国家百年の計(財政)


 近代国家の病弊は短期主義にある。何でもかんでも単年度主義に囚われすぎている。国作りや街作りは、短期間ではできない。
 国家は建設は、長い年月をかけて計画的に行われなければならない。特に、これから資源が貴重となることが歴然としている今日、省資源を土台とした国造りは一朝一夕にはできない。
 国家百年の計が必要なのである。人類共有の資源を浪費し続けてきたからこそ、人類は、戦争の惨禍から逃れることができなかったのである。百年、二百年先を見越した国家構想こそが、人類を恒久的な平和に導く最良の手段である。
 どの様な国にするのか。どの様な街をつくるのか。どの様な人を育てるのか。その明確なビジョン構想があってこそ、はじめて国造りの青写真を描くことが可能となるのである。
 その国家構想を実現するために、国家財政はある。国家財政の浪費は、国民のみならず、人類に対する罪である。そして、財政の浪費で最も愚かなものは、他国への侵略を目的とした費用である。
 平和には、費用がかかる。平和のための投資は怠ってはならない。国防は不可欠な費用である。しかし、過度の軍事費は、国家を滅亡させる。何事も、過ぎたるは、なお及ばざるが如しである。

 国家財政は、国家機能に基づくべきである。国家の本来的機能を無視して国家財政を検討するから逸脱する。国家財政は現象ではなく。国家の機能によって派生するものである。赤字という現象からのみ捉えるべきではない。また、国家本来の機能を逸脱すれば、国家財政が破綻するのは、必然的事である。問題は、国家財政が、国家に本来要請される以上の働きを要求されるところにある。特に、政治家や官僚、企業が、自分達の既得権益によって財政の規律を喪失することが問題なのであり、それは、財政の問題ではなく。政治家や官僚、企業の倫理の問題である。

 では、国家の機能とは何か。国家の機能は、国家の存在意義、つまり、国家目的から導き出される。国民国家における国家目的は、国民の生命財産の保障と国民の福利の実現である。それを実現するために、三権制度がある。つまり、三権の機能に国家機能は集約される。この三権の他に、近代国家においては、貨幣の創出と流通の管理の機能が加わった。しかし、この貨幣の創出と流通に関しては、直接、行政機関がかかわるのではなく。中央銀行がこの機能を行政機関の代わりに果たしている。行政機関は、財政や経済政策を通じ、貨幣の創出と流通に間接的にかかわっている。
 三権制度の機能とは、第一に、立法機能である。第二に、司法機能である。第三に、行政機能である。財政という側面から見ると第一の立法と、第二の司法機能は、立法費用、司法費用という以外は、直接的な影響を持たない。問題は、行政である。
 行政機能とは何か。第一に国民の財産と生命、権利を保障とそれに伴う治安の維持である。第二に、諸外国との交渉である。第三に、防災も含めた、国防である。第四に、社会基盤。社会資本の整備、充実である。第五に、国民生活の基礎知識をえるための教育である。第六に、産業の育成と活性化、そして、経済の安定である。第七に、徴税業務である。

 財政の国家的機能を正しく理解していないと健全性を保てない。それは、国家・国民が何を必要としているかに財政が依存している証左に他ならない。その根本は、民生、即ち、国民生活にある。

 国家の機能を国民生活に則して考えると先ず、衣食住に関わる機能である。次に、社会インフラ・社会資本に関わる機能である。第三に、環境に関わる機能である。社会インフラ、社会資本の内訳は、第一に交通、第二に、通信、第三にライフラインであり、第三のライフラインには、電気、ガスと言ったエネルギー関連と上下水道と言った水回り関連がある。これら、生活に密着したところに、財政の機能が隠されている。

