切   腹


 自殺を肯定する気はないが、日本人の心のどこかに自分の罪を命で贖うことや身の潔白を一命をもって証明しようとする事に潔さを感じる精神がある。私は、その志に共感する。その志の表れが切腹である。と言うよりも、指導的立場にある者は、命がけでその任務を全うすべきだという信念である。その精神が、日本人の堕落を防ぎ。日本の独立を護ってきたように私には思える。

 昔の日本人は、自分の命に変えても護らなければならないものがあると信じていたのだ。昔と言ってもそんなに古い話ではない。つい最近、少なくとも戦前の日本人は、固く信じていた。

 命をかけても守らなければならないのは、自分の名誉である。それは、自分が為すべき事をやり遂げたかどうかである。そして、潔さである。
 自分が間違っていたかどうか、罪があるかないか、失敗や過ちを犯したかではない。責任の有無である。自分の罪を認めたとしても、また、自分の潔白を証明するにしても、潔く命を投げ出さなければならないのである。何事も命がけで事に当たる。そして、責められるべき事が生じたならば、例えそれが不可抗力で仕方がない事だとしても、命がけでその責任を全うする。決して言い訳も弁明もしない。真実は、天と己一人が知る。それで、当人も一族も名誉が守られる。抗議をするのは潔くないのである。それが日本人の生き様だったのである。そこに切腹がある。ただ、ひたすら死ぬ。
 第二次大戦で終戦の政断が下った時、切腹をした阿南陸軍大臣の生き様が、典型である。それが、日本人にとって責任を果たすという事である。この精神は、忠臣蔵や戦記のような物語で国民の隅々まで語り継がれ、日本人の価値観を支配してきたのである。

 責任は、とらされるのではなく。とるものなのである。
 故に、志ある者は、事に臨みて、その出処進退を明らかにし、その身を潔くしなければならない。いつも清潔な下着を身につけているのも、いつ自分が、命がけで自分の名誉を守らなければならない事態に遭遇するか解らないからである。その時、臆してはならない。常に、こざっぱり清潔にしておく必要がある。それが志しある者の嗜みである。それが日本人である。

 かつて公務につく者は、誓約をして職に就いた。誰に、何を誓約するのか。これも、誓約させられるのではない。上に向かって自発的に誓約するのである。
 今日(こんにち)の月給取りとの違いである。月給取りは、ただ単に金儲けのために働くのである。だから誓約書などいらない。しかし、侍が職を受けるのは、拝命であり、それは、使命でもあり、天命でもあるのだ。いつ死んでもかまわないと言う覚悟を示すのである。家を出るときは、火打ち石で清めるのである。
 だからこそ公と私のけじめを曖昧にせず。私事によって公の仕事を蔑ろにしてはならないという強い責任感を文書で表すのである。この根本的な心構えのない者を日本人は軽蔑してきた。

 大名でも井伊直弼は、大老に就任するときに起請文を書いている。また、彦根城には、多くの起請文が残されている。
 上杉鷹山は、藩主になる時に、次のような誓文を春日明神に奉納している。
 一,文武の修練は定めにしたがい怠りなく励むこと
 二,民の父母となるを第一のつとめとすること
 三,次の言葉を日夜忘れぬこと
    贅沢なければ危険なし
    施して浪費するなかれ
 四,言行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼、を犯さぬようにつとめること
これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときには、ただちに神罰を下し、家運を永代にわたり消失されんことを                           
                                        以上
                                    上杉弾正大弼
                    (「代表的日本人」内村鑑三著 岩波文庫)

これが志である。

 備中高松城主清水宗治は、豊臣秀吉の水攻めにあい、家臣の命を救うために、切腹した。武士の本懐、本望である。
 薩摩藩の、平田靱負(ゆきえ)は、木曽川治水の難工事を完成した末、切腹した。それは、難工事を完成させたとはいえ、多くの犠牲者を出し、大幅に予算を越えたことにたいする責任から腹を切ったのである。(「切腹」山本博文著 光文社新書)人は、何によって責任をとるのか。無事、やり遂げることなのか。それとも、自分の心に期すものが大切なのか。ただ、やればいいというのではない。己が納得できるかが、問題なのである。そこにあるのは、志の問題である。即ち、何に志すかである。それを愚かな死というのには、重すぎる。

 何を命がけ護らなければならないのか。一命を賭して護るべきものは何か。

 女にとって大切なのは、操(みさお)であると教えられてきた。操というを現代人は誤解をしている。それは、亭主以外の男に肌を許さないと言う意味ではない。愛する者への誓いを頑なに護ることである。自分の志、誓いを堅く護ると言う事であり、女だけに求められるものではない。本来男にも求められるものである。男にこそ求められるものである。

 操や純潔は、姦通罪などの制度となると問題だが、心構えとしては天晴れなものである。操だの純潔だのと言うと、不倫だとか、浮気と言った皮相なことばかりに現代人は、目を向けがちであるが、大切なのは、心根であり、覚悟である。最初から守れない、護る意志のない約束や誓いは立てる意味がない。命をかけてでも、約束を守る。それが純真であり、操である。
 人は、自分に誓って操や純潔に命をかけるのである。その根本は、志である。つまり、誓いである。それは外部から強制されるものではない。外部から強要されて自分の信念と違う方向に強引に変えられることを恥とするのである。自分の意志に反する者に力づくで屈服され、隷属する事は、見苦しいのである。だから命がけで護る。操は、人に強要されるものではない。だからこそ、切腹は、人に強要されるものではなく。武士の潔さ(いさぎよさ)なのである。それは、思いあまった自殺ではない。

