法の論理

 日本は、法治国家である。日本だけでなく、国民国家は、原則的に法治主義である。現実は、どうあれ、今日の世界では、独裁国でも原則は法治主義をとっている。つまり、現在、世界の大多数の国は、法治主義である。つまり、世界は、法の論理によって支配されている。ならば、法の論理とは何か。法の論理の鉄則を明らかにしておく必要がある。

 法の論理には、立法の論理と司法の論理がある。立法は、法を制定するための論理である。法は、予め定められていてはじめて効力を発揮する。法を会議通して行うのが、議会制民主主義である。司法の論理は、法の顕現化の論理である。つまり、法を実社会に、実現化、実体化、即ち、現す論理である。

 法の効力は、法の正当性によって裁定されるべきものである。法の正当性は、手続き的正当性、倫理的正当性、公的正当性がある。

 法の正当性において最も厳しいものは、汝、殺すなかれと言う律法である。これ規律は、倫理的な側面と公的側面において厳しく対立することがままある。その際たるものが、戦争である。つまり、国を守るために、人を殺すことができるか。また、許されるかである。死刑問題や中絶問題も同様の矛盾をはらんでいる。これらは、法の論理において最も問われるべき問題である。
 結局、根本は、自己善である。諸個人が何を善としているかに依らざるをえない。故に、法は、自己善の延長線上で捉える以外にないのである。

 法の論理は、制度と手続きの論理である。制度も一つの論理である。そして、その制度の論理の上に、また、法の論理や組織の論理が成り立っている。

 議会制民主主義の場合、立法の論理は、会議の論理でもある。会議の論理は、次の節で説明する。

 法にもコモンローと制定法がある。それは、法を形成する過程が、司法に依拠するか、立法に依拠するかによる違いである。司法に依拠する法をコモンローと言い、立法に依拠する法を制定法という。それは、法を成文化された命題としてみるか、法その物を何らかの実体がある体系と見るかの違いである。
 コモンローか、制定法かの論争は、中国の名実論争も同根の論争である。つまり、文か実かの問題である。法の在り方を帰納法的な過程と見なすか、演繹法的な過程と見なすかにもよる。コモンローは、法を帰納法的に求め、制定法は、演繹法的に求めている。
認識か存在か、この問題を突き詰めると、法とは何かという問題に突き当たる。つまり、法というのは、文言・命題として表された文章を指すのか、それとも、その文章の背後にある何らかの実体、法則を指すのか。その実体も神の意志とか、人民の意志のようなものを指すのか、自然法や科学の法則のようなものを指すのか。それによって法の在り方も違ってくるのである。
 そして、法の在り方もこの法の認識によって百八十度違ってくる。日本人は、人種差別問題が、裁判の判決に重大な影響を及ぼすとは考えていない。しかし、コモンローの国アメリカにおいては、人種差別問題は、裁判の行方に深刻な影響を及ぼすことが往々にしてある。これは論理前提が違うからである。
 コモンローといえども議会立法がないわけではない。しかし、根本的には、司法の過程で法は形成される。それだけ、司法の力が強いのである。

 議会制民主主義の論理は、社会契約の論理である。つまり、法とは、社会的手続きによって定められ、手続きに基づいて運用される。

 契約とは、手続きの論理である。国民国家の法は、社会契約である。国民国家の法の論理は、手続きの論理である。その証拠に、六法全書を形成する方のうち、二つまでも訴訟法である。つまり、訴訟手続きに関した法である。

 司法の論理は、次の過程で成立する。第一番目に、事実認定。第二番目に、法の解釈である。法の解釈は、弁論と求刑によってなされる。第三番目に、判決。罪の有無の判定である。第四番目に、裁決。量刑の裁定。犯罪の成立である。

 法は、事件の存在によって顕現する。事件とは、犯罪である。犯罪とは、違法行為である。つまり、法は、犯罪を前提として成り立っている。離婚のような民事訴訟の場合、厳密には、犯罪とは言えないが、契約に違反していると認識する者がいるから訴訟が成り立っていることには変わりない。つまり、法の論理の根本は、契約の論理である。

 かつて、共産主義国では、売春は存在していないことになっていた。その為に、売春を取り締まる法がない。この場合、売春が存在しないから法が成立しないのか、法がないから売春が存在しないのか、微妙な問題である。ただ、法の論理の特徴を端的に表している。

 法の論理は、事件の認識によって始まる。犯罪の認識は、被害者と被疑者の両者の存在によって成り立つ。つまり、法の認識は、被害者と被疑者の存在によって成り立っているのである。法は、ある行為に対し、違法行為だという認識が生じた時に派生する。どの様な行為も違法行為だという認識がなければ、成立しない。

