スポーツの論理

 スポーツが盛んである。スポーツは、生活の隅々にまで入り込んでいる。スポーツには、国境がないとまで言われるほど敷延化されている。ところが、どうやってスポーツは、生まれ、発展し、なぜ、これほどまでに世界中に拡散したのか解明されていない。近代釈迦の論理の秘密がそこに隠されている。

 スポーツは幾つかの前提から成り立ってる。第一に、ルールの存在である。第二に、フィールドの存在である。第三に、審判の存在である。第四に、プレイャーの存在である。

 激しい運動を伴うものがスポーツで伴わないものが遊技(ゲーム)である。ゲームにも論理はある。特に、テレビゲームが発展してきた今日、ゲームの論理には、いろいろな示唆が隠されている。唯、ここでは、主として、スポーツの論理ついて検討したい。

 囲碁、将棋、麻雀の論理は、多対多の論理の論理である。ただ、差し手は、一手一手である。麻雀のように二人以上のプレイヤーが居ても、行われる手は一手である。つまり、一手に集約される。差し手は一対一に収斂する。
 
 野球は、一球一球の積み重ねにすぎない。将棋や麻雀は、一手一手の積み上げに過ぎない。この一手一手が大切なのである。それが、スポーツの論理である。この一手一手を組み合わせると無限の変化が生まれる。この変化を読み合うのがスポーツであり、ゲームである。

 余談だが、ゲームというのは、次の一手と言うように、一手一手を読むことが大切であり、その順番や手順によって勝敗が決まる。基本的にはもスポーツも同様で、局面局面の変化をどう読むかが、勝負の分かれ目になるのである。この事は、スポーツやゲームの本質を表している。そこで、三手先まで読めと言われるのである。
 スポーツもゲームも手順、手続きの争いなのである。

 一口にもスポーツと言ってもスポーツには、いろいろな種類がある。そして、スポーツには、幾つかの要素がある。スポーツの種類によってスポーツの要素が違ってくる。
 スポーツには、第一に、球技、第二に、競技、第三に、格闘技の三種類がある。それから、個人競技と集団競技。対戦競技と記録競技がある。例えば、個人競技で記録競技としては、陸上や水泳がある。また、集団競技の球技、対戦競技には、野球やサッカーがある。

 ここでは、サッカーや野球に代表されるスポーツ、即ち、球技で、集団競技で対戦型競技について検討したい。球技においては、球、即ち、ボールが決定的役割を果たす。
 つまり、ボールの動きが試合の中心となる。ボールの動きによって試合は統一される。また、ボールの動きによって試合は成立している。つまり、球技は、ボールによって成り立つスポーツなのである。

 球技スポーツを決定付ける要因は、第一に、ボールの数である。第二に、空間である。第三に、ルールである。ルールで重要なのは、制約と有効性である。そして、ルールの成立と伴に審判の専門職化がはじまる。第四に、時間である。第五に、プレイヤーの数である。第六に、数字である。球技は、基本的にデジタルなものなのである。

 ボールの位置と運動と、プレイヤーとの関係によって球技スポーツの論理は展開される。
 
 ボールの数というのは、ドッチボールのように例外はあるが、基本的には一つである。一つだから、試合の統一性が保てる。

 ここで大切なのは、スポーツは、ボールの動きに集約されるという事である。つまり、ボールは一つである必要がある。
 これは、スポーツの論理を考える上で重要なのである。スポーツの論理は、ボールによって集約され、一対一の対応が可能となるのである。基本的に、プレイ中に有効なボールの数は一つなのである。有効なボールの数が一というのが重要なのである。
 この点でゴルフは、球技の中でも得意なスポーツである。つまり、ゴルフは、集団型でも体制型でもないスポーツなのであり、プレイヤーの数だけボールが必要とされる。故に、我々が対象としているスポーツ範疇には、ゴルフは含まれていない。
 ボールの動きを決めるのは、ルールとプレイヤーである。ボールとルール、プレイヤーの関係は、次のようなのものである。即ち、ルールは、プレイヤーの動きを規定し、プレイヤーは、ボールの動きを決める。ルールが有効なのは、フィールド内に限定されている。そして、プレイヤーの動きがルールに沿っているかどうかを判定するのが審判である。

