国家の論理

 はじめは世界は一つだった。

 朝靄の中、バイカル湖からハクチョウは、コー、コーと鳴き交わしながら、ゆっくりと空高く飛び立ち、日本へと飛来してくる。夏になると南の国からツバメたちが子育てのために、日本にやってくる。渡り鳥にとって国境なんて存在しない。国境は、人間の認識が生み出したものである。世界は一つである。世界を分かつのは、人間の意識である。

 世界は無分別な存在である。分別は、人の都合が生み出した。そして、その分別が世界を分かち国を生み出したのである。

 世界は、国家間の力の均衡によって成り立っている。国家間の力の均衡が崩れれば、世界は混沌とし紛争が起こり、最悪、戦争となる。世界の平和は、国家間の力の均衡によって保たれている。これは厳然たる事実である。

 国際法は、任意な法である。約束であって、義務ではない。国際法を守らせる絶対的な拘束力はないのである。つまり、国際法は、国際機関の加盟国に批准されない限り、効力を発揮しない。しかも、それは加盟国間、批准国間において効力を発揮するのであり、限定的なものに過ぎない。要するに法的効力からすれば、国内法に準ずる効力しかないのである。つまり、主権は国家にあるのであり、国際機関にあるわけではない。

 そもそも、我々が、現在、当たり前に国家だと認識するような形、例えば、国中が一つの法によって統治されている国家体制になったのは、つい最近のことである。現代のような国家が成立する以前は、国境線が不明瞭な国家や複数の国に従属する国家、権力機構が交錯する国家、国家権力の及ばない地域を内包する国家など、現在の国家意識からかけ離れた国が大多数であった。日本の江戸時代には、警察制度はなかった。また、現代の国家体制の代表格であるアメリカのような国でも、つい最近まで、西部劇にでてくるような無法地域が多く散在していた。遊牧民にとって国境はないに等しかった。砂漠に囲まれた国では、砂漠が国境のようなものであった。大海の岩礁の領有権なんて問題にならなかった。つまり、現在のように国境線が明確に確定された国家体制が確立されたのは、近年に至ってからである。そして、それに伴って、国境紛争が激化したのである。
 現代でも治外法権的な地域が散在する国家や複数の権力が覇を競い合っている国家、砂漠や海洋などで国境線が確定しきれていない国家がある。国家は、元々人間の力が生み出したものなのである。

 国境線が確定されていない時代においては、国家とは、国家権力が及ぶ範囲を指して言っていたのである。この様な時代においては、力による支配が全てである。法と言っても所詮は、力によって維持されているに過ぎない。力が全ての世界だった。この状態は、今日でも基本的には変わりがない。ただ、恣意的な力が、法的なものに変質しただけである。国家というのは、特定権力機構の力の及ぶ範囲に限定されているのである。

 国家は、人間の認識の限界から発生した観念である。しかし、一旦、発生した観念が実体を持ち人間を支配している。人は、対象を差別、分別する事によって対象を識別する。しかし、対象に差別があったり、分別があるわけではない。肉体を構成する部分に貴賤の別はない。肛門だから汚くて、頭だから貴いという事はない。汚いとか貴いと思うのは人間である。それは認識の問題であって、対象の問題ではない。
 人間は、自己の認識の限界を自覚しないかぎり、一つの世界を再現、再構築できない。

 何が世界を分かち、国家を生み出すのか。それは所有の意識である。つまり、自分の物と自分以外の物とを分かつ意識である。

 国家の成立の根源には、所有権の問題がある。所有権とは、自分の物と自分以外の物を分かつことによって生じる。それは、認識が生み出す物である。

 神は、所有せず。代わって人間が所有する。人生は有限なのである。無限、永遠は神の側にある。だからこそ、所有権の意識が生まれる。所有は、自己の限界が生み出す。人間には、限界がある。限界のある者が無限の物を所有しようとしたら、破滅するだけである。翻(ひろがえ)って言えば、所有は、人間の必要性が生み出した概念である。だから、くれぐれも、自分に必要な物だけを所有するように心懸けることである。