 契約も当事者間に結ばれた契約と、社会との契約の二種類がある。

 そして、裁判は、被疑者の罪状認否によって始まる。つまり、自分の罪を認めるか否かによって以後の展開が違ってくる。
 法廷においては、無罪を宣言することによって裁判は開始するのである。宣言がなければ裁判その物が成り立たなくなる。つまり、宣言は、裁判における初期命題である。

 ただ、被害者が人間とは限らない。法人のような法的に人格を認められた団体や国家のような組織も含まれる。いずれにしてもある行為によって何らかの被害が生じたと認められた時、法はその効力を発揮する。

 違法行為には、意図的な行為と過失とがある。意図的であるか、否かは、事件の有無には関係ない。ただ、量刑には、影響を及ぼす。つまり、何らかの被害者が存在し、それが何らかの違法行為に基づいていれば、その行為が意図的であるか、否かは、事件の立件には、影響を与えない。被害があって違法行為が認められれば、過失か故意かは、立件に影響しないのである。

 法の解釈は、弁証法的になされる。手段は、ディベートである。
 法の解釈が法の条文に基づくか、裁判過程における弁論に基づくか、それが制定法とコモンローの決定的な違いである。しかし、いずれの場合も論告、求刑、弁論によって法廷で争われ、判決によって決着する。
 判定は、裁判官ないし、陪審員が協議の結果する。陪審員制の場合は、陪審員の評決によって刑が確定する。

 判決によって罪の有無が確定し。有罪になると、法の条文の基準、論理に従って裁判官が刑を量定する。それが量刑である。
 法の解釈や量刑の決定は、過去の事実、即ち、判例を参考とし、法令に基づいて行う。判例を基礎とするか、制定法を基礎にするかによって判例法と、制定法の差が生じる。しかしいずれにしても判例は、法を実際に執行する上で重要な要素であることには違いがない。法の論理において事実関係は、無視しできない重要な要素の一つなのである。

 法の論理は、基本的に制度の論理である。制度と手続きによって保護されている論理である。この法の論理によって民主主義は成立している。つまり、民主主義の論理は、法と制度の論理なのである。

 日本人は、哲学と現実とが結びついていない。思索にばかり傾いて、実戦的な要素がかけている。哲学は、サロンにおける知的なゲームか教養の一種だと思い込んでいる日本人は多い。いずれにしても、哲学は、あまり現実的ではない、役に立たない、机上の空論だという決めつけている人が多い。つまりは、哲学を敬して遠ざけているのである。日本人社会においては、哲学はお経のようなものである。訳が解らないが、何か、ありがたそうだから、何か権威付けや景気づけが必要な時に、いわば祭礼の祝詞(のりと)のように使う。日本人にとっては、哲学の使い道なんてその程度である。それが教育に端的に現れている。教育に哲学がない。そのくせ、妙なアカディミズムで、無用の用などと、学問や教養は、社会の役に立たなくて良いと思い込んでいる節がある。
 しかし、欧米においては、哲学は、社会において重要な役割を果たしている。と言うよりも、哲学的基盤がないと社会そのものが成り立たない。それこそ諸国の建国の理念は、諸国民が叡知を出し合って磨いた哲学の上に成り立っている。国家を建設する上で哲学は不可欠な要素なのである。
 法を例にとれば、英米法と大陸法とは基盤が違う。つまり、英米法は、コモン・ロー(判例法)であるが、大陸法であるフランスやドイツは、制定法が基盤である。
 なぜ、英米はコモン・ロー、判例法なのか。それ自体が哲学である。また、同じ、コモン・ローの国と言ってもアメリカと、イギリスは法の体系が違う。第一に、アメリカには憲法があるが、イギリスには憲法はない。
 コモン・ローの背景には、イデア、理性、庶民法、自然法の流れがある。つまり、法は御上に与えられるものではないと言う哲学である。
 コモン・ローが成立するためには、特殊な事情がある。しかし、その特殊な事情にこそ哲学的な問題が潜んでいるのである。まず第一に、イギリスは、歴然とした階級社会であり、王制であるという点である。この王権と庶民との対立の中でコモン・ローは形成されてきた。イギリスの裁判制度の多層性、複雑さは、この間の事情を反映している。また、御上に依存しない法曹界の在り方も同様である。この様な構造を理解するためには、イギリスの歴史を理解する必要がある。国王の不在が法に果たした影響も無視できない。また、宗教法と世俗法の存在や貴族法と庶民法の存在も重要である。
 英国においては、国王、封建領主、所謂(いわゆる)、ジェントルマン、そして庶民の長い歴史的な対立と和解、それに伴う討議の中でコモン・ローは形成されてきた。そして、その議論の根本にあるのが哲学である。この様に、欧米においては、哲学は、国民生活に欠くことのできない重要な要素である。

