仕事の論理

 仕事にも論理がある。我々は、論理というと言葉で書かれたものをイメージするが、仕事の論理というのは、作業で構築された論理である。言葉に文法があるように、仕事にも作法がある。近年、この仕事の文法である作法が軽視されるようになってきた。その反面、システムが進化することによって作業や行動が体系化されるようになってきた。その結果、仕事の論理が、抽象化し、観念化される傾向が増してきたように思われる。しかし、仕事は、観念ではない、現実である。現実であるが故に、常に実体化することが要求されている。作法が軽視されるに従って実体である仕事の論理、翻って言えば、仕事そのものが崩壊の危機にさらされている。その典型が経理業務である。会計システムが進化すればするほど、皮肉なことに会計業務、簿記の本質が薄れてきている。会計の現場から、会計業務に精通した者がいなくなりつつあるのである。
 仕事の論理というのは、業務の論理、事務の論理、現場の論理であり、必ず実体を伴わなければならない。仕事の論理が実体を伴わなくなれば、仕事そのものから実体が失われてしまうのである。

 仕事は流れである。流れに沿って仕事の段取りは組まれる。

 仕事をする上で重要なのは、一目で問題点を見抜く力である。つまり、認識力である。状況を把握できなければ、仕事はできない。顧客の要求や問題点を正確に理解することが仕事の成否の鍵を握るのである。

 基本的に、一般から特殊へ、標準から個別への流れである。逆に、科学は、特殊から一般への流れが基本である。故に、仕事は、固有名詞、人なら個人名に到達したところから実務に置き換わっていく。

 仕事の論理を展開する上で横に逃げる(打ち合わせ、会議、確認)な展開、舞い上がる(抽象度が上がる)展開をしてはならない。論理の筋道が通らなくなるからである。

 まず最初に、やるべき事を思い浮かべ。(作業の洗い出し)そのやるべき事(作業)をグループに分け。(仕訳)グループの中にやるべき事に順番をつけて並べる。(順序づけ)それから、グループとグループとを結びつける。(関連づけ)
 指示、命令、報告、打ち合わせ、会議、式典は、ジョイント部分(連結)である。このジョイント部分は、極力、定型化、手続化して、パーツ化しておく必要がある。
 その上で作業に、人と時間の要素を結びつける。仕事は、人、時間、作業、費用、道具と言った複数の要素が組み合わさったものである。

 作業を洗い出す際、大枠を設定しておくと便利である。更に、大枠に合わせてある場合は、枠組みに沿って作業を配置することである。枠組みは、年単位、半期単位、旬(四半期)単位、月単位、週単位、日程、時刻表と言う順で段階的に詳細な計画におとしていく。

 必然的に、大枠や枠組み、グループ化によって階層・次元ができる。また、仕事全体の概要をつかむためには、ポイントを押さえ、下絵を描く必要がある。

 仕事には、独特の文法がある。例えば、文法に接続詞があるように、仕事にも接続詞がある。作業と作業を接続しているのが、連絡、報告、打ち合わせ、会議である。また、作業には、前後がある。つまり、作業には、順序、順番がある。そして、前後の作業の性質、また、接続の仕方によって、連絡か、報告か、指示かが決まる。この様に、作業の繋ぎ(つなぎ)方には、一定の法則がある。その他に、起点と終点がある。起動手続きと、終了手続きがある。この様に、仕事には一定の法則がある。

 以前は、仕事の論理を表現する言葉が沢山あった。枠組み、大枠、骨格、仕切り、差配、支配、段取り、手配、手順、手続き、配置、配分、骨子、詳細、作法、指図、始末、算段、用意、準備、支度、手作り、手配、お膳立て、根回しこれらは、仕事に関わることはである。ところが、これらの言葉が実体を失いつつある。それが現代の仕事の在り方を象徴している。

