近代になって一番疎まれた徳目は、礼かもしれない。

礼は、序列を明らかにし、階級秩序を固定する働きがある。
しかし、それは、礼に問題があるのではなく。その根本にある思想が問題なのである。

礼には、封建主義的な礼もあれば、民主主義的な礼もある。

礼は根底にある思想によって変わる。
礼は、思想を実体化し、顕在化させる。
共産主義国を見ればわかるが、いくら民主主義を装っても礼が絶対主義的、封建的であれば、実態は、絶対主義体制であり、封建主義体制である。

かつては、礼儀知らずと言われるのは恥とされた。今は破廉恥な人間ほど持て囃される。

礼が廃れれば秩序が乱れる。

礼が廃れると礼に変わって法に重きが置かれるようになる。
礼が守られなくなれば、法でもって取り締まるようになる。
それは世の習いである。
しかし、賢者が礼を定め、愚者は礼に囚われるといいます。

些細な事でも礼儀に反すれば相手を怒らせるが、礼に基づけば、かなり厳しい意見でも許される。

かつて報告は礼儀だとされた。
なぜならば、礼だと言われれば報告を怠る事は恥だと感じたからである。
礼が廃れた今は、礼儀だと言われると報告を怠るようになる。礼は守る必要がないと教え込まれているからである。
だから、報告を規則だとした。今度は、その規則を破ろうとする。
規則に縛られるのは不自由だというのである。
しかし、規則を失くしたら本質的に自由を失ってしまう事に気づいていない。

我々は、基本は礼儀だと言われてきた。
礼に始まり、礼に終わると。
そり礼をやれ形式的、儀礼的、封建的だと否定し、壊してしまった。
基本を壊しておいて、基本ができていないとは言えないだろう。
礼を否定していながら、礼儀知らずだと誹るのはお門違いである。

礼も、基本も上から崩れるのであり、上の者が礼や基本を守らなくなったら、不祥事を正す事はできなくなる。

報告は、責任があるとされるようになった。
故に、報告責任が生じる。

法の根本は、善悪である。礼の根本は、美醜である。
法の精神は、正義であり、礼の精神は、忠恕である。

何を重んじるかによって礼は定まる。

神への礼。徳への礼。権力者への礼。能力への礼。位に対する礼。富への礼。恩義への礼。功績に対する礼。仕事への礼。友への礼。同胞に対する礼。客への礼。上司への礼。部下への礼。
何を重んじるのか。それは礼によって明らかにされる。礼はあからさまであり隠しようがない。

権力者に礼を払えば権力者に対する隷属を意味し、金に礼を払えば、金の亡者となるのである。
それは礼の問題ではなく。何に対して礼をとるかの問題である。何を重んじているのかの問題である。
礼を払うべき相手を間違えば、礼をとった相手に囚われるのである。
礼は、逆に自分を自由にもしてくれる。
徳に対して礼を払えば、徳を高める事にもなる。友をに礼をとることは、友誼、信義を重んじる事になる。親に礼をとることは、孝心を高める事となる。
神に礼をとることは、聖を崇拝する事を意味する。

礼は、自分の立場をも明らかにする。礼は立場を定める。
師への礼。年長者への礼。指導者への礼。商売人の礼。職人の礼。社会人としての礼。指導者としての礼。

一番の問題は、決断力のなさ。
決めるべき時に決めるべき人間が決めるべき事を決めない。あるいは決められない。
それがすべて。
後で決めますというのは、逃げ。
今決めるべきことを決められない者が、後で決められる保証はない。決められない事は、決められない理由がある。
その時、何を決めなければならないのか、見極めるのが決め手。基本は、その時に決められる事を決める。
決めるというのは、決して断じる事。すなわち、気合の問題。
決して断じる事ができなければ、冷静さを失い、感情的にもなる。
決断すべき時は、決定権者に求められるのは、明鏡止水の心境。平常心である。
周囲の者は、決定権者の心を乱さないよう配慮すべきなのである。
ただ、決定権者は逃げてはいけない。

