一対一に対応する物どうしは、一として等しい。

 間違ってはいけない。等しいとするのは人間である。最初から何もかもが等しいわけではない。等しいという概念は、比較することによって成立する。比較する物がなければ、何と何が等しいか判別できない。等しいというのは、絶対的なのではなく。相対的な基準なのである。

 自由と平等は、現代社会の基盤となる思想である。しかし、自由とは何か、平等とは何かを問われるとなかなか難しい。

 特に、平等と言った場合、何をもって等しいとするのかが重大となる。
 等しいというのはどういう意味なのであろうか。それが問題なのである。

 何をもって等しいと言うのだろうか。等しいという意味には、第一に同じと言う意味がある。第二に、均衡。第三に、対等。第四に、均一、第五に、ゼロ、そして、第六に方程式の解と言う意味がある。
 また、等しいという事は、等号によって現される。等号によって結ばれて方程式を等式という。等式には、対称な式と非対称な式がある。

 等号によって結ばれた右辺と左辺は、同じだという意味がある。又、右辺と左辺は均衡しているという意味がある。その他には、右辺と左辺は均一であると言う意味もある。更に、全ての未知数、既知数を集めるとゼロになると言う意味がある。そして、方程式と方程式を解いたときの解を意味する。この様に等号に結ばれた関係が重要となり、その時の等号の働きを明らかにすることによって等しいという意味の質的な差を知る事ができる。

 ゼロには、始点、原点という意味がある。ゼロは空(から)という意味がある。ゼロのこれの意味は、等号の働きを示唆している。

 数量×単価が=価格となる。つまり、物理的量と単位価格の積が貨幣価値を構成する。貨幣価値において、等しいと言うのは、物理的量と単価を掛けた値が貨幣価値と等しいことを意味する。この等しいという事が貨幣価値の大前提となる。

 数学では量化することによって等しいという事を一意的に解釈する。それが数学の普遍性を保証していると同時に限界でもある。この数学の特徴を理解しないと現代社会は理解できない。
 なぜならば、現代社会は貨幣経済社会であり、貨幣は自然数の集合だからである。

 経済数学では、量だけでなく質が重要となる。

 経済とは現実である。現実の対象から数を抽象化する事によって対象を無次元化し、演算を可能とする。しかし、そのままでは、現実に適合しない。故に、経済数学は、抽象から具象化することが、最終的に要求されるのである。

 経済を理解する上では、数量を対象から抽出し、それを貨幣価値に転化した上で演算をする。その結果を現実の対象に転化するという過程が貨幣経済を実体化するのである。

 経済的価値を確立するためには、演算の可能性の問題がある。演算が可能でなければ交換価値は成立しない。
 演算の可能性を評価する基準の一つに、逆演算をすると元の状態に戻るかと言う事がある。それが群か、否かを判定する基準である。

 車と家は足し算ができない。しかし、貨幣に換算すれば足し算が可能となる。貨幣は無次元の数なのである。

 貨幣経済では、経済的価値は、貨幣価値と等しいとされている。これが前提である。故に、貨幣的価値が生じた時、その指し示す対象の価値と貨幣によって表示された価値とは等しいという事が前提となる。
 ただ気をつけなければならないのは、貨幣その物には、使用価値はなく、交換価値しかないという事である。貨幣は、天秤ばかりの錘(おもり)の役割を果たしているのに過ぎない。

 数学の文章題が重要なのは、数学の持つ質的な部分を表しているからである。量というのは抽象的な世界であり、現実の世界は、質的な世界である。価格的に等しいというのは、この質的な部分を削ぎ落とすことによって成り立っていることを忘れてはならない。

