第一章 論理とは何か

 現代社会には、少なくとも、四つの論理がある。一つは、民主主義の論理であり、賛否の論理である。二つ目は、経済の論理であり、損益の論理である。三つ目に、スポーツの論理であり、勝負の論理である。四つ目は、近代科学の論理であり、真偽の論理である。
 賛否の論理は、法の論理、立法の論理、契約の論理、会議と手続きの論理である。損益の論理は、会計、簿記の論理であり、貨幣価値、市場の論理であり、取引の論理である。スポーツの論理は、ルールの論理、公平の論理、公正の論理、平等の論理、優勝劣敗の論理、力の論理、強者の論理である。真偽の論理は、数学の論理である。

 そして、現在、新たに、五番目の論理として、システムの論理が台頭してきている。システムの論理は、是非、オン・オフ(入切)の論理である。是非の論理とは、二進法・プール代数の論理であり、アルゴリズムの論理であり、要求仕様、要件仕様の論理である。また、要素は構成記号である。

 論理とは、第一に、命題の集合体である。第二に、一定の手続きを持つ体系である。第三に、命題間に、一対一の関係があり、相互に矛盾があってはならない(無矛盾性)。第四に、何らかの任意の命題に基づいている。第五に、一定の条件によって成り立っている。第六に、追跡が可能である。第七に、実証性がなければならない。第八に、過程である。

 まず第一に、論理は、複数の命題から成る。命題とは、ある一定の対象を指し示した文言である。つまり、ある一定の対象を明示的に指し示した文言である。また、命題とは、何らかの基準によって判定する事のできる文言である。
 この基準は、真偽に限定されているわけではない。賛否、善悪、損益、勝負、是非でもかまわない。何らかの基準に基づいて判定できる文章を命題とするのである。

 だいたい、論理上の判定は、正誤が基準である。真偽ではない。論理上の正しさと結果や事実上の正しさとは同一ではない。(「論理力を強くする。」小野田博一著 講談社ブルーバックス)論理的に正しくても命題が真でなければ、論理的に正しくても、結論は偽になる。元々、論理は、結論を導くための手続き、道具に過ぎない。論理学が、判定の基準に真偽の文字を使っている。その為に混乱が生じているのである。ちなみに、中国では、判定の基準は、正誤であり、真偽ではない。(「中国人の論理学」加地伸行著 中公新書)

 手続きというのは、一定の法則に基づく順序、手順があるという事である。
 人間は、そのままでは客観的にはなれない。少なくとも、自己と関わりのある対象に対しては、客観的には慣れない。客観化するとは、対象の側に自己の視点を置き換えなければならない。それには手続きが必要である。その手続きが論理である。

 論理的命題には、順番と位置付けがある。この順番や位置付けによって論理は成り立っている。順番を変えると論理は、別の意味を持つか、成立しなくなる。つまり、命題の順序・順位が論理では、決定的な要素なのである。即ち、命題に対して、論理上、順序は一定の働きがあるのである。

 一対一の関係というのは、論理的には、当たり前のように感じる。しかし、現実の世界では、一対一の事象よりも一対多、多対一、多対多の事象が多い。この様な多様な世界を一対一の関係に置き換えるのが、論理の働きである。
 逆に言えば、現実の世界に当て嵌めようとした場合、一対一の関係に固執しては限界がある。そこに論理の限界がある。何らかの前提条件を設定することによって一対一の関係を現出するのである。それ故に、必然的に、論理は、それを成立させている前提によって制約を受けるのである。

 命題は、前提条件に制約される。例えば、会議には、幾つかの成立要件(会議の成立要件、議決の成立要件等)があり、議決によって成立する命題は、その前提条件によって制約を受けている。また、法の命題は、法を成立させている前提条件によって制約を受ける。

 命題間が一対一に結ばれ、かつ、矛盾がなければ、論理は、結論から最初の命題へ辿れる事になる。この追跡可能性に重要な働きがあるのである。これは、会議やスポーツ、仕事などで誤謬や錯誤が生じた場合、何処に、問題があったのかを確証することができる事を意味する。問題点を追跡し特定することが可能であるが故に、全体の構造を維持することが可能となるのである。ただ、この事は、同時に論理の欠点、限界に成る事を忘れては成らない。論理を成立させている前提条件に誤謬がある場合、その影響が論理全体に影響を及ぼし、論理体系そのものの信頼を損なう結果になることもあるのである。