何か、問題が生じた場合、また、問題が明らかになった場合、決定権者は、速やかに頭を実際的な事、決めなければならない事に向けて切り替えなければならない。頭を切り替えることができないと冷静さを失ったり、感情的になって全体が進むべき方向、道筋を見失い、間違った決断、指示を出すからである。
注意しておくが、不決断こそも最大の御判断である。間違ってもいいから、決断をして、指示を出す。そうしないと組織はたちまち統制を失い自壊してしまう。
自分は、いつ、だれと、何を、最初に打ち合わせ、その時、その場で何を決めるのか。その場の責任者はだれか、自分はどこを担当するのか。それまでに自分は何をしておかなければならないのかを各々が各々の立場で結論を出して行動する。
打ち合わせに臨んでは、打ち合わせの時、誰が、いつまで、何をしなければならないのか。それを誰が決めて、誰に指示を出すのかを予め想定しておく必要がある。
足下で決める事を絞り込んでおく。決めるべきことが決められない状態にしないよう、打ち合わせに加わる者全員が心掛けなければ足元は固まらない。何も決められない事のないようにしなければならない。そうしないと打ち合わせの実効力が失われ、かえって障害にすらなる。
仕事は、足元を固めておかないと、仕事を途中で空中分解してしまう。仕事というのは、真に建造物を建築するようなもので、土台をしっかりしておかないと最初から仕事全体がぐらぐらして安定性を欠いたものになる。
よく先達者に言われたのは、仕事というのは、鰻のようなもので、首根っこを押さえないと捕まらない。首根っこを押さえないとヌルヌルとしてとらえどころがなくなる。
だから、打ち合わせをしたら、打ち合わせが終わった直後に絞めておけと・・・・。

最初にきちんと決めることを決める。決めるべき事を決めておかないと何も報告できなくなる。
その時、決められる事を兎に角も決める。逆に決められない事は決めてはならない。決められない事があったら、いつ決めるかを決めればいい。わからない事、不確実な事は調べないで、確認をしないまま報告しない。憶測、推測に基づいて予断をしない。決断は事実に基づいて行う。だから報告は、事実関係だけでいい。
自分の意見は、聞かれた時、聞かれた事のみを応えればいい。そう厳しくしつけられたものである。

決断力のない者は、飛躍する。
決めるべき事が見極められずに責任を回避しようとするからである。
それが間違いの元。責任も取れなくなる。また、報告もできない。

決断できない者は、臆病、卑怯なのである。
だから、臆病者、卑怯者は、怖いし、嫌われる。

組織において決断しない事は悪なのである。考えたら決めれない。決めてから考えろ。決断は、体得するしかない。決断力を養うのは、修練だ。

実行できない決断・指示は不誠実。嘘である。最初からやる気がない。やると決めたら必ずやる。

何が決められるか。
下の者は、決められるべき者が決められるよう準備する事が仕事である。
決める決めない事は、決めるべき者の責任なのである。
ただし、全員は、結果において責任を取らされる。
それだけは忘れてはならない。

私は、報告をする習慣がなくなる一番の理由は、上司にあると思っている。
報告を受けた時、上司は、それに対応する責任、義務があると思う。つまり、結論を出してしかるべき指示を出す。これをきちんとしないと部下は報告を渋るようになる。
私は、報告を受ける時は、ものすごく緊張する。
私は、誰であろうと私が報告する際は、後先、筋道を明らかにしてから報告するように心がけている。
自分が責任を持てない事に対しては、なるべく慎重にし、要点を見極めてから報告をするようにしている。なんでもと言われたからと言ってなんでも報告していいとはいかない。

報告がされない原因の多くは、報告を受ける側の問題がある。指示と報告は表裏の関係がある。報告を受けた者は、速やかに、報告に基づいて指示を出さなければならない。報告は、報告を聞いただけで責任が派生するからである。報告を聞いたら、それに対して適切な指示を出すのは、報告を受けた者の義務である。
報告を受けた者が適切な行動、指示を出さなければ、部下は、報告を渋るようになる。
報告をしても、上司から適切な判断がされなければ、意味がないし、かえって障害となるからである。また、責任の所在もあいまいになる。

報告を受けた者は、速やかに決断し、指示を出す。それが原則である。
指示を出し、出した指示に基づいて報告を受け、報告されたことに対して指示を出す。この循環によって組織の統制は維持される。

報告した事に虚偽がある事が明らかになったら速やかに判定する。これは話し合いの余地がないからである。スポーツの判定に相当する。判定を逡巡したら試合が成り立たなくなる。抗議があったらあとで受け付けるのである。その場は判定に従う。

報告は、組織の統制・秩序の基なのである。

報告と指示は裏腹の関係にある。
報告をする時は、指示されることを前提とする。逆に、報告を受ける時は、指示をすることを前提としていると言える。
指示するという事は、その前に指示者は、決断しなければならない事を意味する。すなわち、報告する側は、相手が決断できる状態にするという事が条件になる。
そのためには、報告する事がある程度整理され、しかも要領よく段取りをつけて報告する必要がある。

基本的には、込み入った報告をする時は、ワンクッションを入れる。
また、打ち合わせや仕事には、糊代をつける。
ワンクッションというのは、報告する事を整理しないで上司に報告するのは、それ自体が上司に対して失礼だという自覚を持つ、持たせなければならない。

