憲法は絶対ではない



憲法を誰が絶対としたのだろう。
憲法は絶対ではない。
その点を日本人は正しく理解すべきであるし、又、教えるべきなのである。

憲法は、絶対ではない。
絶対ではないから、憲法を守るにせよ、憲法を変えるにせよ、憲法のどこが問題なのか、或いは、憲法のどの点、どの部分を守るべきかの議論がなりたつ。
それに対して憲法を絶対視したら、憲法は絶対だから変えられないと言う論法になってしまう。これでは憲法を聖典化してしまうことになる。

こうなると法学的論議と言うより神学的論議になってしまう。
憲法は絶対だから正しいという主張である。

日本人の憲法に対する議論がどこかかみ合わないのは、憲法を絶対視していることに由来しているように思える。
だから、憲法論議の争点が見えてこないのである。

つまり、憲法はなぜ必要とされるのか、憲法の目的はそもそもなんなのかの議論がされずに、憲法ありきという前提で議論が進められていることである。

憲法を暗黙に絶対視している人種に日本の法学者が多く含まれている。

だから、違憲合法論なる珍妙な意見を言う法学者や政治家が現れてくるのである。
違憲合法など認めたら憲法は有名無実化してしまう。
憲法の働きそのものを最初から否定することになるからである。
重要なのは憲法の正当性に他ならない。

憲法は絶対ではない。
だから、憲法を成り立たせている前提が重要になるのである。

日本国憲法を成立させるための前提は、滑稽なほどナイーブである。

(日本国憲法 全文抜粋)
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

以上が日本国憲法の前文の抜粋である。前文とは、前提である。
日本が国家を成立させる為の前提は、日本以外の国は、平和的であり、公正で信義を守ると言う事を前提としているように読み取れる。つまり、太平洋戦争は、日本人が侵略主義的で好戦的だから起きたのであって日本人が心を改めれて武装を放棄すれば、世界は平和になると言う事を前提としている。これは理想と言うよりもあまりにも偏向している。
太平洋戦争の原因は、一方的に日本人にあったとしそれを前提として憲法を定めるのはあまりにも短絡的である。
それでは真の戦争の原因を明らかにしたとは言えない。

自分以外の人間は全て善良であって、自分だけが悪いのだから、自分さえ考えや態度を改めれば、世の中は丸く治まると言っているようなものである。
それはあまりにも卑屈な考え方であるし、本当の平和を実現しようとも思えない。まじめに世の中を平和にしようとしているとは思えない。不真面目である。

憲法の前提は、観念ではない。現実でなければならない。
現実に対する厳格な認識に基づくものでなければならない。
憲法は、宗教的熱情を前提としたものであってはならない。

自分を除く全ての人類は、善良だとするのは、理想とか、信条とか言うレベルをも超えた一種の宗教的熱情に基づいた信仰に近い。

第二バチカン公会議で発布された「現代世界憲章」には次のように記載されている。
戦争の危険が存在し、しかも、十分な力と権限を持つ国際的な権威が存在しない間は、平和的解決のあらゆる手段を尽くした上でならば、政府の正当防衛の権利を否定できないであろう。国家の元首ならびに国政の責任に参与する者は自分に託された国民の安全を守り、この重大事項を慎重に取り扱う義務がある。

平和を重んじる教会も憲章の前提は、極めて現実的である。

大切なのは、事実を如何に直視するかであって、理想によって幻想を現実だと履き違える事ではない。冷徹に現実を直視できない者は、不当に国民の安全を脅かす事となる。無防備で野生の狼の前に立ち食い殺されたとしても狼が悪いのではない。ただ裸で野生の狼の前に立った者が愚かなだけなのである。その場合、狼がその者を生かしたか、殺したかの問題とは又違う。狼に殺人を犯させたくなければ、その様な無謀な行為は戒める事である。

憲法の前提は、建国の理念である。建国の理念である以上、何を基礎として国家は作られるのか。また、国家とは何かを制度的、又、手続きによって定義した成文法が憲法である。
故に、憲法の正当性は、手続きによって保証されているのである。
故に、憲法の制定手続きに瑕疵があれば、憲法の正当性は、失われる。

つまり、憲法の制定、改廃手続きが憲法の基盤を制約しているのである。
故に、立憲主義国家を手続きによる国家とする由縁が憲法の正当性を手続きが担保しているからである。

更に、憲法の正当性は、主権者の定義、誰を主体とするかによってもいる。なぜならば、主権者こそ憲法制定の主体と見なされるからである。つまり、当該憲法が規定する主権者が正統的手続きに基づいて制定された憲法のみが、正当とみなされるのである。

主権者でない者が、正統的手続きに基づかずに制定した憲法は正当性に欠けている。
憲法は、主権者が正統的手続きに基づいて国家、国民の定義をしていく過程において検証されるのである。

憲法の正当性は、誰によってどの様な目的で制定されたかにかかる。
その点に関する検証抜きには憲法の正当性は評価できない。

日本人は、単一民族で、歴史、文化を長いこと共有してきた。
それ故に、日本人社会は、高度の暗黙的合意(コンセンサス)を前提としている傾向がある。日本人は、男は黙ってとか、以心伝心、言われなくても解るという風になる。
言うなれば、日本人固有の決めつけである。
しかし、それは日本人同士の間でしか通用しないのだと言う事に気がつかない。