 では、法の前提となる公の正義とは何か。公の正義は、結局は、個人の正義の平均、標準に過ぎない。組織内の掟は、構造的均衡である。常識、良識によって成り立っている。しかも、この良識や常識の成り立つ範囲というのは、意外と狭い範囲なのである。その上公の正義は、普遍的、絶対的な基準ではない。相対的な基準である。さらにいえば、時の権力やその時の体制に靡(なび)く傾向が高いのである。
 社会的な規範はこの公の正義の支配下にあると言っていい。この公の正義だけでは主体性は形成されない。 

 裁判員制度が我が国で施行される。しかし、いかなる思想の基に人を裁けて言うのか。その点が明らかにされていない。いかなる思想の基で裁くべきなのかが明らかにできなければ、思想信条の自由を犯す危険性がある。裁判員制度は、死刑に相当する重罪を対象としているのである。仮に死刑と決まれば、人殺しに直接手をかすことを意味する。それは、人間の根本的価値観、倫理にかかわる問題なのである。それにどう対処するかを明らかにできなければ、個人の思想・信条を蔑(ないがし)ろにすることになる。

 主体性は、あくまでも自己善が前提である。その自己善は、神と対峙することによって形成される。つまり、自己と神を介して向き合うことによって形成されるのである。この自己善があって法の健全性は保たれるのである。

 日本人は、忘れてはならないのは、日本以外の国の大多数においては、法の背後にあるのは、神と契約である。そこにあるのは、強い自分達の意志である。それ故に、アメリカでは、法廷のみならず、議会や式典においてかならず神にかけて誓約をし、証言するのである。

法とは何か

(法の専門家の友人に対するメール)

法学は、根本的な学問だと思います。
ただ、日本の法学は中途半端だとは言えます。
一番問題なのは、コモン・ローの問題に深く切り込んでいないことだと思います。
それと、今度の裁判員制度の問題。
なぜ、あれほど根本的問題があっさり通ってしまったのか。
新会社法にしてもそうですが。
郵政民営化の陰で、法の根幹にかかわる問題が、国民的議論を経ずに通ってしまったことの方が恐ろしい。
僕には、独裁的に見えるのですが。
これから、裁判員制度が実施されたら、混乱を引き起こすと思いますね。
死刑に該当する重罪だけを対象にするというのも解せない。
法に従うと言うけれど、直接、人を殺す事になるのですから。
僕は、法学者、法学部出身の人がもっと頑張らないと、日本は危険なことになると思いますね。

法学こそ、全ての哲学が集約されたものでないと困るんですよね。
なぜならば、法は、人々の暮らしの根本だからです。

日本国憲法は、可哀相なくらい粗雑に扱われている。
違憲合法論なんて、哲学も信念もない。
そのくせ、何かというと日本国憲法です。
憲法こそ、法学の精華ですよ。

現代の法律に対する議論は、訓古学、修辞学的なものになっています。
つまり、言葉の解釈学になっている。
だから、憲法九条の問題も言葉尻の問題に過ぎず。
その本来の精神がどこかに行ってしまっています。
この様な危険性を避ける意味で、英米では、あえて判例法を取り、
司法に期待しているのだと思います。それがコモン・ローです。
そのことは、会計学を勉強していて痛切に感じました。
だから、英米の人間は、法学の専門家を信用しない。
法曹界は、だから民間なんです。
その意味を日本人は、理解しようとしない。
日本人は、法は御上のものであって、本質的な議論を避けようとする。
立法者であっても、

憲法は、神聖なものです。
それは、護憲派にとっても、改憲派にとっても、
国民国家を自認する国民ならば、
やっぱり憲法に最後は帰結するように努力すべきです。
日本は、憲法を祭り上げているだけで、本心から敬意を払っていない。
その際たる者が、法曹界の人間です。
アメリカでは、中絶を認めるべきかどうか。
死刑は是か、非か。
離婚は善いのか悪いか。
同性婚は、是か非か、国民全体が真剣に議論し、
法に反映しようとしている。
これらは、全て、倫理観の問題が根底にあり、最後は哲学であり、信仰の問題です。
だから、法学者は、哲学者であり、世間の尊敬を勝ち取っているのです。
ところが日本の法学者は、言葉の解釈に拘泥している。
国民国家において、法は、哲学であり、法こそ哲学なのです。
アメリカ憲法の歴史を見ると憲法の重さがよく解ります。
アメリカでも、カナダでも、フランスでも憲法は、国家の宝です。
英国にとっては、憲法は、また違う意味があります。
憲法を持つ持たない、成文化するか、不文律とするか。
それこそ思想です。哲学です