 ボール以外に球技では、フィールド、ルール、プレイヤー、審判が必要とされる。そして、成績は、スコアとして記録される。スコアは、デジタルの表現を用いられる。スポーツの論理の中で重要なようその一つが数字である。スポーツは、数値化されることによって機能する部分がある。それがスポーツの論理である。

 プレーの有効性は、空間的に保たれている。空間(フィールド)というのは、ルールによって作り出された人為的空間である。

 ルールには、空間的制約と人的制約、時間的制約がある。空間的制約とは、ルールが有効に機能する空間を仕切ることである。空間の仕切り方には、ネットによって空間を二つに仕切るものと、一つの空間を共有するものとがある。空間を二つに仕切るスポーツは、バレーやテニス、卓球に代表されるスポーツで相手陣営にボールを打ち込むことで得点される。一つの空間を仕切るスポーツは、サッカーやラグビーと言ったゴールにボールを入れるものと野球のようなスポーツがある。
 人的制約には、プレイヤー数の制約とポジションの制約、行動の制約がある。プレイヤーの制約には、出場選手の制約と控えの選手の制約がある。
 時間の制約とは、試合時間の制約である。試合時間の制約には、制限時間によるもの、アウトカウントによるもの、得点によるものがある。時間制約は、時間の概念を象徴している。
 時間の概念とは、変化の単位である。変化の単位で重要なのは、変化と間隔である。時間とは、我々が日常的な認識している時間である。アウトカウントというのは、一定の変化の基準のを指して言う。そして、得点というのは、ある一定の得点を獲得するまでの間隔である。

 また、スポーツにおいては、初期設定が重要となる。初期設定は、プレイヤーとボールの配置である。そして、開始時間である。時間が動き出すことによってスポーツは、始まる。時間が停止することによってスポーツは停止し、中断し、終了する。

 フィールドの中においてルールが有効だと言う事は、フィールドの境界線が特別な意味を持つ。境界線は、生き死にを決める重要な要素である。フィールドは、人為的な創られた空間、場である。その人為的な空間の中で、プレイヤーの動きをボールの動きとして現象化するのがスポーツである。それによってプレイヤーの動きの正否を判定するそれがスポーツである。

 また、競技には、ゴールのあるスポーツとないスポーツがある。ゴールのあるスポーツにとってゴールは特別の意味がある。
 ゴールは、境界線上における一つの穴である。つまり、ゴールを抜けることによって目的を達成するのである。

 スポーツと言うより、近代を考える上で重要な要素が専門職、専門家(プロフェショナル)の発生と成立である。プロフェショナルというのは、代表的なのが、弁護士、会計士、医者である。スポーツの世界での専門職、専門家というのは、基本的には、審判を指す。その他に、監督やコーチが派生してきた。

 審判の役割は、試合の進行、得点のカウントと違反、アウトの判定である。審判の地位が確立することでルールの権威が確立された。それによってスポーツの秩序が成立するのである。

 通常、対戦型の球技は、二組に分かれて競われる。遊技(ゲーム)には、複数のプレーヤが認められているものがある。
 ディフェンスとオフェンスに分かれて行われるスポーツもある。ディフェンスとオフェンスが明確に区分されたスポーツと明確に区分されていないスポーツがある。
 基本的に試合は、弁証論的展開になる。テーゼ、アンチテーゼ、アウフヘーベン。防御、攻撃、得点という展開になる。

 球技は、基本的に組織と組織の対決である。それぞれのプレイヤーの位置によってゾーンやエリアが生じる。そう言った四次元的、時空間的な論理がスポーツの論理である。

 チームワークの根本は、位置と運動と関係である。プレイヤーの一と運動と関係は、ボールの位置と運動と関係を決定付ける。最終的には、ボールの位置と運動と関係に収斂する。ボールの位置と運動によって点数が決まり、点数の多寡によって勝敗は決まる。つまり、ボールの運動が数値化されてそれによって勝敗の判定がされる。それが、スポーツの論理である。

 スポーツの論理は、人為的世界の在り方を示唆している。




        


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