フィクション・ノンフィクション


私は、以前よりフィクション、ノンフィクションの境目がどこにあるのか悩んでいました。
なぜ悩んだかというと戦後勧善懲悪的な文学や芸能を低俗とし、妙なリアリズムが文学界を支配していた気がするからです。それが今も濃厚で、その延長線上に芥川賞や直木賞がある。私は、そのような風潮が陳腐というか、欺瞞に思えてきたんですね。所詮ノンフィクションといったところで、底の浅い自由主義とか、左翼思想でしかない。反権威とか、反権力が見え隠れしてですね。その先にあるのは、自虐史観ですね。
自分は、日本の文学は、私小説に行きつくしかなかったと思うのです。そして、私小説の延長線上にノンフィクションがある。それを単に写実としていて…。根本には、無為自然ですね。大谷壮一の無思想の思想なんてその典型。あからさまな欺瞞ですけれど…。
要は一神教徒はどこまで行っても芸術や文学というのは、信仰を描くことに尽きる。それは今日のハリウッド映画見ていますと痛感します。映画の背後に神が存在する。
その点が日本人にはどこまで行っても理解できない。
ムハンマドを侮辱した翻訳家が処刑されるのが現実の世界で…。日本は、一神教徒の国からすれば別世界、別次元なんですよね。異界なんですよ。
だから、トランプの問題とか、イスラム国の話についていけない。
文学や芸術にとって神の存在が前提とできなければ、結局、私か歴史の話になる。下世話な話なんですよ。一神教徒からすれば、下世話の話の中に真実とか、摂理とかを見出そうとすれば一神教徒にしてみれば衝撃的で新鮮だけれどそれ以上にはならない。
世界から見たら今の日本なんてそんなレベルですね。ただ、日本人と気脈が通じるところがあるとしたら、中国とインドですよね。だから、インドなんて旅すると日本人はどこかほっとするんじゃないですか。
でも、僕は、戦後の文学や思想書を読んでも底の浅さしか感じない。ただ、出来事を何の感慨もなく描写しているだけですね。その点、むしろマンガやビデオ、テレビゲームの方がよほど思想的で哲学的な気がしますね。
勧善懲悪的なものでないというのは、悪でもなければ善でもない。じゃあなんなんだという事になる。その曖昧模糊として得体のしれないところに真実を見出そうとする。
でもそれは、一歩間違えば甘えになる。実際、全共闘世代、団塊の世代は、甘えしか残らなかった。全共闘世代や団塊の世代は、お経に代えて反権威・反権力・反体制・反戦・反米と唱えていればよかったんです。根底に何もなくても…。
現実の世界は勧善懲悪的な世界であり、その世界観で血みどろの戦いをしている。何が善で何が悪かを明らかにしないで彼等と対等にやり合う事はできない。それは甘えでしかない。最近、その底の浅さが世界中に知れ渡ってきたから、日本は相手にされなくなってきたのだと思います。



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