お経なんですよ。お経。
日本には、原典があるが、翻訳したお経が少ない。
それに対して、中国には、翻訳したお経しかない。
この違い大きいですよ。
意味もわからずにただ唱えていればいい。
**さんほどの人ですら、自分は、法学出身だからと言う。
でも法学者って大変ですよ。
イギリスで法曹界の人間の地位は極めて高い。
まあ、イギリスは、法曹界ですけど。
フランスやドイツでは大変なものです。
会計士も然りです。
皆、哲学者に準じる扱いです。
戦争を国際法や法の解釈として語るのではなく。
法哲学、法理念として語れれば、大変なことだと思いますね。
ただ、国際法でああだこうだと言われてしまうと。
岡崎久彦氏がセミナーで、現在の国際秩序は、ウェストフェリア条約で確定したと言われたのを聞いて以来、ずっと気になっていたんですよ。
ウェストファリアは、インターネットに全文のっているんですが、とても、ぼくの手には負えない。
法から、法の精神を読みとるのは、専門家でないと駄目ですね。
法は、その精神にこそ本質があると思います。
法は哲学ですよ。

会計の勉強しているときにつくづく思いました。
今度の新会社法の施行にしても会計制度の変更や経済政策の時でも
まったくと言っていいほど、会計学の専門家からの発言がない。
今度の裁判員制度の導入に関しても弁護士会が動いたという事ぐらいしか情報がない。
会計学も法学もこのままでは逼塞してしまいますよ。
まるで、会計学は、家元制度みたいです。
法学は、弁護士みたいなプロがいるから
わかりませんが、会計学はどうしたのだろう。
英米では、会計制度の変更を担っているのは、会計士ですよ。
法の理念や哲学を担うのは、法学を学んだ人だと僕は思う。
それが、法の解釈ばかりで肝心な時に発言しない。
いかなる思想の基に人を裁くのかを明らかにできなければ、
思想・信条の自由を犯すことにもなります。
もし、人を殺すことを罪だと考えている者が
裁判員になった時、殺人犯を裁くことがてきるでしょうか。
少なくとも、どの様な議論が法曹界でなされたのか。
それぐらいは明らかにしてもいいと思います。
もっと自由になぜ、法の哲学について議論できないのでしょう。
僕は、法学界を覆う権威主義に問題があると思います。
それが、憲法論に及んだら、国民の知らないところで、
護憲派、改憲派の政治の具に憲法はされてしまう気がします。
今こそ、法学徒が頑張るべきではないのか。

法の精神というか。
法の魂というか。
それが失われいくような気がします。
アメリカの憲法の歴史や英国の法曹界の歴史を見ると
法が生き生きとしています。
むろん、英米法の矛盾もあります。
誰でしたっけ、アメラグの選手が黒人なるが故に無罪になった。
でも、そこでは、真剣な討議があったと思います。
そこでは、国民がみんなで議論をしています。
日本の法律論争は、国民から見て解りにくいのです。
一般国民が理解できないのでは、国民国家の法と言えるのでしょうか。
僕は、そう思います。
法哲学こそ今求められている気がします。

法学者ほど現代法の枠の中でしか法を考えない。
それも、文法とか、法の特殊な用語とか、語字の解釈だとか、手続きとか、
そう言った枝葉末節的な事柄です。
法の勉強をしようと思ったとき、法の歴史や哲学にかんする文献が少ないのに困りました。あっても、考古学的な、文献学的なものしかない。
でも、リュクルゴス法典やマヌ法典、ナポレオン法典、権利章典、アメリカ合衆国憲法、フランス人権宣言、中国の法家思想、聖徳太子の十七条憲法といった法に関する文献をかつては胸をときめかしながら読んだものです。
それが法学という専門分野に行ったとたん消えてしまう。不思議なことです。

ハムラビ法典もありました。イスラムのシャーリアもあります。

中国で法家思想と儒家の思想の戦いというのは、面白いと思います。
最後には、儒家が勝つのですが、いろんな意味で法に対する論議がなされていますよね。その過程で焚書坑儒みたいな事件が起こっています。
ところが、そう言う議論が現代の日本ではできない。
古代中国の方がずっと自由な討論をしている。

