最近、絵画の盗作騒ぎでテレビのワイドシューが揺れている。しかし、誰の話を聞いても何かおかしい。議論の論点がずれて感じるからである。
それは、絵画の芸術的価値が市場の論理によって論じられている事に原因があると思われる。絵画の芸術的価値を決めるのは、本来、市場ではないはずである。なぜならば、芸術の探求しているのは、市場的価値ではないからである。
芸術家が描こうとするのは、神であり、仏であり、真理であり、その極致にある美である。それは、科学も、哲学も、文学も同様である。
現代社会では、芸術も生業の一種に過ぎなくなった。芸術家が自分の作品を市場の論理に委ねる事は、芸術家が芸術家としての本来の機能、役割を自らの手で葬り去ってしまうことを意味する。
芸術家も生きていかなければならない。その為に、当然、守られなければならない権利もある。しかし、だからといって芸術家の魂を売り渡して言い訳ではない。また、言い訳にならない。問うべきは、何を求め描こうとしていたのかである。ただ、芸術家は、自分の内なる真理、神、美を追い求めてやまない者である事を忘れてはならない。
神の本質は、知らないと言うことである。神は、不知火。
神も、真理も、侵すことのできない、許されない聖域であった。聖域を儲けることによって人間は、自らを抑制し、治めてきたのである。人類は、その聖域を侵し、汚し始めている。そして、暴走を始めた。大量殺戮と自然破壊。人間は、自ら神としようとしている。人間は、自制心を喪失しつつある。欲望を抑制できなくなっているのである。その欲望を論理が増幅している。
そして、科学者は全てを明らかにした。知ったと思い込んでいる。そして、科学的論理や市場の論理を絶対視し、神の世界すら科学や市場の論理によって組み伏せようとしている。
近代以前は、神や仏、真理の下に調和ある世界を築こうとしてきた。真理と論理の関係は明らかである。真理は論理の僕ではない。真理が主で論理は従である。
しかし、人類は、科学の名の下に、また市場の論理によってこの調和を否定しようとしている。科学と、市場的価値が全てであり、絶対である社会を作り出そうとしている。論理によって真理を歪めようとしている。
神や真理に対する怖れがあったからこそ、世界は、その調和を保てたのである。それが失われた今、世界は、調和を失いつつある。そして、世の中は、乱れ始めた。だれも、道徳を守ろうとしなくなった。
神や仏、真理に対する畏怖、畏敬、怖れがあった。だから、神事にタブーは付き物だった。しかし、今は、禁忌はなくなった。神を怖れなくなったのである。神を怖れずに、自らを万能の存在とした。それが、現代である。
近代的合理精神とは何か。それは、科学的合理精神である。それは、論理の前提の正しさによって支えられていることを忘れては成らない。大体、科学的合理精神は、相対性を前提としているのである。普遍性を前提としたものではない。
そもそも、論理的に間違いがなければ、真であるという思いこみこそ恐ろしい。いくら論理的に正しくともその前提に間違いがあれば、真たりえない。肝心なのは、その論理の前提である。しかし、科学は、その前提を任意で相対的な命題としている。それは、自らを絶対化することを最初から、自らが忌避していることを意味する。
今の神は、困った時の神頼みとばかり、現世利益、御利益(ごりやく)ばかりが求められ、信仰の本質は忘れ去られてしまっている。神は、超能力者や占い師の親玉みたいな者に成り下がり。宗教というのは、金儲けの手段にしか成らない。
結局、信仰も市場の論理に支配されてしまっている。地獄の沙汰も金次第である。現代人は、神の中に、神の本質を見ようとはしない。ただ、自分のエゴだけを投影している。神にあるのは、純潔ではない。おのれのエゴだけである。欲望だけである。
共同体の論理も失われ、私の論理が横行するようになる。共同体の論理は、貧しくとも共同体の成員はお互いに助け合い、面倒を見るのが掟である。子育ても介護も共同で行う。孤児も寡婦も共同体が養育する。それが共同体である。
現代社会では、この共同体の論理が廃れ、私の論理によって支配されている。私の論理は、市場の論理でもある。私と社会との契約関係の論理である。
死ぬまで面倒を見るというのが共同体の論理だったのに、いつの間にか、市場の論理にすり替えられてしまった。つまり、面倒を見るのは、経済的代償の為。だから、最後は、私一人。つまり、個人と個人の契約関係に過ぎなくなる。それは共同体の論理ではない。愛情があるから世話をするのではない。ただ金のために世話をするのである。それが市場の論理である。
確かに、福利施設が整い。介護保険も確立された。近代的な設備と行き届いたサービスが約束されたかである。恵まれた環境が整ったはずなのである。
それは、この様な設備やサービスからは、人間と人間との関わりを感じられないからである。何かが欠けている。
どんなに、設備が整い、サービスが、向上しても結局最後は、一人で死んでいくことになる。しかも、その設備もサービスも金で贖(あがな)った物にすぎない。金以外の前提は存在し得ない。愛情もモラルも無縁である。
自分達は、豊かになったと思い込んでいる。しかし、それは錯覚である。いくら広い家に住んだからと言って豊かになったとは言えない。大勢の女を知ったからと言って愛情に恵まれているしとはいえない。金をいくら儲けたとしてもそれで幸せになれたとは言えない。それも論理である。それに対し、市場の論理も論理である。論理は一つではない。どの論理を選ぶかは、その人次第である。
貧しくとも、友や家族を大切にし、自分の生活を守っていく生き方もある。市場の論理だけが全てではないはずである。
人間は、社会的存在である。社会の本質は、共同体である。この共同体の論理の否定は、人間性の否定でもある。仲間のために、家族のために、忠誠を尽くす。それは馬鹿げたことか。
インサイダー取引、M&A、巨額な金を駆使して、若手と言われる実業家が、経済界を引っかき回す。彼等をヒーローともてはやすむきもたくさんいる。人気の女子アナウンサーやタレントもまとわりつく。そして、マスコミは彼等をもてはやす。
彼等は、合理的精神といい。法の精神という。しかし、一方で違法ギリギリの行為によって金儲けをしている者がいる。
最近の立身出世、成功談の話を聞いても、多くの人は、なにがしかの違和感を覚える。
道徳や正義、真理がないからである。何が正しくて、何が間違っているのか。そこには何もない。それは、批判する側にも、される側にも、善悪の確かな基準がない。あるのは、市場の論理だけである。
論理とは何か。我々は、それを長い間。科学的論理と、市場の論理に封じ込めてきた。しかし、論理の世界は、それだけにとどまらない。
現実の世界は、いろいろな論理が錯綜しながら、形成されてきた。
その論理の根本には、人間としての在り方、本質への問い掛けが絶えず存在していた。人間いかに生きるべきか。普遍的存在、神とは何か。真理とは何か。我々は、常にその問い掛けを繰り返すことにより、自らを戒め、暴走を抑えてきたのである。問い掛けそのものに、意味があった。その問い掛けの手段として論理があった。全てを明らかにしたと思えば、論理など意味がなくなる。なぜならば、論理は、真理を探究するための手段に過ぎないからである。真理が明らかになれば必要がなくなるのである。論理を絶対するのは愚かだ。論理は手段に過ぎないからである。
合理主義といい、その論理に現代社会は振り回されている。我々は、よりよき社会のために、論理をその本来の働きに戻す必要がある。