反体制・反権力・反権威という思想


 反体制、反権威、反権力というのは、戦後の日本を席巻した確固たる思想である。戦後だけでなく、現代にもその影響力は失われていない。むしろ、社会の根源的なところ、文化や価値観において潜在的に働いている。
 しかし、反体制、反権威、反権力という思想の持ち主は、無自覚である場合が多い。何せ、思想そのものを権威主義として認めない場合が多いからである。
 反体制、反権威、反権力が高じると反倫理、反社会的な思想へと発展していく。そして、反体制、反権力、反権威は、その性格からして無政府主義に連なる。それも革命的無政府主義にである。

 反体制、反権威、反権力と言う思想は、戦前、権力に迎合し、或いは、追従し、時には、権力を煽ったことが戦争への道を拓いたという反省に基づいている。そして、権力に対する反抗の理由は、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、芯がないのである。兎に角、権力は悪だという思想である。この様な思想は、無政府主義以外にない。
 しかし、無政府主義には、まだ、思想としての自覚、論理がある。それに対し、反体制、反権威、反権力というのは、思想としての根幹を持たない。ひたすらに権力に逆らい、現体制を否定し、権威を否定し続けているのに過ぎない。それも無自覚にである。
 大義は、何でもいい。何でもいいと言うよりも、どうでもいいのである。つまりは、ご都合主義で便宜主義に過ぎない。だから、権威主義的、反体制主義者等という珍妙な存在まで現れる。
 しかも、言論の自由や身分保証がされている上での話である。戦前のように強権力が存在しているわけでもない。
 むろん、権力は権力である。何等かの強制力は持っている。それでも、拷問や拉致、拘束など公然と許されているわけではない。
 要は、反対さえしていれば、何とか、格好が付くわけである。

 なぜ、この様な反体制、反権力、反権威思想が蔓延したのかというと、日本を敵視する国々の画策がある。戦後の日本の文化の基盤を作ったのは戦勝国、言い方を変えると日本と戦った国々である。保守はと言えど、革新はと言えど、その思想の根源は、かつて日本と戦った国にその根源を持っている。当然、日本の国が二度と自国を敵視したり、逆らったりしないようにしようとする。
 だから、反体制、反権力、反権威である。
 もう一つは、戦後の知識人の保身である。許されるならば、叛逆的、反抗的な態度をとり続けられることは居心地がいいのである。しかも、それが金になるのならばそれにこしたことはない。何せ、自分の言動に責任を持つ必要がない。戦前に体制に対して肯定的な立場をとって、追放されたり、裁判に掛けられたり、処刑された者達を見れば、反体制的なポーズを取ることは、きわめて、安全で楽なのである。
 戦後の日本の繁栄は、無責任な態度をとり続けて人間を利したような結果を招いた。国のために犠牲になった人々がアホらしく見えるのである。

 そして、敗戦という混乱した状況の中で反体制、反権威、反権力思想は、知識人階級や言論界に深く根を伸ばした。そして、戦後、退廃主義、虚無主義的に覆われた環境によって人々の心の奥底に浸透していったのである。

 しかし、学園闘争世代も今や国を担うべき年代になったのである。反抗や、叛逆をしていればいい世代ではない。自分達の言動や決断が子供や孫達の世代の運命まで決めてしまう。そのことを強く自覚し、責任のある態度をとらなければならないのである。何でもかんでもいいからいいから、適当で適当でではすまされないのである。
 進んで責任を負っていく必要がある。子供達の為にである。
 反抗的な態度をとって、自分達がわがままを言っても、最後には、誰かが納めてくれると言った甘えた考えは捨てるべきなのである。自分だけが良い子になろうと言う欺瞞的態度も改めなければならない。もう子供ではないのである。
 自分達で自分達の国を護っていかない限り、誰もこの国を護ってはくれないのである。他国をあてにすれば他国に付け入る隙を与えるだけなのである。

 誰も守ろうとしない国や会社、家族は、守りようがないと言う事である。親父達は、それこそ死にものぐるいで守ろうとしてきた。だから、国も、会社も、家族も、今まで保てきたのです。

 では、今なぜ、家族の崩壊が現実のものとなってきたのであろうか。

 それは、戦後の日本人が、自分達の今日の世傘の根源にある確かなものを無自覚に、無原則に批判し続けてきたからである。

 もういい加減に、目を醒ますべき時なのである。

 ただ、目の前の矛盾を暴き立て、自分は、安全な所から、反対ばかりをする。そんな無責任で、いい加減な態度を辞めるべきなのである。
 他人を責めるばかり自分を顧みることのない在り方を改めるときなのである。
 自分達は、あたかも被害者であり、戦争で我々のために犠牲になった人々を哀れむような態度を慎むべきなのである。

 戦後の知識人の多くは、無理矢理戦場に駆り立てられ、一般兵士達は、単に国のために犠牲になったとしか考えていない。彼等は、愚かだったというのである。しかし、彼等に、本当に、意志はなかったというのであろうか。国の言いなりになって死んでいっただけなのだろうか。

 一般兵士達の気持ちを置き忘れている。まるで一般兵士達は何の意志もなく、ただ、上から言われたことに従って犬死にしていったように言う。それは間違いである。
 それこそ名もなき兵士達にも心はある。

 自分達だけが戦争に反対してきたと行っているようなものである。

 驕る者久しからず。勝って兜の緒を締めろ、治にいて乱を忘れずと我々の祖先は自分達を戒めてきた。現代の日本人は、戦争に負けたというのに、驕りたかぶり。
 いい加減自分達のあやまちを認めるべき時に来たのである。
 今日の日本の繁栄は、偶然がもたらしたわけではない。大東亜戦争で犠牲になった多くの人々のお陰と戦争を生きのび戦後の復興に尽力した人々の力があたからこそ今日の繁栄はあるのである。
 繁栄を享受する我々が、今日の繁栄をもたらした人々を侮辱することは許されない。

 戦後の知識人は、体制や、権力にただ、逆らってさえいれば自分達の地位は安全だと考えているらしい。しかし、それは、戦前に体制に阿った連中と何ら変わらない。肝腎なのは、自らの志がどこにあるのかなのである。



俺達の国は、皆にとって護るべき価値があるか。
命を掛けるの値するか。
そう自分に問うてみよう。

護るべき価値をつくり出すのは、皆なのだから・・・。
命を掛けるのに値する様な国にするのは、皆なのだから・・・。

俺達は、魂を失ってきた。

キリスト教徒でもないのに、クリスマスを祝い。
日本人なのに、神前で祈ることを忘れた。

つまり、魂の抜け殻なんだ。
日本人魂がなくなったんだ。
腑抜けなんだよ。

照れ笑いして、楽しければいい。
深刻に考えるなよ。

なぜ真剣に生きてはいけないんだ。

自分の人生は生きるに値するか。
値しない人生なんてないさ。

一生懸命誰だって生きてきたんだ。

子供が産まれたといっては、感激し、
仕事がうまくいった時は、
心から喜んで
一日一日、意味のない人生に、
自分達の生き甲斐を見つけてきたんだ。

それを嘲笑わば笑え。
俺達の人生は、俺達で創るんだ。
ちっぽけでも、俺達の会社だ。
俺達の国だ。
俺の人生だ。

そうじゃないかい。





                       



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