組織の論理

 組織の論理の根本は、人間関係である。この事を忘れてはならない。組織の論理は、生身の人間の感情を無視しては成り立たないのである。

 組織から人間性が失われつつある。その顕著な例が、組織がただ単なる機関になりつつあるという事である。つまり、人間の集団としての性格を失いつつあるのである。一人一人の人間が組織を通じて何を実現しようとしているのか。その目的を失えば、組織は、単なる集団に堕落してしまう。

 魂のない肉体は、単なる屍(かばね)に過ぎない。残されているのは、腐敗し、崩れ去る事だけである。

 組織は、共同体である。しかし、最近の組織は、機関化しつつある。機関化しているのは、機関としての性格が強くなり、共同体としての働きが弱まっている結果である。機関化というのは、組織を職務、即ち、機能や仕事の塊として捉えることである。そうなると組織は無機質な構造物になる。この考え方は、人間に対する考え方にも影響する。人間をただ単なる物質か、機能としてしか見なさない、唯物主義的な考え方になるという事である。
 しかし、機能的側面、仕事という観点だけで捉えたら、責任や義務、その裏側にある権限と権利という側面が見落とされる。責任感が成立しなくなる。
 ただ平等主義が行き過ぎ、機能的な部分が弱まると、組織としての働きが失われてしまう。組織は、共同体としての働きと機関としての働きの均衡の上に維持されているのである。

 組織の論理とは、集団的意思決定の論理でもある。集団的意思決定というのは、構成員一人一人がそれぞれの立場、権限、責任によって下された意思決定を集積することによって成り立つ。

 集団的意思決定の論理である組織において重要なのは、部分・個と全体の関係である。つまり、組織は、全体と部分からなる。その部分の最小単位が、個としての自己、つまり、個人である。この個人と全体との調和と緊張関係によって組織は保たれているのである。

 この組織を成立させるこの部分の働きには、権限と責任、権利と義務がある。つまり、組織は、権限と責任、権利と義務の相互作用から成り立っている。

 組織の論理と、形式論理の違いは、論理を構成する要素間の関係が、形式論理では一対一の関係にあるのに対し、組織の論理においては、一対一と限らないことにある。組織の論理においては、一対一の関係だけでなく。一対多、多対一、多対多の関係が多く見られる。それが組織の論理を複雑にしている。この様な組織の論理を成立させているのは、部分の働きである。

 組織とは、合目的的な統制のとれた集団である。組織は、構成員が目的を共有することで成り立っている。一つの目的を共有できなければ、組織は、統一性を欠く。統一性を失えば、組織は、分裂をする。分裂した組織は、一体性を保てなくなる。故に、組織は、何等かの目的を共有する必要がある。

 組織の論理とは、連携プレー、チームプレーの論理である。組織の論理は、一つ一つの部分が繋がりあって成立している。その繋がり、結合部分が重要な要素となる。
 つまり、組織は、全体と部分からなる構造物である。

 構成員一人一人に、その役割、立場に応じた責任が生じる。その責任に基づいて権限が生まれる。つまり、権限と責任は、同時に派生するものである。また、権限と責任は、作用反作用の関係にあり、反対方向に同等(同量、同質)の作用として働く。その作用は、組織の中心に向かって働く。

 組織がその目的や機能を果たそうとした場合、組織は、組織を構成する者一人一人が責任をもって任務を遂行しなければならない。そして、組織が引き起こした結果を組織の構成員は、その役割に応じて負担する。つまり、組織は、構成員に対して結果責任を生じさせる。会社が倒産すれば、その会社に関係する者は、運命を伴にすることになる。国が敗れれば、国民は、その影響から逃れられない。その意味において、組織は、運命共同体である。

 組織は、組織を構成する者達が連携されている。チームワークが要求されている。構成員一人一人が自分のことだけを考えていれば良いというのでは、組織は、バラバラになる。

 スポーツを考えてみれば解る。自分だけ上手くやれば良いというのではない。一人一人が自分の責任を果たすことによって、チーム全体の力が最大限に引き出されるのである。一人一人がいくら優秀でも、連携プレーがうまくいかなければ、個人もチームの力も発揮されない。しかも、結果は、等しくチーム全体にかかる。組織は、結果において連帯責任なのである。

 組織の力を一つの目的に向かって集中的に発揮させる。その為には、組織は、機関であると同時に、共同体である必要があるのである。その共同体しての部分が脱落すると組織は、凝集力を失い、機関としての部分を失うと組織としての機能を喪失する。

