人の苦しみ


人の苦しみって何なんでしょうね。
心の奥底でうずくような苦しみって。
もう自分も還暦を過ぎて、同世代の連中は定年の年を迎える。
これから定年を迎える人の中には、合併したり、倒産したりして、若い頃に自分達が思い描いてきた会社とはまるで違った会社に変質をして。
まるでそれまでの人生を否定されるかの仕打ちを受けいる者もいる。
定年を迎えた途端に女房に三行半を突きつけられた者もいると聞く。
あくせくと真面目に働いたその挙げ句に・・・。
会社は誰のものかって、株主だの、社員のものだのそんな事は同でも良い事なのだ。
会社で働いている者にとって会社は現実であって生活している場なのだ。
人生があるのだ。
その事を忘れて議論したところで虚しいだけじゃないか。
俺たちは仲間なのさ。
会社に帰って自分の会社の働く仲間達と話をしたんですね。
皆が幸せになれる会社ってどんな会社かなって。
受け身じゃあ駄目だよね。
この会社をどうしたいのかと。
自分で積極的に働きかけなければ嘘だよと。
皆、家族のことや仕事のことで苦しみや悲しみを背負っている。
そう言った事を皆で話し合って解決できるような会社にしたいねって。
だから、もっと積極的に前向きに、自分達の苦しみに対して克服するよう努力しないと。
10年、20年先、ここにいる皆が後悔しないような会社にしたいねって。
新入社員には入社したての時言うのです。
学校は、一方通行だけど、会社は双方向なんだ。
学校は、自分達の力では帰られないけれど、会社は、変えようと思えば変えられる。
だから、自分達がどんな会社にしたいのか、一緒に考えていこうよと。
不思議なものですね。息子がカナダへ行って、忘れない日は1日たりともない。
子供は、日に日に自分のことは忘れていくでしょうに。
自分は、野垂れ死にを覚悟でこの国の為に働きたいと思っている勉強しているのですが、未練なのでしょうね。
でも、絶対に戦争は起こしてはならない。
その為には、何とか経済をよくしないと・・・。
社員一人ひとりが幸せになれる会社にしなければ、毎日毎日、考え抜いています。
働いている者達が報われない会社なんて意味ないですよ。
一生懸命皆と働いて、それで駄目になるのだとしたら、仕方ないじゃないですか。
皆が守ろうとするなら、会社なんて簡単に潰れはしませんよ。
皆がもういいやって思い始めたら、本当に危うくなってしまう。

生きるという事はそういう事でしょ。
子供のこと片時も忘れませんよ。哀しいほどに・・・。
でも幸せじゃあないですか。
共に生きる仲間がいれば・・・。

学生時代、多くの仲間がいろいろな悩み事や相談に来るようになったんですね。
まるで人生相談役みたいになって。中には切迫したような奴もいましたけれどね。丁度学園紛争が終焉した時で・・・。
僕は、腹が立っていたんですね。
そりゃあ自分の思想信条で行動する奴はいいが、何の考えもない奴を洗脳するような形で何の考えもない奴を無理矢理引き込むなって。
人各々人生があってその中でいろいろな問題にぶつかり、自分の意志で生きているのです。その意思を尊重できなければ、思想も信条も最初から成り立たない。
だから、学生時代は青春を謳歌させてやろうと思っていろんな事をしました。それでいろんな奴が僕の処に来るようになったんだと思います。
皆、それぞれいろいろな事情があって悩み苦しみあがき藻掻いていました。
結局、自分は話を聞いてやるくらいで何もできなかった。でも皆救われ癒やされたと言ってくれるんです。僕は、自分の無力さを痛感させられましたね。
皆に寄り添うことぐらいしか出来ないなと思ったんです。
その時気がついたのです。
神は、いつも自分の傍に寄り添っていてくれた。僕は、その時、神の気配を感じたのかもしれません。
そして、他人を救うなんて傲慢だと思ったんです。人を救えるのは神のみだと気がついたんです。それで自分少し救われました。
他人を許すことは、難しい。それ以上に難しいのは、自分を許すことだと思うのです。
私の信じる神は、赦す神なのです。神の本質は愛なのです。
ただ許すと言っても本心から悔い改めればと言う前提つきですけれど、ただ外面だけ悔い改めたって赦されない。と言うより、自分が赦さない。だから、神に赦される為には、本心から神に赦しを請い、悔い改める必要があるのです。

末期癌のお客様が今して、最近、告白してくれたんですね。
まるで、風邪でも引いたような話し振りで立派だなと感心します。
自分は、何もできない。出来ないどころか、お金の話をしなければならない。この世の中って所詮金なんですね。金がなければ生活が成り立たない。でも生きる真実というのは金じゃあない。だから、直接金の話をしなければならない支店長とその部下に自分一人で解決しては駄目だよと注意しておきました。
思い通りにならない現実とどう折り合いを付けさせるか痛みを分かち合える経営者になりたいと思っています。
イスラム教の人間を残忍で、残虐で冷酷だと言いますが、イスラムだけが残虐で残忍なわけではありません。宗教や思想というのは残忍で残酷な所を持っているものです。共産主義だって残忍です。イスラムの人間も神と対峙しているのだと思います。だからといって神が残忍なわけではありません。残忍で冷酷なのは人の心です。

私は、自分の信仰を他人に強要する気はありません。信仰は、自分が目覚めなければ意味がない。他人に強要されても真の信仰にはならない。似非神にしかならない。
心から救われたいと思ったら神に縋るしかないのです。

私は、仏教徒ですけれど私の言う神は、別の次元の存在ですね。神とは、一対一の関係しかなく、私と神との間には何人もどんな教義も入らない。だから平等なんです。どんな神を信じるかによって争うなんて愚かなことです。それは人事のことで神事ではない。
人は、死ぬ時、ただ一人裸で神の前に立たされるのだと思います。神は無言で多々見つめているだけなのだと思います。だから、誤魔化すことも欺くことも出来ない。自分を騙すことも欺くことも出来ないからです。
神は、暗闇の中のかすかな光なんです。その光があるから救われるのです。
私は、今でも父や母や家内や息子を愛しています。それが光なのです。相手がどうあろうとその光を信じて生きていく以外に救いはないのです。






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