 つまり、論理に支えられた理論体系は、その論理の成立要件によってなりたっている。全ての理論は、論理的基礎の上に立てられた構造物の一種に過ぎないのである。論理の下には、事実がある。論理が事実なのではない。ただ、理論上は、論理が押さえた範囲内にあることを事実と仮定しているのである。それを忘れると自分が信じている理論だけを絶対視することになる。

 しかも、論理的体系は一つではない。科学の論理体系と法の論理体系は異質な体系である。それ故に、科学と法は、次元の異なる体系になっているのである。これを同一視することはできない。

 科学も、論理体系の一つに過ぎない。つまり、科学的論理体系も一定の前提条件によって成立しているのであり、絶対的な体系ではない。大体、科学の成立要件自体が相対性にあるのである。

 物理と物理学とは違う。実体は無限であるのに対し、認識は有限である。実体は部分であるのに対し、認識は、部分である。実体は無分別なものなのに対し、認識は分別である。実体は、完全なものであり、認識は、不完全なものである。実体は神の側にあるものであり、認識は、自己の側の問題である。

 現代社会で論理というと、科学的論理のみを指して言う場合が多い。しかし、現実の社会は、科学的な論理のみで成立しているわけではない。

 むしろ、科学的な論理以外の論理が、重要なのである。人間の社会は、科学的な論理だけで成り立っているわけではない。むしろ科学的な論理は、特殊な論理である。

 科学的な論理と、それ以外の論理とでは、構成要素からして違っている。数学的論理の要素は、数式、記号、言語からなるが、その他の論理の要素は、主として言語から成っている。
 つまり、科学的な論理とその他の論理とは、本質が違うのである。故に、科学的論理だけで現代社会を理解しようとしても無駄である。

 また、一対一の関係によって命題を追跡することが可能だとしたら、それは、最初の一点に集約されることを意味する。つまり、論理は、最初の一つの命題、即ち、始点にたどり着くことができる。そして、その始点は、任意な命題である。つまり、始点は、人間の直観的認識である。客観的事実ではない。任意な命題である。対象を認識し、命題化した瞬間、それは任意なものになる。そして、そこから、人間的な世界が始まるのである。

 あらゆる論理は、人間の主体的意志によって成り立っている。この事は、あらゆる理論は、その理念の根本において、その理念を構築した人間の意志、価値観に支配されていることを意味する。だからこそ、倫理観が重要なのである。つまり、科学も法も根源は倫理観である。

 現代社会の特徴の一つは、倫理の論理が欠如していることである。法の論理は、倫理の論理に準拠するが厳密な意味で倫理の論理とは違う。それは、倫理が個の論理、私の論理であるのに対し、法は、集団の論理、公の論理だからである。

 現代社会は、論理的な社会である。それ故に、現代社会を成立させている論理を明らかにする必要がある。

 法や制度は、任意な命題、恣意的な命題を根拠としているのに対し、科学は、物理的な対象、自明な命題を根拠としている。

 我々日本人は、自分が生まれた時から社会や制度を所与のものとして受け容れている。つまり、自分達の社会の法や制度というのは、生まれた時には、既にあり、また、その中で育ってきたのである。大きな変革期はあるがそれでも、人間の社会の本質には、違いがない。どんな体制でも厳然とした法や制度が存在している。その為に、法や制度をあたかも自然の法則と同じように思い込む性癖がある。
 法や制度は、人為的な世界、人間の認識が生み出した世界である。人間の認識は、不完全で相対的なものである。必然的に、人間の世界も不完全で、相対的なものになる。
 法や制度が不完全で相対的だから、この世の中も相対的だと思うのは、本末の転倒である。
 世界は一つである。しかし、人間の認識は、不完全で、相対的である。その為に、世界は、認識上において分かたれているのである。世界は無分別なものである。しかし、それでは人間は認識ができない。故に、人間には分別が必要である。人間の分別が国家を生み出す。しかし、国家に世界が分かたれたとしても、それは認識の問題であり、世界の実体とは違う。人間の認識が不完全だからである。つまり、我々は、自己の不完全性を自覚して、実体への信仰なくして世界の統一を計ることはできない。つまり、神のみが世界を一つにできるのである。




        


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