英米法かドイツ法かという狭い視野でしか、法が捉えられないのは不幸だと思います。
それは、シャーリアやハムラビ法典をどう考えるかという視点がないために、イスラムの問題が理解できないという事にも通じると思います。
英米法やドイツ法ばかり研究しても、今の中東問題の謎は解けない。
考えようによっては、英米法とイスラム法の戦いが、中東戦争の根っ子にあるとも言えます。つまり、現代の中東問題は、英米法とシャーリア、イスラエル法の戦争だとも言える。
イスラム法の問題は、金利問題の時に痛感しました。金利をどう考えるか、僕には、シャーリアの規定を一概に間違いだとは決め付けられない。
インドのカースト問題もしかりです。
ソビエトでは、売春というのはあり得ないから売春取り締まる法がなかった。その為に、売春を取り締まることができなかったというのも法に対する思想の現れだと思います。こう言うこともソビエトや中国の法律やその根本思想はなんだろうという考え方がないと解けない。
我々は、知らず知らずのうちに欧米文化を絶対視していますが、その為に、何に中東の人達は反発しているのかを理解できなくなっている。
それは、人種差別を無意識にしていることにもなると思います。
英米、ドイツ以外に法なきがごときです。
しかもコモン・ローについて無理解なのでは、一体、日本の法学というのは、何なんですかね。

中国でも批林批孔運動のなかで、法家思想と儒家思想の対立がある。そこに道家思想や墨子、孫子が入り込むといまだに諸子百家時代の議論を引き継いでいることになる。
凄い歴史だと思う。それなのに、日本は、たかだか百年足らずの範囲でしか論争していない。
ローマ法なんて今でも生きていますよ。ハムラビ法典も。シャーリアなんてもっと凄いし。まだ、イギリスでは、ベニスの商人の発想が生きている。
近代を構成する要素の中に僕は、近代スポーツを入れていて、その関係で、スポーツのルールの歴史を調べたのですが、これがものすごく面白い。法の形成の原型があるんですね。
フットボールの歴史なんですけど、ラグビーとサッカーがなぜ分離したのかとか。レフリーとアンパイアの違いとか。そのなかで我々は、ルールを固定的に捉えるけれど、イギリス人は、毎回話し合いで決めてたんですね。そう言うのは、契約と法の意味を生々しく現代にも伝えている。
ラグビーの前身は、村争いなんですよね。それって一種の戦争じゃあないですか。戦争と法というのは、根源的な問題ですよ。捕虜の扱いや停戦の取り決めなんて、そのルールがわからないと国際社会に入れてくれない。
東京裁判の法的正当性はとか。インドの判事の勇気というのは凄いです。
こういうことは、英米法やドイツ法の範囲を越えている。

法学論争て、元々本質的なんですよ。胸がときめくような。だから法律って面白いんだと思うんですね。
例えば、中絶を認めるか否かとか。
離婚は善いか悪いか。
一夫一婦制は妥当か。
一番なのは、死刑制度ですよね。
善と悪とをハッキリとしてしかもその基準線引きをしなければならない。
イギリスあたりでは、犬の小便する場所まで決めると聞いたし、
禁酒法というのは、いまでも州単位、町単位であると聞きました。
言葉の解釈ではない。
つまりは人間の倫理を具現化しなければ成り立たない。
つまり、哲学を具体化したものだと・・・。
それが本質なんですよね。
人間の生き様の問題だし、社会正義の問題。
それは避けて通れないはずなのに、法学者は、言葉の解釈学にすり替えている。
日本の法律論争は、その本質を避けて通っている。
その本質部分は、所与のものであるかのごとく。
国旗、国歌問題なんて典型ですよ。
裁判官の主観的価値観で左右されているのに、
裁判官は、公正中立だという前提で成り立っている。
虚構ですよ。虚構の上に法体系は成り立っている。
その虚構をほったらかして、法に対する議論をしている。
欺瞞でしかない。日本の裁判官は神の如き存在ですよ。
日本人は、禁酒法は悪法だという認識しかない。
なぜ、悪法かと言えば守れないからと言う理由でしょ。
ならば売春防止法も悪法ですよ。
しかし、アメリカでは禁酒法は悪法だなんて思っていない。
禁酒だって、売春だってモラルの問題でしょ。
日本人は、どこか、法の原理とか、法の精神というのは、常識とか、良識のレベルでしか捉えていない。
法そのものを否定している人間もいるんだという認識がない。
法律論議というのは、実は、哲学論議であり、宗教論議なんですよ。
それこそ神を認めるか否かという。
法は観念的な哲学論争ではなく。現実であり、現実的哲学論争なんです。
だから、面白いけど、厳しくもあるはずなんです。
それを上っ面の形式にしてしまえばそれはつまらないものになる。
もともと、面白いものなんですから。

