暴力装置について


 暴力装置という言葉が一人歩きしてなんだが世の中の自衛隊に対する議論がずれてきた感じがする。
 最近の政治的議論は、まったく面白くない。
 内容が稀薄で上っ面の議論で終わって肝心の国家論や哲学が欠けているのである。だから、まともな議論が聞けなくなった。
 今回の暴力装置論も、暴力装置という言葉を知っているか、知っていないか。どう解釈するのか。用語の使い方がどうかという議論であって肝心の暴力装置という思想的意味については議論されていない。
 これでは話にならない。

 私は、以前から国家は、暴力装置だと定義しいる。
 国家の主権と独立は暴力によって維持されている。
 ただ、その前提となるのは、暴力の意味である。
 戦後の日本人は、暴力というものを頭から否定してしまっていて肯定的な側面を一切認めようとしない。
 それは、憲法の解釈にも現れている。
 学校でもひたすらに暴力は悪い、暴力は悪いと教えるばかりで暴力が振るわれた背景を明らかにしようとはしない。その様に一方的に自分の価値観を押し付けてくる態度こそ暴力的なのである。殴る蹴ると腕力を振るうことばかりが暴力的なのではない。
 闇雲に暴力は悪い、暴力は悪いと言うだけでは暴力はなくならない。

 暴力というのは、自分の意志を他者に強要しようとする力である。強要しようとする手段に武器が伴えば武力となる。

 国家というのは暴力的である。それを諸国民の良識を信じてなどとやるからおかしくなるのである。
中国も、ロシアも、アメリカも、朝鮮も非暴力的で、日本だけが暴力的と言っているようなものである。中国もロシアもアメリカも、それに、朝鮮だって暴力的ですよ。

 そうではなくて、国際社会というのは、無法地帯であり、暴力的なんだと言う事を認めた上で、正義とは何かと論じないと本当の正義を実現する事はできない。性善説云々以前の問題である。
 暴力を武力と置き換えてもいいのだが、そうすると国家の本質が見失われてしまう。
 自衛隊が暴力装置だとするのが云々というのは、多分に情緒的である。それは、暴力は厭だ。厭な物は嫌だと言っているのにすぎない。平和を維持したいというのならば、
 自衛隊は暴力装置だと言った者の背景には、多分に反軍思想が隠されているように思える。
 自衛隊が暴力装置というのは、自衛隊を軍事組織だとしている点と自衛隊を否定的にとらえているという点において僕は、おかしいと思う。
 だから議論が自衛隊に対し侮蔑的なるのである。
 その反面で旧軍事用語をコソッと復活させようと言う動きがみられる。
 認めるなら認めた上で議論しないと・・・。支離滅裂であり、姑息である。

 国際的取り決めは、力関係で決まる。領土問題も、力関係によって決着してきたのである。力を失えば、領土を奪われてきたのである。意味もなく他国の利権のために自国民の血を流してまで保護してくれる国はない。そこに正義はないのである。
 歴史が、記録が、文献がと言ったところでそんなことで領土問題が片付くほど、国際関係は、生やさしいものではない事は、歴史が証明している。
 日本人は、島国であり、戦と言っても明治維新前は、内乱だったに過ぎない。日本が侵略されたという経験は、元寇ぐらいであって極めて少ない希有な国である。
 だから、お人好しのことを言っていられるのである。
 領土は常に力によって獲得してきたし、又、奪われてきたのである。

 反体制的思想の持ち主の中には、同じ暴力でも自分達の側の暴力は良くて敵対する側の暴力は悪いと言った論理を展開する者がいる。核兵器にも、平和的な核兵器と好戦的な核兵器があるという。もうこうなると論理とは言えない。無茶苦茶である。
 論理と言うより、こじつけや御都合主義、便宜主義でしかない。
 ただの感情論である。
 暴力は暴力である。暴力自体に善も悪もない。
 核兵器が悪いというのならば、どこの国の核兵器も認めるべきではない。
 中国や北朝鮮の暴力は許せてもアメリカの暴力は許せないとか、共産主義的暴力は暴力ではないとゲリラや赤色テロは、暴力ではないと言いたいのか。弱者の犯罪も暴力ではないと・・・。
 犯罪は、どこまで行っても犯罪である。
 この様な論理の展開は公正さに欠ける。
 こうなったら合理性など欠片もなくなってしまう。
 もし、そこまで言うのならば自分の言うことは正しきて敵対する者の言う事は総て悪いと開き直った方がまだましである。
 犯罪を犯罪とした上ではじめて自分達の行為の正当さが問われるのである。相手側類から何をしてもいいというのは、理性的な判断とは言えない。

 国家というのは、多かれ少なかれ暴力的な存在である。日本の平和憲法も暴力的に押し付けられた憲法であるという歴史的事実を見落としてはならない。
 アメリカも、中国も、ロシアも、北朝鮮も多分に暴力的だある。

 宗教は、非暴力的な存在だと錯覚している者がいるが、それは、同じ宗教を信じる物の間の話であって自分の信仰を他者に強要するのであるから多分に暴力的なものである。特に、教義を廻る争いや布教活動の際、異教徒との諍いにおいては、暴力的にならざるをえない。キリスト教を非暴力的な宗教だと思っている日本人も多くいるが、キリスト教も暴力的な側面を持つ。確かに、初期のキリスト教は、無抵抗主義を貫いた。しかし、その後の歴史をみれば、十字軍の編成や魔女狩り、南米における布教活動、ユダヤ人に対する迫害などみれば、かなり暴力的な側面を持つ。

 暴力を否定するというのと、暴力を認めないと言うのでは、本質が違う。

 無抵抗主義と非暴力主義を一緒くたに考えては成らない。
 無抵抗主義は、抵抗しないという事を基本的行動指針にしている主義であり、暴力を認めていないわけではない。ある意味で、無抵抗というのも暴力行為の一種だとも言えるのである。
 非暴力主義は、暴力そのものを最初から否定する考え方で、抵抗しないという事を意味しているわけではない。無言の抵抗という言葉もあるようにである。
 無抵抗主義と非暴力主義とは、違う。ただ、無抵抗主義と非暴力主義は、結びつきやすいという事である。
 何もしないというのは、消極的抵抗であり、それ自体が暴力であると捉えられることも

 大体、暴力革命を是認するものが、暴力を否定するような振る舞いをする事自体、欺瞞である。

 どんな悪党にも自分の行為を正当化する権利は持っている。しかし、被害者にとってそんな理屈は関係ないのだ。自己善と自己弁護。
ある。
 これではどこまで行っても平行線である。だから、両者の意見を調停し、一つの意志を強要する国家という暴力装置が必要となるのである。
 さもなければ、仇討ち、復讐という私的制裁に委せるしかなくなる。私的制裁は私的暴力である。





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