 物は、連続量であり、貨幣は、分離量である。

 数学的に等しいという意味を理解するためには、方程式を理解する必要がある。

 数学の重要な特性の一つが視覚性と操作性にある。つまり、目に見えて操作できる点にある。それを端的に表しているのが方程式である。

 代数というのは、記号を用いて数学の計算を方程式にする方法である。

 二つの代数式を等号で結んだものを等式という。等号を挟んで左辺、右辺が等しくなる等式を方程式という。 

 数学の操作の基本は、四則の演算である。四則の演算とは、足し算、引き算、掛け算、わり算を言う。即ち、足し算、引き算、掛け算、わり算が演算の基本である。
 数学の基本は四則の演算である。つまり、四則の演算さえできれば数学の基礎を習得できる。逆に言えば、四則の演算は奥深く、難しい局面を持っているのである。釣りは鮒に始まり、鮒に終わると言うが、数学も四則の演算に始まり、四則の演算に終わるという側面を持っていることを忘れてはならない。

 四則の演算を理解するためには、順序を理解する必要がある。順序が数の量的な位置を示すからである。そして、この位置は貨幣価値を理解する上で重要な鍵となる。

 経済では、価値が等しいという事が意味する事が重要である。価値が等しければ交換が可能だと言うことになるからである。そして、この価値が等しいというのを等価と言い。貨幣経済ではどう価格の財を等しいとするのである。

 価値が等しいという事は重要な意味を持つ。しかし、価値が等しいという事は、何を意味するのであろうか。価値が等しいという事は、等号によって表現される。故に、等号には零という意味が隠されている。

 経済では、負に相当する部分も重要な役割を果たしている。負債や費用、損失というのを多くの人は、悪い物、或いは有害な事象という捉え方をしている。その為に、負債や費用、損失という物を一方的に否定し、直視しようとしない。

 正と負とは言い換えると陽と陰である。

 失敗は、成功の母という格言があるが、負債や費用、損失は、利益の前提でもある。負の働きがあって正の働きも有効になるのである。
 そして、等しいという意味には、ゼロサム、即ち、ゼロによって均衡するという意味がある。

 その典型が、為替の均衡である。市場がゼロサムならば、負の働きを肯定しない限り、市場の働きを解明することはできない。そこに等しいという意味の重要性があるのである。

 敗者がいなければ勝者は成立しない。一人の優勝者の影には、何十人、何百人、、何千人もの敗者がいる。その敗者に目を向けない限り、勝者は勝者たりえないのである。

 等しいというのは、量的な対称性を意味する。等号によって表される方程式の構成、即ち、質は、必ずしも対象ではない。価値の質とは、価値の持つ性質であり、性質は変化の方向性を意味する。

 順序づける基準は、高低、大小、多寡、時間、速度といった多様な特性がある。ここにも、数の特性である質と量との分離がある。

 四則の演算を理解するためには、引くとか、足すとか、等しいという事が実際にはどの様な事象を指して言うのかを明らかにする必要がある。

 引くというのは、取り去る、出る、抜く、奪い取る。減る、減少する、消去する、除去する、さがる、抽出する、掘り下げる、割り引く、また、時間的に言うと遡る、戻るといった事象を指す。
 足すというのは、加える、入れる、与える、増やす、増大する、上げる、生産する、追加する、載せる、盛り上げる、注入する、割増す、進めると言う事象を言う。

 等しいとは、均衡する、同じ数量である、同じ結果になる、元に戻る、ゼロになると言った事象で意味する。

 +、−は何を意味するのか。一と言うのには、二つの意味がある。一つは、負という位置を示す意味である。もう一つは、引くという演算である。つまり、+とマイナスには、位置と運動の働きがあるのである。
 +と−の量が一致することが等しいことである。

 つまり、等しいという意味を明らかにする前提は、何が起点なのか、何が基点なのか、何が、原点なのか、何が始点なのか、何が中心なのかによるのである。基点が明らかでなければ等しいという意味も確定できない。

 良い例がゴルフである。ゴルフはハンディがあって始めて対等に建てることを前提としている。
 生まれたばかりの赤ん坊と成人とを等しく扱うことはできない。経験や技能のある者と未経験、未熟な者とを対等にするのは不平等である。
 何を基点とするかが、経済的に等しいとする場合、重要な要素となる。しかし、それは定性的な要素であって、定量的な要素ではない。等しいという概念は、最終的に個別、特殊な要素に還元されなければ有効ではない。それが経済の実相である。