 人間の世界は、有限の空間と生と死の間(はざま)にしかないことを忘れてはならない。それ故に、私的所有権が重要になるのである。自分の人生、自分の世界は、自分でしか支配できない。だから、自分の世界は、自分しか所有できない。

 所有の概念は、私(わたくし)の境界線の内側で成立する。国家は、その延長線上に成り立っている。公(おおやけ)は、私的空間を超越したところにある。
 私は、不完全であり、有限な世界である。それに対し、公は、完全で、無限な世界にある。この様な人間の世界は、最初から矛盾している。その矛盾は、人間の分別が生み出している。しかし、分別がなければ、人の世の秩序は、保てないのである。それ故に、人間の世界は、公と私の狭間で、公と私の緊張によって保たれているのである。

 私的所有権の否定は、個としての存在、自分の世界、翻って言えばその対極にある公の世界を否定する事にも繋がる。

 この世の全てを所有することはできない。この世の全ての女を、男を愛することはできない。故に、自己の範囲を限定して、その中に自分の世界を再構築をする。その延長線上にあるのが国家である。再構築できる世界には、自ずと限界がある。それが国家の限界である。そして、自己が直接影響を及ぼすことが可能な範囲には、限界があり、段階がある。段階とは、直接、見聞できる範囲、直接、接触できる範囲、間接的に見聞できる範囲、間接的に接触できる範囲といった認識力の程度によって決まるのである。

 所有権は、自己の延長線上にある。つまり、国家は、自己の延長線上にある。自己の延長線上とは、自己の内と外を意味する。国家の問題とは、自己の内側に存在する物と外に存在する物の区分である。

 近代国家では、国家と国民の関係は、契約だと認識する。しかし、実際は目に見えた形での契約など存在しない。実際に存在するのは、力である。つまり、現代人は、生まれた時から国家の強制力を意識させられる。物事の分別の付かない幼児は、国家との契約を意識することはできない。意識するのは、力である。親の力、医者の力、看護士の力、そして、国家の力である。
 国家の論理は、力の論理である。力が国家を定義する。

 近代国家、国民国家が成立する以前は、国家は存在したが、国民は存在していなかった。存在したのは、国家権力だけである。

 国家には、何らかの強制力が働く。それが権力である。我々は、何の許可なく国境を越えようとすれば拘束されるか、悪くすれば殺される。交通法規を無視して高速道路を渡れば、命の保証はされない。人の物を黙って取れば、罰せられる。それが国家である。それが法である。それは、国家に対し、契約らしい契約を結んでいない幼児にすら適用される。それが法に触れるか触れないかは、当事者本人の問題ではなく。既に決められている事なのである。言いも悪いもないのである。予め法によって定められているのであり、法を犯せば罰せられるのである。当人の価値観は、問題とはされない。あるのは、法の論理、国家の論理である。そして、それは、力によって裏付けられている。選択肢は、その法に従い守るか否かでしかない。
 国家の強制力は、法に触れないで日常生活を送っている限り、何の支障もない。しかし、一度法を犯すと、法の力は顕現する。これが権力の特徴である。そして、力の論理である。そして、それは権力をどう定義するかによって決まる。

 悪事によって得た金も使う時は、法に基づかなければならない。それ故に、犯罪者は金を欲しがるのである。それが法の本質である。また、権力の本質でもある。つまり、権力とは統制的な力である。それは武力によって守られている。民主主義が成立するためには、軍の動向が不可欠であった。軍が民衆の側に立たなければ、民主主義は成立しない。それは歴然たる事実であり、軍事力を否定したら民主主義は成り立たない。国家を統制するためには、武力が不可欠だからである。逆に、どんな民主的な体制も武力によって常に崩壊する危険性を孕んでいる。国家は、理念ではなく。現実であり、武力の前には、極めて脆弱なのである。侵略にもクーデターにも脆い存在なのである。

