かつて実践すべき徳目は、忠と孝と言われた。
 今、最も軽んじられている徳目が忠と孝である。
 それが、人類に不幸の種を蒔いている。

 戦後に教育を受けた我々の世代は、忠というと神風特攻隊だの、仇討ちだの、切腹だのとやたらに血生臭い事柄に結び付けられたり、死の観念に結び付けられ、禍々しく脳裏に刷り込まれてしまっている。
 この様に、おどろおどろしい印象を結び付けられると忠という言葉を聞くだけで生理的嫌悪感を催す。愛国心も同様である。一種の洗脳である。正規の学校で洗脳教育を受けたようなものである。
 それでも子供の頃は、年の瀬が近づくと恒例のように日本のどこで忠臣蔵が演じられ。忠を頭から否定する学校の教えと世間の大人達の意識の間に妙なズレがあって違和感を禁じ得なかった。
 最近、スポーツの国際大会が盛んになり、その都度、国威が発揚され、愛国心が盛んになった。それが又、言論人の間で問題になった。愛国心は、軍国主義の復活だと危惧されたのである。島国根性だというのである。
 国威を発揚し、愛国心を高揚するのは、共産主義国の中国で同様である。

 第一に、日本人は、どこか、忠義や愛国心が好きだ。

 忠義と同様、愛国心も頭から侮蔑され、否定された感情の一つである。
 しかし、国際試合で自国が勝つと熱狂するのは、日本だけではない。どこの国でも自国が勝と大騒ぎになる。その感情にあまり体制は影響しない。独裁主義国であろうと、自由主義国であろうと、社会主義国であろうと自国の勝ち負けに、その国の国民は拘(こだわ)るものである。逆に、自国が勝ったことを素直に喜べない国はどこか歪んでいる。
 素直になれば、自然に愛国心は湧いてくる。その愛国心が国を良くしたいと言う志を生むのである。その志に基づく熱情が忠なのである。

 又、戦後は、忠の意味も歪曲されて教えられている。
 忠は、滅私奉公、つまりは、無条件の自己犠牲だと教えられ。
 先生から無意味な行為だと叩き込まれた。しかし、それは。忠を悪意で曲解しているのに過ぎない。
 忠の本質は、誠である。無条件の服従を意味しない。明治維新の時は、幕府に組みする者も討幕派も忠義によって行動したのである。
 忠義者は、体制の言いなりになったわけではない。

 忠や愛国心は、間違った前提の基に、徹底的に排斥された。
 忠や愛国心は、封建主義、軍国主義、帝国主義、国家主義、民族主義、全体主義、独裁主義と無理矢理結び付けられ、一括りされて十把一絡げに否定された。
 忠は奴隷根性だと蔑まれたのである。しかし、忠は奴隷根性とは、真反対の精神である。
 この様に、戦後、民主主義、個人主義の名の下に忠誠心は、目の仇にされ、徹底的に排斥された。
 しかし、民主主義国でも、共産主義国でも愛国心や忠誠心は求められる。むしろ、アメリカやフランス、中国、北朝鮮を見れば解るように民主主義国や社会主義国の方が愛国心や忠誠心が強いくらいである。
 国家という概念は、国民国家によって確立された。国民国家という思想を基盤とした民主主義国や社会主義国の方が、より愛国心や国への忠誠心を求められる。
 日本が愛国心や忠誠心を否定されるのは、日本が戦争に負けたからである。日本を支配しようとする勢力にとって日本人が自国に対して愛国心や忠誠心が持てないようにするのは、自分達が日本を統治しやすくするためである。
 愛国心や忠誠心は政治体制とは無縁の感情である。あるとすれば、世界を統一しようとする思想か個々の国の主権を重んじる思想かの違いである。
 個人主義者は愛国心や忠誠心を否定といるかのようにいわれる。逆である。個人主義は、個人の思想信条を重んじる。故に、個人主義者を思想や信条によって拘束できない。個人主義だからこそ愛国心や忠誠心という率直な感情でしか国をまとめられないのである。 愛国心や忠誠心を、体制側の人間が否定的に教育している国は、日本以外にはない。
 日本を間接的に支配しようとする勢力が、日本の組織力、団結力を恐れたから愛国心や忠誠心を否定し、叛逆を美徳としたのである。
 どの様な国でも叛逆者や裏切り者は、どの社会でも極悪人として否定され、排斥されているのである。なぜならば、叛逆者や裏切りを認めたらその国家や組織は、自分達の存在そのものを自分で否定する事になる。それは、国民や組織に所属する人間に対し最も不誠実なことだからである。国を治める者が自分の治める国を信じられず、誇りを持てなければ国を統治することなど最初から不可能である。
 要するに、日本で愛国心や忠誠心を否定する勢力は、日本を植民地化しようとする勢力なのである。なぜならば、愛国心や忠誠心は、国家の主権に関わる国民感情だからである。
 大切なのは、素直で率直な感情である。自国に対する素直で率直な感情を表出できないところに今の日本の置かれている状況がある。

