弱者の戦法



 反体制とか、革命的集団というのは、体制とか、敵対する勢力に対して最初は圧倒的弱者なのだ。だから、彼等の取る先方は、弱者の取る戦法になる。
 弱者の戦法というのは、両刃の剣である事を忘れると、自分達が強者になった時に、自分達を傷つけ、或いは、自分達を破滅させる事に成りかねない事を、肝に銘じておかなければならない。

 例えば統制問題である。弱者の立場に立たされたら、いかに自分達の集団の統制を保つかが、重要な鍵になる。団結は、弱小集団が生き残るための不可欠な要素だからである。
 反対に、敵対する側の団結力をいかに崩し、統制力を乱すかが弱者の戦略となる。相手の内部の規律をなくし、離反させ、反目させることが弱者の取るべき戦略だからである。
 故に、自分達の仲間、どうしに対しては、統制を厳しくし、相手に対しては、統制を乱すようなプロパガンダ、情宣活動が取られる。しかし、この活動は最初から矛盾しているのである。自分達が正しいとして厳格に護らせようとすることを相手側には、間違い、悪だとする。しかし、根本的価値観、思想においてである。つまり、最初から嘘がある。その嘘が自分達が体制側、つまり、権力を掌握した時に自分達の根幹を揺るがすのである。
 特に、思想を基礎として成り立っている体制においては、深層的部分に潜在的に働きかけ続けることになる。
 これは組合運動のような活動にも言える。

 いかに自分達が弱い立場に立たされようとも、道徳的価値観反する行為まで正当化すれば、後々深刻な問題を引き起こす病巣となる。悪い事は悪いのである。

 大体、暴力革命を是認するものが、暴力を否定するような振る舞いをする事自体、欺瞞である。それは擬態である。強者を無防備にし、自分の反撃を準備するための戦略に過ぎない。

 団塊の世代、反体制世代の言う、革新と保守の意味は不明瞭である。彼等は、革新的で反体制派を是とする。そして、保守的な、或いは、伝統的思想を非とする。その行き着くところが、革命であり、暴力である。そして、無政府主義である。
 しかし、彼等の言う保守的という意味は不明である。単に自分達に反対していると言うだけにしか見えないときがある。
 革命的であるか、否かというならまだ解る。しかし、そうなると民族主義者は保守の範疇に入らないだろう。
 結局、過激か否かの問題である。

 厳密に、非暴力を提唱するならば、それは、キリスト教的、ガンジー的、ブッタ的な非暴力主義、無抵抗主義であり、これは一種の信仰である。世俗的な権力である国家が非暴力主義や無抵抗主義等もと付いたら、無辜の民に犠牲を強いることになる。権力者が非暴力主義、無抵抗主義を主張するのは、結局、権力者の媚態でしかない。国民を護ることを放棄した最低の権力者である。
 しかも、無抵抗主義、非暴力主義は、誰にでも通用するとはかぎらない。歴史を見れば、大量虐殺は常態である。歴史には、皆殺しによって抹殺された国家や民族は数多(あまた)あるのである。それは人類だけでなく。絶滅した生物にも言えるのである。

 弱い者は、弱さを武器にすることがある。そこに弱者の強(したた)かさがある。

 弱者は何をやっても許されるという発想があるが、それは間違えである。
許されないことをやっているという自覚がなくなれば結局、歯止めが効かなくなる。抑制がなくなるのである。

 又、弱者の採る戦法の一つに量の戦略がある。大量な存在というのは、それ自体が力となる。だから、弱者は団結を強要する。団結の次ぎ求められるのは、統制と秩序である。これは、先に挙げたことと一見矛盾して見える。しかし、それは、皮相な見方であり、弱者は、団結、統制、規律の重要性を理解しているから、相手が団結したり、統制を強めたり、規律を強化することを阻害するのである。

 弱者とは、虎の威を借りる狐である。そこに、弱者の媚態がある。弱者は強者に媚び、強者を利用しようとする。
 マスコミが良い例である。マスコミは、大衆という強者に媚び、大衆を利用する。そして、社会的弱者に牙をむくのである。マスコミは、一度落ち目になった者に対しては、容赦はしない。そして、弱者の戦法である。大勢を功名に活用する。マスコミの振りかざす正義ほど怪しい代物はない。
 マスコミの言う言論の自由は、猥褻の自由、金儲けの自由でしかない。
 そこの倫理、道徳、モラル、礼節の入り込む余地はない。

 弱者の戦法には、分断して統治せよというのもある。聞こえは、良いが、結局、仲を裂けと言う事である。疑心暗鬼に陥らせ、信頼関係を壊せという事である。それを突き詰めると社会を崩壊させてしまうことになる。
 子を親に背かせ、国民を国に背かせ、夫婦仲を裂き、友を裏切らせる。人と人との絆を断ち。あらゆる人間関係をバラバラにしてしまうのである。縁を否定する事である。その結果が、無縁社会、孤独死である。そこへ颯爽と救世主として現れ、人々の心を支配しようとするのである。
 そう言う人間は、善良さを装い、人の不平不満に同調し、増幅させる。人々の耳元で悪意をもって囁き、誘惑する。自分だけが良い子であるように振る舞う。

 さらに悪事を誘って共犯者に仕立て、社会や仲間から孤立させる。

 結局、反体制派の言う事は支離滅裂なのである。ただ、その時、その時の権力者の言う事に反撥しているだけに過ぎない。
 しかも、権力者の手足を縛って、牙を抜いた飢えでである。権力者が抵抗できないようにしておいて、やりたい放題やっているのに過ぎない。
 檻に入った虎をからかったからと言って本当に勇気があるとは限らない。

 弱い立場を克服し、真っ向から権力と対峙した者こそ、真の勇者である。
 しかし、それは弱い者ではない。

 戦後の知識人の多くは、反体制、反権力、反権威を標榜する。学園紛争時に、なまじ体制側などに立とうものなら反動とつるし上げをくった。
 しかし、なぜ、中央政府が経済や政治を統御することが悪いのか。中央政府が経済や政治を統御できなくなれば、必然的に、経済は破綻し、治安は悪くなる。それが道理である。戦後の知識人を自称する者の言う事は、ただ、他人に操られるのは厭だと拗ねているようにしか見えない。
 志があるというのならば、ただ反対しているだけでなく。現実的な対策を示すべきなのである。現実的な対策を示せないのならば、戦前、軍部の尻馬に乗って国民を戦争に駆り立てた人間と何も変わらない。

 一般に、混乱した状況では、ロシア革命の例を見ても解るように例え、少数勢力でも団結した勢力が最後には勝利する。
 民主勢力というのは、革命的状況を作り出すことはできても、混乱状況を収拾する能力に欠ける。民主化、民主化と言うが、フランス革命やロシア革命の例を見ても明らかなように、結局独裁への道を拓く結果に終わることが多い。それが民主主義勢力の最大の弱点である。
 民主主義というのは、体制であり、仕組みである。
 民主主義を成就したいのならば、先ず、混乱状態を収束し、その上で速やかに体制を構築する必要がある。自己の主張をあくまでも押し通そうとすれば、独裁的勢力に加担しているようなものだと言うことを知るべきである。
 混乱期には、とにかく、結束、統率した者が勝つ。いくら正義を唱えても敗れてしまえば全てを失うのである。







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