国    民

 国家を構成し、支えているのが国民である。しかし、この国民というのが厄介なのである。国境に囲まれた物理的空間の中に存在する者を国民というのではない。国民を定義するのは、国家の法である。

 国民国家において国民の定義は、国家思想を最初に表す物となる。過去において、否、現在においてもその国に生まれ、住んでいる者全てを、国民として認めているわけではない。国民というのは、一種の権利なのである。アメリカの黒人は、この権利を勝ち取るために、長い苦難の歴史を辿ったのは、衆知の事実である。

 国家は、国民のものである。戦後の日本人は、当たり前のことだと思っている。自明なことであり、所与のことだと信じている。しかし、国家が国民のものだと言えるようになったのは、つい最近と言うより、戦後のことである。それ以前は、国家は国民のものだなど言ったら監獄に入れられかねない時代が続いたのである。国家は、国民のものだと言えるようになるためには、市民革命や独立戦争と幾多の血が流され、苦難を乗り越えてきたのである。
 ただ日本国民は、戦争に負けた事によって与えられたものである。だから、戦後の日本人は、国民の諸権利は、天の配剤、天然自然にあるもの、国家は、天の賜(たまもの)のようにおもい、国家主権を軽んじるのである。日本人は、空気と安全は只だと思っていると言われる所以である。
 日本人は、今でも、国家は、国民のものだと当たり前のように言えない国が世界には沢山あることを忘れてはならない。そう言う国では、国家は、特定の個人や団体に奉仕する存在なのである。
 そして、一口に国民と言うが、その国民も定義の仕方一つで変わってくる。人権という言葉も今では当たり前に使われているが、つい最近まで、否、今でも基本的人権すら認められていない人達が大勢いるのである。
 民主主義の総本山であるが如きアメリカでも奴隷制度が廃止されたのは、1868年の奴隷解放によってである。これ以前の黒人は、国民としてどころか人間としての権利も認められていなかったのである。

 近代以前では国民は、ごく限られた階級の人間を指している場合が多い。

 国民の権利にも制約や条件が付けられていた。また、階級や性別によって制約や条件にも差があった。
 この様に、国民と言っても所与の概念ではない。国民は、明確に法によって定義された存在である。つまり、法的な存在である。法的な存在になるためには、国民は、法的に、認知される必要がある。

 現在は、国民は、国籍によって定義される。つまり、国籍の取得の条件と手続きが国民を定義するのである。この様な国籍は、憲法によって保障される。つまり、国民は、憲法によって定義される。

 法治国家は、国民を国籍という形で法で定める。法的な根拠がなければ、法治国家では、国民の身分保障がされない。故に、法治主義を国是とする国民国家は、法によって国民を定義しなければならない。これによって国民の資格が定められる。法治国家においては、国民は、法的存在である。法的な裏付けがない者は、法の庇護を受けることができない。故に、国民の定義が法的になされていない国は国民国家ではない。
 国籍の根拠は戸籍に反映される。つまり、国民国家では、国民一人一人の権利を守るために、全ての国民は、登録されていなければならない。登録されていない者は、国家が国民として承認する手続きがとれない。故に、国民としての権利も義務も行使しようがない。故に、国民国家において戸籍は、大前提となる。

 ところが、国籍の根拠となる戸籍もない国が多くあるのである。この様な国家では、国民は、法による庇護を等しく受けることができない。この様に、国民国家は、制度的な裏付けがなければ成立しない。

 過去において、現在においても、国家の利害と国民の利害が必ずしも一致してこなかった。一致するどころか対立さえしてきた。

 国民は、国民自身が国家を自覚し、認めないと成立しない。
 日本人は、長い間、日本国民としての自覚がなかった。日本人に日本国民としての自覚を植え付けたのは、黒船である。それまで、多くの武士は、徳川家や島津家の家臣に過ぎなかった。しかし、日本人は、日本国民としての自覚に目覚めると瞬く間の内に一つにまとまり、結束することができた。それは、日本が、島国だったうえに大多数が同じ民族・同じ人種・同じ言葉だったからである。この様なケースは、世界的には希有なケースであることを忘れてはならない。
 日本人の多くは、自分が日本人であることに何の違和感も持っていない。しかし、中には、自分が日本人であることに違和感を感じていたり、逆に、自分は日本人だと思っていても周囲の人間は、日本人だと認めてくれない人もいる。この様な違和感を持つ者を大多数の国では、内在化している。それが常に国家の存立を危うくしているのである。