 戦争の生き残りの中には、戦争で死んでいった英霊達を愚か者だと嘲笑う様な生き方をしている者もいる。狡く賢く生きのびた者が得だと言う者さえいる。どんな汚いことをしてでも、どんな醜態を曝しても、したたかに生きのびた人間が勝ちだと言いふらしている者がいる。
 しかし、愚直に自分の信念に従ってしか生きられない者がいるのも事実だ。そして、自分の信念に殉じた生き方を望んだ人達もいたのである。それを愚かと笑う権利は誰にもない。そして、その人達の犠牲があったからこそ今の日本の繁栄があるのも否定できないことである。日本は、最後まで植民地化に抵抗した唯一の国だという事を忘れてはならない。
 人間は、いつの日にか誰もが死ぬのである。
 ならば、戦争で生きるか死ぬかの問題は、損か得かの問題ではない。どう生きのびたかの問題でもない。
 何時、どこで、どの様に死んでいくかの問題である。死生観の問題である。人生観の問題である。ぶざまに生きるのが人生観ならば、義を屈するくらいなら名誉のため潔く生きるのも人生観なのである。
 愚直の生き方しかできない人間に器用な生き方ができないと嘲笑うのは、嘲笑う者の方が愚かなのである。
 大切なのは、自分らしい生き方に徹せられるかどうかがである。自分に忠であるかどうかが重要なのである。

 誰が、なぜ、日本人の愛国心や忠誠心を否定しているのか。その意図を考えれば、その者の目的も明らかになる。それは、汚いことをして生きのび自分を正当化したいと言う動機か、国の主権や独立を危うくしたいと言う目的以外、考えられないからである。

 ジャン・ジャック・ルソーは、「戦争状態論」において、戦争は、敵国の主権を脅かし、国家と国民の契約を破綻させる行為と規定している。即ち、敵国の建国の理念、即ち、憲法を、踏む躙り、国民と国家の絆を断たんとする行為が戦争なのである。
 愛国心や忠誠心を否定する行為が何を意味するのか歴然としている。現に自由主義国も共和主義国も社会主義国も愛国心と忠誠心は、鼓舞することはあっても否定したりはしない。ただ、独立と主権を放棄した国だけが愛国心と忠誠心を拒むのである。

 独立国か否か、即ち、国家の存在は、国と国との関係によって決まる。この事を念頭に置いておく必要がある。
 国家の独立と主権を宣言しただけでは国とは認められない。第三国の承認があってはじめて認められるのである。ただいずれにしても、自国の主権と独立を宣言しないことには、始まらないのである。
 日本人は、生まれた時から日本人である。日本人にとって日本という国は、自分達が生まれる以前からずっとある。多くの日本人、遙か昔から、現在に至るまで日本という国は、存在し、また、未来永劫、日本と言う国は存在し続けると錯覚している。
 しかし、日本という国が確立されたのは、人類の歴史に比べてつい最近の出来事なのである。そして、日本という国の独立は実際危うかったのである。

 我々には、守るべきものがある。それは、一人一人違う。本は、私(わたくし)事である。しかし、私事を突き詰めたところには、公がある。
 だからこそ、公に対して忠ならざるを得ないのである。忠の向かう対象は、私を私として生かす存在だからである。
 その存在に対し、自分の一切合切を投げ出した時、人間は、あらゆる柵(しがらみ)から解放されて自由となるのである。だから、忠義は自由の源であって奴隷根性の対極にある。