 仕事の論理は、段取り、手順、手続きの論理である。これは、囲碁や将棋、麻雀にも通じる。将棋や囲碁のようなゲームは、手順、段取り、組み合わせを競い合うことである。そして、この論理は、形式論理と違って一対一とは限らない。一対多、多対一、多対多である場合が多い。それ故に、展開が、一本調子にはいかず、多様な変化、展開になるのである。それが、自然科学と決定的に違うことになる。つまり、答えは一つではないのである。囲碁、将棋、麻雀がゲームとして成立するのは、その解が一つではないからである。つまり、絶対に正しいという解答がないか明らかにできないのである。

 仕事の要素でよく言われるのが、人、物、金、情報である。これに時間を絡めると仕事の体系ができる。

 時間を作業に置き換えることもできる。

 そうすると、人、物、金、情報が作業を媒介にして論理的に組み合わされた体系が仕事だともいえる。仕事は、論理的なものである。

 会計の論理と仕事の論理は違う。会計は、会計で一つの論理を形成している。しかし、会計の論理と仕事の論理は違う。会計の論理は計数の論理であるが、仕事の論理は即物的な論理である。

 仕事の論理でよく言われるのが、5W2Hである。また、プラン・ドゥ・シー・チェックである。
 5W2Hが意味するのは、第一に、目的、目標、主旨である。第二に、時間。第三に、人。第四に、金。第五に、作業。処理方法。第六に、場所。第七に、物、即ち、道具や材料である。つまり、これは仕事の七つの要素を意味している。

 つまり、仕事は多次元的な体系なのである。

 仕事には、第一に、定期的。不定期。第二に、定時的。臨時的。第三に、定型業務、非定型業務の分類がある。

 仕事には過程がある。仕事には段階がある。仕事には、順序がある。仕事には、一定のサイクルがある。

 仕事の段階で有名なのは、プラン・ドゥー・シーである。 

 仕事には、組織的な仕事と、一人仕事がある。一人仕事にも論理はあるが、それは、他者に影響を与えない。その為に、論理を公にしたり、解析する必要があまりない。故に、ここでは、組織的な仕事の論理を問題とする。

 仕事は、作業の塊と人の塊と、資源の塊をほぐしてバラバラにすることから始まる。そして、バラバラにした部分を時系列に結びつけて再構築すること、配置することによって成立する。

 仕事というのは、作業の塊なのである。仕事を解析し、組織的に行うためには、仕事を単位作業に分解する必要がある。仕事は、単位作業に分割できる。単位作業に分解することによって分業が成り立つ。

 仕事を構成する作業には、順番がある。この作業の順番が明確なものとそうでないものがある。野球を例にとるとボールを捕球をしてからボールを投げる。この作業の順序は明快である。ボールを捕球する前にボールを投げることは現実に無理である。これは、動作上の矛盾だから、動作においてなりたたない。つまり、あり得ないことになる。しかし、論理的矛盾となるとそう言うわけにはいかない。守備位置や打順を決めてから監督を決めるか、監督を決めてから守備位置、打順を決めなければならないのか。選手を決めておいて、監督を決めるのか。これらは、動作上は成り立つ。しかし、論理的に成り立つかどうかは別の問題である。しかも、この事に絶対的は基準はない。子供を作ってから結婚するのか、結婚をしてから子供を作るのかに似ている。つまり、子供を作ってから結婚しても行為そのものは成り立つ。その行為を認めるか否かは、その社会の慣習や不文律、倫理観に依るのである。
 仕事も然りである。作業工程上、前後がハッキリしていて、その順番を間違うと成り立たない作業と、手順や順番を無視しても成立してしまう作業とがある。その典型が指示や報告である。指示がなくても始めることができる作業はある。報告がなくても作業を終了させることはできる。しかし、それが組織的な仕事として許されるかというと話は違う。そこに仕事の論理が働く。

 組織的な仕事を長期間にわたって遂行しようとした場合、作業をパーツ化(部品化)しておく必要がある。

 組織的に仕事をする場合、複数の人間と連携をとる必要がある。その為には、自分がやろうとしている作業、やっている作業、やった作業を常に説明できる状態にしておく必要がある。また、近年情報の開示が必須の事として求められるようになった。その意味からしても常に自分の作業を記録し、報告のできるような状態にしておくことが求められている。その為にも作業を一定の単位に定型化し、部品化することが要求されるようになってきた。

