戦 略 V



独立国として主体性のある国家戦略、エネルギー戦略を持たないと日本はやがては三等国になり、国家の独立も危うくなります。それは国を滅ぼす事にも繋がります。
独立を守れない国は、他国の利害によって利用され、自国を戦場にまでされ国土を蹂躙されてしまいます。それは、我が国の国民に塗炭の苦しみを味わわせる事になります。
我々には、我が国の未来と未来を背負う子供達に責任があるのです。

このまま何事もなく平穏無事に終わるとは思えません。
多くの日本人は、誤解しています。日本人以外の国の人間は、日本の繁栄など望んでいないのです。
他国が、日本に荷担するのは、自国、或いは、自国民に何らかの利益がある場合に限られます。好意や善意で日本の繁栄に荷担する事はありません。そんな事をすれば自国に対する背信行為になるからです。
国際社会では、自国の独立と平和は、自力で護るものなのです。然もなければ、他国の権益によって自国の独立も権益も侵されてしまうのです。
明治維新以来、どれほど多くの同胞の血を我が国は流してきた事か。そして、最後に大東亜戦争によって多くの犠牲を払い、今日の繁栄の礎を築いたのです。その繁栄の極みにいる我々は、尊い犠牲者達を侮り、先人達の苦節を忘れようとしています。

我々は、戦争当事国の問題ばかりを歴史に学びます。しかし、大国間の都合によって自国を戦場とされた国の人々の問題に関しては疎いものです。自国を戦場とされた国々の国民は、自分達とは無縁なところで甚大な人的、物的は被害を受けるのです。
戦争当事国と自国を戦場とされた国々との間だには、抜き差しならない国民意識のズレが生じ、往々にして、外交上に浮上するのです。これは、簡単には解決できません。結局、力関係の問題に行き着くのです。それが冷厳たる国際社会の現実なのです。だから、自国の安全を願う国は、強国と組みたがる。日本はそこが明確ではない。きれい事ばかりを言っている。それでは戦略は立てられません。戦略とは現実の上に立って考えるべきであり、独立や平和を護ろうとしても侵略しようとする国が現れれば、独立も平和も守れないのである。
見方を変えれば、我が国の大義は我が国の都合や言い分だけでは守りきれないという事を意味しているのです。
この点を理解しないと、なぜ、国家戦略が必要か、なぜ、エネルギー戦略が必要なのかを理解する事はできません。

生き馬の目を抜く国際社会の中で、自国の生存を掛けて戦わなければならない。国際社会は、現実の戦場です。夢想、空想、理想で動いているわけではない。戦略家は、徹底的なリアリストでなければならない。戦略や政治家が理想、思想を言う時は、戦略であり、政治です。
理想や思想は哲学者の問題です。しかし、政治や戦略は、国民感情の問題なのです。
その点をよくよく見極めておく必要がある。

エネルギー戦略は、我が国の現実を直視する事から始めなければならない。他国の言動に惑わされてはいけない。今、日本のエネルギー戦略は曲がり角に来ています。
原子力を基礎とした電化戦略は破綻したと考えるべきです。原子力の是非は、自国の戦略を優先的に考えるべきですが、いずれにしても福島の目処が立たないかぎり、抜本的な方策は立てられません。逆に、福島原発の問題の目処を立てる過程で、原子力の未来、管理し、制御する技術を体得すべきなのです。しかし、最終的な結論を出すためには、時間が必要です。
オール電力化というのは、無理があります。電力化を基礎とするにしても、大規模、集中処理には限界があります。情報技術が進歩した、今日、重厚長大から、軽薄短小へと、集中から分散へと、大規模から、小規模、単一から多様へと、都市から郊外へと、ハードから、ソフトへと、量から質へと転換させるのが経済戦略の要諦です。
大体、電力業界以外のエネルギー業界は、オール電化などと言う傲慢な戦略を立てたりはしません。どんな状況においてもエネルギーミックスを原則とします。
エネルギー源を単一化する事はそれだけリスクに対する対応力を低下させる事になります。エネルギー源を多様化される事でリスクを分散させ、いざという時の選択肢を増やす事がエネルギー戦略の原則です。

