経済数学

1 経済数学

1−12 確率・統計


 一人の人間の結婚は、自由意志の問題であるが、一億人の結婚は、統計の問題である。

 一という一はない。一とは、ある対象を一とするのである。ある対象は、一個の物でも、一つの塊でも、、人でも、集まりでも何でもいい。任意の対象を一とするのである。

 一となる対象は、本来漠然とした何ものかである。重要なのは、何を一とするのかの前提である。何を一とするのかの動機である。それを考えると統計というのは、最も、数の概念に近い考え方なのかも知れない。又、その点を理解していないと統計の持つ意味を理解できない。

 カオス、この曖昧模糊で漠然とした全体。我々が日常接している対象は、カオスである。つまり、明瞭な確実なものなど何もない。実際の事象の全体は、確率的な世界である。だから、統計が必要なのである。

 統計というのは、高校ではあまり習わない。大学で教えられるのも限られた学部の人間だけである。しかし、社会に出ると俄然、統計的確率が威力を発揮する。
 今日、傘を持っていくべきか否かを判断するために天気予報を見る。その天気予報は、統計的確率で表される。株の動向も経済指標もその大本にあるのは統計である。会計も統計の一種だと言える。大企業も中小企業も個人商店でさえ、統計的確率的な発想を知らず知らずのうちにしている。
 経済や事業をやっていく上では統計数字というのは欠かせないのである。それなのに、統計に対する基本的な素養に欠けている人が大多数にのぼる。

 しかし、現実の世界は、曖昧模糊とした確率的な世界である。だからこそ統計的発想が横行するのである。又、勝負事がもて囃されるのである。
 人々は、オリンピックに夢中になり、サッカーに熱狂する。競馬、競輪と意って賭け事は人々の人生を狂わせ。将棋や麻雀に我を忘れる。
 出逢えるか、出逢えないか、不確かに相手を求めて人は、確かな今を捨てて彷徨い歩く。

 しかも、確率も、学校で習う確率というのは、数学的確率で、社会で圧倒的に使われている統計的確率はあまり教えられない。新聞やテレビで我々が、日頃、目にする数字の多くは、統計的確率である。
 選挙結果や経済的確率、天気予報も統計的確率に属している。ところが学校で確率というと数学的確率を指す場合が多い。
 大体、多くの人は、確率に、統計的確率と数学的確率の別があることすら認識していない。
 その為に、かえって、学校で教わったために、確率の数字に対する考え方を誤解している場合が多いくらいである。だから人々は数字に幻惑させられる。

 確率や統計が今一つ人々に受け容れられない原因があるとしたら、確率統計が実生活の問題を扱っていながら実生活からかけ離れているように感じさせるからである。

 大多数の人が感心があるのは、タバコを吸う人の肺ガンにかかる確率が何%あるかではなくて、自分が肺ガンにかかるか否かなのである。

 多くの人は、確率や統計に対して誤解している。それは、確率や統計は偶然の出来事、偶発的事象を扱っているという事である。では、確率や統計は、確定的なことを扱っているのかというとそうとも言えない。偶然や確定というのは、認識の問題であり、存在の問題ではないからである。
 統計というのは、任意の数の集合の全体から集合の特性を導き出すことを意味する。

 統計は、数の性格を忠実に反映しているとも言える。例えば、タバコを吸う人間が肺ガンになる確率というのは、一定の標本、即ち、数字の集合の性格から母数を推定することである。この場合、標本となる数字の集合の性格が問題とされるのである。

 統計ほど数学の可能性と限界を示しているものはない。

 数学的確率というのは、自己の認識を基によって組み立てられる確率であり、統計的確率というのは、統計情報、即ち、対象を基にして成り立っている確率である。
 数学的確率というのは、任意に設定された、或いは、想定された前提に基づく確率であり、「先験的確率」と呼ばれることもある。また、統計的確率というのは、経験や現実の生起した事象に基づく確率であり、「経験的確率」と言われることもある。