 先ず、国家機能の一番は、国家の生命線を守ることである。国家が独立国として存続できるために必要な条件、国民が安心して生活できるように物資を確保することは、国家の重大な責務である。その意味で自給率の問題は、疎かにしては成らない。特に、我が国は、島国なのであるから、他国からの交易、物資の供給を絶たれたらとたんに国民は飢餓に襲われる。生存すら危うくなるのである。太平洋戦争の直接的原因が先進国の我が国に対する石油の禁輸処置であることを忘れてはならない。我が国は、隣国との交易に頼って生きていくのか、それとも、自国内の生産物だけで生きていくのかは、国策上、最重要事項であり、国家構想の根幹にかかわる問題でなのある。

 国家財政の健全性を維持するためには、財政規模を適度に保たなければならない。財政の規模は、国家の役割によって決まる。つまり、国が何をすべきなのかによって決まる。財政の規模に応じて税制は、設定される必要がある。最初から税制ありきではない。不必要な税収は、財政の規律を失わせるだけである。
 財政規模を測る尺度は、国民総生産に占める割合、経済の成長率、国家目標・国家構想による。財政規模は経済全体との均衡に基づかなければならない。その典型は、公務員の所得である。公務員の所得が突出することは、経済のみならず、社会秩序の上からもよろしくない。何事も均衡が大事なのである。ただし均衡は、平均化という意味でも、標準化という意味でもない。況わんや均一化ではない。社会全体との均衡である。

 財政は、投資である。未来への投資、子孫への投資である。それは、社会資本の充実に廻されるべき性格の費用である。平和への投資でなければならない。
 我々は、ヨーロッパを古くからの都市を散策すると美しい町並みであうことができる。また、都市計画に基づく整然とした古代都市の遺跡を見ることができる。ところが近代になるとこの様な街作りは放棄され、無秩序で、無政府主義的な乱開発がこれに変わってしまった。人々は目先のことしか考えず、かつての美しい街は失われつつある。それは、国家本来の目的を見失ったからである。都市は、何世紀、何世代にわたって、計画的に築かれるものである。その社会資本への投資こそ、国家財政で最も重視すべき事である。そして、その計画のための費用と国民負担との均衡の上に税制は、うち立てられるべき制度である。その国家構想と税制とが、財政の基盤でなのある。どの様な国を造るかの構想のないところに税制も財政も成り立たないのである。

 財政の重要な役割の一つが貨幣の創出と流通である。つまり、財政の重要な機能の一つが貨幣の価値の管理、貨幣の流通量の管理である。ただ、貨幣の創出と流通の管理は、中央銀行が直接的には管理している。財政は、公共事業や国債の発行、市場規制、年金と言った福祉政策、税制と言った経済政策を通じて間接的に管理することになる。

 戦後の日本が短期成果主義に陥るのは、国民の総意に基づいて作られたものではないからである。なぜ、財政の単年度主義を堅持しなければならないのか。なぜ、国家は収益を挙げては成らないのか。財政を長期的に均衡させては成らないのか。お仕着せの主義主張ではこの答えは出せない。財政思想の自律はえられない。
 単年度主義で国家を護ることができるのか。国家を恒久的存在にするためには、その基準も恒久的な基準でなければならない。長中期的な展望構想なくして、国家運営は成し得ないのである。

 国家は、人口の構造物である。天然自然に成るものではない。創り出すものである。この創造的なものと成るものとの違いを日本人は認識していない。戦後の日本人は、国家をあたかも自然界が与えてくれた、自然に成ったものだと錯覚している。しかし、国家は、人為的な構造物、構築物である。そこには、創造者の思想が色濃く反映されている。国民国家の創造主は、その国の国民でなければならない。さもなければ、主権在民は成り立たない。