原子力に基づく電化は限界がある。かといって再生可能エネルギーも今すぐ実用化するのには難があるとしたら、在来型エネルギーを見直す事です。
それが現実です。
エネルギー問題の本質は、エネルギーの無駄使いにあるのです。エネルギーを大量、かつ、非効率に使いすぎる事が問題なのです。そのために、エネルギーコストも上昇し続けている。
資源には限りがあるのです。それが大前提なのです。
だから、エネルギーを使わない社会を構築する。それが根本戦略であり、それ以外に環境問題や温暖化対策はないのです。
日本の自動車産業が隆盛となった直接の要因は、アメリカの厳しい排ガス規制をクリアした事です。つまり、徹底的に燃費を抑えた事です。つまり、日本が向かうべきなのは、徹底した省エネ社会です。それは、オール電化社会ではありません。
エネルギーの分散化であり、複合化である。
電気というのは、二次エネルギーです。ですから、考え様によっては一次エネルギーの分散化、多様化という要素には適しているように見えます。しかし、エネルギー効率という点からすれば難点があります。また、エネルギーソースの多様化も今日では、むしろ、小口にした方が太陽光に代表される再生エネルギーの効率も良い。

エネルギーの消費量を減らす以外に抜本的な解決策がないとしたら、問題はエネルギー価格になります。エネルギー産業は典型的コモディティ産業であり、商品格差が少なく差別化が難しい産業であり、勢い乱売合戦に陥りやすい。
価格は、減価償却費勘定や評価勘定が含まれるために、キャッシュフローと関連しないで変動する傾向があります。それが今日の経済をおかしくしているのです。キャッシュフローが直接損益に結びつかないために、収益が維持できなければ、キャッシュの流れを滞らせる結果を招くのです。
だから、物によっては市場を規制せざるを得ないのです。

展望のないまま乱売合戦をするのは愚かです。限りある資源をあたら自分のエゴのために浪費するのは、天に唾する事です。

日本のエネルギー戦略の要諦は、ハイブリットや燃料電池、コジュネ、GHP等の高効率設備やスマートハウスのような徹底的な省エネの追求と適正価格の維持にあります。
かつて自動車産業は、低燃費、低公害に活路を見いだしたのです。石油に対する依存がまだまだしばらくは続く事を前提としたならば、正攻法で臨むべきなのです。
とにかく、エネルギー資源の消費量を抑える事しか環境問題、資源問題、温暖化問題のいずれをとっても解決できないのです。大量消費時代から、高効率少量消費時代へ転換すべきなのです。生き物は、極低電力で動いているのです。そのためには、コストを維持する必要があるのです。安く大量にでは駄目なのです。
これからは、エネルギーの高コスト時代に入ります。そのためにも、エネルギーを効率よく使って消費量を抑える事が要求される時代になるのです。

プロパンガスは、本当に我が国に不必要な資源なのでしょうか。時代遅れで、ダサイ、役立たず、前近代的なエネルギーなのでしょうか。
逆に、プロパンガスだからこそ、この国に役立ち、必要とされてきたのではないでしょうか。

プロパンガス業界は、常に逆風の中で育ってきました。エネルギー業界の中では、石油随伴ガスという事で、付け足して的扱いを受け。ガス業界では、余計者扱いを受けてきました。法的も都市ガスが事業法なのに対して取締法である事が何よりも物語っています。
石油業界では、アスパラガス(アスファルト、パラフィン、プロパンガスの蔑称)とゴミ扱いまでされてきました。
そういう逆風でありながら、プロパンガスは、着実にシェアを伸ばし、一時は都市ガス以上のシェアを確立したのです。
それは、現実にプロパンガスを我が国が必要とした結果です。

プロパンガスは、石油随伴ガスという位置づけで見られてきました。しかし、プロパンガスは、天然ガスからもシェールガスの範疇からも生産されるのです。単純に石油と結びつけてばかりいては本質が見えません。
それに、石油を生成する過程で生産される資源でもあります。以前は、扱いに困って燃やして捨てていたのです。逆に言えば、石油を生成する過程で否応なく生産されるのです。どうせ、生産されてしまうのですから捨てるくらいなら利用しない手はないのです。それがプロパンガスの始まりでもあったのです。使ってみたら、以外に便利だという事です。

都市ガスは文化的でモダンというイメージに対し、プロパンは、田舎の不便な地域だからと言った偏見を持たれながらもプロパンガスは、人々の生活を支えてきたのです。
災害時においてもいち早く復旧し、人々の復興を陰で支え続けてきたのです。ところが国や行政は、未だに正式に認知すらしようとはしない。

