民主主義と暴力


 戦後の日本の知識人には、民主主義に対するある種の幻想がある。

 戦後、知識人と称する連中の多くは、民主主義や自由主義を平和主義や非暴力主義と無作為にか、それとも故意にかは解らないが、混同している節が見える。しかし、民主主義は、あくまでも、革命思想、それも武力革命思想が母胎である。つまりは、暴力的な思想なのである。

 民主主義は、民主主義が成立する以前の体制、多くは、封建体制や絶対王制、集権体制、独裁体制と制度的に断絶しているのである。
 そして、暴力によって権力を簒奪することによって成立している。
 本質的に血生臭い体制なのである。
 自由か、死か。それが合い言葉でもある。
 常に私の影がつきまとっている。
 そして、市民革命が成就しても恐怖政治に支配されるのが通例なのである。
 民主化を煽った者達は、その実体を知っているのか、甚だ疑問である。

 民主主義は、混乱と流血、暴力の中から生み出されるもの。
 民主主義の根本はカオスである。
 民主主義なんて決して綺麗なだけの体制ではない。
 それこそ戦争か、革命が母体なんですからね。
 そして、間違えば、無政府な状況になるか、独裁体制を生み出すか。
 アメリカなんて希有な体制なのである。
 民主化、民主化と空騒ぎしますが、後が大変なのである。長い混乱と権力抗争。
 今、中東で起こっているのは、始まりであって終わりではない。
 それが、マスコミには解っていない。
 それで、やれ革命だ、民主化だ、自由だと大騒ぎしているだけ。
 しかし、中には王制の復活なんて事もありうる。
 今は独裁者の権化のように言われるムバラクだってカダフィーだって最初は理想に燃えていた頃がある。清貧と言われたときもある。

 今は、民主主義神話のようなものがありますが、200年ほど前は、民主主義なんて怖ろしい思想の内の一つですからね。
 特に、無神論と一緒にされて過激な思想だと言われた。
 また、今は何か、民主主義と平和主義とをゴチャゴチャにしてしまう傾向があるが、実際は、民主主義の母胎は革命主義、暴力主義なのであり。むしろ無政府主義に近い。
 その点を忘れてはならない。
 その国の体制を決めるのは、その国の国民だと言う事を忘れてはならない。
 民主主義を闇雲に付けられても迷惑だという国民もいるのである。

 それでも、民主主義が正しいというのは、思想の問題であり、信条の問題だという事を忘れてはならない。
 それを神の摂理の如く捉えているとしたら、それは信仰である。民主主義に対する信仰告白に過ぎない。

 元々、欧米人は、絶対的体制なんて認めていない。
 君主政治には、独裁政治を、貴族政治には、寡頭政治を、民主主義には、衆愚政治を対比させながら政体を語ってきた。
 それを今は、民主主義を絶対的だと日本人は思っている。と言うより思い込まされている。
 だから、民主主義の均衡を保てずに、制御できないでいる。

 もう一つ重大なのは、民主主義というのは、基本的に人間不信の思想だという事である。
 だから、根本的に分権思想なのである。一人の人間に権力を主注させることは危険だという思想なのである。
 徹底した人間不信が根底にある。人間を野放しにしたら、必ず欲望に負ける。それが民主主義の大前提である。

 したり顔で、民主主義の根本は、話し合いである。話せば解ると言うのが民主主義の大原則だと曰う者がいる。
 とんでもないことである。民主主義の大原則は、話しても解らないである。話しても解らないから、規則に基づいた会議を開き、手続きに従って結論を導き出すのである。重大なのは、手続であって多数決ではない。
 つまり、多数決も民主主義の原則ではない。多数決ばかりで物事を決めようとしたら臨機応変な対応ができなくなる。多数決は、意思決定のための一手段に過ぎない。大事なのは結論に至るまでの手続である。
 故に、民主主義は、手続の思想とも言えるのである。

 民主主義を成就するためには、一旦権力を一定の機関、組織に集中させる必要がある。それが民主主義を成功させるための鍵を握っている。
 つまり、民主主義の根源は、集権的で、軍事的体制である。
 そして、その集権的体制から中核となる国民議会を生み出し、段階的に権力の分散を計る必要があるのである。
 なぜならば、民主主義は制度的体制だからである。民主主義的仕組みが確立されてはじめて機能する体制だからである。

日本人と民主主義


 欧米人は、民主主義と個人主義とを明確に区分しているのであって、又、明確に区分する必要性を認めている。
 それは、民主主義と個人主義とは違うと言う事を意味している。
 ところが日本人は、民主主義も個人主義も、自由主義も、共和主義も、世界主義も、人道主義も、博愛(友愛?)主義、平和主義、革命主義、進歩主義、プラグマティズム、科学主義、下手をすると社会主義までも皆一括りにしてしまう。
 思想的にはグチャグチャですよ。鵺みたいに・・・。
 左翼の連中が、今のアメリカは、帝国主義的民主主義だといってもピンとこない。
 帝国主義や覇権主義と民主主義が結びつかない。
 英国は、民主主義国なのか王国かなどといっても解らない。
では日本は天皇制による民主主義だと日本人にいっても解らないはずです。
違憲・合法論なんて珍妙なことを言うくらいですからね。
又、民主主義と共和主義の違いも解らない。
 キリスト教民主主義とキリスト教社会主義の違いも解らない。
 だから、共産主義は独裁主義、全体主義だと言っても理解できない。
 無政府主義と民主主義、無政府主義と共産主義も区分できない。
 民族主義と国粋主義も区分できない。
 だからゴチャゴチャなんですね。
 それで民主主義絶対の幻想を抱いているところが怖いですね。
 フランスで最大の悩みは、共和主義と民主主義の整合性をどうとるかであり。スイスでは、直接民主主義をどう維持するかが最大の問題なのですからね。スイスは、更に軍国主義と永世中立の問題ですね。
 民主主義というのは事ほど多様なのであり、色々な思想と結びついて体制を作り上げている。

 民主主義というのは、一神教を基盤として成り立っている。つまり、神と人との関係を土台にして、言い替えると、人と人との間に、絶対的神を介在させることによって成立しているのが民主主義という体制である。
 この点に関して、日本人には誤解がある。日本人は、民主主義を人と人との関係の延長線上に捉える傾向がある。そして、民主主義の原則を和をもって尊しとなすだと錯覚している。和をもって尊しとなすでは民主主義は成り立たない。民主主義とは人間不信を前提とした体制なのである。
 権力を握れば、人間は変わる。価値観や信じる神が違えば、どんなに話し合っても解り合うことはできない。それが民主主義の根本理念である。故に、民主主義は、法や規則を重んじ、手続きの正統性に信を置くのである。

 人と人という水平的関係だけでなく。人と神という垂直的関係が介在することによって民主主義は制度としての構造を持ち得たのである。それによって個人としての権利を保ちながら全体としての整合性を保てるのである。
 和をもって尊しとなすでは、個人と全体との調和が保てなくなり、どちらか一方の意見に偏ることになる。和をもって尊しとなすでは、民主主義は制度としての均衡を保てないのである。

 相手を信じる事はできなくとも相手が信じる神に対する絶対的誓約を信じる。そうなると最も信用できないのは無神論者と言う事になる。無神経に無神論を誇示する日本人は、彼等からすれば、最も信用できない人間と言う事になる。




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