 作業の基本は、指示に始まり、報告に終わる。指示と報告は、接点であり、接続子である。この様に単位作業には、必ず糊代がある。つまり、前処理と後処理であり、その前処理と後処理は、開始作業(初動・起動処理)、終了作業(静止・記録処理)と、俗に、インターフェース、他の作業との接続部分を含んでいる。接続部分というのは、言い換えると関連づけを持たせる部分である。

 関連づけができないと場当たり的な作業になる。場当たり的な作業は、他の作業との関係を途切らす。仕事は、複数の作業が相互に関連としながら進行する。一つの作業は、他の作業との関連の中で機能する。他との関連が途切れた作業は、その機能を発揮しない。その作業と隣接した作業は、当該作業の影響下にあり、相互に作用を及ぼして機能を発揮する。その為に、場当たり的作業は、その作業と連関した作業も無効とし、連鎖反応的に仕事全体にその影響を及ぼす。状況によっては、仕事そのものを成り立たなくしてしまう。重要な事は、場当たり的な作業、浮いた作業は、仕事の構造を破壊してしまうから、撲滅しなければならないという事である。その為には、個々の作業を連結し、関連づける部分を単位作業は持っていなければならないという事である。

 やる事を決めてから仕事にかかる。やる事が決まっていなければ、仕事を始めるな。自分が何をすべきか、何をしたらいいのかを予め理解していなければ、作業を始められない。だいたい支度や準備ができない。作業を明らかにするためには、はじめに何をすべきか決めておく必要がある。ところが多くの人が決められない。頭では、解っているのに決められない。旅行をするにしても、日を決めなければやることを決められない。行き先を決めなければ手配することはできない。当たり前のことである。その当たり前なことができない。

 考えてから決めろ、考えてから決めろと繰り返し刷り込んでいる。これでは決められなくなる。
 決めてから考える。考えたら決められない。仮に決めておけば、変更することも取り止めることもできる。決めていないことは、変更も取り止めもできない。当日やることを決めておかなければ、当日までに準備する物が確定しない。決めて考え、決めて考えを繰り返す事によって、最終的結論に到達することができる。だから計画が必要なのである。

 やるべき対象が煮詰まっていたり、絞られていると確認になる。仕事は、確認に始まり、確認に終わるともいえる。何も決まっていなければ確認のしようがない。ここでも重要なのは、決断である。
 全てが解っていたら、決断する必要はない。曖昧なことがあるから決断するのである。予測が付かないことがあるから決断するのである。決断は経験的にしか身につけられない。決められた事しか決められない人間がいるが、決められていることを決める事は決断ではない。仕事の論理とは、決断の論理である。言い訳や、口答えの論理ではない。問題なのは事実関係である。できない理由、やらない理由ではない。要は決断である。

 仕事を支配しているのは、習慣である。良い習慣を持っているかいないかが仕事の成否を左右する。良い習慣を身につけるためには、作業の基本的部分を様式化、形式化しておいてそれを繰り返す以外にない。それが作法である。つまり、仕事には作法が必要なのである。
 悪い習慣が身に付くと、同じところで同じ失敗を繰り返す。スポーツで言う変な癖がついているのである。
 作法の基本は、最初と終わり、そして、周囲関係者への挨拶、つまり関連づけである。この関連づけが最近の日本人は下手になってきている。つまり、人間関係を作れなくなっているのである。組織的な仕事は、人間関係が基礎であるから、そうなると組織力の低下は避けられない。
 指示を受けてから作業に取りかかる。一つの作業が終わったら、必ずを報告をするその習慣のある者は、指示や報告のことでミスをする確立が低い。しかし、この習慣がない者は必ずと言って作業の出だしや仕上げでつまずく。しかも、原因が理解できない。個々の原因は掴めても、本質的原因が理解できないからである。しかも、これは行動規範や価値観に抵触している。だからなかなか改善されない。
 かつて、我々は、なぜ挨拶をするのかと言った愚にもつかないことで、作法を否定した。それも礼儀作法は、封建的、前近代的という訳の解らない理由である。礼儀作法が封建的なのではなく。封建的な礼儀作法があるという事である。体制が封建的だから、礼儀作法も封建的なのである。元々、礼儀作法には意味がない、意味がないからやる必要がないと自分達で言っているのであるから、礼儀作法に妙な意味をつけるのはこじつけである。作法の意味は、人間関係の文脈の中で解釈されるべきものである。民主的ならば、民主的な作法を再構築すればいいので、作法そのものを否定するのは論外である。
 起動、終了を形式化、定式化する。その基本は、関係部署との関連づけである。そして、一つの一つの作業に始まりと終わりをつける。この様に一つ一つの動作・作業をパッケージ化することによって作業をパーツ化するのである。

