民主主義と軍



民主主義国では、民主主義を絶対視する傾向がある。
また、進化論と重なって、民主主義化は必然的な事象だと思い込んでいる。
故に、民主主義運動を陰で支えていさえすれば、世界は、必然的に民主化されると錯覚している。
しかし、民主主義は絶対ではない。
民主主義を実現するためには多くのハードル、障害を克服しなければならない。
その証拠に多くの民主化運動が挫折し、反動的な体制に取って代わられているのである。
民主主義自体も社会主義という全体主義の影に怯えていた時代がある。

現在、多くの国で民主化運動が起こり、革命も起きたのに、その多くの国で民主化運動は、頓挫し、或いは逆行している。

何が民主主義化を阻んでいるのか。それを見極めないかぎり、民主主義運動の限界を超える事はできない。
何はともあれ、民主主義者は、民主主義を自然の原理だと思い込んでいる事を止めるべきなのである。
民主主義は思想の産物であり、長い人類の歴史の中で極めて希有な体制なのである。
兎に角、民主主義を実現するのは甚だ難しいのである。

民主主義を実現するのを困難にしている最大な原因は、統制にある。

元々、自由を根本とし、国民の権利と義務の相互作用に信をおく体制である民主主義は、先ず骨格を形成する必要がある。ところが、国民の合意に基づく制度的な思想である民主主義を実現するためには、強力な統制がなければならない。
これが最大の矛盾なのである。強力な権力がなければ民主主義という体制は、確立しないが、民主主義者が最も嫌うのが強力な権力なのである。
特に、それは軍に対する考え方に端的に表れている。
要するに、軍事的統制を必要としながら、軍事的統制を最も嫌うのが自由主義者なのである。

民主主義というのは、制度的思想である。つまり、言語ではなく制度や仕組みによって表現される思想である。
この事は、民主主義の強味であり、又、弱味である。
民主主義の強味は、民主主義は制度や仕組みによって表現されるために、言語的制約を受けないという事である。個人の支配や言語的制約を受けないから、言論の自由や思想、信条の自由を実現し、又、維持する事ができるのである。
この事は民主主義の強味であり、弱味でもある。

君主主義や独裁主義、全体主義、宗教は、個人や思想への忠誠心を安直に求める事が可能である。個人崇拝や信仰による人々の熱狂によって組織や運動を維持する事ができる。
反面、何らかの思想や宗教に基づいて建設された国や体制は、言語的、或いは人的な制約を受ける。そして、異端者を赦さず排除しようとする。排除しようとするどころか抹殺しようとまでする。

民主主義体制というのは、一度確立されれば堅牢であり、ちょっとやそっとの事ではぐらついたりはしない。なぜならば、民主主義は、国民一人ひとりの意志を土台としているからである。
国民にとっては、民主主義の方が間違いが少ないのである。

民主主義に対する国民的な持続的熱狂と制度的な裏付けの二つがあって始めて民主主義は実現する。どちらか一つが欠けても民主主義は実現できないのである。
だから革命であり、建国の理念、憲法なのである。

民主主義体制で問題になるのは、建国にある。

民主主義は、憲法を土台とした法制度、司法、立法、行政と言った複雑な法体系の上に成り立っている。
故に、民主主義が確立されるためには、民主主義の前提となる制度が確立されていなければならない。
民主主義を確立するためには、民主主義を熱望する広範囲の国民の意思と民主主義を成立させるための制度的な土壌の二つがなければならない。

民主主義は混乱と伴にやってくるのである。

民主主義において重要なのは、革命期、建国初期における軍事的統制である。

民主主義国は革命によって建国されるのである。

体制や制度の骨格作りに手間取れば、反民主的な勢力によって革命の果実は摘み取られてしまう。

民主主義を覆すのは、独裁者か、軍か、全体主義、封建主義勢力である。
民主主義国をより確実にするためには、強力な権力が必要とされる。
しかし、強力な権力は容易に独裁勢力や集権的権力に変質をする。
そこが民主主義の難しいところである。

