なぜ

前略 私は今まで一人で戦ってきました。私たちは、この国を守らなければならないのです。命がけで・・・。

今の日本で一番深刻なのは、世界が日本を見捨てようとしている事です。

哲学なんて途方もなく傲慢でなければできませんよ。
ですから、殆どの哲学者が精神を病んでしまう。自分自身に降り掛かる自分対する嫌悪感というのは、壮絶な重圧ですね。おまえは何様なんだという自問が己を押し潰す。
凶悪ですよ。凶悪。哲学なんてやる人間は、凶悪ですよ。
とことん、己を極限にまで追い詰めなければできない。
己を極限まで追い込んでいくと、だんだんに凶暴になっていく。
自分との戦いですね。
世の中や社会の矛盾を突き詰めていけば、そして、自分という存在が純粋に客観的に見えないとしたら、自分か、あるいは、自分以外の存在のいずれかを許せなくなる。
自分を超えた存在を見いださないかぎり、救いはなくなる。
だから、救いは信仰に求めざるをえません。
しかし、現代は、既存の宗教に偏る事も赦されない。
ですから、信仰ですら、僕は、己の神を見いださざるを得なくなりました。
でなければ、己を見失う。恐ろしい事です。

神を否定する者は、自らを神とする。
これが私の第一のテーゼです。

本来、哲学なんて俗ぽいものですよ。
人間の行いなのです。
人間が人間として対等な立場で議論する必要がある。
人種や民族に偏りがあってはならない。
しかし、現代は、圧倒的に欧米文明が優位にある。
この不均衡が世界に大きな歪みをもたらしているのです。
だから、新しい哲学の基盤のいったんは、均衡でなければならない。
だから、土台は、西洋哲学だけでなく東洋哲学にも求めなければならない。中でも中国哲学を重視する必要がある。
これも大切な事です。その点、中国という国はすごい国だと思っています。
いくらでも下地になる哲学がある。
その核となるのが、陰陽ですね。
易教は、根源的であり、常に新鮮さを失っていない。

戦争でどれだけ多くの方がなくなったと思われますか。それから見れば、私の命など虫けらのようなものですよ。
だから、かつて自民党が政争を繰り返した時、命がけで諫言したのです。本当にあの時は死ぬかと思いましたよ。殺気を帯びていたと思いますから。
でも、今はもっと深刻ですね。
相手は世界ですから。

無名という事は気楽で良いのですが、自分の理論を世に問う際は、障害になる事もありますよね。まあ、目的さえ達せられれば良いのだから、どうでもいいといえば、どうでもいいのですが。

深く静かに潜航せよですよね。

政治力は私事に使えば効力を失う。
政治力は、国家国民のために使うからこそ力を発揮するのだと信じます。無私、無欲に徹しなければ、政治力なんて無意味です。
ただ、どうしても自分の信念を実現するために必要とあらば、政治力は発揮すべきなのだと思います。
政治力を無闇にひけらかす人間は、三流ですよ。自分の力なさを公言しているようなものです。第一、品がない。
政治力なんて考えもなしに、やたらと使うべきではない。政治力は、公のために用いるものです。
自らに厳しくなれない者は、他者に厳しくなれない。
結局、堕落してしまうのです。それほど、生やさしい世界ではない。
自らに甘い者は、己の行いに対する己の心底を疑われてしまいます。自分に厳しくしてないと自分の精神が持たない。
重要な事は、国のためになるか、ならないかです。
一度立てば、必ず死を覚悟する。そうでなければ政治力なんて使うべきではない。
政治家や役人と喧嘩したところで一文の得にもならない。
どうせ喧嘩するならば、世界最強の軍隊を持っているところと無腰で喧嘩すべきです。ならば死に甲斐もある。

そう覚悟を決めたら、普段は、臆病者のでくの坊、ボンクラぐらいに思われていた方が無難ですよ。実際、私は、周囲の者からもそう思われてますしね。そう思わせておかないと他人からものを教わる事はできない。まだまだ勉強したいですから。
大体、見る人が見れば解ってくれる。三十分話して、相手の技量が見抜けなかったらやめてしまえと叱られましたからね。せいぜい用心しています。