プロパンガスは、地方で、労働集約的、前近代的でむさい、汚い、危ない産業というイメージがあります。しかし、視点を変えると人的ネットワークを基盤とした分散型産業という側面を持っています。
現在情報ネットワークが脚光を浴びているが、それ以前から、プロパンガスは、人的ネットワークを構築していたのです。そう見ると最も先端を行っている産業とも言えるのです。その証拠に多くの異業種、特に、ネットワークを活用した先端が他産業が業務提携を申し出ています。それに対し都市ガスは物的ネットワークと言えます。物的ネットワークは、人と人との関係が希薄だという事で、人的ネットワークの方が活用範囲が広いと考えられています。また、労働集約型というのは、地方の雇用にも貢献している事を意味します。
実際、プロパンガス業者の多くは、地方の有力者であり、本来政治力もあるのです。プロパンガス業者を組織化できたらかなりの政治力を発揮できると思います。

大体、山岳地帯が多く、地震多発地帯である我が国に、パイプラインを張り巡らそうという発想が理解できない。
住宅が密集し、パイプで結びつけた方が効率的な地域は、パイプラインを引けば良いのです。パイプで結びつける事の方が不合理な地域もあるのです。エネルギーで必要なのは、複合化であり、環境や状況に合わせた棲み分けなのです。
オール電化といった単一化する事はありません。平野部と山間部、都市と郊外では棲み分けをする必要があります。そして、それが一極集中的な体制から、分散型体制への移行を促し。同時に国防や防災におけるリスク分散となるのです。
全電源が喪失が、原発事故の引き金になった事が象徴しているのです。電力会社が自社の設備に電力を供給できずに大事故を引き起こしたのです。
戦略が不足していたのです。

なぜ、国家戦略であり、エネルギー戦略なのか。
それは、我々が限りある世界に生きているからです。我々に与えられた時間も、資源も、空間も知識や技術も限りがあります。人間は、全知全能でも、不死身でもない。
我々に与えられた時間や資源には、限りがあるのです。知識や技術にも限りがある。人間は、限定された空間の中でしか生きていけない。
しかも、限りある資源なかから、生存するために必要な資源を獲得していかなければ生き残る事もできないのです。
この様な前提に立てば主体的な意志を持たない国は、国際社会の中では生き残れない。主体的に判断できない国は、国際社会では、不用な存在、或いは、邪魔な存在なのです。国家戦略が立てられない国、肥った豚は、他国の餌食になるだけなのです。
国家としての主体性のない国は、独立も自由も危ういのです。他国に護ってもらうような自由は家畜の自由にしか過ぎない。野生の自由ではない。独立を護りたければ、痩せても野生の魂を持たなければなりません。
だからこそ、如何に、限りある時間や資源、空間、知識や技術を駆使して生き抜くかを明らかにしなければならないのです。それが戦略です。
国家とは何か、いかにして、エネルギーを有効活用するのか。如何に生きるべきかは自分に問うしかないのです。

エネルギー戦略は徹底した省エネルギー政策をとると同時に、適正価格を維持する事にあると思います。
また、国家戦略は、官僚いじめをやめ、政財官の鉄のトライアングルを再構築する事です。
財政を立て直すために行政費用を削減するにしても当事者に任せるべきです。官僚こそ、本来愛国心が強いのですから。
経済では、緩和すべき規制は緩和すべきだか、強化する規制は強化する。規制は、国家意思の表れです。何をどう規制するかにこそ、国家の理念は反映されるのです。規制なくすのも国家の意志ですが、それは国家理念に基づいて為される事です。
確かに、アメリカは、公的、法による規制は少ないかもしれないが、当事者間が交わす契約による規制は、厳しい。しかも、アメリカは訴訟社会です。契約による訴訟者愉快でない日本とアメリカとを同列に語るのは間違いです。
財政には期間損益主義を企業には現金主義を導入して制度的整合性を計るべきです。
国防は、国家の意思杖です。国防組織を明確にする事で国防組織を制御する事ができるのです。国防思想を明確にしない事は、国防を聖域化した戦前と実質的には変わりありません。何から何を護るのか、それを明らかにする事こそ国防の第一歩です。
これこそが国家戦略です。

