建てる時は、生命保険にまで入れられる。
 金が払えなくなったら、死ぬというのか。
 まったく道徳のない世の中である。
 しかもその金ですら昨今あてにならなくなってきたのである。

 信の要は金でなく、義でなければならない。
 金を要にすれば、損得が善悪に変わるからである。
 人の世に義が行われなくなるからである。

 かつて、日本人は、お互い様、お陰様、お世話様と生きてきた。
 不義理をすると誰のお陰で個々までなれたと思っているんだ。少しは恩を感じたらどうだ。犬だって、三日飼ったら恩を忘れないと叱られたものである。
 恩ある人には、いつも感謝しろと躾られ。商売人は、お客様には恩があると感謝しながら商売を続けたものである。今は、金に頭は下げても、客に恩を感じるわけではない。

 人情けは、大きな世話であり、人に世話をやかれると恩着せがましいことは辞めてくれと煙たがるくせに、いざとなるとすぐに世間が悪いと他人の性にする。子が親の面倒を見るのですら、どうせ下心があるのだろうと勘ぐられる。本当に住みにくい世になった。

 それでいてやれ福祉だの、やれ厚生だの、やれ介護だのと知った風に中味のない綺麗事を並べる。情けのない福祉など何の役にも立たないと言うのにである。結局、物や金で厄介なことを片付けようとしているに過ぎない。
 大事なのは恩信の情であって金や物ではない。

 それが今の世の不行跡の原因、立ちいかなくなった原因だとは誰も思わない。
 真に、徳のない社会になったものである。
 だから今の世には精神の躍動がないのである。
 生きる喜びが感じられないのである。

 現代人は、徳を取り戻す必要がある。
 そして、徳によって民主主義を再構築する必要がある。
 徳の民主主義は礼の民主主義でもある。
 克己復礼。
 己に克って礼を取り戻し、民主主義を再構築するのである。




                                     



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