 力、即ち、権力その物を、悪だとする考えがある。特に、戦後の日本人に多くある。しかし、それは、本末転倒である。敗北主義である。国民は、権力に依存して自分の生活を守っている。権力の空白が生まれれば、国内の治安は失われ、外国の侵略から守る術を失う。我々は、権力によって自分達の生活や行動に制約を受ける。しかし、その代償として、治安や独立が維持されるのである。この相互関係を抜きに権力の功罪を論じるのは、馬鹿げている。
 力には、いろいろなものがある。武力もあれば、民衆の力もある。叡智の力もある。自然の力もある。ただ、闇雲に何でもかんでも、力は、ダメだと決め付けるのは愚かである。問題なのは、権力の根源である。その在り方によって、権力は、良くも悪くもなる。丁度、包丁が使い方によっては利器にも凶器にもなるようにである。

 敵対する国家の力を削ぎ。強国を弱体化しようとするのは、常套手段である。近代以降、民主主義や共産主義という普遍主義的な思想が、席巻した。しかし、国際情勢においては、普遍主義は通用しない。国際社会は、国家国民が、その存亡、生存を賭けて戦う、戦場なのである。そのことを戦後の日本人は、理解していない。安易に普遍主義に組みする事は、自国の独立と存在を危うくするだけである。結局、国家間には、支配か、隷属しか存在しない。それが冷厳たる事実である。正義は、勝者にしか認められない。敗者に許されるのは、勝者の憐憫と寛容だけである。

 戦争の原因のほとんどは、内政問題、即ち、国内にある。外圧による原因、つまり、仕掛けられた戦争もあるが、その場合でも相手国が戦争を仕掛けてくる原因の多くを自分達で作り出している場合が多い。そして、その多くは、漠然とした不安や脅威が、即ち、疑心暗鬼や恐怖心が作り出している幻想である。自国が、自分の国だけで成り立つのならば、他国を侵略しようとはしない。自国が現に成り立っていないか、成り立っていけなくなるのではないのかという脅迫概念が戦争を引き起こす最大の要因である。(「軍事学入門」別宮暖朗著 ちくま文庫)

 戦争が経済にとって有効な効果を上げるというのは幻想である。戦争が物理的、人的破壊を伴う以上、経済的には、常に負の効果しかない。

 国家の論理は、権力の論理である。権力の論理は、統制と防御の論理である。統制と防御の論理は、内政と外交の論理である。

 一国家の範囲は、かつては、権力の統制力によって決まった。現在は、国際社会における国家間の力の均衡によって定まる。

 国家の論理は、権力者ないし、権力機構がうち立てたテーゼ(命題)や機構の上に制度を構築していくことによって成り立っている。つまり、国家は、制度と手続きによって書かれた、表現された思想なのである。

 近代国家は、この基幹、基礎の部分に憲法を定め。国家の制度機構の土台を盤石な物とした。また、制度や機構の矛盾を未然に防ぐようにした。故に、憲法は、国家の定義、国民の定義、立法の仕組み、司法の仕組み、行政の仕組みの基本的考え方、設計思想を明らかにした上に、国家権力に制約を加え、それを明文化している。そして、その上に教育や国家目標、福祉、労働者の保護と言った国家理念を明らかにしているのである。

 国家の本質は力である。その力の源、根拠が問題なのである。力の源が、権力者個人なのか、何らかの集団なのか、制度(手続き)なのか、それが問題なのである。民主主義は、それを制度・手続きに求めたのである。

 国家は時として凶器となり、国民や諸外国に向かって凶暴な姿を現す。その時、圧政や戦争と言った人類の悲劇が始まる。
 国家が、凶器となるのは、国家が国家としての論理を逸脱した時である。国家が、自己目的化する時である。