 国家という枠組みができて、その後で国民が生じたケースが大多数なのである。日本の場合は、国家という枠組みが生じ明前に、何となく、日本人という国民が形作られていた。しかし、ほとんどの国では、国家という枠組みの方が先にできていたのである。とくに、植民地が独立して建国された国の多くは、そこに住む人間の先進的な繋がりを最初から無視して境界線、国境を引かれたものが多い。親子親戚が何の根拠もなく、突然に引き裂かれてしまったり、生活の実態を無視した国境線が引かれた。故に、国家と一体感を持てない国民が世界中には、沢山いるのである。

 国境が画定されて国民という概念が生まれたケースもある。この場合は、国民が居て国家が成立したのではなく。国家権力が先にできて、その後に、物理的空間に国家が設立され、その後で国民が定義されたのである。この場合は、物理的境界線が先に画定したのである。
 民族、宗教、言語、文化、歴史と言った精神的境界線、観念的境界線が後回しにされた結果、今日、物理的境界線と精神的境界線とが乖離し、紛争の火種となっている。

 国民は、等しく、その国の法と制度に従うことを了解しなければならない。これを最初の全員一致、暗黙の了解という。これは、法治国家の大前提である。
 民主主義は、法治主義である。正規の手続きに従って決められた法に国民は、等しく従う事を了解していなければならない。これが法の下の平等である。我々は、全員一致というと全会一致による全員一致を想像するが、全員一致の取り方には、個別の取り方がある。それは、最初の集団が全員一致をした後に新規に加入する者が加入する時点で合意をすればいいのである。国民国家は、先ずこの定められた法に従うという事に合意をしなければならない。合意をしない者は、法外の者として、最初から法の庇護が受けられない。故に、合意しない者は、無法者として、国家権力によって制圧されるのである。
 最初の全員一致、暗黙の了解は、新規参入者は、国籍の取得時、成人の時に宣誓によって取られる。国民国家において、成人式は、正式に国民として認められると、同時に、その国の法と制度に従う事を合意するという重要な意義が含まれている。この誓約こそが、国民国家の基礎となる。

 近代国家が成立するためには、国民の前に市民があった。市民というのは、国家の全身となる共同体の一員を意味する。つまり、物理的空間以前の精神的空間によって作られた同志的集団である。その集団は、集団としての規約、掟を持っている。この規約や掟に対する服従が最初の全員一致となる。この様な規約が市民革命の核となる。

 国民になると権利と義務が生じる。
 国民国家においては、この権利と義務が国家の法と制度を築き上げる。つまり、国民国家とは、国民一人一人の権利と義務が作り上げた国家なのである。
 国民が、自らの権利を主張しなくなった時、国民国家は、その存在意義を失うのである。誰も守ろうとしない国は、守りきれない。

 人権と平等とは違う。

 人権というのは、特別な権利ではない。人として当たり前な在り方を保障される権利である。

 ところが最近は、特異な例を挙げて人権問題を論じる傾向がある。たとえば、男女問題、性的指向の問題、性同一性障害の問題、障害者問題と言った例である。しかし、その多くが、特異な例を挙げて問題視する。

 一般を代表して人権を擁護しようとする者がいなくなった。良い例が言葉である。やたらと差別用語と言葉をかる傾向があるが、差別は、言葉によって起こるものではない。他と差別的だと言葉を否定しても差別的な認識がある限り、違う言葉を借りてその意識は表出する。逆に、言葉を狩る事によって差別が内在化することがある。言葉に差別を感じるのは、感じる者自体に差別意識があるからである。言葉狩りをすることで差別がなくなるというのは短絡的な発想である。

 権利と義務の本質は同じである。ただ、その向けられる方向が違うのである。つまり、国家に向けられた時、権利となり。国民に向けられた時、義務となるのである。通常三大義務と言われるが、三大義務は、権利でもある。国防は、権利である。納税も権利である。そして、教育も権利である。
 国を守るのは権利である。国を守ると言う事は、自分の生命と財産を守ることである。また、家族や国土を守ることである。また、国家通じて実現している自分の生活や信条を守ることである。故に、国防は、権利である。
 また、納税は権利である。国民は、納税を通じて、公の事業をする。また、納税を通じて、自分の権利を行使する。故に、納税は権利である。
 教育もまた、権利である。

 言論の自由も国民の権利であると同時に、義務である。言論の自由を問題とする時、公序良俗を持ち出すからおかしいのである。言論の自由は、国民的合意の下によってなされる。国民的な合意がなければ、どんな言論も認められないのである。そして、国民的合意は、法によって定められる。もし仮に、社会秩序を乱すとして何らかの規制が必要だという合意に達したならせば、法によって定め、制度によって運営しなければならない。つまり、何を以て規制すべきかは、制度的になされなければならないのである。次に問題となるのは、その制度が民主的に運営される事を何を以て担保し、保障するかである。