 国民の三大義務は、納税、国防、教育である。国家の機能は、この三つの義務によって象徴されている。我々は、国防というとすぐに軍事に結びつけて考えるが、国防とは、何も軍事に限ったことではない。台風や地震といった災害から国民を守ることも国防であろう。また、犯罪や火災から国民の生命・財産を守ることも国防である。恐慌のような経済災害から国民生活を守るのも国防である。疫病、伝染病から国民の健康を守るのも国防である。また、飢餓や貧困から国民を守るのも国防である。むろん、他国からの侵略や迫害から国民を守るのも国防である。大切なのは、国家の独立を守ることである。何から、国民を守るのか、それが国家の根幹にある。そして、国民国家においては、国防とは、国家が国民を、国民が国家を守る、即ち、国民が、国民を守ることを意味するのである。その為にかかる費用が国家財政である。
 戦前の日本が好例であるが、軍事が国家を破綻させることもあるのである。即ち、国を守ろうとして国を滅ぼす結果を招くこともあるのである。だからこそ、何から何を護るのかを明らかにすることが、国家の在り方を、即ち、財政の在り方を考える上で一番大事なことなのである。それが国家構想を立てる意義と目的である。国防とは、高所大局の見地から考えるべき大事なのである。
 国を守るとは何か。国民国家において国を守ると言う事は、国民を守ることである。国民が国民を守るそれが、国民国家の義務なのである。その考えに基づいて国家の青写真、設計図はつくられなければならない。国民国家における国家の設計図こそ憲法である。

 軍人の名誉は、重んじられなければならない。誇り高い、軍人だけが国防の任を全(まっと)うできる。警察官にせよ、海上保安官せよ、消防士にせよ、その使命から見てその名誉は、重んじられなければならない。彼等は、身命を賭して国民の財産と生命の安全を守っているのである。彼等には、強い使命感と、倫理観、理性、自制心が要求されている。更に、軍人と警察官にのみ、国家は、その尊厳において武力の行使を公認したのである。軍人と警察官のみが武力を行使することが公式に許されているのである。だからこそ、彼等は、自分達の権能を自覚し、自制しなければならない。その為には、高い見識と国家への忠誠、国民に対する使命感がなければ勤まらない。軍人が功名心にはやって自制心を失えば国を危うくするのは歴史が証明している。しかし、彼等の崇高な精神がなければ、国は保てない。軍と警察が暴走したら誰も止められない。国家正義はその時失われる。国家の正義を守るのは、彼等の強い意志なのである。だから、軍人の名誉は、重んじられなければならないのである。彼等の誇りのみが唯一彼等の行動を抑制しうる力なのである。

 国家財政は、巨額の資金を動かす。それ故に、利権の温床、塊になる。財政の規律を守るのは並大抵のことではない。しかし、国家の破綻は、財政の破綻に起因する場合が多い。国家財政の健全性が失われれば、国家は破綻する。財政に対して、国民が強い関心と責任を持たなければ、財政の健全性は保たれない。その為にも、国民一人一人が明確な国家観、国家構想を持つように努力することが大切なのである。

 国家の敵は、外敵とばかりは限らない。むしろ、国家の内部に潜み、国民の財産を食いつぶし、国民の生命を危険にさらす敵こそ真の敵なのである。かつて、王陽明が獅子身中の敵こそ根治しにくいと指摘したように、外敵よりも身中の敵の方が恐ろしいのである。

 財政とは、本来、投資なのである。それも未来への投資である。投資の対象としては、社会資本へ向けられなければならない。かつて、日本は、国家の大半の財政資金を軍事に費やし、その軍事費に耐えられなくなって戦争という惨禍を招いた。あたら、巨額の国家資金を無駄に使い果たし、国家を滅亡へと導いたのである。その苦い教訓を忘れてはならない。

 国家は、国家観によって築かれる。そして、その国家観に基づいて国家百年の計が立てられる。人類は、多くの遺産を持っている。それは、我々の祖先が営々として築き上げてきた遺物である。我々は、その先人達が残した財産を基に、更に我々の子孫に多くの資産を増やしていく責務がある。今日、限りある資産を浪費し、食い潰すことは、人類に対する重大なる罪である。しかも、その報いは、我々ではなく、我々の次の世代、子孫が償うことになるのである。我々は、何から何を護らなければならないのか。我々の欲望から我々の子孫を守らなければならないとしたら、それは恥ずべき事である。毅然として、我々は、我々が果たすべき責務、使命を果たさなければならない。それが、人類に対する我々の重大な責任なのである。




        


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