 確率論を突き詰めると決定論、非決定論(限界論)に行き着く。この様な議論を突き詰めると神学論に至る。この世の中の出来事は、予め全て定められている。即ち、この世の全ては、予見、予定されているが、その力は神のみに備わっていると考えるのが決定論、宿命論である。それに対し、この世の出来事の全てを予め定めておくことは不可能であり、何かしらの限界がある。故に、全てを予見することはできず。この世の出来事は、偶然によって支配されており、全てを予知することは不可能だというのが非決定論である。
 しかし、結果は、同じである。何もかもが予め決められていようがいまいが、その全てを人間、自分が知る事ができない以上、常に、最善を尽くす以外にない。だからこそ、最後に問われるのは人間の意志、自分の意志である。
 神は、常に、人間に選択の余地を残している。神は、自己に選択の余地を与えているのである。だからこそ、確率という考え方が成り立つのである。

 子供の身長を両親の身長の平均として一意的に導き足すことができない事は明らかであるのと同様、法則式は、現象の傾向を近似的に表しているのに過ぎない。

 確率は、例えば、晴れる確率は、30%というように、曖昧さを前提とした数字である。

 曖昧だから数値的に捉えようとしたのが確率だといえる。

 考えてみれば、これは当然な事を言っているのに過ぎない。

 何が起こったかは認識できる。しかし、なぜ、起こったのかは解らない。たとえ、原因らしきものを見出したとしても所詮、憶測、推測の域を出ない。人間は、外面しか見えないのである。内部の仕組みや要因は見出しにくい。解ったと思ったら、新たな謎が深まる。その最たるものが人の生と死である。
 
 推計とは、部分集合から全体集合を推測、割り出すことである。

 人間は、この世の全てのことを予知しているわけではない。明日のことは、解らないのである。それこそ神のみが知る。人間が全てを予知することが可能か、否かは、一神教徒が考えることである。一神教徒にとって神が全知全能であるならば、この世の全ての事は予め決められていて、人間が努力をしても無意味であるという考えに陥りやすいからである。

 しかし、この考え方は、矛盾している。神が全知全能であろうと、人間の為すべき事に変わりがないからである。なぜならば、人間は神の意志を伺い知ることができないからである。それは人間は、神の如き存在、即ち、全知全能の存在にはなれないからである。なろうとすること自体が不遜なのである。

 恋人同士は、赤い運命の糸に結ばれていると考えることは、夢があるかもしれない。しかし、だからといって人間に赤い糸が見えるわけではない。たとえ、赤い糸が見えたとしても、それが人間にとってどれ程の意味があるのであろうか。結局、赤い糸で結ばれているというのは、方便に過ぎない。
 今の時点で知り得ないのが明らかな事象を、知りうると前提としてもその前提自体が曖昧なものである。人間の認識は曖昧さの上に成り立っている。我々が前提としているのは確からしさに過ぎない。

 人間は、神に何を期待しているのだろう。仮に神が全知全能だとしても神は人間に全知全能の力を与えはしないだろう。重要なのは、神が全知全能であるかではなく。人間が全知全能になり得るかである。人間が全知全能になりうる思うことは、神を否定する事である。神を否定するものは、自らを神とする。
 人間は、全知全能な存在にはなれない。それが大前提なのである。神は、人間が全知全能な存在になることを望んではいない。

 神の意志を知り得ないとしたら、自分の定めが予め決められていようがいまいが意味がない。ただ神を信じて自分の意志を護り、最善を尽くす以外に道はない。
 十字架に掛けられることが定めだとしても、それをいかに知る事ができるであろう。十字架に掛けられるか、どうかそれ自体不確かなのである。確かなのは、信仰である。つまり、確かなのは内面の動機である。

 自分は、誰を愛し、どの様な子供を産むのか、予め決められていると信じているのであろうか。
 誰がこの世で一番綺麗で、何が最善かは、一つの原理から導き出せるとでも言えるのであろうか。世の中で一番センスのいい服は始めから決められていると言い切れるであろうか。 
 サラブレッドのようにどの組み合わせが最適化が機械的に決められると思い込んでいるのであろうか。
 その様なことを考えるのにどれ程の意味があるというのであろうか。