現代経済の最大の問題点は、人がいないという事ですね。一口に、人、物、金と言うが、物と金はあっても人が不在だという事が現代経済を不毛にしているのです。

経済とは、人が生きるための活動です。人がいない経済では、人は生きられない。人が生きられない経済なんてまったく無意味です。
現代の経済が人のためでなく。物や金のためにあるからです。
物を生産するために、人々の生活が犠牲になったり、お金のために、人々が破滅していってします。生産効率は上がっても分配効率が下がったのでは意味がありません。
金を儲かっても人々の暮らしが成り立たなくなったのでは本末転倒です。
経済は、本来、人、物、金の調和の上に成り立っている。人、物、金の働きを均衡させようとする事で経済は動いているのです。
経済とは、人生そのものなのですね。

経済は、人の一生に合わせて動く事象でなければならないと思うのです。
生まれて、学んで、社会人となり、やがて結婚して、子供を産んで、育て、そして、死んでいく。その間に病に倒れたり、家を建てたり、いろいろな人との出会いがあり。人には、それぞれの生き方があり、それぞれの家族があります。その人の生き様が経済を動かしていくのです。
人、物、金の働きを調和させる仕組みこそ本来経済が求めるべきあり方なのだと私は思うのです。人や物や金の働きが不均衡になった時、力でそれを強引に調節しようとすれば戦争になる。結局、戦争は、経済の延長線上にあるのです。戦争をなくしたいと思うのなら、まず、経済の仕組みを整える事です。

私は、規制緩和の意味がわからないと言っているのです。
意味不明の事を言ってそれをあたかも原理だと振りかざすのは狂気です。
規制緩和というのは、全ての規制を撤廃しろというのか、それとも、規制の数を減らせというのか、あるいは、規制を時代や環境の変化に合わせて変更しろというのか、判然としていないと思うのです。極端な規制緩和論者のいう事は、規制は邪悪のものであり何が何でもなくしてしまえと言っているようにも聞こえます。しかし、それは、無政府主義であって真の規制緩和とは違う。また、何の意味もなく、規制が多すぎるという理由だけで、規制の数を減らせというのは理不尽です。
競争は、ルールがあってなり立つものです。ルールのない争いは、競争ではなく、闘争であり、殺戮です。無原則な競争なんてあり得ない。
同様に、保護主義が悪いと決めつけるのも意味不明です。保護主義と言うが、何から何を保護するのかが、判然としていない。

食は、国民の健康と食文化の維持を第一に考えるべきなのです。
そして、そのために、国は、集中的、戦略的投資を行うべきなのです。
人口爆発によって食糧難、水不足は目前に迫っています。
国防という観点からしても食料産業や食料投資の根本を見直すべき時なのです。そこを見据えて各国と交渉しないと先は見えてこないと思います。関税ばかりに特化してしまうと取引の材料を失い、八方ふさがりの状態に陥ります。
ひたすらに、規制緩和、規制緩和と声高に叫べば、規制の持つ本質を活用できなくなります。何をもって規制緩和とするのか。その点を明確にして、規制すべき処は規制すべきなのです。
これまでの保護主義は、関税障壁によって自国の産業をただ守ろうとしているのに過ぎません。結果的に、市場や生活を疲弊させてしまったのです。
関税だけで市場の健全さを守ろうとしても、国民の生活を保護している事に結びつかない。