法律は、自然の法則、物理法則とは違う。
人間対人間の関係によって生み出されたものです。
所与のものではない。
任意のものです。

今、常識だの良識だのを信じている人がどれ程いるんですかね。
誰も信じていない良識とか常識の上に法体制は成立している。
裁判員制度が前提とするのは、ありもしない人民の意志ですかね。
幻想や虚構の上に法体系は立っている。
遵法精神なんていきなり言いますが、
その前に法の精神を問うべきだと思います。
権力とは何か。
法を守らせたいならば、法の正義が信じられなければ。
私はそう思います。

時折思いますね。
何が大切なのだろうと。その大切なものを見失ってしまったのではないのか。
北朝鮮が、核実験をしても民放は、予め決められた番組しか報道しない。
報道できない。その決められた事すら満足できずに、報道番組では、つまらないミスが続発している。
僕らはいつのまにか、神の目で世界を見ているのではないかと。
全ては、予め決められていて、自分達ができることは限られている、そう言う諦観に基づく、所謂三無主義世代と自分達は、常に正しく間違っているのは、体制なのだという全共闘世代。どちらも無責任であることには違いない。
でも我々は、既に、次の世代に責任を持たなければならない年齢に達しました。
その自覚に基づいた行動をしなければ焦ってはいるんですが。
確かに、あっいたいですね。
でも、その前にやるべき事が多くで、時間がとれないのが残念です。
それに、なんだか、気持ちばかりがはやってしまうかもしれませんね。

今、北朝鮮や中国で民主化のために戦っている人達のように・・・。僕らは、言論の自由という恵まれた環境にいながら、それに甘えている気がしますね。過激派みたいに無理をして反社会的な行動をする必要はないけれど、勇気を持って行動すべきかもしれませんね。義を見てせざるは勇なきなり。

兵庫県かどこかの公営温泉で、家族風呂が原因で廃業に追い込まれそうだというニュースがありました。

何でも、県の条例で六歳以上の男女が混浴をしてはならないというのがあるそうで、その条例に抵触するという理由だそうです。

法に対する日本人の考え方が端的に現れていると思います。

法を変えるとか、特例を設けるとか、実体に合わせるとか、とにかく、正式な会議や手続きによって法や制度、ひいては、社会を変革しようという発想がなくて、あくまでも、法の条文の解釈で争っている。もう決まったことは決まったことで、どうにもならないんですよね。

報道する方も具体的なことには何も触れずに、外野席から皮肉を言うだけ。

浴場の方は、事前に県に相談していると言うし、また、自動車の免許書などの身分証明書で、お客の確認しているという。それに対し、県は、介護者が必要な場合と限定していたという。

なぜ、条例に違反しているかが、発覚したのは、隣町の公衆浴場で同じような家族風呂をしようとしたところ、反対にあい、それで発覚したという。

法は何のために、誰のためにあるのかと言った。もっと本質的な議論はどこかに行ってしまっている。やっぱり根本がわかっていないのだと思います。

自由を主張するのには覚悟が必要です。覚悟がないままに何をやっても許されるというのは自由ではありません。ただ言いたいことを言えば良いというのは自由ではない。全体主義的体制において、国民の権利を主張することは、命懸けです。銃口の前で、権利を主張するそれが自由です。自由か、しからずんば、死をと言う覚悟なければできません。
言論の自由は、その様にして獲得してきた。
その言論の自由を猥褻論争に矮小化し、見えたか見えないかで危機におとし込む。それが今の言論界です。
確かに、猥褻論争は、言論の自由にかかわる問題です。しかし、言論の自由の本質は別のところにある。それを見逃すべきではない。
自由を議論する時、自分の何を犠牲としようとているのか。その犠牲を払う覚悟があるのか。それが重要だと思います。

日本人は、違法行為自体を悪だと見なす傾向がありますが、合法か、非合法かで善と悪とを見極めるのは困難ですね。飲酒を悪だとしている国や地域、宗教というのはかなりあります。こういう国や宗教からみると日本人というの不道徳なのでしょうし、アメリカ人というのは、不思議なところがあると思いますね。麻薬はいいけど、タバコは駄目と言ったり。そこに、日本人の言う自由と彼等の言う自由との違いがあると思います。

僕は、法や正義は、自己善の延長にあるのだという考え方です。つまり、先ず自分が何を正しいとするかですね。自由は、それを明らかにしなければ成り立たない概念だと思います。自分が何を善とするか、それによって自由とは何かが違ってくる。