 貨幣価値とは、自然数の集合である。貨幣を表象化した物が紙幣である。自然数は、無次元数である。故に、紙幣は無次元の数である。貨幣は紙片であり、貨幣自体に物的価値はない。財の貨幣価値への転換とは、無次元化を意味する。
 紙幣には交換価値があると人々に信用されている間は効能を発揮することができる。ただの紙切れだと思い始めたら紙幣は、価値を失う。

 この経済的に等しいという意味は、貨幣価値が実現した時、財と実現した貨幣価値とが等しいことを意味する。貨幣価値を実現する行為は取引である。即ち、取引によって生じた価値が均衡していることを意味する。それが会計上の大前提となる。

 しかし、取引によって何が価値として実現するのかである。例えば、物と物との交換、物と貨幣との交換である。また、労働と貨幣との交換である。労働を測る基準は、時間か、成果である。この様な基準は絶対的な尺度ではない。即ち、相対的であり、尚かつ、その時点、時点での取引によって確定する。それが経済を不安定にしているのである。

 我々は、例えば、野菜や肉と労働は、異質な物であることを認識している。しかし、それが一度、貨幣価値に還元されると貨幣として指し示された経済的価値は、等しいという事になる。等しいからこそ交換が可能なのである。それが貨幣経済の前提である。同時に、貨幣価値は、演算が可能となるのである。時間と労働というまったく異質な物を掛け合わせることも可能となる。

 又、等号による堺を超えることによって正と負が入れ替わる。等しいという事は、入れ替わることによって価値が零に還ることをも意味するのである。
 等号の間を移動することで価値が裏返ることを意味するのである。

 貨幣価値に実体があるわけではない。経済的価値が等しいというのは、貨幣が仲介する対象の対称性を意味するのである。

 我々は、等しいという意味を正しく理解しているであろうか。等しいという事が成立するためには、時間の制約があることを忘れてはならない。

 等しいというのは、変化がないという事を意味する。変化は時間の関数であるから、等しいという事は、ある意味で時間が陰に作用していることを意味する。つまり、等しいと言う事を裏返せば、不変的という事であり、時間の影響を受けていないという事を意味するのである。
 それは、会計原則で言えば、原価主義である。即ち、取引を介さない価値は一定であるという思想である。これに対し、時価主義というのは、取引による価値の実現がなくても潜在的な価値が等しければ、その価値は実現したと見なす思想である。ただ、その場合、価値は未実現であるから、必ず実現するという確証はないのである。その点を充分に留意しなければ、経済的に等しいという意味を実現する事はできない。それは時間をどう経済的価値に反映するかの問題なのである。

 もう一つ重要なことは、会計上、取引によって実現した経済的価値は等しいとするという事である。あくまでも、等しいとするのである。実際に取引された物と物の価値が等しいという事を意味しているわけではない。等しいと認識するのである。そして、等しいと認識する事によって会計制度は成立しているのである。何ら客観的な事実に基づいているわけではない。あくまでも取引上の結果に基づいているだけである。つまり、主観的な行為の結果なのである。

 期間損益では、負の価値を前提としている。それが負債である。それに対し、現金主義は、負の価値は、認めていない。借金はあくまでも借金である。借金の対極にある正の価値を前提としてはいない。つまり、資産と負債の総和は零ではないのである。

 期間損益では、負の価値を前提としている。それが負債である。それに対し、現金主義は、負の価値は、認めていない。取引によって生じるのは、現金主義は、収入と支出の差にすぎない。借金はあくまでも借金である。借金の対極にある正の価値を前提としてはいない。つまり、資産と負債の総和は零ではないのである。

 現金主義には、負の経済的価値は存在しない。借金は、借金である。負債とは違う。返さなければならないお金であることは確かだが、負の資産だとは考えない。だいたい、マイナスと言う思想がないのである。つまり、負の対極にある正という概念がないのである。

