なぜ、文章を書くのか


私は、自分の文章でお金を儲けたいとか、名を残したいとか、有名になりたいとか、何か賞の様のようなものを得たいとか、後世に何かを残そうなんて思いはさらさらないですね。
頭からあふれ出る言葉をすくい取って整理している。整理しなければ、混乱して何も判断できなくなるからもっぱら文章を書き留めているにすぎない。
自分の文章を市場に出して売る気もないし、公開して名を売る気もない。
今の世の中金にならない文章は無価値。だから、自分の文章は今の世の中では無価値かもしれない。でもそんなことはどうでも良い事です。
最初から貨幣価値のある文章なんて書く気はないのですから。
そんなことで財を築いたり、有名になろうなんて最初から封印してしまったのです。
自分にとっては文章を書くのも本を読むのも食事して、糞して、寝るのと何ら変わりはない日常的な事です。
だから自由自在に文章が書ける。何ものにも囚われる必要がないのですからね。
ただたまたま、こんにちはインターネットが発達してそれをプログに載せることができた。
そうでなければ僕の文も誰にも目に触れずに消え去ってしまったでしょうね。
幸か不幸か現代社会でインターネットが発達してそれなりに文章を公開することができる。
何のために文章を書くのか。
それはきっと純粋に何かを極めたいからでしょう。言い換えれば自分の限界や真実を知りたいという思いですね。
ピタゴラスだって、コペルニクスだって、ガリレオだって、ガロアだって、真理を究めたいという衝動に駆られ続けたのだと思います。
どんな迫害を受けてもですね。
坂本龍馬だって、吉田松陰だって、イエスだって、ソクラテスだって、後世の人間が、やれ英雄の、聖人のもて囃したところで野良犬のように殺されたのですから。
彼等が現世利益ばかりを追い求めていたとは思えないですね。

釈迦や、孔子の一生だって今は幻でしかない。確かめようのない歴史の彼方にある。
砂時計の中でこぼれ落ちる砂のように時は過ぎ去っていく。
彼等が何を語り、何を伝えたかったのか。真実なんて確かめようがないのです。

泡のように生まれ、泡のように消えていく。

人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

死のうは一定。

今を精一杯生きるしかない。だから、ひねり出しように文章を書くのです。

文章によって自分の何かを残そうなんて虚しいことです。
何かが残るとしたら、読む人の思いを触発する気配のようなものですね。

何が自分を駆り立てそうするかなんて誰にも解りませんよ。
考えるだけ無駄です。
結局何者かに突き動かされて生きていくしかない。

ブッタが出家したのも、苦行を止めたのも。
又、彼が何を伝えようとしたのかも。
今となっては確かめようもない。

大切なのは、何を為すかではなくてどう生きるかです。
また、人がどう思うかではなくて、自分が何を信じるかですね。
今なにを思い。どう生きようとしているかですよ。

何のために、文章を書くのか。
文章は他人に読んでもらう事だけを目的として書かれるものではないと私は、思う。
つぶやきやぼやき、独り言を書いたって良いではないか。
自分の思いのつてをただあてもなく書く文章があっても良いと私は思う。




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