 ワンマン、ワンワーク、一人の人間は、一つの仕事しかできない。確かに、機械化、システム化によって一人の人間が複数の作業をこなして見えることがある。しかし、時間的には、ひとりの人間は、一つの仕事に集中している、又は、そう見なすべきなので、ワンマン、ワンワークの原則は、今でも有効である。つまり、単位作業とは、一人の人間ができる作業と特定できる。つまり、一人の人間ができる作業が単位作業なのである。この単位作業を時系列的、組織的に組み合わせたものが仕事なのである。

 この様な単位作業は、日程化、スケジュール化することによって管理することが可能となる。単位を日程化、スケジュール化することによって制御しようと言うのが日程管理やスケジュール管理である。

 単位作業を時系列的に並び替え、組織的に割り振ったものが業務フローであり、事務フローである。つまり、業務フローや事務フローとは、仕事の流れ図である。また、事務フローは、管理フローでもある。この仕事の流れを管理し、制御するのが工程管理である。

 プランは計画である。計画の論理は後で述べるとして、計画後に来るのは、準備である。ところが我々の世代は、この準備が苦手というか嫌いだ。準備だけでなく、後始末もできない。それは、主に教育に原因がある。

 支度と始末が躾られなければ教育ではない。我々の世代は、母親が作った食事をただ、黙って食べて育った世代だ。親の手伝いや家の仕事をさせられて育ったわけではない。食卓に座って出された料理を食べて、食事が終われば後片付けもしないで学校へ駆けていった。
 とにかく、勉強が第一で、後片付けなど二の次である。我々は、食事の後片付けが終わらなければ学校に行くなとは言われたことがない。だから、職場でも他人が支度をしなければ何もできない。仕事が終わったら、後片付けもせずに帰る。それが当たり前だと思っている。支度も、後片付けも仕事の内だと思っていない。しかし、支度も後片付けも仕事である。段取り八分という言葉があるように、仕事の成否は、支度にかかっていると言っても過言ではない。
 しかし、我々の世代は、支度を仕事の内だと思っていない。だから、我々の世代は、目の前に出された物しか目に入らない。食事が出されても、箸がなければ箸がないと駄々をこね。醤油がなければ、食べられないと母親にせがむ。その癖が、職場でも一向に抜けない。学校の勉強もただ学校へ行けばいいと思い込んでいる。そして、現実にそうだ。勉強の準備は、学校がしてくれる。先生を雇って、教科書も準備し、試験までしてくれる。性とは何の準備もせずに学校へ行けば、黙っていても時間が過ぎていく。それが勉強だと本心から思い込んでいる。自分で問題点、テーマを決め、先生を捜し、教科書を選び、カリキュラムを決める。そんなことは勉強の内に入っていない。とにかく、学校に行って、先生の言うことを聞いて良い子にしていれば、余程のことがない限り、進級できて、一定の年月で卒業できる。それが勉強である。だから、卒業すると何にもできない。一人では、何をしていいのか解らないのである。先生に問題を与えてもらえないと、問題意識すら持てない。それが優等生である。
 仕事もしかり、目の前の仕事しかこなせないのである。だから家事のできない娘ができる。常識のない息子ができる。そうなると、引き籠もるしかないではないか。
 準備、支度、後片付けも仕事の内である。と言うより、大半が、準備と後片付けにおわれるのが仕事である。