 家計について考えれば解る。家を買った場合、ローンの支払いは支払である。家計上は、収支が問題になるのであり、家の償却がどれくらい進んだかは関係ない。家は、あくまでもすむための物でしかない。
 家計で問題となるのは、収入と支出の差である。そして、収入を支出が上回り、蓄えがなければ破産するだけである。つまり、お終いである。

 財政が問題なのは、国家が利益をあげているかいないかが解らないからである。つまり、経済的均衡が測られているか、いないかの基準がない。基準がないから借金の額だけが問題になるのである。借金の対極にある財産が問題とならない。収益と費用の発想もない。国家の収益なんて考えようがないからである。最初から収益や費用という思想がないのである。費用ではなくて支出なのである。正と負は、一対の概念である。負だけがあるわけではない。負だけでは成り立たないのである。しかし、現金主義には、負という概念がないのである。だから、国家財政が正と負の均衡がとれているかどうかの判断ができない。

 しかも、利益という概念そのものを否定している。財政上、利益という概念は倫理的に負、マイナスなだけなのである。

 現金主義と期間損益主義の決定的な違いは、現金主義は、取引の結果を元としているのに対し、期間損益主義は、取引そのものを元としていると言うことである。結果として現れている物を対象としているのだから、負というものは想定外なのである。

 自由主義経済は、現金主義と期間損益主義が混在した体制である。過渡期と言ってもいい。しかし、自由主義体制内で暮らす人達の多くは無自覚である。
 現金主義は結果を元とした経済思想であり、期間損益主義は原因を元とした経済思想である。この違いは、予想外に大きいのである。

 現金主義は、結果として現れた現象を基とし、期間損益は、結果の原因となる要因の構造を基とする。

 つまり、現金主義は結果を問題とし、期間損益主義は原因を問題としているのである。言い換えると現金主義は結果主義であり、期間損益は、原因主義である。認識の根底、前提が違うのである。

 現金主義と期間損益主義と根本思想が違う。そして、財政と会計は、現金主義を企業は期間損益主義をとっている。つまり、制度的には断絶しているのである。この点を前提として現在生起する経済現象は、分析する必要がある。

 江戸時代以前では、日本では、所得税という税はなかった。なかったと言うより存在し得ないのである。なぜならば、利益や所得という思想がなかったからである。思想がなければ、利益や所得を課税対象にしようがなかったのである。
 故に、江戸時代より以前では、課税対象は、生産物と言った実物や使役のような存在といった実体のある物に限られていたのである。

 財産と資産の違いである。財産はそれ自体で独自に成立しているが、資産は必ず反対取引を伴って成立している。資産の対極には、負債や資本がある。負の財産というのは存在しないのである。

 財産そのものに価値があるから、貨幣よりも何等かの財産を所有した方が実用性がある。交換する必要が出た時、必要なだけ換金すればいいのである。
 余分なお金があったら、金製品や土地のような財産を購入し、蓄えにしたのである。現代は、単純に、負の資産があるから、蓄えというわけにはいかない。それは、財産は財産として独立した価値を持っていたからである。しかし、資産には対極に負の資産がある。故に、財産のようにはいかないのである。生産した時は、正と負が相殺されて基本的には価値は、零になる。

 複式簿記が成立する以前には、負の経済的価値は存在しなかった。

 現金主義が一般だった時代は、貨幣その物に実物的価値があった。当然、貨幣にも相場があったのである。貨幣の持つ実物的価値が、貨幣の実際の価値を決めていたのである。不兌換紙幣には、実物的な価値はない。つまり、金貨や銀貨と不兌換紙幣とでは、貨幣価値の質が違うのである。
 貨幣が実物的価値を持っている時代では、一回一回の取引が完結していた。だから負の資産というのは、想定する必要がなかったのである。現金の授受で決済はすんでしまう。それが実物貨幣による現金主義である。それに対し、不兌換紙幣というのは、国家保証のついた借用証書のようなものに過ぎない。