関税だけで市場を保護しようとする事自体間違っている。むしろ、関税だけで市場を保護しようとする事が無謀なのです。
日本の食は安全規制が重要なのです。そのためには、市場に規制をかけるのは当然です。
本来の保護する対象は市場であり。保護主義的施策は、石油価格の暴騰や株価の暴落、為替の乱高下と言った急激な環境の変動や会計制度等の制度的な歪み、労働条件や物価の違いなどから市場を保護することを目的とするべきだと私は、解釈します。
自由化というのは、市場環境を無防備な状態にせよという事を意味しているのではありません。むしろ、自由化すればするほど規制和を強化しなければならない分野が出てくるのです。例えば、食の安全です。また、規制が競争力を削ぐというのも誤解です。日本の自動車産業は、欧米の環境規制が強化されたからこそ競争力がついたのです。

なぜこんな事をお手紙するかというと、自分の事を承知していてほしいからです。世に受け入れられたいとか、認められたいなんて思いは最初からありませんでした。でも、先にも述べましたように、経済の乱れは結局戦争の惨禍を招きます。
だからこそ経済なのです。その点だけを解っていてほしいのです。

今のまま手を拱いていれば、間違いなく、日本は、世界から見捨てられる。そして、世界は、日本という不良債権を清算しようとする。そういう際に日本は立たされていると思えば見えないところも見えてくる。その象徴問題が領土問題ですね。日本を世界が必要としているならば、簡単に領土問題など表面化しませんよ。
現実を見ないと・・・。日本人は、世間知らずすぎる。            草々
平成25年3月16日(土)