ワンクッションというのは、報告をする前に打ち合わせのような何らかの一作業や一呼吸を入れる事である。
上司に報告する場合は、なるべくワンクッションをおいて報告するのが礼儀である。
ただし、緊急を要する事とか、深刻な事はこの限りではない。
報告を受けた者が混乱したり、間違って判断をしないようにあらかじめ整理して報告をするようにする。
報告するための要件、結論、要点を簡潔にまとめ、それに基づいて当面の見通し立て、次回いつやるか、それまでに何をするかぐらいは決めてから報告する。
それに時間がかかる場合、口頭にて最小必要限度の事柄、状況報告にとどめ、その代わりいつ正式な報告をするかの目処を立てておく。状況報告は、必要最小限の事実関係にとどめ、含みやもってまわった言い方や仕草は控える。相手を不必要に不安に駆り立てるからである。
それが、報告者の最低限の礼儀だと厳しく私は、しつけられてきました。

糊代というのは、打ち合わせや会議を開く際、あるいは、作業を始める時、いきなり、本番に臨むのではなく。事前、事後の打ち合わせをする事を意味する。事前のの打ち合わせを置き、事前の打ち合わせまでに、全ての作業を一旦終了させる。そして、最終確認から本番までの間に、最終調整、内部手続きなどをするのである。また、会議、打ち合わせの、作業が終了した直後に最終的な詰めの作業を入れる。作業は打ち合わせでもいい。

仕事というのは、深刻でこみっ言った話が多いから礼儀作法が重んじられてきた。しかし、戦後は、儀礼的な事、形式主義的な事が嫌われ、何でも簡略、略式が持て囃された。
日本人は、自由というと礼儀や法の様に拘束する事を嫌うと考えて。民主主義的な国は、法や儀礼を否定していると思っているが、実際は、欧米では法や礼儀は重んじられている。
欧米では、軍だけでなくビジネスの世界でも迅速な判断が求められる組織では、礼節、式典は重んじられている。
報告で重要なのは、礼儀であるから、礼節が守られなくなれば報告も廃れる。
礼節は権威によって守られている。そして、礼節は、儀式典礼、式典などによって顕在化し、修行、訓練などによつて守られている。かつては、親しき中にも礼儀ありと親子の間でも厳しく躾けられた。

私も若い頃は、礼儀作法などをがみがみ言われるのは死ぬほど嫌だった。

よく誤解があるが、上司というのは、報告をあまり聞きたくないものなのである。報告を聞けばそれだけで責任が生じる。
だから、報告を求める上司、報告をよく聞く上司というのは、責任感の強い上司である。
それを一々報告を求める上司をとかく部下は疎ましく感じるものである。

指示、命令は、間違っているかいないかではなく。従うか従わないかの問題である。
力づくの問題である。

言っていいこと悪い事この事も厳しくたしなめられたものですが、今は、なんでも心に思ったことは口にする。それを叱ると今度は何も言わなくなる。だから、報告を黙って受けろという論法になるのだが、これも困った事である。
まあ、言っても詮方ないと思うのですが・・・。

最終的には、その人その人のモラル、人間性に帰結するのです。
そこを正さない限り、何も解決できません。だから、信仰や道徳の重要性を言うのですが、それもなかなか理解されない時代になてしまった。

なぜ罪を犯すのか。最初は、悪気なんてない。悪いと思ってはいない。

罪の始まりは嘘をつくことかもしれない。

嘘にも二種類あってとっさにつく嘘と確信をもってつく嘘ですが、とっさについた嘘だからと言って甘く見ることはできません。嘘は嘘なのです。
とっさにつく嘘の多くは、言い訳ですが、嘘をつくと言い訳がいいわけでなくなり、不正になってしまいます。
人はなぜ、不正、罪を犯すのか。突き詰めてみると人間性や人の弱さに行きつく。

要するに最初は、出来心なのである。
これくらいならという甘さなのである。
自分は大丈夫という傲慢さ、油断である。
そういう心の隙をついて罪は忍び寄る。気が付いた時は抜き差しならないところに追い込まれているのである。

自分の弱さを克服する手段の一つが礼節なのである。





執務要領
報告・連絡・相談
手順・段取り
形を重んじる
仕事を学ぶ
チームワーク・集団活動を学ぶ
段取りをとる
仕事の論理
井戸端会議と会議は違う
仕事には始まりと終わりがある。
基本
仕事の基本
報告書の書き方
企画書の書き方
物事には順序がある
組織的意志決定
仕事について
組織は情報系である。

形に学ぶ。形を学ぶ。形で学ぶ。
形について
管理はプロセスである。
報告は、礼儀である
決めてください。



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