 期間損益が確立される以前の世界は、実物の世界である。それが期間損益が確立されることによって仮想的な空間が経済の中に入り込んだのである。そして、正と負の均衡という思想によって貨幣経済の基盤が作られることになる。

 現金主義で問題となるのは、現金出納である。現金収入と現金支出の差である。つまりは余りである。この余りがあってはならないというのが現在の財政思想である。この点は、民間企業と正反対である。

 つまり、財政と会計とは基本的思想が違うのである。思想が違う以上、財政と会計とを同じ基準で比較することはできない。単位が違うからである。そもそも、財政には、利益という単位が存在しないのである。

 経済は基本的に残高主義である。だから問題になるのは、余剰が出るか、出ないかである。

 経済は現実である。実際に用にならない物は価値がないのである。つまり、抽象的な物は入り込む余地がない。何等かの実体が余っていなければならない。割り切れなければ余すのである。問題なのは、どれだけ残っているか、残高である。

 期間損益も基本的には残高主義である。ただ、期間損益と現金主義との違いは、期間損益には、負の残高があるという事である。そして、負の残高が正の残高を上回れば、損が出るのである。損も、また、思想の一つである。

 残高主義というのは、元があって、それに、増加した部分と減少した部分を足し引きし、残った残高を基本とする考え方である。そして、残高がなくなったらそれでお終いである。
 残高主義の構造は、算盤の仕組みそのものである。だからこそ、商売上の計算器の仕組みは、どこでも、算盤と似たような仕組みだったのである。
 残高主義という考え方では、ある物はある、ない物はないのである。又、残高主義は、実物主義であり、又、加算主義でもある。つまり、ある物を基本とする考え方である。
 そして、現金主義は、現金の残高だけを基準とする思想である。
 この様な現金主義の考え方では、所得税など成り立ちようがない。現金主義的な発想では、ないものはない。つまり、現金がなければ払えないのである。現金残高がないのに、税金が課せられ借金をしてでも払わなければならない。その辺が割り切れない経営者も多く見受けられる。
 現金主義的な発想は今日でも経営者の間には残っている。だから、経営者の多くは釈然としないのである。手持ち現金がないのに、なぜ、借金をしてまで、税金を払わなければならないか理解できないからである。それは、期間損益では負の資産が認識されるようになったからである。

 会計では、正と負の価値は常に均衡していることが前提となる。故に、貸借、損益の総和の差は零なのである。
 しかし、これは、会計上、貸借、損益が均衡するよう予めに設定しているからなのである。また、会計上の価値の総和が零になるの様な仕組みに、最初からなっている結果なのである。そして、それが、又、歪みや偏りを生む原因でもあるのである。

 経済の数学は、実用の数学である。又、合目的的な数学である。故に、単純明快さ、わかりやすさが要求されてきた。それは今日でも変わりないのである。

 経済の三面等価や貸借の均衡と言った概念の基礎は等しいという事である。数学のみならず、現代社会において等しいという概念は、重要な概念である。しかし、等しいという概念の意味、働きについて、漠然と、或いは、画一的に多くの人は捉えてそれで良しとする傾向がある。特に経済的事象において等しいという事に意味は蔑ろにされてきた。しかし、経済的な事象、経済的価値において等しいという意味は重要な意味を持ってくる。
 経済的な意味で何をもって等しいとするのか。経済的に、等しいと言う意味は、一様ではない。故に、何がどう等しいのかが重要になるのである。経済においては、何を等しいとするのか、その前提が決定的な働きをする。
 経済的に等しいとは、第一に、位置が等しいと言う意味がある。第二に、方向が等しい。第三に、働きが等しい。第四に、量が等しい。第五に、状態が等しい。(均衡)第六に、関係が等しい。第七に、前提、初期条件が等しい。第八に、形式が等しいと言う意味ががある。
 何を等しいとするかによって経済的な意味は微妙に違ってくる。それは、何を基準とするか、即ち、前提条件の差に依って生じるのである。

