政治家と志


 今の日本の政治家の多くは、おしゃべりはするが、あまり語らない。
 語るというのは、なぜ、自分は、政治を志したのか、どんな国にしたいのか、何がしたいのかと言った事柄を明らかにする事である。つまり、自分の政治思想、政治信条を明らかにする事である。つまり、志を語るのである。
 多くを語らないと言うのは、語るべきものを持っていないのか。語り方を知らないのか、いずれかである。即ち、志がないか。志を明らかにできないかである。

 それは、日本人の選挙に対する考え方・姿勢にも起因している。日本人が人徳を重んじ、政策や思想よりも政治家の人柄や人間関係を重視するからである。
 本来、政治家の人徳は、その志の確かさにある。ところが、長いこと政治家をしていたり、親の代から政治家をしていたりすると志よりも付き合いの方が優先される。そして、いつの間にか、志が忘れ去られる。

 人の話を聞き、人民の代弁をするのが政治家の仕事である。ところが今の政治家は、人の話を聞かない。それは、専制、独裁の始まりである。
 政治家を志す時、先ず人の意見に耳を傾けることを志すべきなのである。人民のために生きる。それが、政治家である。自分の立身のために、国民を利用した時、政治家は、その志すところを問われるのである。

 誰に投票するかの基準は、人を選ぶのか、政党を選ぶのか、政策を選ぶのかである。それは、選挙民が何を信じて一票を投じるかの問題である。ただ人せよ、政党にせよ、政策にせよいずれにしても、その根本にあるのは、志である。志を忘れては、政治家は成り立たない。政治家は、政治家であって政治屋ではないのである。政治を稼業にするにしても、ただ金儲けを目的にして信条を欠いていたら、政治家として長続きしない。よくしたものでそういう奴はよく喋る。選挙に受かりたい一身で、自分の節を曲げてしまったら、何のために、政治家になるのかその姿勢を疑われる。それは、立身出世しか眼中にないことを自らが証しているようなものである。彼等は、詐欺師ペテン師の類と変わらず。最初から政治家ではない。そのような者達を政治屋というのである。
 まして、政治は、家業ではない。世襲するものではない。政治が世襲化され、政治家としての資質が問われなくなれば、民主主義は終わりである。政治家の資質は、信条、つまり、志で決まる。政治の根本は、志である。
 志もないのに、地位や名誉や金が欲しくて親やツテを頼って選挙に出る者が現れてくる。さもしい限りである。節操がない。彼等は、志などどうでも良いのである。それは、政治家ではなく。政治屋である。しかし、人気者は、それでも当選する者が出てくる。選挙民にとっても志などどうでも良いのである。しかし、それではいずれ国は衰える。

 むろん、政治家は、選挙に勝たなければならない。しかし、政治家は、選挙に勝つ前に志がなければならない。政治家というのは、政治家になることが目的なのではない。更に言えば、大臣になることが目的なのではない。政治家になって何をしようとしているのかが問題なのである。どのような社会にしたいのか。どのような世の中にしたいのかである。それは、志である。

 多数決、イコール、民主主義ではない。多数決さえとれば民主的だという錯覚がある。また、多数決をとれば間違いないというのも誤解である。多数決によって正しい結果が常に出し続けられるという保証はどこにもないのである。故に、多数決をとる前に必ず語り合う必要がある。そして、語り合うことを通じてお互いの意見を深め一定の結論を導き出すのが、民主的手続きである。志と志のぶつかり合いなのである。

 話せば解るというのと話さなくても解るというのは、相通じるところがある。結局、最終的には、何となく解るという事を前提としているために、語らなくなる。
 話しても解らない。話さなければ、なお、解らない。それが話し合いの前提である。だから語らざるを得ないのである。

 戦後、日本人は豊になった。だから、生き抜くために、志を持つ必要がない。しかし、本来、豊であれば志をもつ事は、容易であるはずである。戦後直後は、働かなければ生きていけない状況があったのである。何もしなければ生きていけないような状況では、志をもつ事は難しい。また、何かを語れば、弾圧を受ける時代もあった。そのような時代では、志を明らかにするだけで、命が危うかったのである。そんな時代に政治を志したものが多くいた。なのに、豊かなこの時代に志を語れる政治家が少なくなった。

 なぜ、日本人は、大陸に進出したのか。それは、第一に国内の事情である。第二に、大陸の政情が不安定だったことである。それを是とするか、非とするかは、その人の立場、思想、志の違いである。しかし、自国の立場を堂々と主張できない者は、政治家とは言えない。
 どんな状況下でも言うべき事はちゃんと言う。それが政治家である。その為に例え苦況に陥ったとしても、そして、その立場を理解してもらえるような生き方、生活をする。その根本は、志である。ただ、選挙に受からんが為だけに自分の節操をなくしたら、節操をなくした時から政治家ではない。政治家は、逆境の時にこそ、その真価が問われるのである。
 語らなければ、何も伝わらない。摩擦を怖れて沈黙をするのが、政治の世界では最悪の結果を招くのである。
 敗軍の将は、何も語らないではなく。政治家は、負けても恥を忍んで語らなければならない。

 戦後生まれの我々には、過去に対する責任は、我々にはないかもしれない。しかし、未来に対する責任からは、免れ(まぬがれ)ないのである。
 その為にも、我々は、未来に向かって志を持たなければならない。信念がなくなれば、未来は拓けないのである。

 何も天下、国家を論じるだけが政治ではない。自らの思い、所信を語ることも政治である。それに、国民の生活とかけ離れた大言壮語するくらいならば、むしろ、国民一人一人の声に耳を傾け、国民の声に応えて、自分の考えを語る方がどれくらいましなことか。国民の声に耳を傾けることこそ、政治の原点である。
 我が国には、国会議員だけが政治家であるかの如き、錯覚がある。しかし、国民一人一人の声を聞き、それを実現していくという意味においては、地方議員の方が政治の原点を担っているとも言える。政治家という観点から言えば、国会議員も地方議員も差はないはずである。地方議員が、国会議員のための登竜門であったり、また、地方の名士のための名誉欲を満たすためのものに陥れば、民主主義は堕落する。地方議員こそ、志が問われるのである。

 政治家は、語らなければならない。志、所信を語らなければならない。語るのが仕事だからである。政治家が、語るのをやめた時、独裁政治は始まるのである。政治家が、沈黙した時、専制政治が始まるのである。
 政治家は、喋るのではなく。語らなければならない。それが政治家の魂だからである。





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