歴史から何を学ぶのか


歴史歴史と言うけれど、一番肝心なのは、歴史から何を学ぶかである。

歴史を政治や外交に利用することは、歴史から何も学んでいない事をかえって露呈させている。
歴史を政治や外交に利用し、国民感情を無用にあおる事がいかに危険な事か、それを理解しない者は、歴史から何も学んでいないのである。

歴史は、事実だとは限らない。過去の出来事ほど不確かな事はないのである。未来はこれから起きるから確かめようがある。しかし、過去の出来事は、時間を遡る事ができないから人々の曖昧な記憶に頼るしかない。
そして、人々の記憶は、人々の感情や思い込みと言った主観に左右されるのである。記憶を操作する事は用意であり、なかった事を差も現実であったようにする変える事は容易いのである。
歴史は、過去の痕跡を辿っているのに過ぎない。

歴史は動かしがたい真実、事実だと教えるのは甚だ危険な事である。
憎しみや恨みを民族の記憶に確かに事実として植え込んで言ってしまう。

歴史から何を学ぶのか。人間の愚かしさこそまず学ぶべきなのである。

日本の従軍慰安婦問題に関しても、何が真の問題なのかに対する洞察抜きには語れない。
軍が関与したか、国が関与したかが問題なのではない。
どちらにしても女性が売買の対象とされたという事実は捨てられない。
謝れ謝れとひたすらに相手の非を責める事が目的なのか。
おまえだってやっているではないかと責める事が問題の解決となるのか。

そんな事を言い出したらきりがなくなる。奴隷制度だって、戦争だって、売春だって日本だけの問題ではない。過去の事を言い出したらやましい事のない国などどこにもない。大体、戦争や他国侵略は悪いとされだしたのは近年なのである。未だに、他国に対する侵略や干渉を悪い事だと思っていない国は存在するのである。

戦争によって一番被害を受けるのは、女性や子供という弱者であり、その恨みは子々孫々残るというそれが事実なのである。

ならば歴史から何を学ぶべきなのか。
それは戦争の愚かしさであり。ただ相手の非ばかりを上げへつらう事は、次の戦争を準備する事に他ならない事を学ぶべきなのである。

たった一発の爆弾で二十万人の無辜の命が奪われた。

そのことから人間は何を学ぶべきなのかである。

一方で、核の脅威を学び、核兵器を所有する事を学んだ者と核兵器の愚かしさを学んだ者とではその後の道はまったく正反対なものになるのである。

二度とこの様な過ちを繰り返さないという誓いは誰に向けて誰の誓いなのか。原爆を落とした者の誓いなのか、落とされた者の誓いなのか。
原爆を落とされた者の近いというならば、もう二度と逆らわないという誓いなのか。
それとも戦争を起こさせないという誓いなのか。

原爆を落とした者は、原爆があるから抑止力が働き戦争にならないのだと主張する者もいる。

それぞれが歴史から学び、我こそが歴史の真実を理解していると主張しているのである。

ただ歴史を動かしがたい真実だと言って教えることは、単に一つの歴史に対する見方を押しつけているのに過ぎない。
歴史から何を学ぶかを問うならば、自分達がそれぞれの立場で一つの事実をどの様に解釈しているかを問うべきなのである。正直言った答えはない。少なくとも答えは一つではないのである。

歴史を自分達で独善的に解釈し、それで政治や外交の目的を成就するために押し通そうとしているのに過ぎない。歴史を正しく理解する目的ではなく、自分達の主張を押し通すために歴史を利用しているのに過ぎない。
それでは、最初から歴史を正しく理解しようという意志は感じられない。

孔子も、司馬遷も、中国の歴史に学び。
マキャヴェリも、ルソーも、ギリシャ・ローマ史に学んだ。
彼等は歴史から何を学ぼうとしたのか。
彼等が歴史から学ぶ取ろうとしたのは、人間の普遍的な真理である。





                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2015.7.6.Keiichirou Koyano