 等しいというのは、同一の実体を視点を変えてみるという事を意味する場合もある。なぜ視点を変えてみる必要があるのかという事である。
 貸借均衡や三面等価である。

 貸借均衡を例にすると、貸方は、資金の調達を意味し、借方は、資金の運用を意味する。
 資金調達は、基本的に三つに区分される。一つは、借入、即ち、負債である。二つ目は、投資、即ち、資本である。もう一つは、収益である。資金調達の手段に占める負債、資本、収益の割合の変化を見ると資金の流れは見える。そして、これらの資金の働きは、資金の運用の周期、即ち、長期資金か、短期資金かによって差が出る。 
 また、資金の流れる方向は、資金の運用の内容によっても違ってくる。
 資金の運用は、第一に、投資、第二に、資金の過不足(運転資金)の調整である。そして、第三に、費用、即ち、消費である。又、運用された結果は、流動資産、固定資産、費用に集計される。
 この調達と運用の均衡が保たれなくなると経営の継続は危うくなる。
 最終的には、債務、債権の均衡と資金の流れによって経営は継続される。企業経営において決定的な働きをするのは、資金の流れ、働きである。だから、資金の運用の内容が経営上の鍵を握るのである。
 経営の動き、変化を知るためには、負債、資本、収益の構成比と投資、運転資金、費用の構成比を割り出し、調達と運用を構成する要素間の関係を明らかにする必要がある。

 例えば、市場環境が厳しくなると収益が圧縮されて、相対的に負債の占める割合が増大する傾向があり、その時、費用が抑制できないと運転資金が圧迫を受ける。この様な場合、単に、運転資金を供給しただけでは、経営の状態が改善されるわけではない。収益の拡大を測るか、費用の圧縮をするかしなければ、事態は好転しない。その場合、重要になるのは、収益の悪化の原因が内部要因か
外部要因か、或いは、一時的な現象なのか、構造的欠陥なのかである。それによって対応の仕方に違いが生じる。

 また、対策を立てる時に鍵を握るのは、資金の働きである。資金の働きは、長期資金か、短期資金か、又、現金かによって違いがある。長期資金は、主として設備投資に向けられ、短期資金は、運転資金に使われる。費用は、現金によって支払われる。この違いが、資金の調達に影響する。この様な資金の動きが、企業の債権債務構造を形成していくのである。

 企業経営における債権、債務、資金の働きは、国民経済の三面等価にも共通に見られる。

 三面等価とは、生産と、所得と、支出の三つが等しくなることを言う。生産と所得と支出が等しくなるという事が何を意味するのか、又、経済の変化に対して生産と支出と所得がどの様に関連して動くのかに経済現象の秘密を解くカギが隠されている。
 生産を言い換えると付加価値を意味する。所得とは、分配を意味し、支出とは、民間消費、設備投資、財政支出などを意味する。そして、三面等価の意義を知るための鍵を握っているのは、三面等価が資金の流れにどの様な影響を及ぼすかである。
 ここで問題になるのは、生産とは何を意味する。即ち、どの様な要素によって構成されているか。同様に、所得や支出は、何を意味し、どの様な要素によって構成されているかである。そして、生産や所得、支出を構成する各要素がどの様な働きをし、個々の要素はどの様な関係によって結ばれているかである。

 三面等価から何が判明するのか。
 国内総生産、国内総所得、国内総支出を構成する要素や全体の前年対比、或いは、三年から五年の水位によって傾向の変化を捉える。
 生産、分配、支出の構成比によって構造的変化を捉える。
 また、貨幣の流れる段階、過程、手順に依って制約される働きや量がある。