 最後に、プラン・ドゥ・シーのシーである。最近では、このシーに、チェックを加える事が増えてきた。ただここでは、シーについて考えてみたい。シーとは、基本的に管理である。仕事のサイクルは、評価と管理に終わる。そして、評価と管理は、新たな仕事の始まりでもある。

 仕事には目的がある。目的が不明瞭な事は仕事ではない。
 目的は成果に還元される。
 そして、仕事は、最終的に何らかの成果に結びつかなければならない。 
 当初の目的から評価すべきであり、結果から判断すべきではない。評価は、目的の確認から始まる。

 人間は、そのままでは、客観的にはなれない。少なくとも自己との関わりのある対象に対しては、客観的にはなれない。この事は、仕事論理に如実に現れる。仕事を統制するためには、評価が必要である。この評価は、基本的に主観的なものである。

 ところがなるべき、客観的に、公正に、評価しろと言う。これは、評価の意味がわかっていないからである。評価の目的は、社会や組織内での位置付けである。一というのは相対的な基準である。故に、評価は、相対的なものであり、絶対的なものではない。相対的であるから、認識の問題であり、認識は、主観的なものである。客観的な評価というのはあり得ない。

 どうしても、客観的に評価したいというならば、テストで評価すればいい。現実に官僚組織は、試験によって評価されている。その結果、仕事よりも試験勉強が重視されるようになるのである。また、試験の問題や正解の基準を設定する段階で主観が混入する。とにかく、客観的な基準というのはあり得なし、それを強引にやれば、現実から評価は乖離してしまう。評価の目的、現実的目的が位置付けにあるからである。

 客観的に評価しよう、客観的な基準で評価しようとした瞬間、その評価者は、自分の責任を放擲することになる。なぜならば、客観的な評価というのは、見かけ上、評価者の判断を必要としないからである。それは、極めて、無責任で、卑劣な行為である。

 市場経済では、貨幣価値に換算されたものだけが正規の仕事として見なされる傾向がある。しかし、仕事には、貨幣価値に換算できないものがある。

 仕事の論理は、倫理の問題でもある。我々は、金のためだけに働いているわけではない。仕事には、仕事そのものに達成感も責任感もある。仕事の中には、金銭に換算できない部分が多分に含まれているのである。

 私は、危険物を扱う仕事に従事している。危険物を扱う人間にとって保安は、モラルである。同様に、製造に携わる者にとって、品質はモラルである。食品に携わる者にとって衛生は、モラルの問題である。

 仕事には、それぞれ責任がつきまとう。責任があってはじめて仕事といえる。無責任では仕事とは言えない。自分の仕事に責任を持ってこそ、仕事をしたと言えるのである。そして、その責任こそ、生き甲斐なのである。一つの仕事を任され、それをやり抜くことで、自分の存在意義を自覚する。だから、責任を持ったされたら安易には休めなくなる。無責任に、仕事を投げ出すことが許されないからである。そして、それは、金や報酬とは関係ない問題である。与えられた仕事を最後までやり抜く、それは、人間性の問題なのである。責任感の問題である。
 だいたい、仕事とは、時間で切り売りするようなものではない。良い例が、家事や育児である。家事や育児は休めない。母親というのは、時間で決められないのである。
 ところが、家事や育児は、貨幣価値で換算されない。その為に、市場経済下では、正式の仕事と見なされていない。その為に、家事や育児に従事する者が報われないでいる。

 女性は、かつて内に生き甲斐を見いだせた。男は、外に生き甲斐を見出さなければならなかった。だから、男は外に働きに出たのである。今、女性は、内に生き甲斐を見いだせないと言う。そして、外へ働きに出ようとする。その為に、家庭は崩壊し、育児は危機に瀕している。それは、市場経済では、家事や育児を仕事として認知し得ないからである。

 単純に仕事を生活の糧を得るため、金のためと割り切ってしまうと、仕事本来の意義を見失わせてしまう。その結果、責任の伴わない仕事が増えてしまう。責任の伴わない仕事は、本来の仕事ではない。それは単なる作業である。仕事は、その人の生き方、人生に直結している。そのことを前提としない限り、仕事の論理は成り立たない。




        


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