 国家が、自己目的化し凶器となるのは、国家の背後にある世界が見失われるからである。つまり、意識が対象を突き抜けてしまっているのである。
 世界が平和になるためには、国家をその基礎にあって成立させている世界を見極める以外にないのである。

 今日、国家権力は、法によって抑止されている。しかし、法は、法である。法を絶対視すれば、法がモラルの上限になる。法は、本来モラルの下限でなくてはならないのにである。まり、法に反しなければ何をやってもいいというのでは、モラルは崩壊する。法は、国民のモラルの上に成立している。そのモラルを成立させているのは、文化、文明である。

 その文化・文明を現代の日本人は理解していない。それは、民主主義体制であろうと封建体制であろうと、独裁体制であろうとその依って立つ基盤を理解していないからである。日本人は、国家は、国家自体によって自律的に立っていると錯覚している。しかし、国家は、国家として成立させている基盤がなければ立っていかない。その基盤こそが文明である。

 文明を支えているのは、国家理念、国家哲学である。日本人は、この国家理念、哲学を理解していない。哲学を考える時、聖書や聖典を排除していることがその証拠である。哲学の基盤は、信仰である。国家を支え、成立させているのは、国家秩序への信仰である。それを理解しないと国家の論理は理解できない。国家への信仰がなければ、国家の秩序は保たれないのである。
 法治主義は、法に対するある種の信仰である。それが法治主義の限界でもある。その限界を補うために、憲法と個人主義が必要だと民主主義者は考えた。それが近代民主主義である。
 憲法は、国家、国民の定義と法の定め方を定義したものである。それによって、国家理念建国精神、国家哲学を表している。しかし、この様な憲法も個人主義の裏付けがなければ実効力を発揮しえない。
 個人主義は、自己の確立が前提とのなる。自己が確立されなければ、衆愚政治に堕する。

 無神論的考え方に囚われた日本人は、国民国家の基盤は、無神論的、唯物論的な思想だと錯覚している。国家は、一つの考え方に基づかなければ、統一できない。国家には、統一的な理念が必要なのである。その証拠に国家には、一つの法体系しか存在しない。一つの現象、事象に複数の法体系が存在したら国家は分裂する。むろん、一つの事象、現象に対する解釈が複数、存在してもおかしくはない。しかし、その基となる、根拠となる法体系は一つでなければならない。この様な、国家は、何かしらの普遍的存在、絶対的存在、超越的存在を前提とせざるを得ない。その好例が、コモン・ローである。科学主義や合理主義、法治主義も変わりはない。ただ、それを人間の理性とするか、自然の摂理、神とするかの違いである。人は、自分の信仰する存在を絶対とし、他者の信じる存在を迷信とするが、実体は変わりない。一種の信仰である。信教の自由を掲げた民主主義を無神論と捉えるのは勝手だが、むしろ、地上の権威を認めようとしない民主主義こそ一層宗教的ドグマに囚われている。敗戦によって与えられた民主主義を善しとしている日本人にはそれが理解できないだけである。
 法や個人を超越したところにある絶対、普遍な存在、それを前提としない限り、民主主義国家は成立しえないのである。

 人間は、価値観を共有しない者を無意識に忌避する傾向がある。価値観の根源は、論理ではなく。信仰である。つまり、何が正しくて何が悪かを人間は論理的に認識するのではなく。直観的に認識するのである。この価値観の根本は、信仰である。つまり、同じ神を信仰しない者同士では、同じ国を持てないのである。それ故に、法に対する信仰による制度的規律によって近代国家は成り立っている。国家紛争の影には、この様な宗教的対立が隠されている。この点を見逃している限り、国家紛争の真の原因は理解できない。
 民主主義者が思想的に中立だというのは、民主主義と言う信仰を持っている者が言うことであって違う神を信じる者から見れば、それは独善に過ぎない。
 国際平和を実現したいと望むならば、お互いの信仰を尊重しつつ、相手を宥(ゆる)す寛容な精神が必要なのである。




        


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