憲法改正について
渡辺望氏の著作を読んで


ずっと疑問に思っていたのは、なぜ、真珠湾を攻撃する必要があったのか。どの様な戦略で真珠湾を攻撃したかである。それは、大東亜戦争を仕掛けた人間は、本当に勝つ意志、勝算があって戦い抜いたのかという事でもある。
勝つ意志があるのならば別の選択肢があった気がする。そして、それが日露戦争との決定的な差である。
日露戦争を戦い抜いた軍人や政治家は、徹底した現実主義者だったのに、昭和の軍人は観念論的でありすぎる。日露戦争の軍人は単純に勝つ事を考えていた様に見えるのに、昭和の軍人は、何の勝算もないままに、自分の美学に酔い痴れていた。
勝つ意志が、あったならば真珠湾攻撃は、どの様な戦略、どの様な構想で敢行されたのか甚だ疑問なのである。その後の戦役を見ると真珠湾というのは、アメリカを本気にさせたという意外に、象徴的な意味合いしかない。真珠湾を攻撃した後の、戦略的な文脈がみえないのである。後がない。
山本五十六は、昭和の日本海海戦をしたかったのかもしれない。その前哨戦としての旅順攻撃に擬されるたのが真珠湾攻撃なのかもしれない。

何の構想も戦略もないから場当たり的で刹那的になり、華々しく散れば良いと言った特攻精神みたいに事を産み出す。
それは、自爆テロの論理とは違う。自爆テロは、実体はどうあれ、信仰に拠り所がある。だから軍人以外でも自爆テロを行う。テロを正当化しはしない。しかし、テロ以上に目的が解らないのである。命を戦争の手段として弄ぶのはどちらにしろ醜悪である。

アメリカやロシア、中国は超大国でドイツ、フランス、イギリスは、先進国なので日本は小国で後進国だと言う決めつけや思い込みがある。特に、戦後の日本人は、よくこんな弱小国が無謀にも超大国のアメリカやイギリスと言った連合国に戦争を挑んだという思いがある。それは戦後の日本人には卑屈なほど染みついている。それが非武装というところまで及んでいる。非武装は、思想でも何でもない。ある意味で植民地の発想である。どんな弱小の生き物でも自分を守る術は持っている。それを最初から放棄し、自分を当事者であることを頭から消し去ってしまっている。
そして、自分を歴史の文脈の外に置こうとしている。ここでいう歴史の文脈とは、いかにして国は作られたかという事実である。

歴史歴史と国家の正当性を歴史に求めるのは不毛な事である。

近代国家の正当性は、建国の理念に求めるべきなのであり、強いて歴史を評価するというなら、建国の理念に照らして為されなければならない。歴史というならば侵略の歴史を持たない国はない。建国というのは、権謀術数を尽くした血生臭い事件なのである。
それを賢人や哲人が集まって公正無私に話し合って国を作ったなどと言う神話を信じているのは、世間知らずのお人好しの日本人くらいなものである。

今の日本人に対する評価は、殆どが後付けなのである。

だからこそ、日本人は憲法改正と言った議論ですら右翼か、左翼かと言った卑小な形でしかできない。

日本は小国なのだと自国を卑下して自分達の行為を正当化するのは辞めるべきである。それは、現代の日本にもある気がする。日本人は、単に、国防問題を国内の問題だと片付けようとしているが、日本の国防問題は、日本だけの問題では片付かないのである。

人口一つとっても日本は、1950年には、中国、インド、アメリカ、ロシアに次ぐ第五位であり、決して弱小国ではない。ドイツ、フランスよりも人口においては上であり、又、歴史的に見ても遜色はない。
日本は、極東の小国というのは、擦り込まれてきたのである。

是非は別にしても軍人のように勝ち負けで物事を判断する人達がいるという事実を日本人は忘れている。そして、世界の大勢には、彼等の意向が強く働いているのである。

戦後の日本人は、普遍的存在に戦争責任の根拠を求めようとするが、一神教徒ではない日本人には土台無理がある。その無理が憲法論争にも影を落としている。
何を根拠として憲法を論じるのか。それを歴史に求めるのは愚かである。

日本人は、日本が自由主義国で民主主義国である事を自明な事だと思い込んでいるようだが、他国からみて日本が自由主義国で民主主義国だというのは自明な事ではない。
日本人は、戦後、憲法を論じる時、だれも自由や民主主義について語らず。血も流していないのである。戦後の日本人にとって自由も民主主義もあたかも神の摂理の如く自明で絶対的な事なのである。それでありながら、誰も自由や民主主義の為に戦おうとはしていない。

信じてもいない普遍的な何ものかを前提とし、あたかもそれを自明な事として憲法だの歴史を語り合うから議論が噛み合わなくなるのである。
だから、言論の自由に対する本質的な議論抜きに、言論の自由を盾にする。
それは建国の理念抜きに憲法を議論するような事にも現れる。
そのおかしさに誰も気がついていない。

どんな国の憲法も憲法は、暴力的に作られたのである。憲法を論じる時、だからこそ、暴力を封じ込める必要があるのである。
特に、近代化国民国家は、民衆の蜂起、革命によって成就したのである。

平和主義や人道主義、無抵抗主義だけで、民主主義国家は実現したわけではない。近年、過激派や狂信者、独裁者、軍隊の前に、民主主義運動が頓挫するのは、運動を主導する者が理想主義的幻想に囚われるからである。
もし志があるのならば、志の為に武装しなければならない。我々は、サムライの末裔なのである。
命がけで節操を守る覚悟なければ自由など手に入れる事はできない。
戦う事を怖れる者に、理想は実現できない。

現実を直視しなければ、民主主義なんて実現できない。
良識だけで革命は成し遂げられたわけではない。
革命を成し遂げるのは、民衆の狂気である。
だからこそ、革命の指導者には現実を見通す洞察力と統率力が求められるのである。

宗教に幻想を抱くのは、愚かである。宗教にだって闇の部分はある。
陰謀も政略も本来宗教から発生したのである。さもなければ、政治はいかがわしいを拭い浄める事はできない。神のみが人の罪を赦す事が出来るのである。

あたかも日本人には、日本人というイデアがあって、それを暗黙の前提としているかの如く見える。
ユダヤと同じように流民となった時、よりそれが鮮明となるのかもしれない。

日本人は国の為にと言う方が神の為にと言うより余程現実感がある。普遍的な何ものかとは神より日本人にとって国なのかもしれない。
しかし、それは日本人だけに実体があって日本人以外には実体のないつかみ所がない存在である。

憲法改正も自分達が何を国是とすべきなのかと言う議論を抜きに第九条ばかりを取り上げるから他国から誤解を招く。他の国から見て何を言っているのか理解できないのである。
自分達が軍国主義を国是とするのか、立憲君主主義を国是とするのか、民主主義を国是とするのか、それとも社会主義を国是とするのか、それぞれの陣営が明らかにしないかぎり、本質的な議論はできない。
押しつけられたというのならば尚更の事である。
何を自分達が護ろうとしているのかを明らかにしないで国防を論じた所で虚しいばかりである。



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