他国に、自国の国家戦略を問うても教えてはくれない。他国は、自国とは利害を異にするからです。それこそ、そんな事をすれば売国奴と言われかねない。
他国は、日本と言う国が存続しようとしまいと関係ないからです。
自分達で自分達の国を護ろうとしない国を助ける義務は他国にはない。
我が国を取り囲む状況は混沌としています。

隣国の中国や韓国は、反日に凝り固まって話し合おうともしません。気候もいよいよ異常さを増し、温暖化問題は待ったなしの対応を迫られると思います。だからこそ国家戦略がエネルギー戦略が問われるのです。

神に問うても応えてはくれない。神はお示しになるだけです。
神は、人間が存続しようとしまいと関係ないからです。
自分達で自分達を生かそうとしない存在を助ける義理は神にはない。

人の人生には限りがある。何時か、その日、その時が来るのです。

戦って死ぬか。座して死ぬか、二つに一つしか選択肢がないとしたら、私は戦って死ぬ事を選ぶ。私は日本男児だからです。
だからといって先の見えない戦いをする気にはならない。最初から勝ち目のない戦をするのは愚かです。だから、戦略を必要とするのです。
ただ戦う時は、身命を賭して戦う。ただそれだけです。その覚悟なければ勝ち目はない。


捕捉

 自分が言う、政財官トライアングルという場合の、官とは、侍ですね。
 今の役人は、志が失われていますからね。自分は、行政を司る者は、国家観と志を持てという気持ちもあって書いてます。それは、政治家も、財界人も然り。
 それこそ、かつての財界人は、土光さんにせよ、永野さんにせよ、本田宗一郎、出光佐三にせよ、皆、国家観や志がありました。根本的に金儲け。利益の事しかない。
 又、政治家は、現実を直視しなければならない。そして、国の進むべき方向を明らかにしなければならない。今の政治家や財界や官僚には、それが判然としない。だから、政財官の鉄のトライアングルなんて望みようもない。
 それは百も承知で、それでもあえて、政財官の鉄のトライアングルを言うのです。
 だからこそ、政財官のトライアングルを望むのです。政治家や財界人や官僚の自覚と奮起を期待するしかない。教育一つとってもですね。
 今のメディアの人間は、反体制が大前提なんですね。
 それで、単に上っ面の事ばかりを問題にして、政治家や財界人、官僚の真の役割を見ようとしていない。
 そして、何が何でも政治家と財界と官僚の癒着が悪いと決めつける。それで、揚げ足取りな上面の批判ばかりをしています。
 それでは、現実的ではなく。問題を混乱させているだけに過ぎません。大切なのは、今の政治家や財界人、官僚を皮相な部分だけで批判するのではなく。
 政治家や財界人、行政官のあるべき姿を明らかにし、その上で彼等に何を求め、何をただすかだと考えます。
 単純に政財官の関係を癒着として捉えるだけでなく。
 教育を改革するためには、彼等が如何に協力していくべきかを考えるべきなのです。然もなければ破滅的な革命を志向するかです。
 教育一つとっても今の教育を糾すためには、生徒、父兄、教師、行政の連携が必要です。現在は、生徒に問題はありますが、それ以上に父兄、教師、行政にも問題があります。 
 だからといって、その総ての関係を単純に全否定するだけでは問題の解決にはなりません。教育が悪いと批判するだけにでなく、自分にできる事から確実にやっていかなければならないのだと考えます。

 政治家、実業家、官僚が志を見失い、利権と結びつけば、権力は、腐敗する。
 権力は、自制心を失えば、容易く利権を生み出す事ができる。
 自浄作用を失えば権力は腐敗する。
 志を高くもった政治家、実業家、官僚が強く結びつけば、権力は浄化される。
 政治家や実業家、官僚から志がなくなれば、権力欲、金銭欲、名誉欲に囚われ、亡者となる。その時、国は滅びるのである。
 政治家や、実業家、官僚が誇り高く、志がもてるような環境を作る事がメディア本来の仕事である。世の中を攪乱し革命的状況環境を作り出す事がメディアの仕事ではない。
 その点を今のメディアは錯誤している。


軍人の発想は単純明快なものである。なぜならば軍人は、最終的には力を信じているからである。
官僚、行政官の発想は複雑怪奇。なぜならば、最終的に官僚は力を信じ切れないからである。
権力は、両社の危うい均衡の上に成り立っている。
大衆は、単純なるが故に軍人が信じ切れず。複雑なるが故に、官僚や為政者を信じられない。





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