僕は、自分さえ善ければいいのだと言い切るようにしています。そうしないと、自己中心、個人主義も自由主義も、また、個人主義を土台とした民主主義も成り立たない。だから、誤解されても誤解されても言い切らなければならない。
ただ、自分さえ善ければという発想には、何をやってもいいという事も、他人はどうなってもいいなんて言ってないと但し書きをしますが。あくまでも、自分が善ければ前提です。
そうしないと、勝手に自分さえ善ければ何をやってもいいんだとか、自分さえ善ければ、他人なんてどうなってもいいんだとか言うことを付けたされてしまう。自己と他者との関係ぬきに自分さえ善ければなんて誰も言っていません。勝手な決めつけです。

その意味で、善良という悪徳がはびこっていると思います。善良というのは、自己善の範囲でしか成り立たない。善良を相手の強要してもはじまらない。キリスト教とが自分達の価値観で、イスラム教徒に善良さを強要しても始まらないという事です。北朝鮮問題でも何を相手が善としているかによって対応が変わらざるをえないという事です。
先ず自分達が何を前提としているかが大事なのだと思います。その点を明らかにした上でないと、議論はなかなかかみ合わないと思いますね。
それからもう一つ気になるのは、日本人の善良とは、決めつけが多いのに、その点に無自覚だという事ですね。自分が正しいとすることを敷延化し、それをもって他者を判断する。批判する。
その意味で、日本人は、酒を飲むことはいいが、麻薬は駄目。タバコはたしなむ程度ならいい。法には、無条件で従うもの。結婚制度は一夫一婦が当然で、妾を持つことは不道徳。離婚は、個人の自由で、親や子が嘴を入れる問題ではないというのが、社会的コンセンサス。この事は疑いがない。
僕は、その点でも自己善と言う事を前提とし、自分は何を善としているかを明らかにする責任があると考えます。
良い例が、酒、タバコ、麻薬、避妊、セックス、堕胎、中絶、離婚、売春と言った問題ですね。日本人は、日本の社会の常識を全てに優先し、前提とする。禁酒法は悪法で、もう何処にもないといった偏見をあたかも世界の常識だと思っている。しかし、禁酒法は、まだアメリカでは生きている。豚や牛を食べない人間は、迷信に取り付かれていると決めつけている。しかし、江戸時代には、四つ足を食べる人間は野蛮人だと日本人は信じていたのである。また、進化論を信じていない人間がまだかなりいる。
タバコを飲めない奴は、営業マンになれないと言う時代もあったが、今は、公共の場でタバコを吸うことは許されない。
アラブでは、酒は駄目だが、ハッシシはいいと考えられた時代もある。
この様に、善悪の基準は、国や宗教、時代によって変わってくる。
先ず何を自分は、善として前提としているのかを明らかにし、その上で社会的合意を得ていくようにする。それが民主主義的手続きなのである。

先ほどの麻薬の件ですけど、合法非合法だけでは、片付けられない問題ですね。合法ドラックの中には、非合法ドラックよりも危険なものが多く含まれている。特に、媚薬の中には、単に中毒と言うだけでなく、強姦という要素が加わるものもありますし。合法か、非合法かの範疇だけで判断はしがたいと考えます。ただ、僕は、君子危うきに近づかずで、クスリの類は、避けて通るようにしています

悪事で手に入れた金も、使う時は、法に基づかなければならない。逆に言えば、悪事で手に入れた金であっても、法的に問題がなければ、使うことができる。だから、犯罪者は、合法的に金を使うために、金を儲けることを考える。それが違法であっても。貨幣も市場も成立していなければ、銀行強盗はいなかったろう。法があるから犯罪が生まれるとも言えるのである。それが法治主義である。

禁酒法の国へ行けば、酒を飲むこと自体犯罪行為です。しかし、日本で酒を飲んだところで犯罪にはならない。飲酒運転は違いますが。逆に、マリファナを吸うと日本では犯罪行為ですが。マリファナが合法化されている国では、少なくとも犯罪ではない。そう言う国で、マリファナを吸っても日本で犯罪者として捕まることはない。日本人は、日本人国内法に照らし合わせて違法合法を判断し、それで、不道徳だとする。しかし、違法と合法の基準と善と悪の基準は、元々異質なものである。
日本人は、違法なものは、即、不道徳なものと決め付けてしまうが、日本で合法でもアメリカでは非合法のドラックもある。しかし、日本人は、犯罪として摘発されないからそれを悪だとも、不道徳だとも思わない。
イスラム教徒を火葬にして非難されたことがあるが、日本人は、悪い事をしたと思っていない。非難されること自体不当だとしている。
日本では、豚を食べない者を迷信家だと思うが、イスラムでは、豚を喰う奴の方が野蛮なのである。そう言う日本人だって江戸時代は、四つ足を喰う者を野蛮だとしていた。
何が善で、何が悪かは、国や宗教、時代によって違うのである。
日本の週刊誌のヌード写真は、厳格な国では非合法であり、不道徳である。しかし、日本人は、その事をまったく意に介さない。マナーも日本のマナーを世界中に持ち込んで、相手国に嫌われる。ところが、日本人は、日本の国の法を敷延化してその尺度で善悪の判断をしてしまう。
スカーフを着用を認めるか否かで、フランスは、揺れている。それも、共和主義者か、民主主義者かで意見が分かれる。こう言うところが、民主主義に対する伝統の違いなのかもしれない。
先ず相手の行為の前提(どの様な国で、どの様な考え方、立場によっているのか)を確認しなければ、それが是か非かは、一概に決められない。
最後は、自分が何を善としているかによる。