 男に求められたのは、潔白と誉れ(ほまれ)である。身の潔白というのは、純粋で、清く正しいことである。身に一点の汚れ(けがれ)があっても許せないのである。この様に、自分の身を常に清浄に保つことは、既に道である。名誉である。誇りである。それは、自分が自分であることの証である。自分を欺かないことである。自分に正直に生きることである。人にああだこうだ言われて従う事を潔しとしないことである。独立不羈の気概である。だから、命がけで護る。命がけで護らなければ、自分が自分でなくなる。独立、自立、自尊心が保てない。不甲斐ないのである。

 ならば名誉とは何か。それは、為すべき事を為すことでえられる志、心境、境地である。為すべきものを知らぬ者は、誇りの持ちようがない。それは、誇りではなく、ただ、自尊心ばかり、気位ばかりである。人間として何を為すべきか。天命、使命とは何か。そこに志があり、誉れがある。

 つまり、日本人の生き方は、志を立て、それを心に誓い。その誓いを頑なに護って潔癖に生きることである。それは、生きることそのものが修業である。自分に真正直に生きることである。美しく生きることである。

 最も嫌うのが、辱(はずかし)め。恥辱である。つまり、恥である。
 人としてあるまじき行動をとる事を恥と感じた。人に疑われること自体、恥なのである。その潔白を一命を持ってしても証明しなければならない。

 いずれにも共通しているのは、純潔である。つまり、日本人にとって大切なのは、清潔感なのである。純潔は、誇りを生む。つまりは、気高さである。戦後の日本人は、この気高さを失った。気高さがない癖に気位ばかりが高い。だから醜いのである。

 護らなければならないのは、自分の名誉、一族の名誉である。命がけで、自分の名誉を家族の名誉を守らなければならないと言う思いが、自己の行動を厳しく律したのである。

 自分の名誉を守り、厳しく自己の行動を律するのは、人としての在り方の基本を形成する考えであり、行動規範の基礎をなす考えである。人間いかに生きるべきか。人として、護らなければならないものを堅固に持ち。それを貫いて生きるのは、日本人として当然の生き方でなければならない。
 その根底は、善とか悪とかではなく、美である。日本人の美学である。姿形である。それが日本人としての在り方を規定してきたのである。大切なのは、生きる姿勢なのである。それが日本人の美徳の根幹をなしていきたことを忘れてはならない。
日本人の価値観の基本は、善悪よりも美醜に重きを置いている。美しく生きることが日本人の理想なのである。ところが最近の日本人は、美しくない。不潔である。

 戦後の多くの日本人が、政治家や官僚、経営者、責任者に感じる違和感は、命がけで護るべきものが見えない、持っていないという姿勢である。それは、善い悪いと言うよりも、醜悪に見えるのである。不潔なのである。日本人は、潔くあれば、多少、人間的に問題があっても許してしまう。しかし、いつまでも未練がましく潔くないと、どんなに善良であろうと許せなくなるのである。この心根は、今でも心のどこかに生きている。だから、のらりくらりと弁明をする政治家や官僚に腹を立てるのである。潔くない。

 戦後の日本人は、恥を忘れた。それによって、公共心を失った。他人がばれなければ、どんなことでも許されると思うようになった。要するに羞恥心がないのである。他人が見ていなくても、天は見ているという思想が失われた。その結果、人間としての矜持がなくなったのである。

 かつて元服(成人式)を迎えると武士の子は、切腹の作法を教えられた。成人式と言っても今のように二十歳ではなく、十五歳の誕生日である。武士の娘も自害の仕方を教わる。日本人の志である。

 日本人は、元服の時、志を立てて自らの意志で立つ。その象徴が切腹である。切腹は、人に与えられた死ではない。実際は、押し付けられた死でも、形式的には、自発的な死である。つまり、責任はとらされるものではなく。とるものだと言う壮絶な覚悟を秘めている。それが日本人の志の根幹をなす信条である。
 
 日本人は、純潔が好きだ。つまり、清潔な生き方こそ日本人の生き方なのである。潔くありたいと思う。それは、日本人が桜に託す思いに現れている。パッと咲いてパッと散っていく。その鮮やかな美しさに日本人は共感を覚えるのである。

 それは、生の裏返しにある死であり、生の対極にある死ある。日本人にとって生き甲斐は、死に甲斐出なければならないのである。この様な生き方を支えているのは、自分の生き方に常に責任を持つ、その決然としたい志である。
 私は、どのような形でも自殺を認めない。しかし、何事に対しても命がけで当たり、決して逃げないと言う信念は、大切だと思う。その矜持を失ったときから、人間の堕落は始まる。
 自殺は、悪い。しかし、命を賭して自分の名誉を守るという精神だけは、受け継いでいかなければならない。さもないと、人間は、恥を忘れ、自制心を失っていく。それは、自滅への道である。





                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2009.9.4 Keiichirou Koyano