 構成比を比較することによって個々の要素の相関関係を分析し、方向性を確認する。
 時間的構造と空間的構造の双方から経済の実体を推し量るのである。

 この様にして経済を構成する要素の位置や運動、関係を明らかにする事よって経済の実態を解析するのである。

 例えば、三面等価上において税と政府支出が財政を形成する。そして、税と財政支出のバランスはどうか、国債の発行残高と貨幣の発行残高との関係はどうか。民間投資と、公共投資の比率の変化はと言ったことが、貨幣の流れる経路や量にどの様な作用を及ぼしているのか。それを明らかにすることが財政の健全化を計る端緒となる。

 等しいという事がどの様な関係や働きを意味しているのか。それが、重要なのである。つまり、生産と所得が等しいというのは、生産と所得が均衡した状態を意味するのか、いずれかの時点で静止した状況を意味するのか。生産と所得が同一な物だと言うことを意味するのか。それが重要なのである。

 生産は物的経済に属し、所得は、貨幣的経済に属し、支出は、人的経済に属する。生産は、物的な制約があり、所得は金銭的制約があり、支出は、人的な制約がある。

 核にあるのは、所得の問題であり、生産量の問題であり、人間の欲望の問題である。

 経済の異常現象の原因は、物質的な要因として、過剰生産と物不足の二つがあり、その裏側には、過剰消費と買い控え対応している。貨幣的観点から見た要因は、貨幣の過剰供給と貨幣不足。人的要因から見ると私的収入と公的収入である。
 人、物、金の動きが一方に偏った時、経済は抑制を失うのである。

 経済現象を理解するためには、財の生産と、人の働きが、貨幣の流れにどの様に関わっているかを知る事にある。
 人の働きは、分配に関わることであり、国内経済計算では、雇用者報酬、営業余剰、そして、税収、それと経常収支からなる。国内経済計算は、支出は、消費と投資と貯蓄、それと対外資本収支からなる。国内経済計算上、財の生産は、産業別に付加価値の合計である。付加価値とは、最終生産総額から中間投入額を引いた値である。或いは、付加価値とは、人件費、地代・家賃、利潤、利子、減価償却費からなる。即ち、付加価値というのは支出である。
 現金主義に基づいて計算される。国内経済計算は、貨幣の動きを解析することを目的としている事による。その点で費用は、基盤とはできない。費用には、支出を伴わないものも含まれているからである。
 現金主義上で言う付加価値と期間損益上で言う付加価値とでは、その範囲や対象に違いがあることを留意する必要がある。

 三面等価で言う、等しいとは、雇用者報酬と営業余剰、税収の和と消費と投資と、貯蓄の和、そして、人件費、地代・家賃、利潤、利子、減価償却費の和が等しいという事を意味する。
 そして、それを期間損益に結び付けると人件費は、雇用者報酬に、利子は、金融費用と負債に、地代・家賃は、固定資産に、減価償却費は、費用性資産に、利潤は、収益に対応する。
 なぜ、三面等価が成り立つのか。それは、市場に流れる一定期間の貨幣の量を生産、分配、支出の三つの局面で計測した値だからである。又、三面等価は、資金の流れる経路を示している。
 故に、三面等価を解析する場合は、資金の流れに及ぼす影響を読みとる必要がある。そして、市場に及ぼす影響と働きに応じて市場に流れる貨幣の適正な量と方向を調整するのが、経済政策の目的である。

