市場と自由



 家族とは何か。なぜ、今日、家族は崩壊し、失われようとしているのか。
 家族とは何か、そこに、幸せとは何かにたいする答が隠されている様な気がする。

 市場とは、化外の世界である。だから、非道徳的で自由な空間なのである。市場は化外の世界だから鬼が住む。
 市場は、共同体の外にあって共同体と共同体の境界線に成立する。
 故に、共同体内部の掟が通用しない空間である。
 共同体内部の掟が通用しないから自分を保つことができるのは、自分の価値観しかない。それが自由である。故に、市場は自由な空間なのである。
 江戸時代、士農工商と商業が一番下の身分におかれたのは、商業は化外の仕事と見なされたからである。そして、今でも、その名残がある。商売は賤しい仕事だという偏見である。
 自由な空間だから物と物の交換が可能となり、又、人と人との交流も可能となるのである。そこから貨幣も発生し、発達した。
 貨幣経済と市場経済は必ずしも一体ではない。しかし、現在では、貨幣経済と市場経済は、不離不可分の関係にある。
 今は、市場は非道徳的空間で自由な空間である上に、貨幣的空間でもある。
 市場は、自由な空間であると同時に不道徳な空間でもある。
 故に、賭博や遊郭、酒場といった放蕩無頼の徒が集まる場でもあった。市場は化外にある。故に、鬼が住む。
 それに対し、共同体は、道徳で非金銭的空間である。反面、不自由な空間でもある。市場と空間は鏡像関係、表裏の関係にある。どちらが善で、どちらが悪かという問題ではない。
 公平というのは共同体内部の原則、市場の原則は競争である。
 現代社会の問題は、全ての空間や関係を市場原理、あるいは、貨幣価値によって支配しようとしていることである。
 その為に、共同体としての絆、親子の縁、家族の縁、夫婦の縁、地域住民の縁、国民としての縁が全て失われ、無縁社会になろうとしていることである。
 それが、家族や親子、夫婦関係の崩壊を招いているのである。
 年老いた親の面倒も出産や育児も道徳の問題から金や設備、制度の問題に置き換えられ、その為に、社会保障費の増大として社会の負担を増しているのである。あげく、財政の破綻まで招いている。
 現代人にとって親の面倒をみるのも子の世話をするのも金の問題であり、道徳の問題ではないのである。それは共同体の仕事ではなく、市場原理の問題なのである。
 全ての関係を市場化しようとする事は、道徳の否定をも招く。売れれば、道徳なんて関係ない。作品が興行的にあたれば、道徳的におかしくても正しい事になる。金が全てに優先する社会になる。
 又、全てを貨幣価値に換算しようとする。人と人の愛の絆も、夢や想い出も、人としての感情や心の内までも、皆、貨幣価値に換算しようとしている。それが自由の代償だというのであろうか。
 中でも、家事労働を外注化することによって家事労働が廃れていく。外に働きに出て、金を儲けることが全てであるように錯覚する。それは、母である事、妻である事、娘である事、最後には、女である事を否定する事でもある。それが男女同権だとするのは大いなる幻想である。
 市場経済は、共同体との境目にあることを忘れてはならない。共同体が、共同体として機能して始めて市場は、市場としての役割を果たすことが出来るのである。

 現代社会は、老いた者や力無き者達を情け容赦なく切り捨てていく。
 家族の絆が失われたからである。
 市場の論理だけが全てとなり、共同体の論理が失われたからである。





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