 経済を考えると言う事は、人々の暮らし向きのことを考えることである。金の問題ではない。経済を良くすると言うことは、人々の生活を良くすることで、金回りを良くすることではない。
 人々の暮らしを良くするために、金が必要なので、金によって人々の暮らしが悪くなるのならば、それは経済の在り方に問題があるのである。大事なことは、国民の生活が成り立つかどうかである。
 国民の生活を良くしようとするのが国に忠なのである。
 いくら物質的に恵まれようとも、人々が金の亡者となり、物欲に溺れ、私利私欲に走って公共の利益を鑑みることがなくなったら、国の経済が良くなったとは言わない。
 国民の生活が成り立つようにするという事は、人々の価値観や文化の問題でもあるのである。人々の文化を守ることこそ忠なのである。
 国を良くすると言う心は、即ち、愛国心は、人々の暮らしを良くしようとする一念である。その一念が国に対する忠の本となる。
 暮らしの問題は、人々の生き様の問題と密接に関係している。暮らしを良くすると言う一念は、人々の生き様を正すという忠義でもある。
 人間は、一人一人、生きていく環境や条件が違う。人間は千差万別である。
 一人一人の実情に基づいた認識が前提となる。一人一人のためを思った愛情が前提となる。ただ闇雲に何もかも一律にしてしまえと言うのは、野蛮な考え方である。
 大きい人間も、小さい人間も、年老いた人間も、若い者も男も女も皆条件が違う。それを同等に扱うことを平等というのであろうか。違いを違いとして認めた上で極力条件を同じくすることで平等はなりたつ。
 ただ一律の基準で賃金を支払えばいいと言うのは、いかさま乱暴である。なぜ、年齢によって賃金に差が生じるのか。また、生活環境によって賃金を変える必要があるのか。生活環境の差を所得に反映することが不可欠だからである。だからこそ、その国や社会は、一定の格差を容認してきた。条件が違うのに結果を同じにするのは不平等だからである。
 賃金は、その国の文化や価値観と一人一人の働きに応じたものである必要がある。
 それを単に金の問題で片付けようとするから混乱が生じるのである。
 若い頃に大金を持たせることが良いのか。妻子のある者と独身者を同一に扱えるか。皆、条件が違うのである。
 日本的経営を家族主義と侮るが、企業全体で、社員の生活の面倒を見ていこうとしたから家族主義的になったのである。だから、若いうちに必要以上に不相応の金を持たせると身を持ち崩すと配慮したのである。単に吝嗇なだけではない。
 それこそが忠なのである。

 会社が大赤字で国の支援を受けなければならないと言うのに、高額の所得を当然の権利だとして受ける経営者が問題とされた。労働運動が盛んな時代に会社は潰れても組合は安泰だと嘯いていた組合幹部がいた。そんな道理が通るわけがない。財政が破綻しても国民生活に影響はないという経済学者がいる。いい加減な事務で年金を破綻させた役人がいる。無責任なのである。
 自分さえ良ければ他人なんてどうなってもいいというのである。
 それは個人主義でも自由主義でもなく。単なる利己主義である。
 自分が善ければと言う中には、自分を支える公も含まれている。それを前提として自分が善ければと言うのである。しかも、自分が善ければ、善ければは、自分にとっての善である。それが、真の個人主義である。善心なければ個人主義成り立たない。それが義である。

 真(まこと)に、修身、斎家、治国、平天下は一筋の道である。修身、斎家、治国、平天下を貫くのは忠の義である。

 国家に対する忠の根本には、国に対する愛と熱情がある。

 忠と孝は、人間本然の情である。

 忠の根源は、仁である。
 忠の本性は、誠心、真心である。

 仁は、忠と恕の道である。
 忠と恕の本源を愛である。
 愛とは、つまり、惚れることである。

 忠とは、一途な気持ちである。

 忠は実を求める。
 実のない者に忠を尽くしても報われることはない。
 忠の相手が、虚しいからである。忠も又虚しくなる。

 忠実というのは、実を尽くす事、誠を尽くすことである。
 忠とは、嘘偽りのない心である。

 仁の行いは忠と恕である。
 忠と恕は、表裏を為す行いである。
 恕は、忠の根源である。
 忠を良くするのは、恕の働きである。
 恕を知らずに、忠を語っても始まらない。
 恕とは、相手を許し、受け容れる、寛やかな心である。
 恕とは愛である。忠も愛である。
 いずれも愛の真(まこと)である。

 今、忠が行き場を失っている。

 忠という思想は、日本の敗戦後、最も否定的に扱われた思想である。裏返してみれば、日本人の忠誠心が、諸外国に最も怖れられたという証左でもある。

 国に対する忠とは、国を良くしたいという一念である。忠は、愛国心の現れである。国に尽くすのも愛国心なら、国を糾すのも又愛国心である。
 故に、愛国心は、滅私奉公ではない。
 国民国家に対する忠とは、天下万民に対する忠であり、国民の生活を良くしようとする愛の誠である。即ち、忠とは、愛国心の現れである。
 故に、忠は義を生む。公義である。