 権利と義務が共同体の部分として働きを担い、権限と責任が組織としての部分の機能を担っている。権利と義務は平等性が要求される。一般に平等とは権利と義務に対して求められる。

 企業や国家を共同体として見なすのか、それとも機関として見なすのか。それによって、国家や企業の在り方や考え方が違ったものになる。ただ、組織は、人間の集合体、即ち、集団だと言う事である。その根本は人間関係であり、人間関係に関わる要素を無視しては成り立ちえない。つまり、この事は、組織は、ただの機関ではなく。運命共同体としての側面を不可分にもつと言う事を意味している。

 共同体でなくなれば、共同体としての目的も喪失される。しかし、組織から、共同体としての目的が失われれば、組織そのものの存在意義も失われる。つまり、組織は、共同で何等かの事業が行われるから意義があるのである。共同性がなくなれば、組織で行動する意味はないのである。

 組織は、共同体である。有機的な集合体である。無機的な機関ではない。有機的な集合体というのは、基本的に生き物だと言う事であり、その基礎は、人間関係だと言う事である。この人間関係を抜きに、組織は語りえない。当然、義理・人情的な感情的論理、モラルと言った倫理的論理が働く。組織というのは、生臭い、組織の論理というのは、生臭い論理なのである。

 共同体というのは、運命共同体のことである。運命共同体である以上、組織は、組織それ自体が存続するように行動する。役割がなくなったから、必要性がなくなったから解散するというわけには行かないのである。運命共同体は、基本的に継続性、持続性が要求されるのである。継続しえなくってはじめて組織は、その命運を立たれる。必要性は、その為の必要条件ではあっても、絶対条件ではない。

 共同体が共同体の成員、例えば、企業が、その企業で働く者の幸せを考えなくなったら、その共同体の存在理由は失われる。これは、大前提である。近年、株式会社は誰の者かという議論が盛んである。いわく、株主のもの、債権者のもの、経営者のもの、社会のもの、国家のもの、しかし、そこで働く者の意志を無視したら、労働者で構成される企業は、根本的に成り立たないのである。それを忘れてしまえば、どの様な議論も成り立たない。組織は、元来が公器である。

 組織は、それを構成する人間が、目的や利害を共有することによって成り立っている。共通の目的や利害がなくなれば、組織を維持する動機がなくなる。維持する動機がなくなれば組織は、自然に解体する。組織は、組織を維持、保存、保護しようとする力がなくなれば崩壊するのである。守ろうとする者がいない組織は、守りきれない。その為には、組織を構成する者一人一人が、組織を維持しようとする意志を持つ必要がある。

 ただ、仕事をすればいい、作業をこなせばいいと言うのでは、組織は成り立たなくなる。全ての作業を読み切れていればいい。それも変更や修正がないという前提である。全てを読みきれる仕事ならば、全てを予め決めておくこともできる。しかし、それでも人間の気持ちや感情、体調までは読めないものである。

 組織を取り囲む状況や環境は、絶え間なく変化し続けている。定型的、固定的な判断や作業では、処理しきれない。定型的な判断では、すぐに組織が硬直してしまう。一人一人が柔軟な判断を下さなければ、環境や状況の変化に適合できなくなる。組織は、生き物なのである。

 組織が、共同体として運命を共有するためには、組織が得た情報を個々の部分に還元する必要がある。その為に、組織は、次のような特徴がある。それは、組織が、自律的な集団であることに起因している。
 即ち、組織は、第一に、合目的である。第二に、組織は、成長するものである。第三に、組織は、自己増殖する。第四に、組織には、組織を維持しようとする力が働いている。第五に、組織は、発展しようとする働きがある。

 組織は、情報系という側面も持つ。組織を貫くのは、情報系統である。組織に不可欠なようその一つは情報であり、その情報を統制するのは、組織を維持するためには、不可欠な要素である。情報系である組織は、個々の部分が情報によって関連づけられてはじめて機能する。個々の部分が関連づけられなければ、組織は、組織として機能しない。

 組織の論理は、集団的、組織的意思決定の論理である。集団的、組織的意思決定と言う事は、個々の決定、作業が整合的に結びつけられる必要がある。
 集団的意思決定とは、議決と、専決の組み合わせである。つまり、組織の構造は、会議と部門の組み合わせによって構成される。
 組織の個としての部分を結びつけているのが連絡、報告、相談、会議、打ち合わせである。