 言論の自由というのは、崇高な権利である。それが、戦後、専ら性の解放の道具にされているのは残念なことである。言論の自由は、薄汚い、自分の欲望や金儲けのために利用すべき権利ではない。日本人は、公序良俗という曖昧な表現によって言論の自由を規制しようとした。元々、言論の自由は、強権的な国家権力に対する抵抗の中で生まれてきた。そして、先鋭化してきたのである。それは、国家権力に対する権利として確立されてきた。ただ、権利として確立され、その上で、国民国家が成立した以上は、それは、言論に対する義務も同時に確立されなければならない。それは、言論の自由が無制限、無条件なものではないという事である。言論の自由は、国民の審判を仰ぐべく権利なのである。
 公序良俗という言葉には、国民の意志が感じられない。つまり、元々公序良俗という規範があってその元々公序良俗という規範に照らして法に違反しているかどうかを、審判、判定すると言う事である。それでは、誰が当事者なのか解らない。大体、誰が、公序良俗という基準を何の根拠以て決めたのか解らない。また、誰が、どの様な基準で公序良俗かを判断するのかも解らない。この様な場合むしろ陪審員制か、国民投票にでもかけた方がまだわかりやすい。警察か、一部の裁判官の手に委ねるには、余りにも、日本の司法制度は未成熟である。つまり、日本では、司法機関があまりに専門化しすぎて、国民から乖離しているからである。せめて、地域住民の声ぐらい聞いて欲しい。日本は、もっと、地方自治を大切にすべきなのである。それも地方行政ではなく、地方立法、地方条例をである。
 国民が、知る権利があると判断すれば、国家は、逆に開示する義務がある。しかし、それを決めるのは、あくまでも国民である。
 今日、言論の危機は、一部の金儲け主義者によって言論の自由の根底が危うくなっていることである。青少年どころか、幼児にすら明らかに有害だと思われる情報が、一部の悪徳業者の金儲けのために、無秩序、無制限に公共の場に垂れ流されているという事である。しかも、それが、地域住民や保護者の了承もなく、また、監視することのできない領域においてである。それを言論の自由と言うには、余りにも汚い、卑劣である。
 言論の自由というのは、国家権力に対する国民の最低限の抵抗である。また、自分の正当性を立証するための手段である。言論の自由が失われれば、弱者は、自分の正当性を公に訴える手段を失う。故に、どの様な状況下にも担保しなければならない権利である。それを薄汚い金儲けのために、危機にさらすのは、いかにも忍びない。国民の恥である。どれだけ多く後が言論の自由のために流されたのか。その貴い犠牲が汚されたのである。言論の自由を語る時、国家にとって何が大切なのかを改めて問う必要があるのである。
 子供に与えて良いものなのかどうか。それがどの様に、何処で、誰が議論し、また、判断したのか。その事が、言論の自由を保障する上で重要なのである。性を解放すべきか、どうかは、国民の審判によって判断すべき事であり、既成事実によって認めさせることではない。法に基づくものである。意義があるならば、先ず法を変えるべきなのである。それが国民国家の暗黙の了解、前提である。

 結社の自由の裏側には、情報開示の義務がある。つまり、国民の要請によって必要な情報を開示することは義務である。同様に、集会の自由は、地域住民の承認を必要とする。この様に、権利は義務を伴い、義務は権利を伴う。

 権利と義務は、同じ力である。

 特に、政治に参加することは権利である以上に、義務でもある。政治に参加することによって公を監視し、権力の濫用や横暴、不正を防ぐのは、国民義務である。
 国を良くするのも、悪くするのも、国民次第である。国民が自らの権利を行使しなければ、権力の横暴や無法者の不正を糺すことができなくなる。権力の横暴を抑えられなくなれば、国民国家は成り立たなくなる。多くの日本人は、御上がすることには、絶対服従という考えがあり、国民の権利は、誓願だと錯覚している。権力は、暴力である。暴力を抑えるのは、国民の意志である。国民の意志は、権利と義務によって具体的な力となる。それ故に、国民国家において、権利と義務を行使しないことは、犯罪行為に等しく。国家に対する叛逆である。国民国家を支えているのは、国民の権利意識と義務感である。

 国は、力なり。国家に、正義をもたらすのは、権力の在り方である。故に、国民国家は、権力の在り方を国民の意志に委ねるのである。国民国家にあって正義のは、国民の意志にある。国家正義を実現するのは国民の義務であり、権利である。国民がその義務を忘れ、私利私欲に溺れて、権利を行使しなくなれば、国民国家の正義は廃れ、国家は存亡の淵に立たされる。






        


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