 貨幣の流れは、生産、分配、消費へと流れる。物の流れも基本的には同じである。ただ時間的には、一段階ずつ遅れて流れる。
 先ず、貨幣が供給されることから始まる。資本主義経済は、貨幣、即ち、資金がなければ始まらないのである。その資金を元手、元金と言う。元手、元金が資本を形成する。
 では、その元で、元金は、どこから調達するかというと借金、即ち、負債である。負債を辿っていくと公的債務になる。公的債務が貨幣の元なのである。
 公的債務も最初からあったわけではない。元々は、実物である。それが発展して実物貨幣となる。実物貨幣が兌換紙幣に転じ、兌換紙幣が不兌換紙幣に発展して今日の貨幣制度の礎が築かれたのである。
 また、所得も最初は生活に必要な物品や田地田畑を支給されたのが、実物に、それから実物貨幣へと変化してきた。
 衣食住のような生活に必要な物資は、現物支給だった。足りないものは自給するか、物々交換によって手に入れた。やがて、貨幣が生まれると必要なものを市場から調達するようになる。それでも、貨幣は補助的な手段だったのである。
 いずれにしても、資本主義体制が確立される前提には、一定の実物貨幣が社会に供給されている必要がある。そして、不兌換制度では、負の部分が貨幣の量を規制する。即ち、一定の水準に公的債務の量を抑えることで、市場に流通する紙幣の量を調整するのである。
 公的債務が増大することは、流通する貨幣の流量を制御する事を難しくする。それが財政問題である。
 貨幣、即ち、資金が、生産的な部分へ供給され、分配、消費へと流れていく過程で資金は、各々の局面において長期的な投資と短期的な消費へと分離する。貨幣の流れる方向の逆方向に物は流れる。

 税の問題は、反対給付のない所得だという点である。貨幣の流れに反対方向の物の流れが結びつかない。貨幣の流れが一方通行になりやすい。その為に、フィードバック効果、情報の交換効果、学習効果が働かない。結果、費用対効果の判定が直接的に結びつかないという事である。だから収支の調節が付かなくなるのである。

 貨幣経済において、決定的な働きをするのは、貨幣の流れと貨幣の働きである。貨幣の流れは、貨幣の流れる方向と量が重要である。貨幣の働きは、働きが長期的に持続する働きか短期的に解消される働きかによって決まる。

 経済単位は、家計、企業、政府である。言い換えると消費主体、生産主体、分配主体である。資金が、これらの主体をどの様な経路で流れ、各々の主体に対してどの様な働きをするかが問題なのである。

 重要なのは、生産と分配と消費の相関関係である。その相関関係を知るためには、貨幣の流れの経路、生産、分配、消費、各局面におけ家計、企業、政府の構成比の変化と絶対額の推移が鍵を握っている。

 また、為替取引は、貨幣が双方向に流れる取引である。

 経済規模と構成比率の変化、移動をさせる要因が国内経済現象の根底に働いている。その要因と構造を解明しなければ、経済対策は立てられない。病根が解らなければ、診断できないのと同じである。その為には、肉体の仕組みを知る必要があるのと同様、経済の仕組みを知る必要があるのである。一見同じ症状でも、病因は違うことがままある。病因が違えば、処方はまったく違うものなのである。

 消費は、収益、投資は、資本、貯蓄は負債への資金の流れをつくる。又、減価償却費は、長期借入金に対応する。

 量なのか、率なのか。差か、比か。量的な変化にのか、それとも配分上の変化なのか。市場の規模の問題なのか、生産物の配分の問題なのか、その点を見極める必要がある。
 市場の拡大は、生産量の増大と所得の上昇は、分配率に還元される。いくら生産量が増えても所得の上昇がなければ吸収されず、いくら所得が増えても生産量が増えなければ価格の上昇を招く。

 生産は、供給量を基礎とし、支出は、需要を意味する。つまり、生産や支出は、数量の問題であり、そして、所得は、分配であるから比率が重要となる。

 貨幣の適正な流量は、所得と生産量、消費量の均衡の問題である。
 市場の拡大は、生産量と消費量に依存し、所得の上昇は、分配率に影響を与える。

 市場の拡大は、生産力に依るが所得によって裏付けられる必要がある。所得は基本的に分配であり、取り分の問題である。
 企業で言うと生産力と収益力と分配である。
 そして、企業の成長は、市場の規模と占有率によって決まる。しかも前提となるのは、市場は有限だと言うことである。
 企業は、順調に拡大している間は、労働者の所得を上げても、収益によって吸収できる。企業の成長は、市場の規模と占有率によって制約を受ける。市場の規模に限界がある以上、成長には自ずと限界がある。成長の限界に達すると所得の上昇は、労働分配率を相対的に引き上げ、企業の収益を圧迫するようになる。







       

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経済数学

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1−4 等しいという事