法と正義

法の正義にとって最大の脅威は、法の内部にある。
即ち、法曹界の人間や法を執行する者が、法を自分達の都合の良いように解釈する事である。
そうなると法は、単なる権力者が自分の欲望を実現するための手段道具になる。
そこには、正義など欠片もない。
あるのは、法曹界のエゴである。
法治国家に於いて法は道徳と同じ効能を発揮する。

法治国家に於いて法は道徳である。
法は国民のより所である。
法は、国民の権利を保護するものである。

法は、言葉によって表され、文字によって記録されている。
故に、法は論理である。
法は論理的整合性を重んじる。

しかし、法を実現しようと思ったら、言葉や論理に囚われている訳にはいかない。
法を解釈すれば、立法の精神が実現するわけではないからである。

言葉や論理は不完全なものである。
その証拠に、言葉や論理は絶対性を前提としていない。
言葉や論理は相対性を前提としている。
言葉や論理は、前提によってその解釈に違いが生じるのである。
故に、法は、検証を求めるのである。
法はそれ自体で完結しているわけではない。

法を成り立たせている前提や状況があるのである。
検証した事象の正当性は、手続きによって保障されている。

英米がコモンローによるのも言葉の不完全性にある。
コモンローの精神は、法を成り立たせている国民の暗黙の合意である。
その合意は、法の手続きによって裏付けられる。

故に、法は手続きによって成立している。

法治国家に於いて法の正当性は、手続きにある。
法は手続きである。

法治国家に於いてこの前提と検証と手続きを蔑ろにしたら、法の正義は失われる。

法曹界の人間に求められる倫理とは、個人の思想や道徳ではなく、この法に対する基本的姿勢に求められる。

問題なのは、法が司法によって実現するという現実によって単に裁判に勝つ事に法の正義か求められ、法が裁判に勝つという動機によって歪められる事である。
その時、法曹界は堕落するのである。
裁判に勝つという結果によって裁判をする動機や目的が歪められる。
それは本末転倒である。
如何に、それが崇高な思想や哲学に基づいていようと法治国家に於いては堕落です。
況や、その動機が自分の所得を増やす事や顧客に対する媚びる事にあったら、堕落と言うよりも法に対する冒涜です。

法を担う者は、断じて許してはならない事です。
法を単なる解釈にしてはならない。
そこに陪審制度の根拠がある。

国民国家に於いて法は正義です。
法は、権利の根拠であり、義務の源です。
国民国家に於いて法の信任が失われたとき、国民国家はその正当性を失い終焉のです。
その時、全体主義や独裁主義への道を開き、そして、破滅的な戦争への道へと国家が突き進んでいったのは、歴史が明らかにしています。

ただ裁判に勝ちたいが為だけに法曹界の人間が法の精神を曲げたら、その時、法の正義を失われるのです。







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