日本人は、犯罪者、イコール、悪人と決め付けて、何も考えない節がありますね。そして、その根本は、勧善懲悪で、正義は常に体制の側にあるという先入観ですね。面白いことに、日頃、体制批判を繰り返し、反体制を気取っている人間にもこの発想は、多く見られる。 日本人は、何か問題が起きると水戸黄門か大岡越前、よくて、銭形平次が現れて事件を解決してくれることを望んでいる。これは、探偵が主役なイギリスと比較すると面白い。 日本人は、安易に体制を信じて頼る癖がある。国家を信じないで自分達で解決していこうという考え方を貴重としている英米とのの違いだと思う。 坂本龍馬や西郷隆盛は、幕藩体制下では、犯罪者である。西郷隆盛は、何度も島流しにすらあっている。彼等を犯罪者だから、即悪党というのは、短絡的すぎる。 体制を是とするか、非とするかと言った問題に矮小化されると困るが。 法以前の問題が忘れられがちであるが、まず、法以前の問題にも目を向ける癖を持つべきだとおもいます。

私は、遵法精神を否定しているわけではないのです。唯、法は、法だと言いたいのです。国民国家において法は、自分達で創り出すものです。唯、決められているからと言って法を絶対視したり、法が全て正しいと決め付けるのは危険だと言いたいのです。 全体主義的な国家にも法はあります。法を守ることは大切だが、それ以前に先ず自分の善悪をハッキリさせることです。 法だけでなく、日本人は、その場の雰囲気に弱い。法の方は破ることが悪い事だが、その場の雰囲気は、敗れないことの方が悪い。企業の不正を正そうとしたら、その場の空気を破らなければならない。皆で渡れば怖くないではいけないのである。 麻薬は確かに悪い。しかし、じゃあ麻薬とは何かと聞いたら、何処まで正確に答えられる人がいるのでしょうか。酒やタバコだってある意味で麻薬です。また合法ドラックも麻薬です。麻薬というのは、法律で決められているという前に、自分で確かめる必要があります。 麻薬以外にも、危険な食品や薬品はかず限りなくあります。何を善とし、何を悪とするかの判断は、結局は、自己責任の範疇にはいるのだと思います。



 性を売ることは、犯罪なのかという議論が、先ず、あるでしょうし。性を買うことは、犯罪なのかという議論もある。法で取り締まればいいと言うのは、一番乱暴な議論かも知れませんね。安直だし。

 犯罪というのは、被害者と加害者がいて成立する。つまり、犯罪が成立するためには、被害者と加害者が必要なのである。ならば売春という行為の被害者は誰かと言う事になる。この定義が難しいんですよね。これは、売春に限らず、禁酒、麻薬、避妊、安楽死、賭け事なんかにも言える。確かに、これらの行為には、直接的な被害者はいない。では、犯罪ではないのかという言うと、直接的な被害者はいないが、間接的な被害者はいると主張する者が出てくる。では間接的な被害とは何か。第一に、公序良俗に反するとか、秩序を乱すと言った社会的被害。第二に、例えば、自分達の子供にポルノなどが与える倫理的被害。第三に、人災などと言われる物理的被害。第四に、例えばタバコの煙、煙害のような肉体的被害です。しかし、ここで問題なのは価値観です。飲酒は、罪だとするのは、キリスト教的な倫理、また、イスラム教的倫理で、飲酒を別に犯罪だと思わない社会では、飲酒は、法によって取り締まるようなものではない。

 ただ、だからといって社会における規範的をなくせばいいと言うのは暴論です。なぜならば、規範がなくなれば、人々の間の信頼関係が保てないからです。信用のおけない社会になってしまう。モラルがあるから信用が保てるのである。現に、日本の社会は、まともさがなくなってしまった。キリスト教国にも、イスラム教国にも、宗教的倫理観が存在する。確かに、モラルに縛られたくはないですが、モラルを失うことはもっと恐ろしい。問題は、そのモラルの在り方ですよね。







        


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