 義によって試されるのは、勇である。忠によって試されるのも、勇である。
 正しいを正しいと言い、過ちを過ちという。それが忠である。

 忠とは、隷属を意味するのではない。絶対的服従を意味するのではない。
 忠とは、国家、国民を良くしようとする行いである。

 現代国民国家は、全て、暴力的な国家権力を簒奪した。
 故に、暴力的な革命や叛逆を是として自らの出自を正当化しようとする。
 自ら出自を正当化せん為に、暴力的な革命や叛逆を是とするのは不義である。
 無意味な国家国民への叛逆は忠に反する。
 ただただ、国を良くしたいという一念が時に、国に背かせるのである。
 しかしそれも愛国心あればこそである。
 国民の本義は忠義である。国家への忠誠が国民の根本である。

 天下万民の為に、尽くし続けるのが忠である。

 忠は、無条件の服従を、絶対的服従を、盲目的服従を意味していない。
 忠は、主人に対する盲目的献身ではない。

 忠は、盲目的服従や絶対的隷従を意味しない。自他を活かすことである。かといって単純に多数決を是とするのでもない。忠が重んじるのは、自らの心根、性根である。だからこそ、忠は自由に通じるのである。

 忠義こそ自由を保障する義である。

 忠は人を自由にする。
 忠とは、自分以外の対象に向けて自分を解放することである。
 忠は、自己犠牲の上に成り立っているわけではない。
 忠とは、自己を生かす行いである。
 故に、忠によって人は自由になれる。
 その対象が肉親であれば孝となる。
 故に、忠とは、無償の愛である。

 大切なのは、何に対して忠たらんと欲するかである。
 それを過てば、忠に依って破滅する。

 忠誠心の本意は、義を愛する心である。
 何に対して忠誠を誓うかは、何を義とするかによって定まる。
 忠誠心とは、忠の心根によって明らかになる。
 そして、忠誠心によって自由は発揚する。

 忠の対象をを良くしたいと思う一念が忠なのである。
 権力者に対し命懸けで諫言するのも、又、忠である。

 結局、忠が向かうべき相手は、公である。
 公とは、私(わたくし)の外にあって私を支える人間社会を言う。私の外にあって何等かの権威によって承認された社会、制度を言う。国民国家においては、国家、国民、それに準ずる存在を言う。
 国民国家において、忠たらんとする相手は、国家、国民である。

 糖尿病患者が甘い物を欲しがるからと言ってお菓子を沢山やる奴があるだろうか。
 国が病んでいる時に、国民に苦い薬を飲ますことができる者こそ真の政治的指導者である。

 忠は、私を滅することではない。己を発現することである。
 忠を支えるのは、己の意志である。志すところである。
 義なくして忠は成り立たない。
 忠は義侠心である。

 忠は、心と気と力からなる。心気力が充実した時、忠の気は発現する。
 その気とは浩然の気である。

 名誉は、忠の源である。人は、誇りによって忠たらんとす。恥によって忠を守る。名誉は、忠を発揚する。
 名誉の源は義である。故に、忠は、義に発する。
 人はなぜ名誉を重んじるのか。誇りを大切にするのか。名誉は、独立自尊に基づくからである。名誉の根源は自信だからである。忠は自信によって生まれるからである。
 自尊心なき者に、忠は発揮できない。自信がない者は人に尽くすべき自分がないからである。己(おのれ)を持たぬ者は、誇りを持ちようがない。故に、恥知らずである。破廉恥である。その様な者こそ奴隷なのである。

 忠は、狂に似る。国を良くしたいという一念は、時に、狂気となる。
 空気の読めない奴と蔑まれても自分の所信を貫く者はまだ許せる。国が悪くなるのを知っていながら、それを糾すことなく、何も行動せず。ただ、周囲の人間に迎合し、人からも好まれるような人間こそ唾棄すべき人間である。
 人が顰めようが、辱められようが一途に自分の義を貫き通す者は狂である。それこそが忠である。義を見てせざるは勇なきなり。

 忠は死生を越えたところにある気合い。忠に徹した時、人は無私となる。しかし、それは私を殺すことでも、否定する事でもない。忠と誠をもって己がこの世の全てと融合するのである。
 忠によって到達する無私とは、私心、私情を棄てることによって、私を、私に囚われる心から開放し、己を生かすことなのである。
 その時人は自由となる。





                       



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