前略 農業とは何かという事だと思います。農業とは、農産物を生産する産業です。では、農産物とは何かです。
農産物というのを生産者側から見ていると一面的なものになりがちです。農業を生産者と違う視点から見ますと、まず、第一に、食料の生産手段だという事です。食料とは、一つ間違うと毒になります。つまり、食の安全ということが重要だという事です。又、食料は嗜好品の代表でもあります。人は、美味しいものを食べている時は幸せで、平和になります。反対におなかかすいたり、食べ物が不味ければ不機嫌になります。
又、第二に、消費者側から見ると必需品であり、非耐久消費財だという事です。日々の暮らしの糧という言葉が示すとおり、人々の日々の暮らしになくてはならないものです。
食料がなくなれば人間は生きていけません。ですから、食糧が不足すれば、他国を侵略してでも食糧を確保しようとします。故に、食糧の確保は、国防と同義なのです。かといって、ただ、守っているだけでは、食糧は確保されません。だからこそ、あらゆる国に兵糧攻めという戦法があるのです。
第三に、文化の根底をなす物。食文化の担い手です。農業は、古来、その国や地方の文化を構成する核でした。地域地域の祭礼は、農業を基盤として形成されてきたのです。つまり、人々の暮らしの慣習や習俗を形作ってきたのも農業です。
農業を考える時、まず、考えなければならないのは、食の安全という事です。
規制緩和と言いますが、何でもかんでも規制を緩和して良いというものではありません。
規制緩和というのは、やたらと煩雑になったり、これから発展の余地があって競争を促す必要がある産業、又、何らかの既得権益と結びついている規制や時代の変化に適合しなくなった規制を削除、あるいは、変更することを指すのだと思います。規制緩和を単純に規制をなくすとか、減らすという様にとらえるのは、短絡的に過ぎます。規制すべき処はしっかり規制しないと、かえって競争を阻害します。市場を開放するという事は、それだけしっかりとして規制をするという事でもあります。
近年、食の世界では、狂牛病や鳥インフルエンザ、そして、環境汚染による農薬問題や化学薬品問題、抗生物質の問題、放射能汚染、或いは、遺伝子組換え食品、添加物の問題と食の安全は危機に瀕しています。
消費者は、有機栽培や国産品を高くても選択するのは、この様な食の安全や健康被害への関心の高まりからです。このことは、将来、我が国の農業のあり方を指し示しているともいえます。即ち、安全かつ健康の食料の確保。さらに言えば、予防医学、予防薬に近い食料の開発と言ったことです。
我が国の消費者は、世界一、厳しいと言えると思います。
門戸を開くというのに、規制を単純に緩めるのは、食の安全を危うくすることです。
また、いかに、食料の最低必要量を確保するのかが重大な課題です。近代経済社会は、国際分業が深化し、自給自足体制を維持するという事は、事実上困難なことです。特に、島国で、人口密度の高い我が国にとっては、我が国だけで自国民の消費を賄うだけの量を教達することは、不可能です。だからこそ、我が国の安全保障は、我が国だけのことを考えれば成立するという時代ではないのです。国防を考える上では、この点が重要なのです。どの国と同盟を結んで食料を調達するのか。この点を明確にしないと国際社会ではやっていけません。それこそが国家戦略であり、自国の都合ばかりを優先できない事情がそこにあるのだと存じます。
どの国と手を結ぶべきか。それは、志を同じくし、思想価値観を共有している国です。戦前ならば、近隣諸国を指すのだと思います。しかし、今日は、思想的社会であり、思想や体制を同じくしている国とでないと志も思想も価値観も共有できません。そうなると答えは自ずと明らかなのです。革命思想にかぶれるて、相手を過てば、国を滅ぼす結果を招くだけです。
農業は国の土台です。日本は、元来、瑞穂の国です。農業は、国の礎です。だからこそ、新しい時代に即した農業を再構築する必要があるのです。
農業でより深刻なのは、むしろ、農業の担い手がいなくなっていることです。
最近、広島の牡蠣の加工強者が殺された事件で判明したのは、牡蠣の殻剝きのような仕事を日本の若者がしなくなったという事です。町のコンビニエンスストアを覗いても、殆ど、外国人に占められるようになってきました。最近、スキー場に遊びに行ったのですが、そこで働いている人も多くが外国人です。我々の学生時代は、皆、アルバイトをして遊ぶ金どころか、学費まで稼いでいました。今は、親がかりか、楽して儲けることばかり考えています。今は、猫も杓子も大学へ入れて、大学へ行けさえすれば、将来は安泰だと考えているように見えます。
しかし、実際は、生きていくために必要な術も身につけずに、既得権ばかりを主張する生活力のない若者を大量生産しているのに過ぎません。
これでは確実に国力は衰えます。衰えるどころか、日本の国を維持することもできなくなります。体罰問題も行き過ぎれば、脆弱な若者を増やすだけです。大事なのは、哲学です。どのような国を、どのような日本人を育成するのか。それを忘れたら土台から農業は崩壊してしまうと思います。
農業の技術革新はめざましいものがあります。反面に、いろいろなリスクや問題も派生しています。
食料は、単純な食糧不足の問題から、食の安全、環境問題、エネルギー問題、水問題、資源問題、知的所有権の問題等、多種多様な問題へと発展してきています。
消費者の意識も単におなかを満たせば良いという処から、健康やダイエット、美容、グルメと多種多様な要望に変化してきています。食い道楽というように、食は欲と直結しており、豊かになれば、美味しいものであれば、高額でもお金を惜しまないという傾向があります。テレビを見てもグルメ番組や健康特集のない日はありません。消費者のニーズも無添加、国産、産直、有機栽培、遺伝子組換えでない商品、養殖でない天然物と安価で良いというだけではなくなってきました。それは、世界も同じです。元来中国も食文化の国です。いずれは、味覚が第一の条件になってくることは間違いありません。
即ち、豊かになるに従って量より質へと時代が変わるのは必定です。
日本には、日本食という文化があります。
日本の農業の生き残る道は、食文化をおいて他にありません。
ただ単に農業の問題として終わらせるのではなく。文化の問題として見直すべきなのです。
日本人は、逆境を梃子にして発展してきました。日本人の心の底のどこかに、日本は貧しい国なのだ。一人一人が真面目に勤勉に働かないと国が成り立たなくなるという思いがあったのだと思います。
そのハングリー精神が日本人から失せようとしています。そこに心の隙があります。その奢りこそ真の敵なのです。
ただ、将来を悲観したり、否定するだけでなく。チャンスとして前向きにとらえられるような環境を整えることが肝要だと存じます。   草々
平成二十五年三月十八日(月)

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