 人間は、常に不可知な部分を持つ。それが前提である。大体、認識、即ち、分別とは、不完全で相対的だからである。故に、不確かな部分がかならずは入り込むのである。それが確率の前提である。故に、ある意味で確率という考え方は、根源的な思想だと言える。

 人間が前提としうるのは確からしさに過ぎない。その確からしさを前提とするのは、合意でしかないのである。だからこそ、全ての原理は仮説でしかない。

 確率というのは、確からしさを前提とするが、確からしさを前提とすると、確からしさが、もっともらしさに置き換わるがある。つまり、確からしさが、もっともらしさにすり替わる危険性を、常に、孕んでいる事を忘れてはならない。それは、詐欺師の言動に如実に現れている。
 この様な錯誤を防ぐためには、前提条件を明確に設定、定義しておく事が重要になる。

 確率は、起こりうる可能性が等しい事象を平等な事象と仮定すること計算された比率である。

 確率というのは、起こりうる事象の全体と部分の比較によって成り立っている。

 故に、確率にせよ、統計にせよ、全体を如何にして認識し、部分をどのように設定するかが、鍵となる。
 全体を把握できる対象もあれば、数が多すぎて、時には、(無限大な対象もある。)全体を捉えきれない対象もある。
 そうなると全体の規模と範囲を特定し、定義する必要がでてくる。

 確率や統計で重要なのは、設定であり、設定をするための前提である。何を前提とし、何を基準にして確かさを規定するのかが、結果の信憑性を左右するのである。そして、論理は確証できるが、設定は見落とされがちなのである。
 そこが付け目である。前提や設定を巧妙に誤魔化して、自説を正当化するために利用しようとする者が後を絶たない。それが確率や統計を今一つ確固たるものにしていない一因である。

 設定条件が答えを左右しているといいながら、答えが一つだとは限らないのである。確率の問題は、原因と結果が一対一に対応いていない場合がある。それは、因果関係が直接的に結びついていないことを意味する。原因と結果が一対いたに結びついていないのである。設定条件が一つでも答えが幾つもでてきたりする。問題と正解が一対一に結びついていないような試験問題のようなものである。確固たるのは、問題だけで、答えは曖昧だというのが、確率の前提なのである。これでは釈然としないのは当然である。しかし、それが確率である。だから比として表される。

 例えば、明日雨が降るかどうか。雨が降るとしたら傘を持っていきたいという質問に対し、雨が降る確率は、60%ですと言われても、それが質問に応えたことになったかと聞かれると怪しくなる。最終的な判断は、質問した側に委ねられているのである。まるで、あたるも八卦、あたらぬも八卦と言われているようなものである。天気予報を占いの一種だと思っている者がいたとしても不思議はない。中には、占いよりも質が悪いという者すらいるかも知れない。なぜならば、占いは、あたらずともある程度の示唆はしてくれている。それに対し、天気予報は、何も保証はしてくれない。実に無責任である。

 なぜ、人間は、数字によっていとも簡単に誤魔化されるのか。それは、数字は、客観的事実を表していると思い込んでいるからである。数字は、客観的でもなければ、かならずしも事実を反映しているとは限らない。数字ほど、意図的に加工することのできるものはない。設定や前提をかえればいくらでも思い通りに変形できるのである。しかも、数という属性以外がないために、いかにも、もっともらしく見せ掛けることができる。

 しかし、確率、統計の重要性は今後、益々、増すこととなる事は間違いない。だからこそ、統計や確立の基礎をよく理解しておく必要があるのである。

 我々は、学校では、ほとんど統計に関したことを習わずに社会へ出る。しかし、社会に出て一番目にするのは、統計と確率に関する数字である。つまり、世の中で一番有用だと思われているのが統計だというのに、肝心の統計について教育がなされていない。この事は、現代教育を象徴している。
 統計だけではなく。実用的な数学は何も教えずに、現代の教育では、純粋数学だけを教えている。まるで実用的な数学は不必要だと言わんばかりである。