混乱の中で民主主義は体制の骨格を作り、諸々の制度が組み立てられなければならない。それが制度や仕組みによって表現する民主主義の弱点となる。

それは、大地震や火災の中で、新しい家を建設するくらい難しい事業なのである。

民主主義的な体制が確立される為には、一定の段階がある。
先ず第一段階としては、革命よる混沌、混乱状態から始まる。革命は破壊である。
その事を理解しておく必要がある。民主主義は平和的な手段で確立されるわけではなく。
多くの犠牲の上に形成されるのである。
自由は、血によって贖われる。
その混沌の中から人による支配の段階になる。
優れた指導者の力による支配である。
それが第二段階である。この段階は独裁や恐怖政治に変質する危険性がある。
第三段階は組織による支配である。組織的段階では命令が力を発揮する。
組織的段階では、軍が台頭する危険性がある。軍による軍事独裁が民主主義体制に取って代わる事がある。
第四段階は制度による支配である。制度では手続きが力を持つ。民主主義の手続きの体制であり、手続きによって正当性が保証されるようになる。この段階では全体主義が台頭してくる事がある。
最終的段階で法による支配が確立する。
法による支配とは、合意に基づく契約による支配である。
これらの段階を経て民主主義体制は確立されるのであり、極めて、困難な体制である事を忘れてはならない。

民主主義が成立するためには、法治主義、立憲主義のような制度が予め確立されている必要がある。
なぜならば、革命直後の無秩序を抑制するのは、法的な枠組みだからである。
制度的な枠組みが確立されていなければ、民主主義は容易に無政府主義にとって代わられる。

人間は危機に瀕した時、精神的な拠り所を必要とする。
何ものも信じられない、寄る辺ない状況に陥った場合、組織に忠誠を誓った方がいざという時に踏ん張りがきく。
その時、民主主義は間違いがない。しかし、民主主義という思想が統一する事を拒むのである。

偏向的な思想や宗教に依ると言論の自由や思想信条の自由は守られない。
個人の自由も侵される。

民主主義は仕組みや制度によって表現された思想であるが、その下敷きとなった思想がないわけではない。
それはキリスト教である。
キリスト教の何が民主主義を育んだかというと、第一に、一神教であるという点であり、第二に、懺悔である。第三に契約主義である。

一番重要な事は、唯一の絶対的存在、超越的存在を前提としているかどうかである。

なぜ、東洋において長い歴史の中で民主主義という体制が育まれなかったのか。
それは多分に環境や状況による違いがあると考えられる。構造的な問題なのかもしれない。
東洋にも天という思想があるが、天が唯一絶対化というと疑問である。
統一された絶対者に支配された世界を前提としているかどうかが、民主的体制を構築する上で、決定的な働きをしているのである。

又、キリスト教化される以前のギリシアやローマにも民主主義の萌芽は見られる。
世襲化される以前はむしろ民主的体制の方が自然だったのかもしれない。

むろん、民主主義的な体制は欧米だけにあったわけではない。アメリカインディアンには、民主的な体制がなかったわけではないし、文明化されていない地域では、民主的に運営されている部族もある。
しかし、それが欧米において思想として確立された背景としては、多分に、欧米の持つ歴史的な背景と一神教によると考えられる。
それは、世俗的権力は絶対的な存在ではなく、相対的な事に過ぎない。
世俗的な権力を超えたところに絶対的で唯一の存在が君臨していると言う意識が民主主義を、そして、自由主義を成り立たせたのである。その意識によって人による支配というドグマを克服し、真理や法による支配を可能たらしめたのである。

それ以前の体制は、人と神との区分が不明確なままに、世俗的権力は形成されていたし、又、現代でも権力者を神格化する傾向は捨て切れていない。
神を否定する権力者は、自らを神とする。

何よりも世俗的権力と宗教的権力の分離と言う事は民主主義を確立するための重大な要因の一つである。

民主主義を実現するためには、国家制度の設計者と立法者、行政官、軍人の役割分担が重要なのである。つまり、本来、民主主義は、構造的な体制なのである。

世俗的権力に求められるのは分別である。
それに対して神は無分別な存在である。
故に、法を基礎とした体制にせざるを得ないのである。
世俗的権力を超越した存在、絶対的権威を認めた事で、法が民主主義の礎となったのである。
しかし、その場合、神は無分別でなければならない。
神の事は神へ。人の事は人へ。





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