仁とは、徳である。
 仁とは、慈母の愛のような働きである。

 男女同権論者は、なぜ、母親を差別するのか私には理解できない。
 母は強しである。されど母は弱しである。その母親を守るように世の仕組みは作られてきた。
 故に、世の中の仕組みが壊れた時、真っ先に被害を受けるのは、母と子である。
 男は、母と子を守るために戦う。その大義を失えば、戦いは、単なる暴虐である。
 国民国家における国防とは、家族を守ることに他ならない。家族を守るために戦うからこそ、国民国家は結束し、そして、強固なのである。その根源は、母の愛である。
 
 仁とは、徳の働きである。徳の働きには、仁以外に、義・礼・知・忠・信・孝・悌がある。それを八徳という。八徳の中でも仁は、本源的働きを言う。
 それは、仁が、万人に対する愛から発しているからである。世の中を良くしたいと言う本源的感情から発した働きだからである。

 この様な働きは、子を思う母親の心に象徴される。その心は、慈しむ育む心であり、子を哀れむ心である。その心は、高じると無償の愛へと昇華される。
 また、仁は、男女の愛にもなる。お互いは、慕い、労る心になる。更に、仁は、同胞を信じ合う心を生む。助け合い、結束する力を生む。
 母の愛は、子に伝われば、孝心に結実する。孝心は、国民国家では、愛国心へと繋がる。
 なぜならば、国家は、両親、母子、兄弟姉妹、同胞を守る仕組みだからである。国家を愛し、国家を守ることは、愛する人々を守る事と同じだからである。故に、仁は、愛国心の本源でもある。国を守ることは、世界の平和を守ることでもある。究極、愛国心は、人類愛に昇華される。
 それが修身、斎家、治国、平天下である。故に、仁は、修身、斎家、治国、平天下を貫く働きである。

 仁は徳である。仁は愛である。
 今の民主主義に欠けているのは、徳であり、愛である。

 日本人は、哀れむ心に否定的である。憐憫の情を悪く捉える傾向がある。他人の憐れみは恥だという感情に囚われているからである。しかし、恥と言う感情を曲解していることに起因する。恥というのは、人間として為すべき事を為していない事にたいして発する感情である。
 しかし、哀れむ心というのは、社会的弱者を労る心でもある。人の憐れみを拒んでばかり居たら、慈善事業が発展しない。それでは、国の福祉事業も成就しない。
 自分が心底困っている時に、憐れみを拒むのは、頑ななだけである。頑迷なのである。根本にあるのは、お互い様という仁の働きである。相手の憐憫を受けるのも又、仁の働きなのである。

 貧困とは、価値観の問題である。貧困は、社会の病であると同時に、心の病である。
 貧困をなくすためには、仕組みを整えると同時に心を癒す必要がある。心を癒す働きこそ仁の本質である。
 
 人を哀れむ心を受け容れるのも仁であるから、仁は、忠と恕を生む。
 忠は義と結びつき、恕は、礼を生む。

 忠とは、真心である。誠である。
 忠とは、母を思う子の心である。故に、忠は孝と一体となるのである。
 国民国家では、忠と孝は、矛盾しない。一つである。
 
 忠とは、一所懸命に誠を尽くすことである。ただ、ただ、真心を尽くして、尽くして、尽くしきる事である。誠心誠意を尽くす事である。

 忠は、真心だから正直、素直を好む。不正や背信を憎む。忠とは、真っ直ぐとした、廉直な生き様として実現する。

 恕とは、許す心である。他人を許し、自分を許す心である。他人を許すことは、難しい。しかし、それ以上に難しいのが自分を許すことである。
 自分を許すことができなければ、鬱々として楽しめない。活き活きと生きることができない。些細な事でも、己を責めて、責めて、自分を殺してしまう。自分の内面を空っぽにし、空疎な生き方しかできなくなる。それでは魂が抜けてしまう。
 恕とは、他人も、自分も、慈母のように許し、包む込むような働きである。自分が許せてこそ、はじめて、他人を心から許せるのである。

 他人を信じられないのではない。他人を信じる自分が信じられないのである。自分を許し、素の自分を受け容れた時、他人を本当に信じられるようになる。真の自信をもたらすのは、恕であり、その根源は仁である。
 受容、許容こそ恕である。故に、恕は、信の基である。

 仁は、真を求め、善を尊び、美を愛する。真善美が均衡した時、仁は発揚する。真善美一如、それが、中庸である。
 真は、知となり、善は義となり、美は礼となる。仁の本性は、真善美である。仁と義、礼、知が一体となった時に徳は完成する。忠、信、孝、悌は行いなり。

 仁と義は、分かちがたい。
 仁は、理と結びついて義となる。それが、道理である。理の源は、知である。善は義によって生まれる。

 法は、罪を裁けても悪を裁くことはできない。悪を裁くのは神であり、天である。悪を糾弾するのは自分の善心である。だから、逃れることはできない。

 誰も見ていないから、露見しないければと言う邪心、悪心が働いている限り、法の精神は働かない。法を守らせるのは義である。義の本質は、世の中を良くしたいという思い、即ち、仁である。

 人を思いやる心が形を持てば礼となる。故に、礼の礎は、仁である。不仁にして礼なし。礼の本源は、恕である。法を守らせるのは、恕である。故に、礼節なくして、法は成り立たない。法は、罰を与えることに目的があるのではない。許すことに目的があるのである。

 仁は、恕をもって己に克ち礼に復した時、成就する。克己復礼。法の精神は、礼に復した時、実現する。

 何に幸せを感じ、何を不幸とするかは死生観の問題である。
 仁の本源は、生きることである。そして、活かすことである。
 それは、又、死という現実を乗り越える力でもある。
 限りある人生を永遠の天命に結び付けた時、人間は、無上の喜びを手に入れられる。
 故に、仁は、歓喜である。仁は喜びである。仁は、幸福の成就する道である。

 家族は、最後に帰るべき場所であり、また、人生の原点である。やすらげる場所である。
 夫婦愛は、究極の愛である。夫婦愛から母の愛が生じ、母の愛から、孝と悌が生まれる。夫婦が互いに相手を尊敬し、睦み合うことから、仁の根本は生じる。夫婦がいがみ合えば、家庭は乱れ、やがては崩壊する。家庭が乱れれば、国も又乱れる。故に、夫婦の愛は本源的愛であり、仁の源なのである。溢れる愛によって仁の働きは輝きを増すのである。
 故郷は、心の拠り所にして、心の深層にある記憶である。原風景である。過去の軌跡の源である。
 国は、人生の拠り所、そして、守るべき処である。家族の絆や故郷の記憶を守る力である。誇りの根源でもある。
 人類は、人の命の源である。生きる基盤である。人生の究極の目的である。人の為に生きるのである。
 赤裸々に己(おのれ)の全てを世の為、人の為に投げ出した時、仁はその姿を現す。それこそが至上の愛、神の愛である。

 生きると言うことは、過程であり、修行である。
 生きるとは、修業である。生きるとは、修行である。
 生きるとは、道を修め、生業を修め、行いを修めることである。
 生きる根源に仁はある。

 仁は、道なり。仁は、徳である。人生は、仁を成就するための道である。






                       



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