 現代社会では、数字は大変な威力を持っている。数字を使うことで格段の説得力が生じる。それでありながら使われている数字にしてい厳格な規定があるわけではない。大体、ほとんどの人が数字の持つ意味を理解していなし、理解するだけの知識がなく、理解するための基本的な訓練も受けていない。だから、数字だけが踊っている場合が多い。
 その為に、数字を悪用する例が後を絶たない。数字だけでなく、グラフや表と言った図形表現も悪用されている例が多くある。しかも、公的機関の出している数字や資料においてもかなり多用されている。
 そして、その数字に根拠とされているのが多くの統計資料である。

 統計資料を有効に活用するためには、どの局面で、どの様に活用すべきかが重要なのである。つまり、前提条件が肝心である。

 統計というのは、元来、合目的的なものである。ただ、統計を取る者の多くがその目的を秘匿している。なぜならば、統計を取る目的が税金や徴兵のためだなどと知れたら、たださえ協力してくれなくなるからだ。
 しかし、その為に、統計本来の役割が解りにくくなってしまっている。統計は、目的に応じてその対象や範囲、規模が決められる。統計は合目的的なものでありながら、その目的が不明瞭だったり、目的にあっていない設定になってしまっている。それが統計の持つ信憑性を弱めているのである。

 統計は、生な情報を扱っている。統計で重視されるのは、一次情報、即ち、生情報である。一次情報の採取の場所や手段によって情報には何等かのフィルターが掛けられる。故に一次情報の採取の場所や手段が、重要になる。

 客観的命題とは、客観的命題でいい対象だという事を意味している。

 統計にとって分類は、決定的な役割を果たしている。統計上の分類は、合目的的なものである。どの様な意図の基で統計資料が採取されているかが、重要な意味を持ってくる。

 統計情報、資料が何に活用されているかを見れば、統計資料の役割が見えてくる。

 統計は、主として意思決定を助けるために使用される情報である。つまり、我々が日常生活の中で、何等かの意思決定をしようとした場合、確率統計は、我々を助けてくれるのである。特に、将来の予測をするためには、統計資料はなくてはならない情報である。

 統計の当初の目的は、歴史的に見て徴税と、徴用だった。現在でも統計情報の主要な部分は、国勢調査に負っている部分が大きい。その意味で、統計というのは国家的事業の一つでもある。

 統計情報は、他の情報との比較によって効力を発揮する。その意味では、統計においては、相関関係が重要となる。

 統計は、物の経済、人の経済、金の経済を扱っている。物の経済、人の経済、金の経済間の相関関係が重要となる。

 統計情報は、結果に基づいた値である。統計の基本姿勢は、「温故知新」古きを温めて新しきを知るである。

 統計情報は、仮説を立証するための根拠として有効である。

 統計が結果を表した数値情報だとしたら重要なのは、その前提となる命題であり、その命題の論理的信憑性である。信憑性の基準は、了解可能性である。

 一見、確率の基となる統計資料は、客観的な情報に見えるが、その前提は、任意な設定にあるのである。

 純粋数学に対して厳格な数学者も、事、経済数学となると無邪気になる。そして、初歩的な問題でへまをする。その典型が確率統計である。
 確率統計ほど前提となる条件や前提となる設定に左右される事象はないのである。

 人類は、又一つ統計という万能の手段を発見した。そして、又、本質を見失うのである。情報処理能力の向上は、統計に対して絶大な力を発揮する。
 しかし、同時に、深刻な問題を引き起こす可能性も潜んでいる。
 統計学者が犯す過ちは、結果を全てだと思い違えることである。
 情報処理の鍵は、前提、或いは、前提となる仕組みや目的である。
 元々、情報処理は、合目的的手段なのである。目的を見失えば、本来の意味も失われる。

 今の統計は、技巧に走りすぎている。統計というのは、本来合目的的なものであり、なぜ、統計という技法を用いる必要があるのかが重要なのである。その目的を見失うと統計はかえって弊害にすらなる。