 組織は、部分が全体によって統制される必要がある。その全体を統制するために必要なのが規則である。また、組織を動かすのは、指示、命令である。

 組織は、規則や掟によって維持され、指示、命令によって動かされる。その為には、構成員一人一人にその役割、立場に応じた権限が必要になる。

 組織の論理は、一定の規則に従って出された指示・命令とその指示命令によって遂行された作業との組み合わせによって成り立っている。そして、その指示・命令の裏付けが、職務権限と、職責である。故に、組織の論理は、職務と権限、責任によって構成される体系である。

 この様な、組織的意思決定は、段階的階層的になされる。故に、組織の論理も段階的、階層的である。

 そして、成果は、個々の部分に還元される事によって組織の機能は高められる。それは、組織が共同体であり、組織の構成員は、各々が独立した生活を営んでいる事による。それ故に、成果の還元は、評価、配置・異動、教育と言う手段によって実現する。そして、評価、配置・異動、教育は、個々人の生活に結びつけられることによってその効力を発揮する。つまり、組織は、個々人の生活の源なのである。
 では、組織の成果は、どの様にして個々人に還元されるのか。
 それは、実績は、評価に還元され。能力・適性は、配置に還元される。意欲は教育に還元される。この様に結果を部分に還元する事によって組織の活力は、維持されるのである。

 組織は、人間の集合体である。人間の集合体である組織は、必然的に個人の能力の限界によって規制される。個人の能力の限界の典型は、認識の限界である。肉体的限界は、機械によって補うことが可能となった。しかし、認識の限界は、本質的限界であるから、組織は、認識の限界から逃れられない。それが組織の限界である。この組織の限界をよく理解しておかないと組織は自壊してしまうのである。

 個々の個人の認識に限界があるから、組織が巨大になると高階層化し、それが行きすぎると内部崩壊を起こす。また、組織が、巨大化すれば、意志の疎通が困難になり、生産性は低下する。それは、個々の部分が自律的なものだからである。自律的であるから、組織の可能性を高めると同時に、組織の限界を規定する。組織は、大きければいいと言うのではない。自ずと限界があるのである。

 学校の先生は、教える事ばかり熱心である。しかし、何、教えるべきかが解っていない。母親は、子供を育てることばかり問題にしている。しかし、子供をどう育てたらいいかが解らない。

 軍人が戦うことばかり考えていたらどうなるであろう。軍人は、平和の事、国民の幸せを考えるから自分のモラルを保てるのである。そして、そのモラルがなくなったら軍隊は維持できなくなる。

 組織は、個人の認識や能力を超えたところにある。それ故に、機能の背後にある共同体の論理を理解しないと、組織は維持できなくなるのである。それが道徳である。また、規律である。

 国家の目的は、国民を幸せにすることである。しかし、どうしたら国民が幸せになるかが解らない。企業の目的は、働く者を幸せにすることである。ところが企業は機関になりつつある。企業が働く者と目的を同じくできなくなったら、企業は、凝集力を失う。
 自分や仲間、家族のために働いているという自覚があるから、一つ一つの仕事に責任をもってやり遂げる。それがなければ、言われたことだけ、指示されたことだけしかやらなくなる。しかし、現実の仕事は、言われたこと、指示されたことだけをやっていればいいと言うほど甘くない。予期せぬ出来事やその場になってみないと判断が付かないことが多くある。

 構造主義社会とは、自立した単位組織が集合して形成される社会である。単一な組織によって形成される社会ではない。単位組織の基本は、自己の認識能力の範囲内で形成することの可能な組織である。組織の巨大化は、それ自体で構造を破壊してしまう。街を形成するのは、一つの家庭を単位とした家である。せいぜい言って大家族が限界である。全ての家を画一的な箱にしてしまったら、人間性は、失われ社会は自壊してしまう。

 社会主義も、資本主義も、人間というもの、その背後にある神性を否定している。しかし、組織を維持発展させる原動力は、その神性であることを忘れてはならない。だからこそ、人々は、祭礼、式典を催し、人々の決断力を高めてきたのである。
 人間の社会、組織を作りだしているのは、人間であることを忘れてはならない。何度も言うが、組織は、運命共同体である。共同体は、それを維持しようとしない限り、維持しえない。国家も企業も家族も組織体である。守ろうとする者がいない、国家も、会社も、家族も護りきることはできない。




        


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