その典型が暴力はよくないという概念である。
故に、一部のアメリカ人に銃の所有は権利だと主張されても理解できないのである。
また、一神教的神を前提としている人々の考えが理解できず。科学者は、全て無神論者だなんて思い込んでいたり、決めつけている人がいるのである。
暴力はよくないというと非暴力主義を絶対化し、また、人類全ての人は暴力を否定していると拡大解釈して敷衍化してしまう。

それは、世間一般の人は、良識人であり、更に進んで、世の中全ての人間は善人であり、暴力に反対していると結論づけてしまう。それが個人的な信条のうちは良いが、普遍的なこととして、世の中全ての人間は、善人なのだから、警察をなくせとなると問題が生じる。
世の中の人間全てが善人なのだからといって警察をなくせば、暴力的で、暴力に支配された社会にならざるを得ない。

この地上から軍隊が一斉に消滅するという幻想を抱くのは非現実的と言うより愚かである。
なぜならば、その様な世界こそ暴力によって支配されるからである。
そして、軍隊というのは、その性格上、戦闘集団なのである。この点を忘れてはならない。
攻撃的であろうと、防御的であろうと軍人には軍人独自の論理がある。
良い意味でも悪い意味でも軍人は暴力的なのである。
現代の日本人の議論で欠けているのは、軍人の論理である。
軍人は、勝つ事とを至上目的としている。軍人は勝たなければならないのである。
日本人の考え方の特殊性は、戦争の末期には、勝つ事を期待できない状態で戦わざるをえなかったという事である。その事がありもしない幻想を抱かせる事になった。
少なくとも戦争に負けるまでは、日本人の大多数は、非暴力主義者ではなかった。ではなぜ、戦後の日本人は、キリストやガンディーまでも驚くような非暴力主義者になったのか。それは戦争に負けたからである。
忘れてはならないのは、如何なる国家も建国は暴力的に為されたと言う事である。そして、今も国際関係は力によって維持されているというのが事実である。民主主義国だって例外ではない。それは、キリスト教の総本山ですら前提として認めているのである。
一億総玉砕という前提がなければ非武装と中立なる思想は成り立たない。これも又極端な思想である。

物事を決めつけている人の多くは、他人の意見を尊重しなさいと言う言葉を金科玉条のごとく信奉している。
しかし、その前提として自分の意見も信念を持った上でという文節が欠落している。だから、他人の意見を尊重し、相手の意見を聞くことと言う事が、自分の意見を確立し、自分の考えを相手に説明した上でという部分がなくり、主体性を喪失するのである。

その結果、相手と自分の意見を交換することができなくなり、自分の主体性をも失うのである。

絶対的な規範を相手の意志に関係なく植え付けて自分達で自国の根本的な要件を決められないようにするのは、国家の主権、すなわち、独立を守れないようにする事であり、それは典型的な植民地政策なのである。そして、それを裏付ける隷属化教育である。つまり、国家の無力化なのである。
真の民主主義教育は、自国の問題は自国民によって決められるようにする事である。今日の中東に対する民主化失敗の最大の原因は、自国民で自国のことが解決できる状況、環境を準備しておかなかったことに起因している。

憲法は、絶対ではない。憲法を考える時、重要なのは、憲法の働きを知ることである。なぜ、憲法は必要とされ、どの様な働きを憲法に期待しているかを明らかにした上で、憲法の歴史を明らかにしなければ、憲法の正当性を評価することはできないのである。

その上で、護憲か改憲かの議論が成り立つのである。
最初に憲法を絶対視したら憲法に関してまともな議論なんてなりたたないのである。

今の憲法論議は、憲法九条ばかりを問題にして、そもそも憲法とは何か、憲法の働きとは何かという憲法の存立基盤抜きに進められているように思えてならない。
議論を成立させるための前提である憲法そのものの存在意義など最初から議論になっていないのである。
憲法は、憲法である故に自明な事と言っているようなものである。



僕は、文学が前進する決定的な要素は、その時代その時代が生み出す、あるいは醸し出す、思想や哲学ですね。
ですから夏目や芥川がいいという気はないんです。
夏目の文学は、明治という時代背景とその哲学息吹ですね。
ただ今の時代、というより戦後は、借り物の思想だった気がするのです。自分達の手で、自分達の文化伝統から生み出してきた物とは違う。
ちょんまげの上に背広を着ているような珍妙さがある気がするんです。

今の日本国憲法にも、違和感がある。
民主主義とか、自由と言ったところで、自分達の血で勝ち取ったものではない。所詮、与えられたものである。
その反動でか、我々の一世代前の先輩は、反体制、反権威と左翼運動に没頭した。一頃、左でなければ知識人ではないみたいな風潮があって右翼的な言動をとるとまるで前世紀の遺物のような目で見られた。
別に、民族主義だの国粋主義、軍国主義でなくても愛国心などと言うとつまはじきにされたものである。
彼等には、国歌とか、国旗とか、愛国心という言葉を嫌悪していた気がする。若者の反乱はある種熱病のように全世界に拡散した。
その果てにあるのが反戦であり、平和主義である。
だが、当時の平和主義は、非暴力というのとは違う意味合いがある。
それは、反戦であり、反ベトナム戦争であり、反米の意図が隠されていたからである。反戦と言いながら、活動家達は極めて戦闘的だった。
だから今にして思えば滑稽さなのである。
言っている事とやっている事が裏腹なのである。
暴力を一見否定しているように見えながらやっている事は暴力的なのである。反権威と言ったところで内実は、権威主義が横行していた。
ただ、彼等が権威としたのは反権威主義者だと言う事にすぎないのである。






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