 統計学者の犯す過ちの一つは、結果が全てだと思い込むことである。結果が良ければ、もっと有り体に言えば結果が解ればいいという事になる。
 教育の効果は、試験の結果や合格率であり、教育の内容は二義的なものと見なしてしまう。しかし、教育において重要なのは、どの様な目的で、何を教え、その結果は、どこに現れるかである。数値に表れる結果が全てではない。
 映画や小説は、売上高だけで評価すべきではない。どうすれば売れるかだけで映画や小説が評価されたら、制作者はなにを映画や小説によって表現したかったか、作者の主張や訴えたいことが忘れられてしまう。
 道徳は、統計的に導き出されるものではない。道徳は、結果ではなく、前提なのである。
 どの様な神を、自分が、信じるかは、統計の問題ではなく。信仰の問題である。結果を絶対視した時、神の本質は見失われる。
 統計で重要なのは前提であり、結果は二義的な意味しか持たない。
 そして、その前提を根本は、どの様な目的で、どの様な視座に立って情報を認識するかという点にある。犯罪を目的として情報を活用すれば、その結果、どんなに利益を得たとしても、結果は、犯罪である。
 映画や小説は、作者が自分の思想を表現し、博く伝えることに本来の目的がある。金を儲けることに目的があるわけではない。金儲けは、大切だが、あくまでも二義的なものにすぎない。
 仮に、映画や小説によって大金をせしめる者が出たとしても、映画や小説を世に出す、本来の目的や意味が失われたわけはない。
 事業の目的は、業績だけでは推し量れない。ただ儲ければ善いというのは、言い過ぎである。事業の目的は、事業に対する経営者の志であり、企業の社会的必要性、社会的責任、社会的働きである。なぜならば、事業目的というのは結果ではなく、事業の前提だからである。そして、事業目的と事業の内容が合致していなければ企業を存続する意味はない。

 現代文明から隔絶した、飛行機を知らない人間が住む島があるとする。その島の上空を毎日、定期便が飛んでいるとする。
 その島の住人にしてみれば、毎日、決まった時間に得体の知れない物体が頭上を通過していく事になる。
 自分の頭上を得体の知れない物体が定期的に飛んでいるとしたら、それを見ているものはどうするであろう。 
 仮に自分が飛行機のことを知らずに、上空を飛ぶ飛行機の頻度だけを数えられるとしたら、飛行機が飛ぶ頻度を数えられても飛行機が飛んでいく仕組みを理解することはできない。飛行機が何等かの理由で飛んでこなくなったとしても、飛んでこなくなった理由は知る事ができない。しかし、飛行機を運航する者にはその原因は自明な事である。
 また、飛行機の高度記録を何の情報かを知らずに解析し、それが飛行機の高度を記録したものだと認識する事自体が難しい。例え、それが飛行機の高度を記録したものではないかと予測したとしても、それを検証する手段がない。
 統計現象というのは、結果でしか判断できないのである。
 いくら統計技術が進んでも結果だけで判断する状態は、群盲象を撫でる状態であることに変わらないのである。その点を念頭に置けば、統計情報ほど有為なのものはない。
 倫理、道徳は、統計的に導き出されることではないのである。それを忘れて倫理観や道徳まで帰納的導き出そうとすると倫理観や道徳観は土台から失われてしまう。

 統計情報が一番豊富で、情報処理の最新技術が最も威力を発揮するのは、会計である。なぜならば、会計は、数値情報記録の塊なのである。ところが、最も、経済問題に活用されていないのは、会計情報である。

 会計の目的と統計の目的は、類似している。会計は、企業経営の実体を把握し、経営の意思決定に有用な情報を提供することにある。
 統計本来の目的は、国家経済の実体を明らかにし、国家の意思決定に必要な情報、資料を提供する事にある。

 過去の経済政策は、無作為化の実験を積み重ねたようなものなのである。

 会計は、数学的現実である。
 会計は、ある意味で統計的考え方を集大成した物と言える。それだけに、統計の活用の仕方に対して、いろいろな示唆に富んでいる。又、現代の統計の限界を知る意味でも重要な要素を提供してくれている。
 会計は、生情報をいかに分類し、集計し、分析するかを系統立てて用意している。又、一連の手続として定型化している。これらは、アルゴリズムとして貴重である。




         

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